夢だった。飛び起きてみると、見慣れた風景だった。心電計の響く病室。薄いブルーの病衣。
(え? なぜぼくはこの病室にいるの? これまでの出来事は夢だったの?)
ガチャリとドアが開いて、竹原が部屋に入ってきた。
「やあ、由美子ちゃん。目が覚めたかい?」
由美子ちゃんと呼ばれて、哲雄は布団の中で股間に何もないことを確かめ、やっぱり由美子になっていることを自覚した。
「どうしてわたしはここにいるの?」
「昨日の夕方、里見刑事が君を連れてきてね」
「里見さんが?」
「そうだ。君が何かの事件に巻き込まれたと言っていた」
「そうなんですか」
サングラスの男たちの拉致されたことを言っているのだろうが、何かの薬をかがされて意識を失ってしまったから、その後どうなったから哲雄にはさっぱりわからなかった。
「眠っている間にいろいろ調べさせて貰ったけど、まったく問題なしだ。夕方まで休んだら、帰っても良いよ」
「わたし、わたし、・・・・犯されてませんでしたか?」
哲雄にとって最大の心配事だった。
「大丈夫だよ。婦人科の先生にも診て貰ったから。君は処女だよ」
「良かった」
犯されていないと分かってほっとした。だけど、竹原に処女だと言われて、哲雄は何だか恥ずかしくて顔を赤くして俯いた。
「もう、すっかり由美子ちゃんになったね」
「先生がそうしろとおっしゃったんでしょう?」
「それはそうだけど・・・・。君はずっと以前から由美子ちゃんだったように見えるよ」
「結構大変なんですよ。いろいろと事件に巻き込まれるし」
「そうみたいだね。勘弁してくれ。ぼくが変なアイデアを思いつくものだから」
「いえ、そんなことはないです。わたしはこれで良かったと思っていますから」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「でも、あいつらに殺されなくて良かったわ。わたし、変な男たちに殺されるところだったんですよ」
「詳しくは聞いてないけど、危ういところだったらしいね」
(あのあと、車の中で薬品を嗅がされて意識を失った後、どうなったんだろう?)
首を傾げていると、ドアが開いて里見刑事が顔を出した。
「竹原先生、もう由美子君と話が出来ますか?」
「ああ、里見刑事さん。もう良いですよ。じゃあ、由美子ちゃん。また、外来で会おう」
竹原が片手をあげて挨拶して出ていき、交代に里見刑事が部屋の中に入ってきた。
「もう大丈夫かい?」
「どうもないですけど、どうなってるんですか? わたし、薬を嗅がされてどこかに連れて行かれた筈ですけど」
「君は意識を失っていて何が起こったか分からないだろうから、教えてあげるよ」
「お願いします」
里見刑事は、パイプ椅子を引き寄せると、腰掛けて警察手帳を取り出した。
「昨日、君に会いに行くって言っただろう?」
「昨日? もう昨日の話なんですね」
「そう、君は丸一日眠っていたからね。昨日の午後、もう一度確認したいことがあって、君の家に出かけていったんだ。そうしたら、二人組の男たちが、ぐったりした君を車に乗せようとしているところに出くわしてね。すぐ応援を呼んで追跡したんだ。島崎が自分のマンションに君を連れ込もうとしたところを急襲して逮捕したんだ」
「島崎って?」
「あの男は、君が栄町で撃たれたときに銃で撃たれた男だ」
「あれは偽装です。本当はわたしを殺そうとしたんです」
「分かっている」
「分かっているって?」
「最初は島崎が君を何故拉致する必要があったのか分からなかったんだ。だけど、君の日記を見て分かったんだ」
「わたしの日記を見たんですか?」
「見させて貰ったよ。それで、島崎に鎌を掛けてみたら、あっさり吐いたよ」
「何て言ってたんですか?」
「あの日記の件で、君に恐喝されたと思った吉田が、昔から交友関係にあった島崎に頼んで君を殺させようとしたらしい。自分が撃たれたときの流れ弾が当たったように見せかけてね」
「やっぱり。でも、あんな話、誰も信用しないでしょうに」
「吉田は、次の総選挙に出る準備をしていてね。こんなスキャンダルが公になると落選確実だからね。だから君を殺そうとしたらしいんだ」
「ばかなひとね。女子高生の嘘も見抜けなかったのかしら。そんな人だったら、もしスキャンダルがなくても落選確実ね」
「そうだね。吉田は、殺人教唆の罪で逮捕状を請求してある。スキャンダルの方がまだ良かったかもしれないね」
「里見さんには三度助けられたことになりますね」
「君の運がいいんだよ。落ち着いたら、もう一度事情聴取に伺うよ。じゃあ、今日はゆっくり休み給え」
「ありがとう、里見さん」
入れ替わりに坂本の両親が入ってきた。二人とも青い顔をしていたが、哲雄の元気な顔を見ると少しほっとした顔になった。
「由美子さん、大丈夫?」
「由美子、心配したぞ」
「元気よ、パパ、ママ」
「里見刑事さんに聞いたが、由美子のせいで君には随分迷惑をかけるね」
「そんなに心配しないで。もう終わったことだから」
(何て妙な会話だろうか? 他人が聞いたら変に思うだろうな)
「もうすべてが終わったんです。今日からほんとの再出発よ」
「哲雄君、実はな」
「パパ。わたしは由美子です。そう言ったでしょう?」
「すまん、由美子。実はわたしたち夫婦は、おまえに隠していたことがあるんだ」
「それ以上言わないで。パパとママの話なら、日記を読んで知っています。この三年間の由美子の思いも。それに、一昨日、夜中に二人で話していたこともこっそり聞きました。パパとママも今日から再出発しましょうよ。三人で仲良く暮らしましょう。それが由美子さんが一番望んでいたことですもの」
「由美子・・・・」
「由美子さん」
あの太った男は、美智子の殺人と哲雄に対する殺人未遂、ならびに覚醒剤取締法違反の罪で、島崎たちは、殺人未遂と未成年者略取誘拐、傷害罪で、吉田哲雄は殺人教唆の罪で起訴された。
哲雄にようやく平穏な日がやってくると思われたけれど、そうはいかなかった。坂本由美子の拉致事件の後、日記の内容は絶対公表しないと言ったのに、どこからか漏れて、週刊誌に吉田のスキャンダルとともに日記の内容と由美子の写真が出てしまったのだ。目は隠されていたが、すぐに由美子と分かる写真だった。
哲雄は、たまたま流れ弾に当たった可哀想な被害者から、援助交際を種にゆすりを働いた恐ろしい女子高生というレッテルを貼られてしまった。
レポーターと呼ばれるハイエナのような人種に追い回され、哲雄の精神はおかしくなるところだった。
そんな時、哲雄を励まし、支えたのが将太だった。涙を流す哲雄を黙って何時間も抱いていた。将太がいなかったら、哲雄はどうなっていたか分からないだろう。
高校も退学させられそうになった。そんな時、哲雄が実際に恐喝を働いたわけではなく、吉田がそう思いこんだだけだと警察から発表され、竹原のほうからも、由美子は過去の記憶が完全になくなっていて、以前の由美子とは完全に別人と考えた方がいいとコメントが出された。おかげで哲雄は退学にはならなかったが、世間の目は冷たかった。外に出るのも苦しかったが、将太がそばにいてくれたお蔭で乗り越えられたと言ってよい。
夏休みになる頃には、世間からあの事件は忘れ去られ、哲雄には新たな友達もでき、ごく普通の女子高生としての生活を送れるようになった。
早田の両親とは、哲雄はあれ以来一度も会っていない。いや、会えなかった。『わたしたちのことは忘れて坂本夫妻に親孝行しなさい』との手紙を残して、いつの間にかどこかへ転居してしまって、連絡が付かなくなってしまったのだ。哲雄は言われた通りに坂本由美子として暮らすことをもう一度心に決めた。けれど、どんなことがあろうとも、哲雄は早田の両親への恩は一生忘れないつもりだ。
あれから早いもので、もう六年がたった。退院後2週間に一度だった通院も、今では3ヶ月に1回で良くなった。免疫抑制剤ももう飲んでいない。由美子の体が哲雄を完全に受け入れてくれていた。たまたま、血液型もHLAも完全に一致していたせいもあるが、それにしても不思議だと竹原も首を傾げている。
哲雄は短大を一年遅れで卒業した。
(優秀な成績でとはいかなかったけれどね)
現在は哲雄は父の会社で秘書として働いている。父が浮気しないように監視するのが哲雄の本当の目的だ。しかし、あれ以来、父は本当に心を入れ替えたようだ。朝晩一緒に車で会社に通っている。
この秋、哲雄は将太と結婚することになっている。由美子の24歳の誕生日に将太が哲雄にプロポーズしたのだ。哲雄は迷った。6年間由美子として暮らし、卵巣から出る女性ホルモンに曝されて、哲雄は女として感じ、女として振る舞うことに慣れてはきている。化粧も上手に出来るようになった。お尻が見えそうなくらい短いスカートも平気で着られるし、格好いい男の人を見かけると、ときめくこともある。
けれど、心の奥底ではやはり哲雄は男だ。ウエディングドレスを着た自分の姿は想像できても、将太とセックスをする自分はとても想像できない。やがて妊娠して子供を産むだろう自分の姿など、到底考えが及ばない。
将太は幼い頃から由美子が好きだったと言い、その思いは今でも変わらないと断言した。もちろん今では、哲雄も将太を愛している。人間としても、女としても。あの、わたしが一番苦しいときに支えてくれたのも将太だ。そんな将太のプロポーズを拒める筈もない。それでも迷った。
迷いながら哲雄は考えた。将来由美子の産む子供は、早田哲雄とは無関係で、由美子の遺伝子を受け継ぐ。
(そう、わたしは由美子の手伝いをするだけなのだ。将太の子供を産もう。その時こそわたしは本当の由美子になれる)
そう思い至ったとき、哲雄は将太のプロポーズを受け入れた。そうすることが、哲雄を由美子として心から愛してくれる両親への恩返しでもあり、哲雄に体をくれた由美子への最大の供養だと思ったからだ。
哲雄は坂本由美子として生きる。将太と結婚して子供を産み、母となる。これは遠い昔から定められた運命に違いない。これは神の意志なのだ。
哲雄は、鏡に映った今の自分の顔を見つめて決意を新たにしていた。