第10章 ふた組の両親

 階下に降りると母が台所で朝食の支度をしていた。
 「あら、由美子さん。もう起きたの?」
 中身が哲雄に変わっていることなど、なかったかのように声をかけてきた。哲雄もそのつもりで返事を返した。
 「おはよう、ママ。お手伝いしましょうか?」
 「出来るの?」
 「えへへ、言ってみただけ。わたし、お料理なんてぜんぜんダメ。前は出来てたの?」
 「由美子さんは甘やかしていたから、何にも出来なかったわよ」
 「良かった。すごく上手だったって言われたら、どうしようかと思っていたんだ」
 哲雄はまな板の上を覗き込んだ。ダイコンが千切りにされていた。とんとんと大根を切りながら、やる気があるんだったら、教えてあげるわよと母が答えた。
 「女の子だもの。やれなくちゃね。教えて、ママ」
 「初めから無理しなくていいわよ。少しづつね」
 「パパは?」
 哲雄は、振り返ってキッチンからリビングの方を窺った。誰もいなかった。
 「まだ寝てるの?」
 「取引先の人とゴルフだって。六時過ぎには出かけていったわ」
 「由美子の顔も見ないで?」
 「あなたの部屋を覗こうとしたけど、怒られるといけないからと言って、覗かないで出かけたわ」
 「ちょっとくらいいいのに」
 「以前のあなただったら、そんなことしたら、酷い剣幕で怒っていたわね」
 「そう? 父親が娘のほっぺにキスして出かけるくらいはあってもいいんじゃないかなあ」
 「ほんとにそう思うの? パパ、喜ぶわよ。ところでそのカツラ。家の中でまでしなくてもいいんじゃないの?」
 「女の子としては、こんな髪じゃ、恥ずかしいわ」
 「ちょっとカツラ取ってみて」
 哲雄はカツラを両手で外してみた。
 「・・・・そうねえ、それくらいの長さあれば、何とかなるんじゃないの。お食事済んで、片づけが終わったら、美容院に行きましょう」
 「美容院に?」
 「そう。お馴染みのね」
 「分かったわ。それはそうと、わたし、学校はどうなってるの?」
 高校3年生の女子高生と言うことだから、気になっていたのだ。
 「ああ。言ってなかったわね。あなた、5ヶ月も入院してたでしょう。だから、休学にしたの」
 「休学? つまり落第だね」
 「そういうことよね。もう一度、3年生をしなければならないのよ」
 「わたし、あまり勉強できないわよ。1年からやり直した方がいいかも」
 哲雄自身、幼い頃からずっと入院生活を送っていたから、学力にはまったく自信がなかったのだ。
 「それなら心配しないで良いわ。由美子は中学校の時は成績が良かったのに、高校に入ってから急に成績が落ちて、進級するのがやっとだったから、大丈夫だわよ」
 「助かった。でも大学にはとても行けそうもないわよ」
 「それも大丈夫。由美子の高校は短大の付属で、黙っていても短大まで進めるわ」
 「良かった。受験勉強なんて真っ平だから」
 「女の子には学歴は要らないわ。短大卒って言えばいいの。由美子の学校は中身はともかく名前はまあ有名だから、箔だけはあるわ。最低限可愛い女であればいいのよ」
 哲雄としては、母の意見には素直に賛成できなかった。
 (可愛い女であればいいのよか。すごく封建的な考え方だな。男だったらそうはいかない。今の世の中、学歴がなかったら生きていけない。女だって母の意見に両手をあげて賛成とはいかないだろうな。でも、反抗するのもな)
 哲雄はそう考えて、その場は何も言わないでにこにこしていた。
 「ところでママ、由美子は几帳面だったの?」
 「えっ、どうして?」
 「由美子の部屋がものすごくきちんと整理されていたから」
 「ああ、その事? 由美子さんが入院して、ママが付き添いに行ったでしょう。家に誰もいない間に空き巣が入って、めちゃめちゃに荒らされたのよ」
 「へえ。何か盗まれたの?」
 「それが、何にも盗まれていなかったの。警察の方は何か探してたみたいだなと言ってたわ」
 「何か探していた? 何を?」
 「それは分からないわ」
 「ふうん」
 「人を雇って片づけたから、きちんと並べてくれたのよ」
 「何だ、そうだったの。わたし、あんなに几帳面に出来そうもないから、どうしようかと思ってたんだ」
 「あれほどしなくてもいいけど、あんまり散らかしちゃ、ダメよ」
 「はい」
 「ああ、それから由美子さん」
 「何? ママ?」
 「私服で出掛ける時はパンストを穿かなきゃね」
 母は哲雄の足元を見ていった。
 「パンスト? パンスト穿くの?」
 「そうよ。家の中にいるときは素足でも構わないけど、外に出るときは素足じゃおかしいわよ。新しいのがタンスにあったでしょう?」
 「わかったわ」
 哲雄はさっそく二階に上がって、タンスの中からパンストを取り出した。穿くときに爪で傷つけて一足ダメにしてしまった。面倒くさいなと思いながら、穿いてみると随分暖かかった。
 (なるほどスカートにはパンストは必需品だな)
 納得はしたものの、夏には暑いだろうなと疑問になった。
 「ママ、これでいい?」
 「オッケイよ。さあ、ご飯にしましょう」
 「冬は暖かくっていいけど、夏もパンスト穿くの?」
 「もちろんよ」
 「暑くないの?」
 「夏は夏用があるわ。ちょっと暑いけどね。でも、今はどこに行っても冷房があるから大丈夫よ。むしろ、穿いていないと冷えるわよ」
 「そう。女はほんとに大変ね」
 「そうでしょう。後悔してる?」
 「もう充分後悔してるわ。でも後悔先に立たずよ。賽は投げられたの。頑張るしかないわ」
 「分からないことは何でも聞いてね。由美子さん」
 「分からないことだらけよ。わたし、まるで赤ん坊よ」
 「可愛がって育ててあげるわ」
 「よろしくね、ママ」
 「了解しました」
 母は気さくにぼくに接してくれる。少し緊張したぼくの気持ちが安らぐのを感じる。多少の後悔はあるものの、ぼくの選択は間違っていなかった。そう思う。

 母と一緒にタクシーに乗って、哲雄は美容院に行った。母はどこに行くのもタクシーらしい。金銭感覚が哲雄とはだいぶ違う。
 美容室は、繁華街のど真ん中にあるビルの2階にあった。道に面した部分は総ガラス張りで、行き交う人が見えた。母が指名した美容師は、女性言葉を使う、ちょっとおかまっぽい男性だった。
 (さすがにプロだな)
 哲雄は、感心しながら、哲雄の髪をてきぱきとカットし、ジェルを塗ってブローする美容師の手先を見ていた。仕上がって鏡を覗いてみると、見違えるようになった。
 「由美子さん、もうそのまま外に出てもいいわね」
 「すごい! プロの美容師さんはすごい!」
 「お嬢さんは、髪質がよろしいですからね」
 鏡の向こうから、にっこりと笑う美容師はぜんぜんいやらしさがなかった。
 「ほんと。嬉しいわ」
 「お嬢さん。あの由美子さんですよね?」
 ちょっと首を傾げながら尋ねてきた。
 「えっ、どうして?」
 「人が変わったみたい。いえ、ごめんなさい。失礼なことを言ったかしら」
 「いいのよ。わたし生まれ変わったの。じゃあ、ありがとう。また来ますから」
 「ありがとうございました。またいらしてね」
 カツラはバッグにしまい込んで、哲雄は母と二人で近くのレストランで昼食を取った。母はそのままお花のお稽古に行くというので、哲雄は早田の家に退院の報告に行ってくると言って別れた。

 タクシーで行きなさいと言われたが、町の中をゆっくり見たかったので哲雄はバスに乗った。早田の家は市街地からかなり離れた高台にある市営住宅だ。一度乗り換えて40分ほどかかった。
 団地下のバス停で降りようとしたとき、哲雄は誰かの視線を感じた。振り向いてバスの中を見た。バスの中には、買い物袋を抱えた女性が二人、杖をついた老婆。OL風の書類袋を持った女性、ネクタイをしてスーツを着たサラリーマン風の若い男、ゴルフシャツの中年の男、塾通いらしい弱視の眼鏡をした男の子。
 (誰だろう? 確かにぼくをじっと見ていたような気がするけど・・・・。ぼくが女の子らしくない行動をとったのだろうか? それとも気のせいだろうか?)
 ともかく今はその視線を感じなくなっていた。哲雄は、市営住宅の階段を上って行った。懐かしい哲雄の家。呼び鈴を鳴らすと母の声がしてドアが開けられた。少しやつれた母の顔が覗いた。哲雄を見て少し首を傾げてから、思い出したような顔になった。
 「・・・・由美子さん」
 「昨日退院したから、挨拶に来たんだ」
 哲雄は以前の哲雄の口調に戻した。
 「早く入って」
 「うん」
 母はきょろきょろと外を見回し、哲雄を隠すように部屋の中に招き入れた。靴を脱いで上がるとき、哲雄のいた部屋が見えた。四畳半の狭い部屋だ。
 哲雄のいた痕跡は何もなかった。小学校から使っていた落書きだらけの机、漫画の本が半分以上詰まったスチール製の本棚、ギシギシ言うスチールベッド、小さなタンス。それらのどれもが既にそこにはなかった。急に悲しくなって涙が出そうになった。
 (ここには、もうぼくの居場所はないんだ・・・・)
 「元気そうね」
 「うん」
 「見違えたわ」
 表情のない顔で言った。
 「今日は女の子の服を着ているからね」
 「そうね。坂本さんはお金持ちなんだってね」
 母はテレビにスイッチを入れた。
 「そうでもないよ」
 「良かったわ。幸せそうで」
 母の視線が哲雄に戻ってきた。けれど、焦点は哲雄に合っていないように思えた。
(母までぼくが経済的な理由で由美子になることを選んだと思っているのだろうか? いや、そんなつもりで言ったんじゃない。絶対そんなつもりじゃない)
 哲雄の目に涙があふれた。母はそれきり何も言わず、見るとはなしにテレビを見ている。10分ほどそうしていただろうか? 居たたまれなくなって哲雄は腰を上げた。
 「あら、もう帰るの? お茶も入れなかったわね」
 「また来るよ」
 「お父さんにも会いに来てね」
 「うん」
 母は哲雄を見送ってくれなかった。階段を下りて、哲雄は振り向いてみた。しかし、ベランダにも母の姿はなかった。寂しくなった。
 (ぼくは間違った選択をしたのだろうか? そんなことはない。そんなことはないんだ。)
 そう自分に言い聞かせたけれど涙が出た。涙が出て止まらなかった。

 バス停に向かって下っていこうとしたとき、植え込みの陰に隠れている男の姿が目に入った。
 (あの男だ。バスに乗っていた若い男だ)
 哲雄の方をじっと見ていた。哲雄は見て見ぬ振りをして急いで坂を下った。男は哲雄の後をついてくる。怖くなって、哲雄は通りかかったタクシーを呼び止めて乗り込んだ。タクシーの中から振り返ってみると、あの男が慌ててタクシーを探しているのが見えた。
 (誰だろう? 何の目的でぼくをつけ回すのだろう?)

 タクシーを降りて玄関の鍵を開けようとしたら、すでに開いていた。母がもう帰ってきているようだ。玄関に出かける時にはなかった女物の靴が揃えて置かれていた。
 (誰か来ているのかな?)
 「ただいま」
 「あら、由美子さん、お帰り。早かったのね。美智子さんがいらしてるわよ」
 (美智子さん? 美智子。はて、誰だったかな? 思い出せない)
 哲雄はジッと考えた。そして思い出した。
 (・・・・そうだ。島津美智子だ。由美子の親友の。由美子が記憶喪失ということになっていることを母はもう話したのだろうか?)
 応接間で待っていた美智子は、写真で見ていた以上に美人だ。薄化粧した顔には年齢に似合わない色気が漂っている。白のワンピースを着た美智子は、とても女子高生には見えない。腰まで伸ばした髪は黒く艶やかだ。最近の女の子は茶髪が多いから、却って新鮮に感じる。それにスタイルも良い。哲雄は、自分が女であることを忘れてうっとりしてしまった。島津紀子はそれほどの美人だった。
 ふと鏡に映った自分の姿を思い出して、哲雄は思わず嫉妬してしまった。由美子の日記の中にもそのような記述がいくつかある。由美子は、どうも体重だけは、美智子に負けまいとしてダイエットしていたようだ。女の子の心理はどうも理解しがたい。そんなことでは美智子に勝てそうもないのに。哲雄は日記の内容を思い出しながらそう思った。
 「由美子、お帰り。元気そうね」
 「島津・・美智子さん・・だったわね?」
 「わたしのこと、忘れてないのね。嬉しいわ」
 にっこりとほほえむ島津美智子はさらに美人に見えた。
 「ごめんなさい。覚えてないの」
 「ええっ、嘘でしょう?」
 口をとがらせた。その表情もキュートという表現が当たっているように思えた。
 「ほんとなの。ぜんぜん思い出せないの。あなたの顔、アルバム見てたから」
 「ほんとにわたしのことも忘れてしまったの? 酷いなあ」
 髪を払う仕草が堂に入ってると思った。
 「ほんとに、ほんとにごめんなさい。親友の顔を忘れてしまうなんて」
 「親友って言ってくれて嬉しいわ。でもいいわ。今日からまた親友になりましょう」
 そう言って島津美智子はにっこりと笑った。
 「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ」
 「由美子、まるで別人ね」
 冷や汗が出た。見抜かれている。けれど哲雄の秘密を知っている筈がない。母も言う筈がない。哲雄は大きく息を吸った。
 「そう。わたし、以前のわたしじゃないの。自分がどんな人間だったかも覚えてないの。だから教えてくれる? 以前のわたしを」
 「そうなの。分かったわ。でも全部じゃないわよ」
 「どうして?」
 「悪いところは、元に戻らない方がいいでしょう?」
 「そうね。良いところだけね」
 哲雄は島津美智子に笑顔を向けた。
 「昔はそんなに素直じゃなかったなあ」
 「どんなんだったの?」
 「だめ! 今の由美子の方がいいから教えない」
 「いいわ。じゃあ、話して。わたしの悪いところは話さないでいいから」
 島津美智子の話によれば、由美子はちょっと我が儘なお嬢さん育ちの女の子ということだ。割り引いての話だから、かなり我が儘だったのかもしれない。
 島津美智子の家は、由美子の家から歩いて五分ほどの場所にあって、二人はいつも行き来しているようだ。由美子の日記にも書いてあったが、小学校、中学校、高校とずっと一緒と言うことだ。父親は銀行員とのことだが、何故かあまり詳しく話したがらない。哲雄もいらぬ詮索はしないことにした。いくら親友でも言いたくないことがあるのだろう。哲雄だって秘密があるのだから。
 1時間ほどして、また明日来ると言って帰っていった。帰り際、島津美智子は何かを言おうとして言わずに帰った。哲雄はその態度が少し気になったが、明日でも良い話だろうと思った。

 父が帰ってきた。ほろ酔い加減で顔が少し赤い。初めて90を切ったと言って機嫌がよい。哲雄の顔を見るとさらに上機嫌になって、ビールを飲み始め、食事が済む頃には酔いつぶれてしまった。一度は死を宣告された娘がこうして帰ってきているのだ。嬉しくて仕方がないのだろう。
 そんな父を見ながら哲雄は思った。
 (父は、早田の父はどうしているだろうか? ひとりしょんぼりしているのではないだろうか?)
 ちょっと悲しくなった。由美子として暮らす決心をしても、哲雄は早田の家を忘れることは出来ない。
 (だけど、今日の早田の母の反応は・・・・)
 早田の家には、哲雄の居場所もすでになかった。
 (ぼくの選択は間違っていなかった筈だ。こうすることが最善だったんだ・・・・)
 そう思いながらも哲雄は悲しかった。