目を覚ますと、哲雄は朝食もそこそこに家を出た。
「行って来ます」
「由美子さん、どこへ行くの?」
「ちょっとそこまで。気分転換に散歩よ」
「気を付けて行ってらっしゃい」
「はあい」
母に心配掛けたくなかったから、嘘を付いた。警察署は家から歩いて10分もかからない場所にある。美智子はそんな場所で、轢き殺されたのだ。
(何と大胆な犯行だろう)
家を出て二,三分も歩いただろうか? 角を曲がったとたん、黒塗りの車が、歩いている哲雄のそばに停まった。
(ん?)
なんだろうと思った瞬間、中から出てきた大男に口を塞がれ、哲雄は車の後部座席に連れ込まれた。あっという間の出来事だった。
哲雄は手足をばたばたさせて抵抗したけれど、ぜんぜん敵わなかった。
「静かにしろ。痛い目に遭いたいのか?」
ドスの利いた声に哲雄は震え上がった。助手席に座っていたサングラスをかけた男が哲雄のハンドバッグの中を探っている。男は住所録を開いて見ていたが、興味なさそうにバッグの中に戻した。
「これには入ってないな」
そう言うと、男は振り向いて話しかけてきた。サングラスを外した顔は、絵に描いたようなやくざ風の顔だった。
「怪我はもうすっかり良いようだな」
哲雄は口を塞がれたまま頷いた。
「あの方が、例のものを一千万で買おうと言っておられる。悪いことは言わない。これで手を打つんだ。明日の午後3時、あの方のマンションに一人で持って来い。きちんと持ってきたら、おまえの安全は保障しよう。金は帰りに渡す。いいな?」
(何のことだ? あの方? 例のもの?)
哲雄にはさっぱり分からなかった。分からなかったが頷いた。それが一番良いと思ったのだ。
「それで良い。また痛い目に遭わなくて済む。おい、降ろして良いぞ」
哲雄は歩道に放り出され、走り去る車からハンドバッグが投げ落とされた。
(あの男たちは何者なんだろう? 住所録には興味を示さなかった。どういうことなんだ?)
服に付いた泥を払ってバッグを拾い、家に戻りかけたが、思い直して、再び警察署へ向かって歩き始めた。
(もう5分も歩けば警察署に着くかな?)
横断歩道を渡ろうとしたとき、哲雄は走ってきた車に危うく車に轢かれそうになった。
「危ないじゃないの。気をつけなさいよ!」
睨み付けてやったら、運転席から降りてきた男は、美智子を轢いて鞄を奪っていった男だ。
「あ、あなたは」
哲雄は逃げ出した。太っているから足は速くないと思っていたのに、あっという間に追いつかれてしまった。
(ハイヒールなんて履いて来るんじゃなかった)
後悔したけれど遅かった。
「住所録を持っているだろう。バッグを寄こせ」
「いやよ。何すんのよ」
「早く寄こせ」
(この男は、やはりあの住所録を狙っているんだ)
奪われてしまったら美智子が殺された原因が分からなくなってしまうと、哲雄は必死で抵抗した。その哲雄の首に男の手が掛かった。
「いや、止めて。苦しい」
(殺される・・・・)
そう思ったとき、突然男の手が弛んだ。男が逃げ出す後ろ姿が目に入った。すぐに数人の人の足音がしてきた。気が弛んで、哲雄は気を失った。
「由美子君! 由美子君! しっかりしたまえ」
男の声だ。目を開けると男の顔が見えた。あのストーカーの若い男だ。哲雄は恐怖のあまり大声で泣き喚いた。
「きゃー、きゃー、きゃー、助けて!」
「由美子君、落ち着いて。落ち着いてくれ。ぼくは君の味方だよ」
「えっ、味方?」
(ぼくをつけ回しておいて、どういう味方だと言うんだろう?)
哲雄は疑り深い目で、その男を見た。
「ぼくは県警の里見と言うんだ」
「警察の人? 警察の人なの?」
「そうだよ。だから心配しないで良いよ」
(警察官がぼくをつけ回していたなんて。どう言うことだろう。あの住所録と関係があるのだろうか?)
「わたしのバッグは? ハンドバッグはどうなりました?」
「これだろう。取り戻しておいたよ」
バッグを開いて中を見ると、住所録が入っていた。哲雄はほっと胸を撫でた。
「ありがとうございます。あの男は、あの太った男はどうなりました?」
「やつは逮捕した。とりあえず婦女暴行ならびに窃盗の現行犯でね」
「良かった。あの男は美智子を轢き殺した犯人なの」
「本当かい?」
「本当です。わたし見てたんです。美智子を轢いた車からあの男が降りて、美智子の鞄を奪っていくのを」
「話を詳しく聞こう。そうだな。君みたいな若い子を署に連れていくのは可哀想だな。とりあえず、君のうちに行こう。歩けるかい? 病院に行かなくていいかい?」
「はい。大丈夫です。でもどうしてあなたがここにいるんですか? わたしをつけ回していたみたいだったけど。どうなっているんですか?」
「君のうちで話すよ」
哲雄は里見と名乗った若い刑事に付き添われて、家へ戻った。
哲雄が暴漢に襲われたと聞いて、母は卒倒しそうになった。連れてきてくれた男性が警察官だと知ってようやく安心したようだ。
「由美子さん、大丈夫? 怪我はないの?」
「どうもないから安心して。里見さんが事情を聞きたいとおっしゃっているの」
「どうぞ、上がってください。汚いところですが」
応接間で、哲雄は里見刑事の事情聴取を受けた。あの事故以前のことを聞かれるとまったく答えようがないので、あの事故以前の記憶がないことをまず話した。
「そうか。由美子君はあの事故のせいで記憶がないのか」
「ええ。由美子と呼ばれても、ぴんとこないんです」
「それなら、あんまり詳しく話しても仕方がないかな」
「いえ、聞きたいです。自分のことは全部知っておきたいから。どうしてわたしをつけ回していたんですか?」
「じゃあ、話そう。ぼくは覚醒剤の取り締まりが仕事なんだ」
「覚醒剤ですか!」
「そう。このところ覚醒剤が高校生の間にまで広がっていてね。今、ぼくはそれを調査中なんだ」
「高校生が覚醒剤!」
哲雄は驚きに目を丸くした。
「都会では珍しい話ではないんだがね。このあたりまで広がってきているんだ」
「そうなんですか」
「実は殺された島津美智子も常習者でね」
「ええっ! 美智子が?」
哲雄には信じられなかった。
「そうなんだ。販売ルートを探ろうと、ここ数ヶ月ずっと島津美智子を見張っていたんだ」
信じられなかったけれど、警察官の言うことだ。信じざるを得なかった。
「そうなんですか? どうして美智子は覚醒剤なんか・・・・」
「それは分からない。いろいろと理由はあるだろうが、女の子はやせ薬として使い始める子が多いとは聞いているがね」
「やせ薬ですか・・・・」
「そうだ。そして抜けられなくなるんだ」
あんなに綺麗で、スタイルも良かったのに、どうしてだろう。由美子の方が美智子よりは痩せている。美智子はもしかして由美子より痩せたい、もっと痩せたいと思って覚醒剤に手を出したのだろうか?
「彼女はここに良く出入りしていたから、ぼくが君をマークしていたんだ」
「そうなんですか。わたしはストーカーか何かだと思っちゃいました」
「ストーカーは酷いなあ」
「ごめんなさい。・・・・わたしも覚醒剤を使っていたんですか?」
これは哲雄にとって大問題だった。
「使っていた節がある」
その答えを聞いて哲雄は愕然となった。哲雄は両手の肘あたりを見た。けれど、入院中に何度も採血や点滴をされていたから、注射のあとがそれらによるものか覚醒剤を使ったことによるものかはわからなかった。
「確かめようとしたときに君は事故にあってしまったからね」
「ずっと尾けていたんですか?」
「そうだよ。あの事故のひと月前くらいから」
「じゃあ、あの時、わたしが撃たれたのを見たんですね」
「いや、残念ながら見ていないんだ。君に感づかれて、まかれてね。探していたら、銃声がしたんだ。駆けつけたら、君は頭に弾を受けて倒れていてね」
「どんな様子でした?」
「10メートル先で島崎善次が呻いていたよ。君は息が止まりそうでね。すぐに人工呼吸をしたんだ」
「えっ、人工呼吸?」
「そうだよ。マウスツーマウスの人工呼吸だ」
「ということは、里見さん、わたしの唇を奪ったのね」
「唇を奪ったはないだろう? おかげで君はこうしているんだぞ」
里見刑事はちょっと唇をとがらせた。
(ふふふ。里見刑事ってちょっと可愛いな。まだ20代みたいだけど、結婚しているのかな?
「ごめんなさい。変なこと言って。里見さんはわたしの命の恩人なんですね」
「命の恩人なんて、改まって言われると恥ずかしいな。当然のことをしたまでだよ」
「本当にありがとう。わたしがこうしていられるのも里見さんのお蔭だわ」
「もういいよ。話を元に戻そう」
「わたし、覚醒剤を使っていたんですね。どうしてだろう?」
考えてもわからないのに、哲雄は考え込んだ。
「はっきりはしていないよ。もし使っていたとしても、その理由は僕らにも分からない。思い出せないんだろう? だったらもう忘れなさい。ぼくたちももう追求することはしないから」
そうは言われても、哲雄としては知りたかった。由美子が何故覚醒剤を使っていたのか。何らかの理由がなければ、覚醒剤など使わないはずだからだ。
「あの男のことを聞こう。あの男は何を狙っていたんだ?」
「この住所録だと思います」
哲雄はバッグの中から、住所録を取り出して、里見刑事に手渡した。
「これか。イニシャルと電話番号だけだな。何の住所録だろう」
パラパラとめくって中を見ながら呟いた。
「昨日の夜、一番はじめの番号に電話してみたんです」
「君は大胆だな」
里見刑事は目を丸くして驚いた。
「いえ、そうじゃなくて、美智子がサークルの連絡先だと言うから」
「それで?」
「変な若い男が出て、上物が手に入ったか、だって」
「なるほど、そうすると、これは覚醒剤密売の連絡先だろうな。もしそうなら、密売ルートを叩きつぶせるな。島津美智子はこれをどこからか手に入れて、何かしようとしていたんだな」
「きっと警察に行くつもりだったんだわ。・・・・きっと」
「死んでしまったから、どうするつもりだったか分からないが、彼女のためにそういうことにしておこう」
「ありがとうございます」
「ところで、君は尾行をまくのがうまいなあ。さっき轢かれそうになる前、どこに隠れていたんだ?」
「里見さんの尾行が下手なの」
黒塗りの車に連れ込まれたことを話しておいた方がいいのかもしれないなとは哲雄はいったんは思った。しかし、1000万という金額のことを思い出し、由美子が誰かを恐喝しているように思えて、黙っていることにした。
「そうかあ。そうかもしれないな。君みたいな女子高生に、二度もまかれるんだからなあ」
里見刑事は、美智子が轢かれたときの様子をこまごまと聞いた後、住所録を持って、また来るからと言って帰っていた。
(約束の時間は明日の午後3時。どうしよう? あの男たちは、あの住所録に興味を示さなかったから、覚醒剤の関係者ではなさそうだ。困った。由美子になって、こんなことに巻き込まれるなんて思ってもみなかった。記憶のないぼくに何か手がかりが見つかるだろうか? 例のもの? あの方のマンション?)
哲雄にはまったく手がかりはなく困惑するばかりだった。
手がかりを見つけようと、哲雄は部屋の中をごそごそ探してみた。けれど、結局何も見つからなかった。
どのくらい経ったろう。日が傾き、部屋の中はもう暗くなり始めていた。途方に暮れて床の上にぼんやり座っていると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。母が出て応対しているようだ。
「あら、珍しいわね。さあ、上がって。由美子さん。萩原君がお見舞いに来てくれたわよ」
(萩原君? ああ、幼なじみの萩原将太だな)
由美子の日記の中に、由美子が昔は好きだったけれど、最近は疎遠になっていると書いていた子だ。
(どんな男の子だろうか?)
哲雄は、ちょっと興味が抱いた。
「ひ、久しぶり。元気そうだね」
「将太君こそ、元気そうね」
部屋に上がってきた萩原将太は、キンキ・キッズの堂本剛によく似た可愛い男の子だった。由美子の寝室にキンキ・キッズのポスターがたくさん貼られているのは、もしかしたら由美子はまだ萩原将太に気があったのかもしれないと哲雄は萩原将太の顔を見ながら思った。
以前の記憶がまったくないという話を哲雄が話すと萩原将太はビックリした。
「ごめんね。萩原君のこと、何一つ覚えてないの」
「ぜんぜん思い出せないの?」
「そうなの。先生が言ってたんだけど、普通の記憶喪失は、精神的ショックか何かが原因のことが多いから、治療によっては思い出すことがあるらしいの。だけど、わたしの場合には、脳が傷ついているから、記憶は一生戻らないだろうって」
萩原将太は、かなりガッカリした様子を見せた。
(萩原将太も由美子に気があるのかな?)
哲雄は、彼の態度を見ながらそう思った。そう思いながら、哲雄は少しどきどきした。
(好きだなんて言われたらどうしよう? ぼくは心は男だ。そうなったら、何て答えたらいいんだろう)
そう考えているのに、自分でも思ってもみなかった言葉が出た。
「萩原君。今日から、新しいお友達として出発しましょうよ。いいでしょう?」
「もちろんだよ。でも萩原君はどうも」
「えっ、どうして? 萩原君じゃいけないの? じゃあ、将太君なの?」
「君はいらないよ。いつも将太って、呼び捨てだったから」
「いいの? 将太で」
「その方がいいな。ユッコらしくて」
「将太はわたしをユッコって呼んでたのね」
「そうだよ。子供の頃からね」
「わたしもそれでいいわ。じゃあ、将太が知ってるわたしを教えてね。ただし、いいところだけね」
「分かったよ。ユッコが気まぐれで、とても我が儘だったことは教えないよ」
「いやだあ。意地悪」
哲雄は彼氏を前にした可愛い女の子を演じていた。自分でもおかしいと思っていたけれど、どうやら由美子のためにと考えての行動らしいなと結論づけた。
「あっ、そうそう。きょうはユッコから預かっていたものを返しに来たんだ」
「わたしが将太に?」
「そうだよ。事故の前日夜遅くに、突然やってきてぼくに預けていったのさ。開けちゃダメだって言ってね」
萩原将太は、鞄の中から、茶色の紙に包まれ、固く紐で縛られたノートらしいものを取りだして哲雄に手渡した。
「そうなの。ありがとう」
「返したからね。それじゃあ」
そう言うと萩原将太は立ち上がろうとした。
「あら、もう帰るの?」
「今日はそれを返しに来ただけなんだ。もうすぐ6時だから、これ以上遅くなると、うちの母に叱られるよ。話は次にしよう。それにユッコのお母さんだって、男のぼくといつまでも一緒だと心配するだろう?」
「心配何かしないと思うわ。将太は幼なじみですもの」
「幼なじみでも男は男さ。・・・・ひとつだけ、小さい頃の話をしておくよ。ユッコは小さい頃、ぼくの・・・・お嫁さんになるんだって言ってたんだ」
萩原将太はそういうと、立ち上がりながらぼくの唇に軽くキスした。
「ほんとだよ」
そう言うと、将太はちょっとはにかみながら帰っていった。将太はやはり由美子が好きなようだ。
(どうしたらいいのだろう?)