夕方の申し送りが済んだ青木が、帰り支度をしていると、脳外の友田がふらりとやってきた。
「よう、青木ちゃん。元気にしてるかい?」
「あら、友田先生。元気ですよ。先生こそいかがです?」
青木は二年前まで脳外にいた。だから、友田のことは良く知っている。友田は優秀だが、上司の言うことを余り聞かないで、独断で動くことが多いとよく非難されていた。ところが友田が同僚に非難される本当の理由は、友田だけが、他の脳外のドクターとは違う私立医大の出身だということらしい。大学閥というものが厳然として存在するのだ。ドクターの世界は本当にいやな世界だ。腕もいいし、患者に優しいから、良いじゃないのと青木は常々思っている。
「忙しくて死にそうだよ。この病院は人使いが荒いからねえ。もっと人を増やして欲しいよ。ところで、森田先生は、いるかい?」
ナースステーションの中を見回して友田は尋ねた。
「あら、森田先生ですか?」
青木はナースステーションの方を振り返って確かめてから答えた。
「先ほどまでここにいらしたんですけど。少々お待ちください。病棟内を探してみますから」
「ああ、待ってるよ」
友田はナースステーションの椅子に腰掛けて、準夜勤務の若い看護婦に軽口を叩き始めた。少し年の割には、若い子を相手でも話題が豊富だ。
友田はバツイチで、今はつき合っている女性はいないらしい。離婚以前も看護婦の中では人気が高かい医者の一人だ。長身で、結構いい男の友田が離婚した理由は明らかではないが、風の噂によると、いつも病院、病院でほとんど家に帰っていなかったから、寂しくなった奥さんが浮気したのが原因だとのことだ。仕事に没頭すれば家庭がおろそかになる。家庭を重視すれば、仕事ができない。医者も因果な商売だと青木は思う。
青木も友田にちょっと気があるのだが、ぜんぜん相手にしてくれない。わたしには一度もあんな風に声を掛けてくれたことがないのになあと、友田の軽口にケラケラと笑い声をあげている若い看護婦にちょっと嫉妬めいた感情を覚えながら、青木はナースステーションの隣にあるカンファレンスルームのドアをノックした。
ハイと竹原の返事があった。
「竹原先生、森田先生を知りませんか?」
カルテ書きに熱中していた竹原が顔をあげた。
「あれっ。さっきまでいたのになあ。何の用?」
疲れているのか、竹原は大きな背伸びをひとつした。
「脳外の友田先生が見えられていて、森田先生を捜してられるんですけど」
友田という名前を聞くと、竹原の目が輝いた。
「脳外の友田先生? ドナーが現れたかな? ぼくが代わりに聞いてみよう」
「じゃあ、お願いします」
竹原は、書きかけのカルテを机の上に放り出すと、ナースステーションに飛んでいった。友田は相変わらず看護婦相手に駄洒落を飛ばしている。
「友田先生、竹原です。いつもお世話になります。森田先生、ちょっと席を外していまして、ぼくでわかればお聞きしておきますけど」
友田のそばに竹原は直立不動で立った。竹原と友田は年齢が10ほど違う。上下関係に厳しい医者の世界では、友田が座れと言わない限り竹原は座ることが許されないのだ。
「そうか。じゃあ、先生に話しておこう。今日の午後、森田先生には話しておいたんだが、脳死に陥った患者がいてね」
「ええっ、そうなんですか。それでどうなんです?」
脳死と言えばドナー、ドナーと言えば移植。竹原の頭に、移植を待っている患者の顔が浮かんだ。
「二度目の脳死判定でも間違いなくてね。まあ、頭に弾丸を受けていて、処置なしなんだがね・・・・」
「ああ、あの患者ですね。流れ弾に当たったって言う」
医局で話題になった患者のことだとすぐにわかった。
「うん。その患者だ」
「ぼくも聞いてます。で、家族の同意は取れたんですか?」
「それがねえ。父親はドナーになることを承諾してくれたんだが、母親がねえ」
「母親が反対なんですか?」
竹原は顔を顰めた。
「そうなんだよ。まだ死んでないって言ってね」
「そうでしょうね。心臓死の患者と違って、脳死患者は手足が暖かいですからね」
「そういうことだよ。コーディネーターがもう一度話をしているんだが、頑なでね。まあ、仕方ないけどね」
友田は肩をすくめた。
「母親はそういうもんでしょう。ぼくの方も今し方、移植待期患者に移植不能宣言をして、母親に泣きつかれて困っていたところなんですよ」
「移植が出来なくなった患者がいるのかね」
「早田哲雄って患者なんですけどね。多臓器不全直前なんですよ。少し前まではぜんぜんそんな兆候はなかったんですけどね。ドナーが現れないものだから」
「仕方ないねえ。これも運だからね」
「運で片づけるのは可哀想な気がしますけどね。まだ21なんですよ」
「21か・・・・。森田先生が帰ってきたら、説得を続けていると伝えておいてくれないか? 夕方連絡すると言っておいたもんだからね」
「分かりました。伝えておきます」
友田が腰を上げようとしたとき、青木が顔色を変えてナースステーションに駆け込んできた。
「竹原先生、すぐ来てください。早田君の様子がおかしいです」
「何だ、どうした?」
竹原は慌てて立ち上がった。竹原の座っていたパイプ椅子がばたんと倒れた。
「ご両親が部屋に行ったら、返事をしないと言ってきたんです。急いで駆けつけてみたら意識がないんです」
「意識がない?」
「はい。レベル100です」
「友田先生、申し訳ない。患者の容体が悪くなったようです。森田先生には伝えておきます」
「頼んだよ。それじゃあ」
片手をあげて挨拶すると、友田はよいしょとひと声かけて立ち上がり、ナースステーションの出口へと向かった。
「すみません。青木君、バイタルは?」
「血圧が落ちています。80の30です。脈は120。呼吸数20です」
竹原は青木と先を争うように、早田哲夫の病室へ駆けていった。
哲雄の病室では、意識のなくなった哲雄の手を母親が握りしめていた。外からは意識がないように見えたけれど、哲雄にはまだ意識があった。
(母さん、何故泣いてるの? ぼくはこんなに元気なのに。どうして泣いているの?)
哲雄は自分の身に起こっている事態を把握できずにいた。そこへ、竹原が血相を変えてやってきた。
「哲雄君! 哲雄君!」
竹原は哲雄の頬をパチパチと叩いた。
(痛いよ、先生。痛いってば!)
一生懸命訴えるけれど、竹原は哲雄の眼瞼を開き、手にしたライトを目の中に入れた。どうして眩しくないんだろうと哲雄は思った。
「駄目だ。昏睡状態に陥っている」
そんな言葉に哲雄は驚く。
(ぼくの意識がないって! そんなことないよ。ぼくはほら、ちゃんと意識があるよ。ねえ、みんな。ぼくの声が聞こえないの?)
哲雄の声は届かないようだ。竹原が慌てふためいて青木に指示している様子だけが哲雄の耳に入っていた。
「先生。哲雄を助けてください。お願いします。お願いします」
哲雄の母が竹原にすがっていた。
「何とかしますから、少しの間部屋の外で待っていてください」
「お願いします。お願いします、先生。お願いします」
「ルート取って。森田先生をすぐに呼び出すんだ。大至急」
青木が哲雄の腕を激しく叩き、点滴の針を刺そうとしていた。なかなか入らず、何度も刺し変える。
(痛い、痛いよ、青木さん。酷く痛い。いつもはもっと優しいのに。もっと丁寧にしてよ)
哲雄は叫び、体を動かそうとした。が、声は出ず、体も動いていなかった。
(どうなってるの?)
哲雄は、呆然として天井を見つめた。
「竹原先生、ルート取れました。プレドパで良いですね」
「取り敢えず10ガンマ。血圧は?」
「上は70。・・・・下は測れません。先生、呼吸が停まりそうです」
青木が泣き出しそうな声で言った。
(呼吸が停まりそうだって? ぼく、息してるよ。こんなに一生懸命)
「挿管しよう。喉頭鏡を取ってくれ」
(ええっ、喉に管通すの? いやだよう。竹原先生、ぼく、息してるよ。いやだよ)
青木が喉頭鏡と気管チューブを竹原に手渡す。慌てている竹原の手が震えていてなかなか入らない。
(そんなに無理しちゃ歯が折れちゃうよ。どうしてぼくの声が聞こえないの?)
「よし、入ったぞ。レスピレーターは?」
「すぐ来ます。はい、アンビュー」
竹原は、黒いバッグをチューブに装着すると、哲雄の胸に酸素を送り始めた。
(苦しいよ。止めてよ。苦しいってば。どうして息しているのに、無理矢理呼吸させるんだよう。やめてよ。ねえ、竹原先生!!)
哲雄の声はまったく届かない。
「レスピレーターはまだ来ないか?」
焦っているのが口調でわかる。竹原の額から汗がにじみ出ていた。
「まだのようです」
「しばらく手押しだな。血圧は?」
「70の20。サチュレーション95。脈拍140、不整著明」
「竹原君、どうだね?」
森田がのっそりと病室に顔を出した。
(あっ、森田先生が来てくれた。苦しいから止めさせてよ)
「ああ、森田先生。なんとか食い止めましたが、厳しいですね」
「どうしたんだろう? 吐血じゃないから静脈瘤破裂じゃないね」
「肝臓の方じゃなくて、ヘルツが参ったようです。脳循環が減少して意識がなくなったみたいですね」
哲雄は回診のたびに聞かされていた『ヘルツ』という言葉が、心臓を表すことを知っていた。
「ヘルツは保ちそうかね」
「この状態では・・・・。血圧が上がらないから、肝臓へのダメージもさらに大きくなりますし」
(えっ、ぼく死ぬの? 冗談は止めてよ)
「そうだろうな。両親には説明したのか?」
「まだです。今から連れて帰ることになっていたんですけどね。急にこんなことになるなんて、思ってもみませんでしたよ」
「そうか。出来るだけのことはしてあげよう。レスピレーターは繋いであげるから、両親に説明してきたまえ」
「よろしくお願いします」
(出来るだけのことをしてあげようだって。やっぱりぼくは死ぬの? だけど、意識があるんだから、何とかしてよ。ねえ、森田先生。いくら覚悟が出来ているからと言っても、こんなに急じゃ困るよ。父や母にひと言くらい、お別れを言わなきゃ。お願い! 何とかしてよ)
ここに至って、哲雄は意識と体が分離した状態だと理解し始めていた。
しばらくして竹原が病室に戻ってきた。
「森田先生、説明は終わりました」
「両親の反応はどうだ?」
「母親が泣き叫んでますよ。さっき連れて帰れるって言ったじゃないかって」
「私らにも予想できなかったからね。兎に角、出来るだけのことはしよう。このままじゃあ、可哀想だからね。松本君、個室を用意してくれ。ここじゃ、処置ができん」
(そうそう、先生! 頑張って。ぼくはまだ死んでいないんだから)
哲雄は直ちに個室に移された。森田と相談しながら竹原はレスピレーターを調節し、血圧などを観察しながら、可能な限りの処置を施した。
すでに2時間あまりが経過していた。竹原も森田もずっと休まずに治療を続けていた。しかし、哲雄の容体に一向に改善の兆候は現れない。
「竹原君、ちょっといいかな? カンファレンスで一服してくる」
「どうぞ。今は比較的安定していますから」
モニターから目を離さずに竹原が答えた。うむと答えて森田はカンファレンスルームに入り、たばこに火を付けた。
(タバコはやめんといかんな)
紫煙を吐き出しながら、森田は哲雄のことを考えた。
(2時間が過ぎたか。こりゃ、もう駄目だな。こうなると、いつまで続けるかが問題だ。まあ、脳死と違って、この場合は、心臓が参っているわけだから、心臓が薬に反応しなくなるまでだ。もっても2,3日だろうな)
森田も患者の死を幾度となく見てきた。だから、死に対して無感動になっていた。
「森田先生、いるかい?」
半開きのドアから脳外の友田が顔を出した。
「ああ、友田先生。どうなりました?」
机の上に上げていた両足をおろし、タバコをもみ消して尋ねた。
「竹原先生から聞いてないかな? 承諾が取れそうもないって」
「竹原君の受け持ち患者が急変してね。ばたばたしていたから何も聞いていないよ」
「そうなのか。さっき竹原先生に連絡した後ももう一度説得してみたんだが、どうしても母親がうんと言わないんだ」
「そうなんですか」
助けられる患者をまた助けられないかもしれないと思うとため息が出た。
「脳死の方は何とか理解してくれたんだが、体に傷を入れたくないんだと言ってね」
「そうですか。それじゃあ、だめですね」
「もう一度説得してみるつもりだ。期待しないで待ってってくれ」
「仕方ないですよ。自分の子供だったらどうするか、わたしでもすぐにはうんとは言えないでしょう」
「そういうことだ。われわれはどこまで行っても部外者だからね。ところで急変した患者というのは、どうなんだ? 確か青木ちゃんが早田とか言ってたみたいだけど」
「そう。早田哲雄君なんですけどね。竹原君が頑張って、何とかもたしているんですがね。どれくらいもつか・・・・」
「夕方、竹原先生が言っていた患者だろうな。移植手術が出来なくなったって言う。二ヶ月前なら何とかなっていたそうだね」
「そうなんですよ。全身の臓器機能が落ちているから移植は無理だといったら、母親が悪いところを全部取り替えてくれなんて無茶を言ったらしくてね。竹原君、そう言われて困ったと言ってましたよ」
「そりゃいくら何でも無理だな」
「それが親の気持ちと言うものでしょうけどね」
「そうだな。じゃあ、また連絡するよ」
「当てにしないで待ってます」
カンファレンスルームから出ていこうとして、友田は突然何かを思いだしたように立ち止まって考え始めた。
「・・・・待てよ、全部取り替えてくれか」
「どうしました?」
「その早田って患者の母親が全部取り替えてくれって言ったのか?」
「竹原君がそう言ってましが。それがどうか?」
友田は腕組みをして考え込む仕草をした。それから、無理だよなと頭を振った。
「どうしたんです?」
うむと答え、友田はまだ何かを考えている。それからおもむろに森田に尋ねた。
「その早田君の脳波はフラットじゃないんだろうね」
「脳波は取ってないけど、まだ反射はあるから、脳はまだ生きていると思いますよ」
「そうか、分かった。後で連絡する」
友田は、笑みを浮かべて廊下へ歩みでた。
「何か良いアイデアがあるんですか?」
森田が声をかけたときには、次の角を曲がろうとしていた。
「あとで、あとでな」
友田は、子供が欲しかった玩具を手に入れたときのような嬉しそうな顔をして、森田に向かって片手をあげた。
友田が走り去って1時間ほどたった。そろそろ消灯時間だ。森田はカンファレンスルームでカルテの点検をやっていた。竹原に任せてそろそろ帰ろうかと考えていると、友田が息を切らしながら、カンファレンスルームに駆け込んできた。
「森田先生、母親の承諾が取れたよ」
「ほんとですか? 友田先生」
森田は思わず椅子から立ち上がった。
「良かった。すぐにレシピエントを選びましょう」
待期患者のデータを記録してあるコンピューターを立ち上げようとする森田を友田が制した。
「早田君はまだ生きているか?」
「はっ? 早田君ですか? 先ほどと変わりはないですが、時間の問題でしょう。まあ、この分なら、明日の朝まではもちそうですけどね」
「早田君のご両親には会えるかね?」
思ってもいなかった言葉に森田は驚きを隠せない。
「えっ、早田哲雄のですか?」
「そうだ」
「会えますけど、どうするんですか?」
「まあ、一緒に来たまえ」
森田は訳が分からず、友田の後を追った。
(友田はいったい何をするつもりなんだろうか?)
森田は友田の後ろ姿を見ながら思った。
哲雄は病室の中で、自由にならない体に絶望していた。しかも、森田が哲雄の目の前で両親に一両日中でしょうというのを聞いたのだ。
(そんなことないよ。ぼくはこうして元気なのに・・・・)
父は流したことのない涙を流して哲雄の手を握っていた。母は泣くばかりだ。
(ぼくの死ぬの? ホントに死んじゃうの? ぼくが死ぬときもなんの感動もないって言ってしまったけど、嘘だ。イヤだ。死にたくなんかない! 助けてよ! 竹原先生!)
強く握られている指に痛みを感じていた。喉に入れられた管も痛くて苦しかった。けれど、そのことを訴える手段はなかった。
(イヤだから抜いてよ。もう3時間もこうされているのに。死ぬ前になって苦しめないでよ!)
哲雄が懸命になって意志を伝えようとしていると、森田が病室に入ってきて哲雄の両親を病室の外に呼び出した。
(ああ、森田先生が、最後通牒を渡してるんだ・・・・)
哲雄は絶望のどん底に突き落とされた。
やがて哲雄の両親が戻ってきた。するとすぐにベッドが移動し始めたのに哲雄は気がついた。
「哲雄、頑張るのよ」
母が耳元で言うのが聞こえた。
(えっ? どうするの?)
その疑問に答えるように医者たちの会話が耳に飛び込んできた。
「じゃあ、友田先生、手術の方、よろしくお願いします」
(えっ! 手術? 手術って言ったよね。移植手術をしてくれるの?)
哲雄は絶望のどん底から救い出される思いだった。
「ダメ元だ。出来る限り頑張ってみるよ」
いくらなんでもダメ元はないでしょうと哲雄は思った。
(友田先生って言ったかな。ぼくを助けてくれるんでしょう? 全力投球お願いしますよね)
それにしてもと哲雄は考えた。外科には7人の医者がいるけれど、友田と言う医者の名前を聞いたことがなかったのだ。
(外科じゃなかったら、何科の先生だろう?)
哲雄は、手術室らしい場所へ運ばれて堅いベッドに移された。かちゃかちゃと機械の音が部屋に中に響き渡っている。
哲雄は不意に眠気を覚えた。引き込まれるような眠気だ。
(なんだ? なんだ?)
眠りに落ちる直前、お願いしますという声が聞こえた。
(ここは手術室だ。間違いない。やっぱり移植手術をしてくれるんだ。よかった。だけど、怖い。怖いよ・・・・)