意識の戻った哲雄は、音のない闇の中にいた。何も見えず、何も聞こえず。無音の闇の中で哲雄は恐怖に震えていた。そんな状態がとてつもなく長く続いていた。
(こんな状態が永遠に続くのだろうか? 三途の川はまだのようだ。ぼくは天国に行けるのだろうか? それとも地獄行きだろうか? ・・・・いや、ここはもう孤独という地獄の中かもしれない)
哲雄は考えを巡らせた。
(順二が死んだとき、悲しくなんてないって言ったから、ぼくはその罰を受けているのかもしれない。ここが地獄なら、これほど残酷な地獄はない。助けて! 気が狂いそうだ)
哲雄は、ベッドの中で見た漫画のことを思い出した。コブラという漫画だ。同じような音無しの闇に入れられたコブラが、身体の内部からわき起こってくるエイトビートを感じ、発狂しなくて悪者をやっつけてしまうというストーリーだ。
(だけど、ぼくにはコブラみたいなエイトビートはないよ! 気が狂っちゃうよ!! 誰か、ぼくを助けて!)
声は声にならず、誰も答えてはくれなかった。
竹原は、手術後10日あまり、ずっと病院に泊まり込んでいた。結婚したばかりの妻が寂しがっているだろうなと思いながらも、早田哲雄の容体が頭から離れず、家に帰る気にならなかった。
朝晩の電話は忘れず自宅に掛けていたが、医者と結婚したんだから仕方ないさとも思い直していた。竹原の妻は、春までこの外科病棟に勤めていた看護婦だった。それくらい分かっているさ。竹原はもう一度そう心の中で繰り返した。
「竹原君、どうだね。状態は」
哲雄のベッドサイドの椅子に腰掛けて、少しうとうとしていたら、森田が竹原の肩をぽんと叩いた。
「ああ、森田先生。状態はいいですよ。がっぽり薬が入って、レスピレーターをかけていますから、バイタルは安定してます。まるで機械みたいにですね。血圧120の70、脈拍76、体温37度ちょうどです」
「臓器機能の方はどうかね」
心電計の方を見遣りながら森田が尋ねた。竹原はカルテを取り出して開く。
「今朝のデータでは、肝機能、腎機能、電解質バランス、その他、全く問題なし。100点満点ですよ」
「脳波は?」
「徐波に時々α波が混ざる程度ですけど、フラットではないですね」
「死んではいないわけだ」
「この状態では、生きているとも言い難いような気がしますけどね」
竹原は自嘲気味に答えた。
「生きているさ。脳波が出ていて、心臓もちゃんと動いている。死んでいるとはいえんだろう?」
竹原の方を振り返って森田が強く言った。
「まあ、それはそうですけどねえ」
ため息混じりに答える。
「どこまで回復するかですね。このままだと・・・・」
「いや、ベジくらいまでなってくれれば、双方の両親に申し訳が立つよ」
森田は、患者のまぶたを開いて覗き込んだ。なんの反応もないとわかると、すぐに手を離す。
「そうですね。自力で呼吸くらいして貰わないとですね」
竹原は、レスピレーターで上下に動く胸を見つめた。機械の力を借りないで自力で呼吸してもらえれば、死んではいないと説明できるのだ。
「もう少し様子を見るしかないだろう」
「感染を起こさなければいいですけど」
「それが一番の懸念材料だな」
森田に対して、竹原は少し悲観的な言い方をした。しかし、投与されている薬物は、手術直後に比べて着実に減ってきていた。この種の手術としては、異例に順調と言えた。
(確かに感染が怖い。ただ、何となくうまくいきそうだ)
竹原にはそんな予感がしていた。
それは唐突に起こった。哲雄は突然幻暈とともに体が傾くのを感じた。
(何だ、どうしたんだ?)
この闇の中に置き去りにされて以来、哲雄が初めて遭遇する変化だった。しばらくして、今度は同じく幻暈とともに反対側に傾いた。
(いったい何が起こったんだ?)
哲雄にはさっぱり分からなかった。それからまたしばらくして仰向けにされた。哲雄には体の感覚がないから仰向けという表現はおかしいとは思ったけれど、そんな感じがしたのだった。仰向けにされた感覚がわいてから幻暈もゆっくりと治まっていった。
(そういえば、ずっと上とか下とかいう感覚がなかったのに、上下の感覚が戻ってきたようだ)
哲雄は相変わらず、音のない暗闇にいた。けれど、ここは少なくとも地獄じゃないと感じ始めていた。
術後一ヶ月が経過しようとしていた。看護婦の青木は、勤務以外の日もほとんど毎日のように病棟に出てきて、哲雄の世話を焼いていた。まるで自分の身内が手術したかのように懸命に看護に当たっていた。
「青木君、今日も担当かい?」
病室に顔を出した森田が、青木に声を掛けた。
「ええ。もう一度この子と話がしてみたいの」
「根気がいると思うよ。頼むね」
「はい」
「褥創はできてないね」
「エアマットを使ってますし、こうして1日3回の体位変換と清拭も充分やっていますから、大丈夫です」
看護婦としての自信に満ちた返事に森田は頼もしいと思った。
「関節が拘縮しないように、曲げ伸ばしも頼むよ」
「はい。理学療法士の近藤先生も毎日来てやってくれていますから」
「そうか。それなら大丈夫だな」
実際、意識のない患者の看護は大変なのだ。青木が看護学生の頃、褥創を作るのは看護の恥だと教えられていた。しかし、それが並大抵の努力では防げないことが身に染みていた。関節だって、ちょっと油断すれば、固まって曲がらなくなる。この患者だけは、他人に任せておけない。そんな青木の思いが、勤務以外の日も彼女を病棟に駆り立てていた。
キーンという高い音で哲雄は目を覚ました。哲雄には昼も夜も区別ができない。だから、いつ眠っていつ起きたのか自分でも分からないのだ。けれど、キーンと言う耳鳴のような高い音に眠っていたような状態から覚醒したのだった。
(音が聞こえる。何の音だか分からないけど、兎に角音が聞こえる。ぼくは死んではいない)
嬉しくて涙が出た。感覚的には涙は出ていなかったけれど、出たような気がしたのだった。
無音の世界から音のある世界に戻っては来たものの、聞こえるのは耳鳴のような高い音だけで、それが四六時中続いていた。何日も何日も。耳をふさごうにもそれができないのだ。哲雄はただ耐えるしかなかった。
(まったく何て事だ。眠れやしない)
これなら何も聞こえない方が良かったと哲雄は思った。けれど、あの静寂の孤独地獄よりはましだ。そう思い直した。
それからどれくらいたったろうか? 何ヶ月もたったような気がした頃、あの耳鳴りのような音が忽然と消えて、哲雄の耳に日常の音が戻ってきた。入院していたときの日常の音だった。生きていることはもう間違いなかった。
ところが、その音がひどくうるさかった。心電計などの器械類の音が耳にがんがん響く。まるで頭にバケツをかぶせられて叩かれているようだった。
それに人の話し声も耳元で大声で叫んでいるように聞こえるのだ。
(もう少し静かにしてくれ!!)
そう叫びたいが、哲雄には声が出せなかった。
その大きな話し声を聞いていて哲雄は漸くあることに気がついた。あの左右に振られる感じは、哲雄の体の向きを変えているからだということをだ。
(床ズレが出来ないようにとの配慮してくれてるんだ)
青木が哲雄の担当看護婦らしいことも分かって哲雄は喜んだ。
(ぼくに優しく声をかけながら世話をしてくれている。嬉しいな)
突然ガラガラガラとすごい音が哲雄の耳をつんざいた。
(頭が割れそうだ! いったい何の音だ!!)
「竹原先生。もう少し気を付けて歩いてください。ベースンが落ちちゃったじゃないですか」
竹原が部屋に入ってきて、金属のベースンというトレーを床に落としたのだ。それだけで、哲雄の耳にはまるで雷が近くに落ちたように酷く響くのだった。
「すまん、すまん。白衣のポケットが包交車に引っかかっちゃったんだ」
「ボタンをちゃんとしないからですよ。新婚さんなんでしょう? もう少し身だしなみに気をつけられたらどうですか」
「はい、はい。すみませんね。青木さんには敵わないよ。どうだ、変化ないかい?」
「バイタルに変化ありません。熱もありません。特変なしといったところですよ」
「そうか。変化なしか。もう50日目になるなあ。何か変化が出ないかなあ。・・・・おや?」
「先生、どうしたんですか」
「青木君、急いで森田先生を呼んできてもらえないか? カンファレンスルームにいるから」
「はい、すぐお呼びします」
(竹原先生、ぼくの耳が聞こえていることに気づいたのだろうか? きっとそうだ。50日目って言ってたなあ。もうそんなにたったのか)
しばらくして森田がやってきた。
「竹原君、状態はどうだね」
「ああ、森田先生。今、青木君に呼びに行かせたんですが、会いませんでした?」
「会わなかったよ。トイレに行ってたから、すれ違ったんだろう」
「ちょっと、これを見てください」
「どれどれ、なんだい」
「脳波の記録なんですけどね。ここに大きな変化があるでしょう」
竹原は脳波の記録をささっとめくって森田に指し示した。
「ほんとだな。何があったんだ?」
「ぼくが包交車に白衣を引っかけて、ベースンを落としたんです」
「ベースンを落とした? ・・・・ということは、音に反応したということか?」
「だと思うんですけどね」
(やっぱり竹原先生は気づいてくれていた。ばんざい!)
哲雄は、喜びに飛び上がりたい気分だった。
「実験してみよう。ベースンを耳元で叩いてみよう」
森田が哲雄の耳元でベースンを叩きながら、脳波計を見つめた。
「先生! やっぱり反応があります」
「本当だ。やったぞ」
ふたりは躍り上がって喜んでいたけれど、当の哲雄の方は、耳鳴で頭を抱えたい心境だった。
「これで意志の疎通が出来るといいんですが」
「聞こえているらしいというだけだから、まだ無理だな。しかし他の部分も良くなってくるんじゃないかな」
「そうですね」
「兎に角全力で回復に手を尽くそう」
「光が見えてきた感じですね」
「その通りだ。友田先生に連絡しておこう。喜ぶぞ」
「そうですね。すぐ電話します」
竹原と森田の興奮した話し声が、哲雄の耳にがんがん響いていた。
(ぼくは回復に向かっているようだ。あの時死んだと思ったのに、移植手術に成功したんだ。ぼくは生還したんだ。いや、この状態ではまだ生還したと言えないかな)
音が聞こえるようになって、哲雄には時間の経過がおよそ把握できるようになった。人の話し声がし始めて、ざわざわしてきたら朝で、心電計の音だけが部屋の中に響いている時間帯は夜だと言うことを理解した。
時々看護婦が哲雄に近寄ってくるのを感じていた。哲雄の脈を取ったり、血圧を測ったりしているのだ。哲雄にはまだ体の感覚がないので、何をされているのかは正確には分からなかった。
それから3日たった。その朝から、音の聞こえ方が普通になったのを哲雄は自覚した。話し声も普通に聞こえるのだった。青木が、今日も優しく声をかけてくれていることや、竹原が、その後哲雄に変化がないことにイライラし始めていることが如実にわかった。
(そんなに急には良くならないよって、先生が常々ぼくに言ってたじゃないですか。焦らずに行きましょうよ)
哲雄には少し余裕が生まれていた。
森田と竹原が、哲雄のベッドサイドで話をしていた。
「森田先生。あれ以来、進歩なしですよ。これ以上はだめなんですかねえ」
「まあ、そう焦りなさんな。ここまで来たのも奇跡みたいなものなんだから」
「そう言われれば、そうなんですけどね。欲が出ますよ」
「感染の兆候はないね」
「まったくないですね。若いからでしょう」
「そうだね。明日になったら、変化が出るかもしれんよ。ゆっくり待とう」
「そうですね」
そんな話を聞いて、哲雄はさすがに森田先生は年を食ってるだけのことはあるなんて思っていた。
(森田先生ごめんね。失礼なこと言って。奇跡みたいなものだって。ダメ元って言ってたからなあ。まあいいや。勝てば官軍さ)
朝のざわめきが聞こえて、哲雄は次の一日の始まりを自覚した。
(確か今日は術後60日目くらいだ)
そのときになって、哲雄は昨日とは違うことを発見した。
(何だか変だ。真っ暗闇じゃなくて、薄暗い感じがする。薄暗いというのは言い過ぎかもしれないけれど、昨日までの真っ暗闇ではないぞ)
竹原が病室にやってきた。哲雄にはそのことが気ぜわしい歩き方で分かる。竹原は深夜勤務の看護婦に軽口を叩き始めた。
(新婚の奥さんがいるくせに、どうして看護婦の気を引きたがるのだろう。お医者さんはみんな女たらしなんだろうか?)
哲雄は、看護婦のいやんエッチという声を聞きながらそう考えていた。
(わっ! 眩しい)
哲雄は、突然フラッシュライトを浴びたように感じた。
(何だ。どうしたんだ。目を瞑れない。目が焼けちゃうよ)
灯が、行ったり来たりするのがわかって、その灯が竹原の持っているライトだと気がついた。
(竹原先生が、ぼくの眼瞼をあけてライトで照らしているんだ。ライトが右へ左へ行ったり来たりしている。眩しいから、もう止めてよ、竹原先生)
そう思いながら、哲雄ははっと気がついた。
(えっ、ぼくは目が見えるようになったんだ。やったあ!)
すぐに、何も見えなくなった。竹原が哲雄の眼瞼から指を離したのだ。
「森田せんせーい。早く、早く来てください」
竹原は興奮したような大きな声で叫んだ。森田がすり足のような足音をたてながら哲雄の病室に入ってきた。
「どうした。何か新しい変化があったのか?」
「瞳孔反射があります。ほら見てください」
竹原は、哲雄の眼瞼を指で開いてライトを往復させた。
(竹原先生、眩しいったら。もう止めてよ。そんなに何度もしなくてもいいよ!)
哲雄の瞳孔を見て森田は驚きの声を上げた。
「本当だ。間違いない。昨日までなかったよな」
森田は竹原に同意を求めた。
「はい。昨日の夕方には何も反応がありませんでした。今朝からです」
「我々の姿も見えている可能性があるな」
「そうですね。良かった、良かった」
疲れの見えていた竹原の声に元気が戻ってきた。
「すこしずつ良くなってきているようだ。この分だと思っていたより良くなるかもしれんぞ」
「そうですね。家族にも知らせておきましょう。喜びますよ」
「大喜びだろう。また一歩前進したのだからな。友田先生にもな」
「はい。すぐ連絡します」
哲雄の目が見え始めて5日がたった。竹原が朝晩ライトで哲雄の目を照らすのには哲雄は閉口していた。眩しくて仕方がないのに、止めてと言うことができず、ライトの光を避けることもできないのだ。元気になったら文句を言ってやろうと哲雄は口をとがらせていた。
その朝から哲雄は新しい回復の兆候が現れているのを感じていた。体全体がじんじん痛むのだった。長い間正座していて、しびれが切れたのが戻る時のような感じだ。
(ああ、堪らないよう)
だけど、音が聞こえ始めたときのことを思い出して哲雄は期待していた。体の感覚が戻る兆候もしれないと。
今日も青木が哲雄の回復を助けるためにと体をマッサージしていた。ところが、青木が哲雄の体に触る度に痛くて堪らないのだ。優しくしてくれているのに止めてくれと哲雄は叫びたい気持ちだった。
哲雄が予想していた通り、夕方にはしびれがしだいに取れてきて、体の感覚が戻ってきたことを自覚していた。手足の感覚、体が戻ってきたのだ。精神だけだった哲雄がやっと人間に戻れたのだ。
感覚は戻ったけれど、哲雄の体はまったく動かない。ぴくりともしない。だけど哲雄は心配はしていなかった。
(ここまで来たら動けるようになる)
哲雄にはそんな妙な自信があった。しかし、誰も哲雄に体の感覚が戻ってきたことに気づいていなかった。
理学療法士がやってきて、マッサージをしたり、関節をひとつひとつ丁寧に曲げたり伸ばしたりしている。酷く痛いのに、コミュニケーションが取れないから哲雄にはどうしようもない。ただ我慢するしかないのだった。
今日も日勤の青木が、哲雄の体を隅から隅まで拭いていた。
(酷く恥ずかしい。恥ずかしくて堪らない)
青木はそれほど美人と言うことはないが、哲雄の好みの女性だった。そんな青木に、恥ずかしいところも含めて体の隅々まで見られていると思うと、哲雄としてはどこかに隠れたい気分だった。
けれど、そのことを哲雄は伝えようにも伝えられないのだ。
(あれ?)
体を拭かれているとき、哲雄は何だか変な違和感を覚えた。哲雄はまだ体が完全に元に戻っていないせいだと考えていた。