第11章 トラブルをもたらす住所録

 翌日、哲雄が目覚まして最初にしたことは、ヘアのセットだ。ドレッサーの鏡に向かってブラシをかけた。カットがうまくいっているせいで、今日はまずまずの仕上がりだった。
 昨日と同じようにベランダに出て伸びをする。今朝も歩く人が数人いた。ふと見ると、電信柱の陰にこちらを見ている人影があった。その顔に哲雄は見覚えがあった。昨日哲雄を尾けていた若い男だった。
 (そう言えば、昨日の朝ジョギングをしながらぼくの方をちらりと見た男も同じ男だったような気がする。ストーカーだろうか?)
 気味が悪くなって哲雄は部屋の中に引っ込んだ。カーテンの陰からそっと覗いてみた。まるで哲雄を見張っているようだった。
 着換えをして、もう一度覗いてみたら男の姿は消えていた。哲雄はほっと胸をなで下ろした。

 (今日は何を着ようかな?)
 タンスの下の段にジーンズが入っているのはわかっていた。パンツもあった。ジーンズを引っ張り出して穿こうとした。しかし、哲雄はしばらく考えたあとジーンズを元のタンスの中に戻した。
 (ジーンズの方がぼくにとっては楽なことは楽だ。だけど、女の子であることに慣れるためには、逃げていてはダメだ)
 哲雄はクローゼットを開くと、目を瞑って手を差し入れ、手にした服を取り出した。
 (ワンピースか。ま、いいや)
 そのワンピースは、胸の中にレースのような飾りがたくさん付いている女の子らしいデザインのものだった。
 足を通し、ファスナーをあげてから鏡を見た。
 (うん。これもよく似合ってる。やっぱり女の子は女の子の服装が一番よく似合うよ)
 当初、哲雄はスカートを穿くなんてイヤだなと思っていた。だけど、なれてしまえばなんてことはない。
 (ジーンズを穿くのは、ぼくが女として自然に振る舞えるようになってからにしよう)
 3着目のスカートで、すっかりなれてしまっていることに哲雄はなんの疑問も抱かなかった。それは、由美子の体が慣れ親しんでいた服だったからだろう。
 (ちょっときつい感じだな)
 入院中、高カロリー輸液を止めたとき、四十六キロあった由美子の体重は、いったん四十四キロまで減って、退院するときには四十五キロになっていた。
 哲雄自身は、64キロほどあったから、哲雄としては由美子はかなり痩せていると思っていた。
 (いつも着ていたという服が少しきついところを見ると、以前の由美子は今より少し痩せたくらいの体格だったみたいだな。これ以上太れないなあ。これ以上太ったら、ここにあるほとんどの服が着られなくなってしまうよ。美智子に勝つためではなく、服を着るためにダイエットしなきゃならないみたいだ)

 女の子として外出するのは少し躊躇われた。けれど、哲雄は長い闘病生活で、外の空気を吸ったことがほとんどなかった。だから、外出してみたかった。ところが、あの若い男のことを思い出すと、怖くなって外出する気になれなかった。
 哲雄は、これまで外出が怖いなどと思ったことは一度もなかった。
 (男だったら、こんな思いはせずに済むのにな)
 女の大変さをまたひとつ経験した哲雄だった。

 一日中、アルバムと日記を見ながら、哲雄は島津美智子の話を思い出していた。
 (我が儘お嬢さんか。人生が180度変わっちゃったな)
 午後3時を回った頃、学生鞄を手にして、セーラー服を着た島津美智子がやってきた。美智子のスカートもかなり短い。
 (そう言えば・・・・)
 哲雄は、退院前に見舞いに来た後輩たちの服装を思い浮かべた。
 (太股が丸見えだったっけ)
 制服自体がかなり短いのだろうと哲雄は推測した。
 (女子校だからだろうか?)
 哲雄が出た高校では、スカートから膝が出ていたら、親が呼びつけられていたから、ところによってずいぶん違うんだなと思った。
 2時間ばかり、あれこれと話をした後、帰り支度を始めた島津美智子は、昨日と同じように少し躊躇いながら、話を切りだした。
 「覚えていないとは思うけど、あなたが事故に遭う前に、わたしが預けておいた住所録はどこにあるか分からないでしょう?」
 「住所録? どんな」
 当然のことながら、哲雄にはそんな記憶はない。
 「黒い牛皮のこれくらいのなんだけど」
 島津美智子は大学ノートを縦に半分にしたくらいの大きさを両手で示した。そんな住所録は見た覚えがない。
 「それくらいの住所録ねえ。わたし、記憶が飛んじゃったでしょう? 何がどこにあるのか分からないのよ。だから退院してから、部屋の中にある品物を2度ほど見て回ったんだけど、そんな住所録は気づかなかったなあ。何の住所録?」
 「サ、サークルのよ。サークルのメンバーの連絡先が書いてあるの。あれがないと困るの。一緒に探してくれない? どこかにある筈よ」
 「サークルの? そう、いいわよ。じゃあ、2階に行きましょう」
 二人でその住所録というものを探し回った。しかし、見つからなかった。
 「寝室は?」
 「さあ、どうかしら?」
 ふたりで寝室の中も探し始めた。ベッドの下を覗く島津美智子のパンティーが短いスカートから覗いている。透けて見えるほど薄くて小さな薄紫のパンティー。黒い茂みばかりではなく、女の部分がくっきり透けて見えた。
 (すごいパンティーを穿いてるんだなあ)
 哲雄はビックリしてしまった。
 (こんなパンティーを穿いていて、美智子は恥ずかしくないのだろうか?)
 哲雄にペニスがあったなら、カチカチになっていただろう。哲雄は、自分も女であることを忘れて、思わず目を背けた。
 (ぼくはまだ今の自分のものを見たことがないけど、あんな風になっているんだろうかな)
 そんな風に哲雄がぼんやりと考えていると、美智子がベッドの下から何かを見つけだした。
 「あった。あった。これよ」
 美智子は埃をかぶった住所録をベッドの下から取り出した。開いてみる住所録をちらりと覗くと、イニシャルと電話番号が並んでいた。
 「良かったね」
 「見つかって良かった。じゃあ、貰って帰るから」
 「いいわよ。あなたのなのでしょう?」
 「う、うん」
 哲雄がなんの住所録と聞いたときもおかしな答えだったけれど、今度も美智子の反応が少しおかしいと感じた。
 (でも、聞いてもしょうがないよな)
 「気を付けて帰ってね。少し暗くなってきたから。わたし、昨日、変な男につけられたのよ。用心した方がいいわ」
 「変な男に? ふーん。気を付けて帰るわ」
 「タクシー呼ぼうか?」
 「いいわよ。近いんだから。明日はピアノのレッスンがあるから、明後日また来るわ。迷惑でしょうけど、待っててね」
 「迷惑なんて事ないわよ。待ってるから」
 「見送ってくれなくてもいいわ。じゃあね」
 そう言って島津美智子は、さも大事そうに住所録を鞄にしまい込むと、とんとんと階段を降りていった。
 「おばさま、お邪魔しました」
 美智子は台所にいる母に挨拶している。
 「あら、美智子さん。もう、お帰りになるの?」
 「そろそろ暗くなりますから」
 「ありがとう。またいらしてね」
 「明後日、また伺いますから」
 それから島津美智子は電話貸して下さいと言って、どこかへ電話し始めた。
 (電話するならこの部屋からすればいいのに)
 そう思いながら耳をそばだててみた。嶋津美智子は声を落として誰かとひそひそ話していた。哲雄や母に聞かれたくない話をしているんだなと哲雄は納得した。
 しばらくして玄関のドアが開く音がした。哲雄は二階のベランダから、通りに向かって駆けていく彼女に手を振った。
 「美智子、気を付けて帰ってね」
 「大丈夫よ。バイバイ」
 鞄を片手に走り出した彼女がもう一度振り向いて手を挙げた瞬間、白っぽい乗用車が横から飛び出してきて、彼女をはねた。まるでスローモーションのように彼女の体が宙に浮くのを、哲雄はぽかんと口を開けて見ていた。
 運転席から降りてきたでっぷり太った男は、美智子には見もくれず、路上に転がった美智子の鞄を掴むと、車に乗り込んで急発進させて逃げていった。その時になって、目の前で起こったことが現実だと分かって、哲雄は大声を上げた。
 「ママ! 美智子が車にはねられた!」
 「えっ、美智子さんが?」
 「救急車を呼んで! 前の通りに倒れてる」
 「す、すぐ呼ぶわ」
 哲雄は階段を転がるように降ると、靴も履かずに島津美智子のそばに駆けていった。左の手足が九の字に曲がり、頭から血が流れていた。かなりの重傷であることはすぐにわかった。けれど、まだ息があった。
 「美智子! 美智子!」
 息はあったけれど、応える力はもうなかった。次第に息が浅くなっていった。哲雄は、為す術もなく彼女の傍らに跪いて手を握っていた。やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

 島津美智子はその夜遅く亡くなった。
 (由美子の親友だった美智子。たった二日だったけど、もう一度親友になれたのに・・・・)
 悲しくて哲雄は一晩中泣いた。

 美智子をはねた車は、現場から二キロばかり離れた空き地に放置されているのが発見された。盗難車だった。事情聴取に訪れた刑事に哲雄はそう聞かされた。
 哲雄は事情聴取に訪れた刑事に、運転していた太った男が美智子の鞄を奪っていったことを話したが、中身が車の床にばらまかれて、鞄は車のシートの上に残されていたそうだ。
 (何が目的だったのだろうか? あの住所録だったのだろうか?)
 話しちゃいけないような気がして、哲雄はそのことには触れなかった。

 次の日、哲雄は母と二人で美智子の通夜に行った。美智子の父親は毅然としていたが、母親の嘆きようは、言葉に表せないほどであった。
 (母も今のぼくがいなければ、ああなっていたのだろうな)
 遺影に手を合わせながら哲雄はそう思っていた。

 葬儀から帰宅して靴をしまおうとしたとき、哲雄は靴箱の奥に何かがあるのに気がついた。取り出してみると、あの住所録だった。島津美智子が書いたメモが間に入っていた。
 『由美子へ。やっぱりしばらく預かってて。他人に見せちゃダメよ。美智子』
 部屋に上がって、住所録を見た。イニシャルに続いて、電話番号。それもほとんどが携帯の番号だった。
 (美智子を轢き殺してまでも奪わねばならなかった住所録。どんな秘密が隠されているのだろう?)
 何か恐ろしい理由があるのではないかと考えると背筋に冷たいものが走った。
 (いやこの住所録は関係ないのかもしれない)
 そう思った哲雄は、最初のページにある一番上の番号に電話してみた。すぐに相手が出た。
 《もしもし、待ってたんだ。上物が手に入ったか?》
 「・・・・」
 《もしもし、おめえ、誰だ》
 若い男の声だった。哲雄は急いで受話器を置いた。
 (美智子のやつ、サークルの電話番号だなんて嘘を言って・・・・)
 美智子はが哲雄に嘘を言ったのだ。サークルの仲間の電話番号じゃない。女子校のサークルのものなら男が出る筈がないのだ。出てもあんな言い方をする筈もないのだ。
 (上物が手に入った? 何のことだろう)
 突然電話のベルが鳴った。心臓が飛び上がった。
 (誰だろう、今頃。ぼくに電話する相手などいない筈だが)
 訝りながら恐る恐る受話器を取った。
 「もしもし、坂本です」
 《もしもし、坂本由美子さんですね》
 「そうですけど、父さんなの?」
 受話器から聞こえてきた声は、懐かしい父の声、早田の父の声だった。
 《先日、うちに来てくれたんだってね。母さんから聞いたよ》
 「13日に退院したんだ。だから、その報告に」
 《出張でね。さっき帰ってきたんだ。せっかく来てくれたのに、母さんの様子が少しおかしかったろう》
 「うん。何だか冷たかったよ」
 思い出して涙が出た。
 《そうだろうな。母さんは、哲雄はもう死んだと思っているんだ》
 「そんなことないよ。ぼくは生きているよ」
 《由美子さんが自分を騙していると思っているようなんだ》
 「そんな。ぼくは哲雄です」
 《母さんはそうは思っていないんだ》
 「どうして?」
 《おまえ自身も分かっているだろう。今のおまえは由美子さんにしか見えない。わたしは信じているが、母さんはみんなが自分を騙そうとしていると思いこんでいる》
 「何のために母さんを騙す必要があるんだよ」
 《哲雄が生きているように思わせるためだよ》
 「生きているじゃないか」
 《母さんは信じてはいない。信じようとしないんだ。哲雄はもう死んだのに、母さんを心配させまいとして、みんなが母さんを騙していると言ってね》
 「そんな・・・・」
 《哲雄。おまえには悪いんだが、しばらく母さんをそっとして置いてくれ》
 「どういうことです? 父さん?」
 《うちには、来ない方がいい。母さんのためだ》
 「ぼくは哲雄だよ。なのにどうして」
 《母さんが本当におかしくなっても良いのか?》
 すでにおかしくなっていると哲雄は思った。
 「・・・・仕方ないんだね」
 《すまんな》
 「落ち着いたら、訪ねていってもいいよね?」
 《勿論だ。その時は連絡する》
 「待ってるから」
 《坂本さん達を大切にするんだよ》
 「分かってる。死んだ由美子さん以上に親孝行するつもりだよ」
 《じゃあな》
 電話が切れた。
 (父さんはああ言ったけど、ぼくはもう早田の家には、もう二度と帰れない)
 そんな予感が哲雄にはしていた。涙が溢れて、どうしようもなかった。

 父からの電話が切れて、何分もしないうちに、また電話が鳴った。
 (誰だろう?)
 哲雄は涙を拭って電話に出た。
 「はい。坂本です」
 《よう姉ちゃん、坂本って言うのか? 可愛い声してるじゃないか。どこに電話してたんだ? さっきは何の用事だったんだ?》
 さっきの若い男の声だった。
 (どうしてここの電話番号が分かったんだろう?)
 哲雄はしらばっくれて尋ねた。
 「さっきって?」
 《俺に電話しただろうが。どうして俺の携帯の番号を知ってるんだよ》
 「どうしてわたしの番号が分かったの?」
 《携帯にかけると分かるんだよ。知らねえのか?》
 そういえば、病室で川田順二がそんなことを話していたことを聞いた覚えがあった。
 「間違いです。番号間違えたんです。ごめんなさい」
 《間違いかよ。残念だな。スケから電話貰うのは久しぶりなんだがな。姉ちゃん、いくつだ? 俺とつき合わねえか?》
 「ごめんなさい。彼に怒られるわ。もう一度掛けてって言われているの。約束の時間を過ぎちゃうわ。ごめんなさいね」
 《彼から怒られる? ふん》
 電話が乱暴に切られた。
 (良かった・・・・)
 声の雰囲気からすると、電話の男はまともな男じゃなさそうに思えた。
 (この住所録はやはり胡散臭い。この住所録のために美智子は殺された可能性が高い。明日の朝、一番に警察に届けに行こう)
 哲雄は、住所録を閉じた。