第4章 成功した移植手術

 数日たって、目を覚ました哲雄は、周りの様子が少し見えることに気がついた。今まで閉じていた眼瞼がほんの少しだけだが、自力で開けることが出来るようになったのだ。
 (開け、開け、開け!)
 哲雄は意識を眼瞼に集中して一生懸命開けようといた。すると、どんどん見える範囲が広くなってきたのだ。昼頃には完全に眼瞼を動かせるようになっていた。
 (まだ誰も気づいていない。驚かしてやろう)
 哲雄は竹原が来るのを待っていた。

 午後2時、竹原が廻診にやってきた。哲雄は眼瞼を閉じて竹原がベッドサイドにやってくるのを待った。
 目を瞑っていても哲雄にはあの独特の歩き方で竹原だと分かる。哲雄に近づいてきて、いつものように瞳孔を観察しようとした。竹原の指が哲雄の眼瞼にかかったとたん、哲雄は大きく眼瞼を開けた。竹原のビックリした顔が哲雄の目に飛び込んできた。
 (やったあ! 驚いてるぞ!)
 久しぶりの心の底から笑った。もちろん、声を出して笑うことはできなかったけれど。
 「目を開けられるのか?」
 震える声で竹原が哲雄に尋ねた。哲雄はぱちぱちと眼瞼を動かし返事をした。
 「森田先生、森田先生! 早く来てください!!」
 竹原が叫んだ。しばらくして、森田がいつものぺたぺたとした足音をたてながらやってきた。この三週間ほど、哲雄には何の変化もなかった。だから、のんびりした口調で興奮気味の竹原に尋ねた。
 「どうしたんだ。また何かあったのか?」
 「自力で眼瞼を動かせるようになったようです」
 「何! ほんとか?」
 その言葉に森田も声が大きくなった。
 「ほんとです。しかも、こちらの言うことは分かっているようです。瞬きで応えられるんじゃないですか?」
 「そ、そうだな。分かるかい?」
 さっきまでのんびりしていた森田の声も興奮気味に震えだした。哲雄は眼瞼をぱちぱちさせた。
 「ほんとだ。分かっているみたいだな。じゃあ、こうしよう。これからする質問に、YESなら瞬きを1回。NOなら2回することにしよう。いいかい?」
 哲雄はゆっくり瞬きを1回した。
 「瞬きが1回だ。森田先生、これでコミュニケーションが取れますね」
 「すごい進歩だ。気分はどうだね。気分が良かったら1回だ」
 哲雄は2回瞬きをした。
 「・・・・2回か。気分は良くないんだね。・・・・何? また2回? どういうことだ?」
 「森田先生。良くもない、悪くもないってことじゃないですか? そうだろう? ほら1回瞬きしましたよ」
 「なるほど。そうみたいだな。どこか痛むかい?」
 哲雄は2回瞬きをした。
 「2回ですね。痛くないって事ですよね。感覚が戻っていないんじゃないですかね」
 「竹原君、2回瞬きしたよ。感覚が戻っていると言うことだろう。そうだろう?」
 哲雄は1回瞬きをして見せた。
 「ほんとですね。1回だ。すごい、すごい。体の感覚もあるんだ」
 「いつから感覚が戻ったのかな? 今日かな。・・・・2回だな。じゃあ、昨日? ・・・・また2回か。何日か前から戻っていたみたいだな。・・・・1回か」
 「お腹減らないかい?」
 「竹原君、そういう質問の仕方だとYES、NOが表しにくいだろう。お腹が減っているかな」
 「2回か。腹は減ってないんですね」
 「高カロリー輸液が行っているからね。よし、今日はこれくらいにしよう。疲れるといけないからね。いいね」
 「1回ですね。じゃあ、また明日ね」
 にこにこしながら、ふたりは病室を出て行った。哲雄は嬉しくて天にも昇らんばかりだった。
 (何だかもっと良くなりそうな気がする。明日には会話もできそうだ)
 哲雄は本気でそう思った。

 青木は、竹原から哲雄がかなり回復して瞬きでコミュニケーションが取れるようになったことを聞いていた。だから、嬉しくて、いつもよりもにこにこと笑顔を振りまいていた。
 「どうかな? 気分はいいですか?」
 哲雄はゆっくり1回瞬きをした。気分はいいけれど、すぐにも話せそうだと思ったのは思い過ごしだと哲雄は少し沈んだ気持ちだった。
 哲雄は、まだ、目玉を動かすことすらもできないかった。真っ直ぐ上を向いたままだ。天井だけしか見ることが出来なかった。
 「体を拭くからね」
 青木が、哲雄の顔を覗き込んで言った。哲雄は瞬きを急いで2回した。
 「あら、いやなの。そう。でもね、綺麗にしておかないとね。いやかもしれないけど、我慢してね」
 毎日拭かなくたって良いのにと哲雄は思ったけれど、逃げ出せないので仕方がない。青木が熱いタオルで哲雄の体を拭き始めた。
 (ぼくの体を隅から隅まで見られてしまったよう。青木さんは仕事だから平気だろうけど、やっぱり恥ずかしいなあ。でも、なんだろう? この変な感じは。何かが違うんだけどなあ)
 違和感に首を傾げながら、哲雄は青木に体を委ねていた。
 「あらあら、大変」
 青木が慌てて病室を出て行った。どうしたんだろうと哲雄は訝る。青木は、すぐに戻ってきて、哲雄の足元でごそごそ何かをしていた。哲雄は青木がパンツを穿かせていることに気がついた。
 (ええっ! ぼくは今までパンツを穿いていなかったの?)
 哲雄は、恥ずかしさで消え入りそうになっていた。

 その翌日、目が覚めて哲雄は自分の体がさらに回復していることを知った。
 (目が動かせる! 口も動く! 声も出せそうだ)
 けれど、レスピレーターが装着されていたままだったから、哲雄はまだ話すことが出来なかった。口をもごもごさせているのに、竹原が気づいた。
 「顔の筋肉が動かせるようになったんだね。良かった、良かった。呼吸がまだ完全じゃないからなあ。レスピレーターはまだ外せないよ。でも、もう少しの辛抱だろう。分かるかい?」
 哲雄は瞬きを1回した。自力で呼吸していないことに改めて哲雄は気づいたのだった。

 竹原はこのところの回復の早さから、毎日何らかの進歩が起きるはずだと、再び泊まり込みを始めていた。眼瞼が動かせるようになって、2日もしないうちに顔の筋肉が動き始めた。今日も何かが起こる。予感が確信に変わっている。
 竹原が寝ている仮眠室のドアがノックされた。時計を見ると、午前7時少し前だ。
 「竹原先生、もう起きてらっしゃいますか?」
 「あっ、ああ。もう起きる。どうしたんだ?」
 「レスピレーターの調子がおかしいようです。調整してください」
 「いつからだ?」
 「30分くらい前からです」
 竹原が仮眠室から白衣を着ながら出ていくと、ちょうど森田に出くわした。
 「竹原君どうしたんだ」
 「森田先生。おはようございます。お早いですね。レスピレーターの調子がおかしいらしいんですよ」
 「どうしたのかな」
 「分かりませんね。こんなことは術後初めてですね」
 森田も、また新しい変化が現れたに違いないと確信しながら、竹原と先を争うように病室に入っていった。
 「竹原君、これはファイティングと違うかね」
 「森田先生、そのようですね。自力で呼吸しようとしているようですね」
 「呼吸力がかなり強いようだ。レスピレーターを外して、呼吸量を計ってみよう」
 「ちょっと待ってください」
 竹原はレスピレーターを外して、流量計を取り付けた。
 「ええっと、440、480、450ですね。これだけあれば、充分じゃないですか?」
 「いいぞ、いいぞ。この分だとアシストは通り越して自発でいけそうだな。レスピレーターを外して、Tピースにしてみよう。酸素は取り敢えず5リットルにしてみよう」
 これまでレスピレーターは完全に機械的に呼吸をさせるモードになっていた。通常は、まずアシストモードにして患者の呼吸に合わせて動くようにするのだが、今の状態では、レスピレーターは外してもいいようだと森田は判断したのだ。竹原は森田の意見に同意して、レスピレーターを外す準備を始めた。

 哲雄は、竹原がレスピレーターを外して哲雄の気管内に入れられたチューブにT型のチューブを取り付けているのを見ていた。
 「さあ、どうかな?」
 レスピレーターを外した直後は少しの間苦しさがあったけれど、だんだん楽になって来るのを感じていた。
 (自分の力で息が出来る)
 涙が零れた。
 (涙だ! 本当に涙が零れた!)
 涙が流れるのが分かる。
 「サチュレーション99%。ばっちりだね」
 森田がうんうんと頷いている。
 「大丈夫そうですね」
 「油断大敵だ。ゆっくり酸素の流量を落とそう。三時間毎で良いね」
 「はい。そうします」
 「ベジを通り越して、四肢麻痺くらいのレベルまでは来たね」
 「そうですね」
 森田にしてみれば、植物人間まで持ってこられれば御の字と思っていたのに、さらに回復しているのだ。これ以上の喜びはなかった。
 竹原は一時間と開けずに哲雄の状態を見に病室へやってきた。ほとんど家に戻っていないんじゃないのと哲雄は訝っていた。
 (ぼくのために離婚なんてことにならなきゃいいけど。感謝しています。竹原先生)
 心の中で哲雄は手を合わせた。

 見慣れないドクターがやってきて、哲雄の喉の奥を覗いていった。どうやら耳鼻科のドクターらしいと哲雄は理解した。そのドクターは、竹原になにやら耳打ちするとそうそうに出ていった。竹原は、しばらくしてやってきた森田と相談を始めた。
 「森田先生。先ほど耳鼻科のドクターに診て貰ったのですが、声帯の麻痺はなさそうだとのことです。自発呼吸も安定しています。」
 「じゃあ、気管切開のチューブを外そう」
 「大丈夫ですかね」
 「ちゃんと呼吸が出来るのを確かめてから閉鎖すればいい。いづれにしろ今日はチューブの交換日だからな」
 「そうですね」
 竹原の手によって哲雄の喉に穿たれた穴から気管内チューブが取り除かれた。しばらくの間、哲雄は咳をしていた。それが治まると、呼吸が楽になってくるのを哲雄は自覚した。
 声を出そうとして哲雄は声を出せなかった。
 「あ、まだ無理だよ。喉にあけた穴から空気が漏れからね。ちょっと待って」
 竹原が哲雄の喉にあけられた穴に指を当てた。
 「さあ、話してみて」
 「竹原先生。ありがとう」
 哲雄はそれだけをようやく話した。
 「どういたしまして」
 竹原がにっこりと笑って哲雄の顔を見た。なかなか順調だねと森田が横から覗き込んで尋ねた。
 「息苦しくはないかい?」
 「マスクが苦しいです」
 「サチュレーションは良いんだが・・・・、自覚的なものだろうな。両鼻のカテーテルに換えてあげよう。青木君、両鼻カテーテルだ」
 「はい、すぐ持ってきます」
 「気分はどうかな」
 「そればっかり聞くんですね。悪くはないですよ」
 「良かった。痛むところは?」
 「今はないですけど、マッサージするとき酷く痛くて堪りませんでした。今日もするんですか?」
 「関節が固まらないためにやっているんだ。回復したとき曲がらないと困るからね」
 「そうですか。それなら仕方がないですね。いつまでするんですか」
 「君が自分で動けるようになるまでさ。この調子で行けばその日も近いよ」
 「そうですか。ぼくもそんな気がします」
 「どのあたりまで動くかな?」
 「目を動かせるけど、首は回せません。手足もまだ動かせません。でも肩に少し力が入るような気がするんですけど」
 「そうか。でも、これだけ回復したんだ。まだまだ良くなるよ」
 「肝臓や、心臓の具合はどうなんですか? 移植したんでしょう?」
 「ばっちりだよ。ぼくより良いくらいだ。心臓は100メートル走が出来るくらい元気だよ」
 「ありがとうございます。先生のお蔭です」
 哲雄は涙をまた流した。
 「まだまだ頑張って貰わないとね。歩けるようになって、元気になって退院できるまでね」
 「先生、ありがとう。ぼく、頑張ります。ところで、先生。ぼくの声、変ですね」
 「・・・・気管切開のせいだよ。だんだん良くなるよ」
 「そうですか。随分甲高いなと思って」
 「今はね。まだ、あんまりしゃべらないほうがいいよ」
 「はい。そうします」
 哲雄はうれしさのあまり、竹原が声についてのコメントに戸惑っていたことに気がつかなかった。

 哲雄の回復はめざましかった。眼瞼が動き始めてまだ一週間もならないのに、指が動くようになった。右手は親指と人差し指だけだが、左手は5本とも動くようになった。ただ動かすと哲雄は痛みを訴えた。
 だけど哲雄は動く喜びを噛み締めながら、一生懸命指を動かしている。竹原も森田もにこにこ顔でそんな哲雄を見ていた。
 (早くもっと動けるようにならないと・・・・)
 哲雄にとって苦痛だったのは、体を清拭されたり、下の世話をされることだった。特に下の世話をされるのがイヤでイヤで溜まらなかった。
 下の世話以外でも、看護婦が哲雄の体を拭く度にパンツを取り替えていた。
 「看護婦さん、どうしてそう毎回毎回パンツを取り替えるの?」
 看護婦は笑うだけで答えてくれなかった。元気ならパンツは毎日は着替えるものだけど、手術後なのに体の不自由な患者のパンツをそんなに毎日取り替えなくても良いような気がするけれどと哲雄は首を傾げていた。

 ついに哲雄は両手が動かせるようになった。首もすこしずつ回している。だけど、足はまだ動かせない。
 「足に鉛でも付けてるんですか?」
 哲雄はそう表現した。哲雄は自分の両手を見ている。
 「ずいぶん痩せたなあ。ぼくの指ってこんなに細かったかなあ。それに手全体が少し小さくなったような気がするけど・・・・。思うように動かせるのだから、ぼくの手には間違いないのだけど・・・・。変だなあ」
 そう呟いているのを看護婦がこっそりと聞いてカルテに記載した。

 カンファレンスルームで森田と竹原がこそこそと話をしていた。他人に聞かせたくない話らしい。
 「森田先生どうしますか? そろそろ気づく頃ですよ。話しておかなければならないでしょう」
 眉をひそめながら竹原が言った。
 「それはそうだが、どう切り出すかね」
 いつものように腕組みをして森田が答える。
 「そうですよね」
 「本人が気がつくまで待とうか?」
 「・・・・それしかないでしょうね」
 「ところで、両親たちは、術後、まだ1回も会わせていないんだろう?」
 「ハイ。うまくいっていることだけは伝えてありますが」
 「そうか。両親にも話をする時期が来ているな。どうする?」
 「両親には話しておきましょう。先生、同席されるでしょう?」
 「もちろんだよ。友田先生にも来て貰おう。日程を調整してから、両親に連絡してくれ。わたしは今週の午後ならいつでも良いよ」
 「じゃあ、友田先生の都合を聞いておきます。日にちが決まりましたら連絡します」
 「頼んだよ」