九月に入って日が暮れると、風がめっきり涼しくなってきた。窓を開けると少し肌寒く感じる。
川田順二と北岡武の二人が、窓を開け放って都市高速上を走り抜ける暴走車を見ていた。今日は土曜日の夜だから暴走車が多い。早田哲雄はベッドの上にいて、ぼんやりとそんなふたりの様子を眺めていた。
キキキキキー。ガシャ。ギー。
そんな大きな音に、哲雄はベッドから体を起こして窓の向こうにある首都高を見た。暴走車の一台がスピンして壁にぶつかったようだ。
「おい、順二。やったぞ、やったぞ」
北岡が手にしていた双眼鏡で事故現場を覗き始めた。
「結構大きな事故だぞ」
いかにもうれしそうな表情を見せて、北岡が川田の肩をたたいた。
「武、双眼鏡を返してくれよ」
「ちょっと待て。すぐ返すから」
北岡は両手に握った双眼鏡から目を離す様子はない。
「その双眼鏡は、俺んだぞ」
「すぐ返す。すぐ返す」
北岡は自分の手に取り返そうとしている川田の手を振り払って、双眼鏡で事故現場を一生懸命覗いている。
「しょうがねえなあ。どうだ、事故の程度は?」
川田は背伸びをするようにして事故現場の方を見ている。
「よく見えないなあ。あっ! 運転手らしいやつの姿が見えたぞ。・・・・なんだ。ピンピンしてるよ。おっ、髪の長い女が降りてきたぞ。すっげえミニスカート穿いてるなあ。お尻が見えそう。でも、あんまり美人じゃないな。運転していた男に、なにか喚き散らしているよ。痴話喧嘩が始まったよ。大した事故じゃあなさそうだな。車が壊れただけみたいだな」
「なんだ、そうか。残念だな」
「残念でした」
川田は双眼鏡を取り上げるのをやめて、窓にもたれかかって病室のテレビを見やった。
「そろそろテレビでも見ようか?」
「そうだな」
ふたりは、ベッドに戻りながら話を続けている。哲雄は起こしていた体をベッドに横たえると視線を天井へと移した。
「あんまりひどい事故だと役に立たないしな」
テレビを見ようと言ったのに、北岡はテレビそっちのけで話をしている。
「そうだな。ちょうどいいくらいの事故なんて、そうそう起こらないもんだなあ」
「そういうことだな。頭だけやられて体は大丈夫なんてのは虫が良すぎるねえ」
「やっぱ、脳出血だな」
「そうそう。それもクモ膜下出血だな」
「普通の脳出血は年寄りが多いから、役に立たないしね」
「その点、クモ膜下出血は若くて、ピチピチしたのが多いからね」
「クモ膜下出血でも、あんまり軽くてもいけないね。病院にかつぎ込まれて治療が始まってから息が止まる。それくらいがちょうどいいんだがね」
「そうそう」
そんな二人の会話を耳にして、夜の検温に来た看護婦の青木滋子が口を挟んだ。
「こらこら、あんたたち。何て話しているの。不謹慎よ」
「いいじゃないか。俺たちずっと待ってんだから」
「あなたたちの気持ちは分からないわけではないけど、他人の不幸を望むなんていけないわよ」
「望んでいる訳じゃあないよ。そんな患者がいたらいいなっていう話さ。なあ?」
川田と北岡は顔を見合わせて頷きあう。
「同じことじゃないの」
「同じじゃないよ。なあ、順二?」
北岡がもう一度川田に同意を求めた。
「そう、同じじゃない」
「困った人たちね。はい、体温計。哲雄君はおとなしく待っているのにねえ」
青木はベッドの上でじっと天井を見つめている哲雄の方を見た。
「哲雄は、もうそんな元気もないんだよ」
「そんなことないわよね、哲雄君。はい、体温計」
口元に笑顔を見せて、青木が哲雄に体温計を差し出した。
(二人の言う通りだ)
そう思いながら、哲雄は体温計を受け取って腋に挟む。そして、ぼくはもうだめかもしれないと力なくぽつりと呟いた。
「何言ってんのよ。ここまで頑張ったんだから、もう少しの辛抱よ。次は哲雄君の番なんだから」
「青木さん、ぼくを見てて分かるでしょう。どんどん悪くなっているのが」
哲雄は目の前に手を差し出してかざした。土色で生気がない手だ。
「そんなことないわよ」
「食欲もないし、きついし、もうだめだよ」
小さなため息を哲雄はついた。
「そんなことないってば。とにかく頑張るのよ。もう少しなんだから」
「・・・・ぼくはもうだめだよ」
青木は、哲雄の体温と脈を記録すると黙って出ていった。哲雄には分かっていた。青木の顔にははっきり書いてあったのだ。哲雄の病状が決して良くないことが・・・・。
ナースステーションの隣にあるカンファレンスルームで、二人の医師がカルテを見ながら、深刻そうに何やら話していた。ひとりは早田哲雄の主治医の竹原実。もうひとりは病棟医長の森田雄三だ。
「どうでしょう? 森田先生。早田哲雄はやれるでしょうか?」
「うーん、厳しいなあ。彼の場合、病歴も長いし、もう肝硬変に移行しているようだからねえ。先月の内視鏡検査では食道静脈瘤もできていたし、七月に見つかった僧帽弁閉鎖不全も日増しに悪くなっている。それに僧帽弁だけでなく三尖弁も悪いから、ただでさえ悪い肝臓に悪影響を及ぼしているからねえ」
腕組みをしたまま、森田はカルテと竹原の顔を交互に見ながら答えた。
「先生のご意見もそうですか。今朝の生化学検査では、肝臓だけでなく、凝固能も腎機能も落ちてきていて、全身がたがたですねからね」
竹原はカルテをめくってため息混じりに言った。
「うん。弁膜症が出てこなかった二ヶ月前だったらねえ。肝機能も腎機能もまあ良かったのにねえ」
森田は天井を仰いだ。
「なにぶん、相手がいる話ですからねえ」
「この状態では、早田君には気の毒だけど、リストから外すしかないね」
森田は竹原に視線を移して告げた。
「そうですね。このデータでは、やっても却って苦しい思いをするだけでしょうから」
森田はうむと頷いた。
「仕方ないね。リストから外そう。じゃあ、竹原君。悪いんだが、主治医の君から家族と本人に伝えてくれるかな?」
森田は椅子から立ち上がった。
「はい、分かりました。嫌な役だけど、主治医になったんだから仕方がないですよ。半年頑張ったのに無駄足になりましたね」
「こういうこともあるさ」
カンファレンスルームから出ていこうとして、森田は竹原の方に振り返った。
「そうそう。家族が望めば、退院させた方が良いかもしれんね」
「そうですね。春からずっと入院してますから。できれば畳の上で死なせてやりたいですね」
「そうだな。ただ、入院したままでいたいと言ったら、無理強いはしなくても良いよ。QOL第一にね」
「分かっております。早速、明日にでも家族を呼んで話をします」
森田がカンファレンスルームを出ていったあと、竹原はしばらくの間早田哲雄のカルテをじっと見ていた。それから、もうひとつため息を吐くと、意を決したようにカンファレンスルームを出ていった。
午前6時過ぎ、仮眠から目覚めた松本千鶴子は、髪と白衣の乱れを整えて検温に向かった。もう一人の夜勤者である井上友世はすでに個室からの検温に回っていた。
「朝の検温だよ。みんな、起きて! はい、体温計」
松本は、北岡に体温計を渡す。眠い目をこすりながら北岡は体温計を受け取った。
「川田君! 川田君! 起きて! 検温だよ」
松本は、川田の体を揺すり、そしてキャッと小さな声を上げた。口に手を当てたまま後退り、そして大声で叫んだ。
「井上さん! 井上さん! 来て!! 早く!」
井上の返事を聞くと、松本は川田の脈を取った。脈を触れなかった。握ったその手はすでに冷たくなっていた。
「どうしたの?」
井上が大きな体を揺さぶりながら病室に顔を出した。
「川田君が死んでる・・・・」
「死んでる?」
小さな目を見開いて井上はベッドの上の川田の脈を取った。
「もう冷たくなってるわ。三時の見回りの時には鼾をかいていたのに・・・・」
松本はくすんとしゃくり上げた。
「先生に連絡しなきゃ」
井上がばたばたとナースステーションに戻っていった。北岡がカーテンの隙間から川田の顔を覗き込む。
「川田!」
「見ちゃ駄目よ。ベッドにいなさい!」
松本に言われて、北岡はベッドの上にへたり込んだ。哲雄はそんな様子をまるでテレビか映画館のスクリーンを見ているように見ていた。
すぐに当直医がやってきたけれど、診察してこれはもう駄目だと首を振った。やがて、森田と担当医である三浦広志がやってきた。
「3時の検温の時は異常がなかったんだな?」
ハイと松本が小さく答えた。
「吐血して喉に詰まらせたようだな」
「窒息するとは・・・・。一番元気だったのに」
森田は歯を咬んだ。
「ホントに死んじゃたの?」
北岡が呆然として尋ねる。
「北岡君はベッドの中にいなさい」
森田に睨まれて、北岡は布団の中に潜り込んだ。しばらくして、ストレッチャーが運び込まれて、川田は病室の外へ運び出されていった。
やがて何事もなかったように検温が再開された。北岡は布団を被ったまま身じろぎもしない。一緒に騒いでいた川田が死んで、相当なショックを受けているようだ。川田と北岡は同い年で、入院した時期もほぼ同じだ。塞ぎ込むのは当たり前なのであろう。
一方同室者である哲雄は、またかという思いを抱いて平然としていた。哲雄は、生まれた時から何度も入退院を繰り返していた。だから、同室者が死ぬのには慣れていたのだ。人の死には、もう不感症になっていたと言ってよい。
(ぼくが死ぬときだって、そんなに驚かないような気がする。いつ死んだって構いやしない。ぼくなんて、いたっていなくたって同じだ。病院に迷惑をかけているだけだ。両親以外に悲しむものもいないんだから)
哲雄は、布団を被った北岡を見ながらそう思っていた。
(どうせ、ぼくもそんなに長くはないんだ)
哲雄は、前日の夜のことを思い浮かべた。前日の夜、消灯時間間際になって竹原が哲雄のベッドを訪れてきたのだ。少し申し訳なさそうな顔をして、哲雄に両親を呼ぶように言った。ちょっと話があるということだった。
手術が出来るという話だろうかと哲雄は少し喜んだ。けれど、すぐに思い直した。
(いや、そんな筈はない。それならぼくに直接言ってもいい筈だ。自分の体の調子は自分が一番良く知っている。手術はもう無理だという話だろう。そうに違いない)
哲雄は溜息を吐いた。死を覚悟していたのに、なぜか涙がぽろりとこぼれ落ちた。
(手術しなければ、どれくらい保つだろうか。したいことはいくらもあったのに、何もできなかった。車の免許も取りたかった。山に登ってみたかった。海で思い切り泳いでみたかった。それに恋もしてみたかった。セックスだって)
人生の大部分を病院で過ごしてきた哲雄は、21だというのに、まだ童貞だった。
(いや、先生の話を聞くまでは分からない。もしかしたら、僅かでも望みがあって手術をするというのかもしれない)
そう慰めては見たものの、どう考えてみても手術は無理に思えた。歩くのはもちろん、トイレに行くことすらもはや困難になっていた。
鏡で見た顔が何となく黄色く見えた。肝機能が悪くなって黄疸が出てきていることを自覚していた。
(食欲がないのは肝機能が落ちている証拠だ。心臓だって悪いと言われている。手術は到底無理だ。ぼくはもう死ぬ以外の道はない)
哲雄の絶望は深まっていった。
北岡は朝からずっと布団に潜ったままだだった。日頃は病室の中では一番元気で、冗談ばかり言っているが、今日ばかりは相当堪えているようだ。
「北岡君。元気出して。あら、朝御飯、手を付けてないの。食べなきゃだめよ」
青木がいつも以上に明るく北岡の肩をぽんとたたいた。
「ぼくも死ぬんだ。順二と同じ病気なんだから」
泣き出しそうな声で北岡は答えた。
「そんなことないわよ。あなたの方が軽いんだから」
「死ぬんだ、死ぬんだ。死ぬんだよ・・・・」
北岡は再び布団を被ってしまった。
「困ったわねえ。そんなに興奮しちゃ悪いわよ」
10時の検温にやってきた青木は、どうしていいのかわからず立ちつくした。いつも優しく、忙しい病棟にあって親身に相談に乗ってやる青木ではあったけれど、今の北岡を慰める手だてがなかった。
「北岡君。良かったじゃないか。順番がひとつ上がって。ぼくもどうやら手術できそうもないから、今度は君の番だよ。喜んでいいくらいだよ」
哲雄がぼそりと言った。
「早田君。何を言うの! あなた、友達が死んで悲しくないの?」
青木がちょっと非難するような悲しいような目で哲雄を見た。
「悲しいかって? 悲しくなんてないよ。ぼくの周りでは死人が出るのは日常茶飯事だからね。いちいち悲しんでいたらきりがないよ」
哲雄は青木の目は見ずに言った。
「早田君がそんな子だとは思わなかったわ。それにあなた、手術できないって決まったわけではないでしょう?」
眉をひそめて、青木は哲雄に近寄っていった。
「今日、両親が呼ばれているんだ。きっとその話だよ。今のぼくの体調では手術なんてできっこない。それくらい子供だって分かるよ。青木さんだって分かっている筈さ」
黄疸で黄色くなった顔を向けられて、青木は少し狼狽えた。
「・・・・そんなことないわよ。あなたは元気よ。手術は必ず出来るわ。悲観的になってはだめよ。いつも希望を持っていなくちゃ」
「ありがとう、青木さん。でもいいんだ。もし、手術できるとしても北岡君に譲るよ。少なくとも彼の方が元気になれそうだから」
「早田。ほんとに順番を譲ってくれるのか?」
被っていた布団を蹴脱いで北岡が叫んだ。
「ああ、いいよ。今日先生に会ったら伝えといてやるよ」
「ありがとう、ありがとう。早田、感謝するよ」
両手を合わせて哲雄を拝む。哲雄の目には、そんな北岡が哀れに見えた。けれど、誰だって命は惜しいのだ。ホントは哲雄だって・・・・。
「そんなのだめだと思うわよ。わたしは、できれば早田君も北岡君もみんな一緒に元気になって欲しいわ。でも順番は先生方が決めることよ。早田君もそんなこと言ってないで頑張らなくっちゃ」
「青木さん、邪魔しないでくれ。早田がいいって言ってんだ」
必死の表情で北岡が叫んぶ。
「わたしもう知らない。勝手にしなさい!」
青木は、口を真一文字に結んで病室から出ていってしまった。
(青木さんが怒るのは無理もないなあ。一生懸命やってくれているのに、せっかく慰めてくれているのに、ぼくたちは・・・・)
哲雄は、自己嫌悪に陥り、布団を目深に被った。
川田順二が死んだ日の午後二時、脳外の友田和幸は、職員食堂で遅い昼食を摂っていた。日替わり定食はとうに品切れと言われて、カツ丼にした。
(この病院の職員食堂は値段の割にうまい)
そう思いながら、カツをむしゃむしゃと頬張っていると、カレーライスを盆に乗せた森田が向かいの席に座った。
「やあ、友田先生。例の患者はどうです?」
スプーンでカレーをすくい上げながら尋ねた。
「ああ、森田先生。あの患者だろう? ダメだね。手の打ちようがないんだなあ。完全に脳死状態だよ。脳死と言うより、大事な部分がぶっ飛ばされてるんだからね。回診が終わったら、二度目の脳死判定だが、何回やっても同じだよ。あの子は回復の見込みがない。100パーセントね」
「頭を撃たれたんですね?」
森田が人差し指をこめかみに当てた。
「運が悪いよ。ただの通りすがりなのにねえ」
「流れ弾が当たったと聞いてますが」
「その通りなんだよ。狙われたやつは三発も食らっているのに、ピンピンしてて、もう飯を食ってるよ」
「ええっ、そうなんですか。皮肉なもんだなあ」
「あの子が受けた弾は一発なんだけどね。当たり所がねえ」
「気の毒に。・・・・使えるんでしょう?」
カレーを口に運びながら、窺うような表情で友田を見た。
「もちろん使えるよ。体の方はまったくの無傷だからね。ただ、まだ家族に話していないんだ」
「いつ話をするつもりなんですか?」
森田は福神漬けを口に入れた。甘酸っぱい味が口の中に広がった。
「脳死判定がすんだら、コーディネーターから家族に話して貰うことにしている。承諾がとれたら連絡するよ」
「お願いします。今朝も待機中の患者が急死しましてね。何とかしてやりたいので」
「分かった。夕方までには何らかの連絡をするよ」
「待ってます。よろしく」
カツ丼の残りをお茶で流し込むと、友田は回診が始まるからと言い残して、ばたばたと食堂を出ていった。
同じ頃、外科病棟のカンファレンスルームで、竹原は早田哲雄の両親を前にカルテのデータを示しながら説明をしていた。説明を始めてから、もう小一時間になる。
「・・・・というわけでして、大変心苦しいのですが、哲雄君の移植手術は無理な状況です」
「どうなるんです? 哲雄は」
青い顔をした哲雄の母親が、竹原の方に身を乗り出して尋ねた。竹原はこの母親が苦手だ。かなりヒステリックで、何度説明しても分かってくれない。母親とはそんなものかもしれないなとは思いながらも、この母親は、少しおかしいのではないかとさえ思いたくなる。
「どうしようもありません。このまま薬物療法、つまり薬の治療を続けるしかありませんね」
「薬物療法って、ただ薬を飲ませて死ぬのを待つだけでしょう?」
「そんなことはないです。うまくいけば、かなりもたせることができます」
「もたせるって、結局死ぬってことじゃないですか?」
「あ、まあ、移植しなければ、そうなってしまいますが・・・・」
「そんな! 先生はあの時、何とかなるっておっしゃったじゃないですか!!」
涙目になって訴える。
「わたしも何とかしてあげたかったのですが、ドナーが現れない限りどうしようもないのです」
「ドナーが現れれば出来るんでしょう?」
また堂々巡りの中に入ってしまった。竹原はもう諦め顔だ。
「だからですね、お母さん。もう、哲雄君の体の状況が移植を許さないのです」
「移植をしてください。お願いします、先生」
森田に向かって、まるで神仏に祈るように手を合わせた。
「お母さん。もし手術をしても肝臓以外の臓器もかなり機能が落ちていますから、回復できない可能性が高いのです」
哲雄の母親は尚も食い下がる。その鬼気迫る必死の形相に、竹原は思わず身を引いてしまう。
「じゃあ、必要な臓器を全部移植してください。それならいいでしょう」
「お母さん、そんなことは無理です。誰もやったことがないし、うまくいく筈がありません」
「お願いします、先生。哲雄を助けてください。お願いします」
とうとう泣き出してしまった哲雄の母親に、竹原は何と言っていいのか分からなかった。移植しても必ずしも成功するとは言えないが、移植しなければ先は見えている。医者として認めたくない敗北を口にしなければならない自分の気持ちも分かってくれ、そう言いたいのを竹原はぐっと堪えていた。
「母さん、先生が無理だと言っているんだ。諦めよう」
そんな哲雄の父親が発したひと言に竹原はほっとする。
「あなたはお腹を痛めていないからそんなことが言えるのよ!」
哲雄の母親は矛先を父親の方へ向けた。
「何を馬鹿なことを言うんだ。哲雄はわたしにとっても大事な息子だ。しかも一人息子なんだぞ。死んでいいわけがないじゃないか」
「だったら、あなたからも先生にお願いしてよ」
「おまえの気持ちも分かるが、ここまでもたしてくれたのは、先生のお蔭なんだから。移植なんてものがなかったら、とっくに諦めている所だろう? ここまでしてくれたんだ。もういいじゃないか。哲雄だって分かってくれるよ」
「いやよ、いやよ。あの子が死ぬなんて」
竹原がいるのも忘れたかのように、彼女は大粒の涙を流して泣いた。
「何も今すぐ死ぬって決まった訳じゃないよ。移植がだめなら、連れて帰って残りの時間を三人で過ごそう。なあ」
「先生、本当にもうだめなんですね。本当に・・・・」
「申し訳ないです」
「ああ、哲雄・・・・」
どうやら母親も諦めがついたようだ。竹原は漸く解放されるなと安堵の色を浮かべた。どうしようもないのだ。医学の限界なのだ。
「申し訳ない。ドナーさえもっと早く見つかっていさえすれば、助けてあげられたものを」
「先生、仕方がないですよ。先生のせいではありませんから。移植が出来ないのなら、哲雄を家に連れて帰りたいのですが、いいですよね」
「もちろんです。哲雄君のために、そうするのが一番良いと思っていました。わたしからもそれをお願いしようと思っていた所なんです」
「母さん、そうしよう。いいね」
「・・・・あああ」
母親は涙をぼろぼろ零して机の上に突っ伏してしまった。
「先生。お願いします。出来れば今からでも退院させてやりたいのですが?」
「いいですよ。早速婦長に連絡して退院手続きをさせましょう。薬もすぐに処方します。二週間ごとに病院まで連れてきてください。もし急に容体が悪くなったら、救急車でも何でも良いですから、連れてきてください。いいですね?」
「分かりました。じゃあ、手続きお願いします。今から哲雄に会いに行ってもよろしいですか?」
「結構です。哲雄君に退院の話をしていただけますか? もし、お父さんの方から言いにくいようでしたら、わたしが話しますが・・・・」
「いや、わたしの方から話しましょう。先生にこれ以上迷惑はかけられませんから」
「助かります。それではすぐに手続きをしましょう」
竹原は、父親の申し出にほっとした。この半年、一緒に頑張ろうと哲雄に言ってきた手前、移植できないなんて、どう言い出そうか悩んでいたからだ。
本当は自分が言わなければならないのに、逃げ出してしまった自分に多少後ろめたさを感じながら、ナースステーションにいる婦長に、早田哲雄の退院手続きをするように指示した。
早田哲雄の病室へ向かった両親の後ろ姿を見ながら、竹原は脱力感に襲われた。今日は少し早めに帰ろう。そう思いながら、カンファレンスルームに戻った。