あの大男が追いかけてくる。一生懸命逃げようとしているのに足が前に進まない。フェアレディZに乗った紗織がぼくのすぐそばを走りながら、無表情にぼくを見ている。おまえのせいだ。おまえが駆け落ちしようなんて言ったせいだ。それなのに何故助けてくれない。そぐそばのZに乗ろうとしたがどうしても乗れない。どうしてだ。大男の荒い息がすぐ後ろに迫ってきた。捕まってしまう。また殴られる。
恐怖におびえ頭を抱えたとたん、恵は目を覚ました。恵は堅いベッドの上に寝ていた。
(夢だったのか・・・・)
恵は権藤と一緒に来た大男に殴られて、気を失ったことを思い出した。
「痛ううう・・・・」
顔が腫れ上がってひどく痛んだ。わき腹や腰なども痛くて体がうまく動かせなかった。
「くそう。ひどく殴りやがって」
吐き出すように言って、着ていた服の上から痛むところを撫で回した。
(これは病人が着る服かな?)
恵はパンツとランニングシャツの上にダサいワンピースタイプで薄いブルーの病衣のようなものを着せられていた。
(ここは病院かな?)
ひどい怪我を負ってどこかの病院に入院させられているのかと恵は思ったが、部屋の中を見回してみてどうもそんな雰囲気ではないことに気づいた。
痛むわき腹を押さえながらようやくのことで起きあがって周りを見回してみた。ベッドは病院用らしいが、頭の方を上げ下げする機能もない最もシンプルなものだった。部屋の広さは四畳半くらいだろうか? 無味乾燥なコンクリートで覆われていた。
ベッドの足元の方に鉄製の大きなドアがあった。恵は立ちあがってドアに近づいてノブを回してみた。鍵が掛かっていてびくともしなかった。目の高さに鉄格子の入った横長の覗き扉があったが、内側からは開けることが出来なかった。まるで監獄のような部屋だと恵は思った。両手でドアをどんどんと叩いてみた。何の反応もなかった。
「おーい、おーい」
恵は力の限り叫んでみた。しかし、やはり何の反応もなかった。しばらくしてもう一度扉を叩いてみたが、結果は同じだった。恵は力を落としてドアを背中に座り込んだ。
ふと見るとベッドの枕元の方に、光の関係で見えにくかった場所にもうひとつドアがあるのに気がついた。走り寄ってノブを回すと今度はくるりと回った。喜んでドアを開けてみるとそこはトイレだった。洋式の便器があって、合成線維のカーテンの向こうはシャワールームになっていた。逃げ出せるような窓もなかった。
「紗織の父親に閉じこめられたみたいだ。ここはどこだろう・・・・」
恵は気を落としてトイレを出た。ベッドの上にばったりと倒れて天井を見た。
「あれ? あんなところに窓があるのか」
床から二メートル半ほどの高さに横長い窓があった。ベッドの上に乗って両手を伸ばすと窓の下枠に手が届いた。両手を窓にかけて懸垂の要領で体を持ち上げて外を覗いてみた。
窓の高さは十五センチくらいしかなく、羽目殺しの曇ったガラスが入っていて、しかもやはり鉄格子が入っていた。その窓から見えたものはどんよりと曇った空と雑木林だけだった。
がたりと音がしたので飛び降りてドアの方を見てみると、ドアの下の方にもうひとつ小さな扉があって、そこから食事の載ったトレーが差し入れられていた。
(誰かが外にいる!)
恵はベッドを降りてドアに駆け寄りドアをどんどんと叩いて叫んでみた。しかし、やはり誰も応えてくれなかった。
恵は差し入れられたトレーを見た。トレーに載った食事は、冷えかけた飯と味噌汁、煮魚と梅干しだった。
「こんなもの、食えるかよ!」
恵はトレーを足で蹴飛ばして、ベッドに戻って仰向けに寝転がった。天井を見上げながら、ここはどこだろう、ぼくをどうするつもりだろう、と思い巡らせた。
天井には申し訳程度に光る小さな蛍光灯が付いていた。
一時間ほど経っただろうか? 食事が差し入れられた扉が開いた。誰か人影が見えた。恵がベッドから立ちあがろうとしたときにはもう閉じていた。しばらくしてドアの鍵が開けられるガチャガチャと言う音がした。飛び起きると白い上下の服を着た男が入ってきた。顔を見るとあの岡山で恵を殴った大男だった。
「食事を粗末にするな」
男はひと言そう言うと、恵の顔を殴りつけた。その間に同じ服装をした男がもうひとりが入ってきて、散らかった食器を片付け、床を拭くと何も言わずに出ていった。
(あの男が居ると言うことは、やっぱり紗織の父親がぼくをここに閉じ込めたに違いない)
そう恵は確信した。
(あの男たちの服装は病院で見かける看護士の格好だよな。と言うことはぼくはどこかの病院の一室に監禁されているみたいだ。病院の一室? 権藤は医者なのだろうか?)
権藤の素性を知らない恵は、そう考えるしかなかった。
数時間たって、再び食事の載ったトレーが扉から部屋の中へ差し入れられた。腹がキュウッと鳴った。
(腹減ったな・・・・)
恵は腹が減っていた。お腹の皮が背中につきそうだと言う表現が当てはまるほど腹が減っていた。しかし、食事には手をつけなかった。ここが病院なら食事を摂らないで居たら、医者かだれかが助けてくれるだろうと思ったからだ。
(ひっくり返すとまた殴られるよな)
そう思って、毛むくじゃらの手が食事の載ったトレーを出し入れするのを恵はじっと見ていた。
トイレで水だけは飲んでいたが、三日もすると気力も体力もなくなって、一日中ベッドに横たわっていた。誰も助けには来てくれなかった。
ハンストをはじめて四日目の朝、朝食のトレーが指し入れられて一時間もしたころ、ドアが開いてあの大男が入ってきた。ベッドの上から男を見上げると、男の背後に紗織の父親・権藤の顔が見えた。
「西岡君、元気にしているかい?」
権藤はニヤリと笑った。
「元気にしているかどうかもないだろう。ぼくをこんな所に閉じ込めて! どういうつもりだ」
「ふん。君を紗織に二度と会わせない為だ。紗織はまだ君に未練があってね。探しに行こうとしたので、君に手切れ金を渡したら喜んで別れると約束して田舎に帰ったと言うとようやく諦めたようだ。二日ほど泣いていたがね」
「それならこんな所に閉じ込めないでもいいじゃないか」
「紗織は、さる有名な精神科の教授の息子との縁談が決まっていてな。紗織は処女だと言うことになっているから、君にのこのこ出てきてもらっては困るのだよ」
「ぼく以外にも男がいるだろう? みんな閉じこめるつもりか!」
「紗織はおまえが初めてだと言っていた」
「そんなことがあるもんか! あれで処女だったら、世の中の女はみんな処女だよ」
「紗織を侮辱する気か!」
怒りを露わにして、権藤は恵の頬を殴りつけた。
「紗織は処女だったんだ。それは間違いない。だからこそ、おまえと駆け落ちまでしたのだ」
恵は言葉に詰まった。紗織と恵が初めてベッドを共にしたとき紗織はあんな行為をしたけれど、もしかするとそうなのかも知れないと思った。
「わかったよ。金輪際出て来ないよ。だから、こんなところに閉じこめるのは止めてくれ」
「口約束では何の保証もない。この前だってそうだろう?」
そう言われて恵に返す言葉はなかった。
「わたしは失敗は二度と繰り返さない主義だ。それに不確実なことは嫌いでね。殺してしまうのが一番確実だが、わたしは医者だからひとを殺すのは気が引ける。だから、君を閉じ込めることにしたのだ」
「あんたは医者なのか?」
このとき恵は権藤が医者だと初めて知ったのだった。
「なんだ。知らなかったのか? 知ってるものとばかり思っていた。まあいい。いずれにしろ、君をここから二度と出すつもりはない」
「何だって!」
「紗織のためにしたことだが、こんなことが露見するとわたしの医者生命に関わるからな」
「そんな馬鹿な」
「ここはわたしの経営する精神病院の閉鎖病棟の中でもとくに重症の患者を収容する施設だ。外部には絶対連絡は取れないし、君は強暴な分裂病の患者ということになっているから、誰もこの部屋に近寄ったりしない。わたしたち以外はね」
「畜生! 出せ! 出してくれ!」
権藤に詰め寄ろうとしたが男に遮られた。男は恵より随分でかく、力が強くてとても敵わなかった。
「だめだ。もしわたしが先に死んでも、君は二度と外には出られないようにしてある。調べたところによると、君は天涯孤独らしいから、探す人間もいない。君はもはや死んだのと同じなんだよ。諦めるんだな」
権藤はにやりと笑って、ドアの方を振り向いた。出て行こうとする権藤に飛びかかろうとすると、恵は男にまた殴り倒された。ノブに手を掛けたまま権藤は振り向いた。
「そうそう、ひと言忠告しておこう。君はハンストをやっているらしいが、無駄なことは止めた方がいいよ。誰も助けになんか来ない。もっとも、君が早く死んでくれた方がわたしは助かるがね。私の手で殺すわけにはいかんが、自然に死んでもらうのは大歓迎だ。この施設には、身寄りのない患者や身寄りがあっても家族が二度と面会に来ないような患者ばかりが居てね。そんな患者が死んだときのために裏に共同墓地があるんだ。君が死んだら、そこに入れてあげるよ。もちろん無料でね。花も飾ってあげるし、墓石も上等なものを設えてあげるよ。はっ、はっ、はっ」
ふたりが出ていったあと、恵はベッドの上で悔しさで涙を流した。権藤を、そして紗織を恨んだ。紗織を恨むことなどないと思ったのに、紗織のせいにしたかったのだ。
ひとしきり泣いたあと、恵は決心した。
(死んだら終わりだ。生きていればチャンスはある)
そう決めると冷えて硬くなった食事を貪り食った。
(逃げ出すためには体力が要る)
そう考えた恵は、出された食事はすべて摂り、筋力を落とさないためにトレーニングを始めた。
腕立て、腹筋、背筋運動、スクワッド。ベッドを部屋の真ん中に移動させて、周りを一日中走りつづけた。まるで、ケ−ジに閉じ込められた二十日鼠がランニングホイールの中でくるくると走りつづけるように。
閉じ込められた日数を残すために壁につけた傷が増え3ヶ月が経過し、裏の雑木林の中に桜の花が見えるようになっていた。元々無精で伸ばしていた髪の毛がさらに伸びて肩まで掛かるようになり、ひげも伸び放題だった。
ある日、ふとトレーを差し入れる手を見てみると、その手はいつもの毛むくじゃらの手ではなくて、明らかに女の手と分かるか細い手だった。
(あの手は、看護婦かもしれない)
次の食事が運ばれてくるとき、恵はじっくりと観察した。
(やっぱりあれは女の手だ。看護婦に違いない。ずっとおとなしくしているから、油断したのかもしれない。今度女の手だったら助けて貰おう)
次の食事が運ばれてくる時間を見計らって、恵はドアの傍に隠れてトレーが差し入れられるのを待った。このとき、恵は自分が強暴な分裂病患者ということになっていることを思い出せば良かったのだが、看護婦に助けてもらいたい一心でそんな簡単なことに気がつかなかった。
恵はじっと息を凝らしてチャンスを待った。しばらくして、トレーが差し入れられた。あのか細い手だった。恵はその手を両手でしっかりと掴むと大声で叫んだ。
「看護婦さん、助けてくれ。ぼくは気が狂っちゃいない。権藤に閉じ込められているんだ。お願いだ、看護婦さん。助けてくれ」
看護婦らしい女は、恵の話なんか聞かないで、助けて、助けて、殺されると恵より大きな金切り声を挙げて騒ぐばかりだった。
「看護婦さん、お願いだよ。ぼくの話を聞いてくれ!」
その願いも虚しく、何分もしないうちにドタドタと足音がしてドアが開けられた。あの看護士が鬼のような顔をして入ってきた。
「おとなしくしているかと思えば、つけあがりやがって!」
そういうと、恵を殴りつけた。間をすり抜けて外に出ようとしたが、首筋を掴まれベッドに引き倒されて、蹴飛ばされ頭をぼかぼかと殴られた。
「止めて! 止めて!! もうしないから、止めて!」
「やかましい!」
殺される! そんな恐怖の中で恵は意識を失った。