第七章


 トニーが死んだと聞かされてから二日間、洋子は毎朝飲む薬以外には何も喉を通らなかった。一日中ベッドで泣いていた。
 (トニー、何故死んでしまったの)
 洋子は何度もそう繰り返した。あまりに突然のトニーの死に洋子は気が狂いそうだった。トニーの後を追って死のうと思った。だけど、権藤の死に顔を思い出したとき洋子は死ぬのを思いとどまった。無機物質と化した死体。もし自殺したら、司法解剖という名のもとに切り刻まれ、視姦されるだろう。洋子にはそれが怖かった。
 (それにあのとき、あのときは死ぬわけにはいかなかった。生き抜かなければならない目的があった。いまは生きる希望も目的なく、それかと言って死ぬ勇気もない)
 洋子は、ただベッドに倒れて涙を流すだけだった。

 トニーのお葬式は、近所の奥さんが数人来ただけの寂しい葬式で、トニーの両親は来日もしてくれず、遺骨を送れという電報が来ただけだった。いくら洋子が気に入らないからとしても酷い仕打ちだと洋子は涙を新たにした。
 結婚当時、英語の分からない洋子は、トニーの両親に苛め抜かれた。トニーがいなかったら、また気が狂うところだった。それ以来、洋子はトニーの両親には会っていない。もう二度と会うこともあるまい。会いたくもない。そう思っていた。
 トニーの遺骨は、その朝小包にして送ってやった。送る前に、洋子は骨をひとかけら取り出してすりつぶして飲み込んだ。これで、トニーは永遠にわたしと一緒にいられると洋子は思った。
 トニーのことを思うたびに洋子の体は熱くなった。洋子はよろよろと起き出して、ベッドサイドの引き出しから、バイブレーターを取り出した。
 権藤に出会う前、トニーがいないときに、自分を慰めるために使っていたものだ。裸になってベッドに横たわり、トニーを思いながら、バイブレーターを敏感な所へ這わせた。悲しみは消えないけれど、体の火照りは消えそうだ。バイブレーターを奥深く挿入すると、洋子は自分の胸をゆっくりと揉み続けた。小さな波が訪れ、次第に去っていくのを感じながら、バイブレーターのスイッチを切って、そのまま洋子は眠りについた。


 目を覚ますと、午前九時を回っていた。バイブレーターはまだ洋子の中にあった。薬を飲まないといけないなと思いながら気力が沸かなかった。スイッチを入れて、胸を揉みながら、このまま餓死したら、三面記事にデカデカ載るだろうな、こんなことはもう止めなきゃと洋子はぼんやり考えていた。
 玄関でチャイムの鳴る音がした。トニーが生きていたときでも玄関のチャイムが鳴ったことは滅多にない。ごくたまにトニー宛ての宅急便が来るくらいだ。誰だろうと思いながら、洋子はバイブレーターを体の中から取り出して枕もとに置き、ガウンを羽織って玄関へ出た。
 覗き穴から外の様子を確かめもせずドアを開けると、いつか来た刑事が立っていた。ついにわたしを逮捕に来たんだ。もうどうにでもなれと、自暴自棄になっていると、どうも態度がおかしいのに気がついた。
 「まだ、お休みでしたか、申し訳ありません。ちょっとお話しがありまして、よろしいですか?」
 洋子が態度を曖昧にしていると、刑事は許したと誤解してどんどんしゃべり始めた。
 「先日はあなたを犯人扱いにして申し訳なかったと思います。その後の調査で、権藤又三郎殺害事件は、アメリカの麻薬組織の仕業らしいことが判明しまして、お詫びとご報告に来た次第です。どうか許してください」
 洋子は、これはわたしを自白させる罠ではないかと疑い、刑事の目をじっと見てみたが、本当に詫びに来たらしいことがわかって力を抜いた。。
 「許すだなんて、もう過ぎたことですわ」
 「許していただけるんですか。ありがとうございます」
 少し白髪の混じり始めた中年の刑事は、洋子の前に深深と頭を下げた。
 (この刑事さん、年はいくつくらいだろう)
 洋子に変な興味が沸いてきた。
 (先日来たときには、顔をよく見ていなかったけれど、よくよく見てみると結構いい男だ)
 刑事の顔を見ながら洋子はそんなことを思っていた。
 「以前より、おやつれの様ですが・・・・。ご主人が亡くなったと聞きましたが、大丈夫ですか?」
 「・・・・大丈夫です。後追い自殺なんかしませんから」
 その時、刑事が何かを洋子に囁いたようだったが、そのあたりから急に洋子の意識がなくなり、気がついたら洋子は、ベッドの上で誰か男の背中を抱いて喘いでいた。あの、権藤に初めて抱かれたときと同じ状態だった。男が洋子の中で果てるのと同時に洋子も達した。
 (やはりバイブレーターとは違う)
 洋子は喜びに打ち震えた。目を開いてみると、男はあの刑事だった。
 「奥さん、すみません、すみません」
 そう繰り返すと、刑事は慌てたように服を着てバタバタと出ていった。もう一度して、とお願いしようと洋子は思っていたのに。
 枕もとの濡れたバイブレーターが目に入った。
 (彼はあれを見ただろうか)
 洋子の顔が恥ずかしさで熱くなった。


 やはりそうだった。間違いない。山岸は、洋子・オブライエンの家から飛び出すと駅に向かって歩きながら、考えをめぐらせた。
 山岸は怨恨説を諦め切れず、あれから権藤の日記を詳しく調べて、ここ二年間に出てきた九人の女性のうち、三人の身元を突き止めた。その三人に、権藤の写真を見せ、四種類の名刺を見せてみたが、三人ともきょとんとして、まったく知らないと答えた。三人が三人とも嘘を言っているようには見えなかった。山岸は、日記の裏表紙に小さく書かれてあった言葉を三人に聞かせたが何の反応もなかった。
 しかし、洋子・オブライエンは違った。山岸がキーワードを呟いたとたん。それまで疑るような刺すような目で見ていた彼女の態度が一変した。急に目がとろんとなって、まるで娼婦のような男を誘う目つきとなって、山岸の手を取るとベットルームへを引っ張っていったのだ。ガウンを脱ぐと一糸まとわぬ全裸だった。
 五年前に妻を亡くし、仕事一筋で女に縁のなかった山岸には、彼女の姿体は眩し過ぎた。初めて彼女に会ったときから好意のような感情を抱いていた山岸は、自分を押さえきれずに彼女と交わってしまった。
 弱みに付け込んで、その肉体を奪うなんて、警察官にあるまじき行為だ。強姦罪で訴えられても情状酌量の余地はない。そう後悔しながらベッドの中の彼女を思い出していた。彼女の下腹部には子宮摘出などの傷はなかった。彼女が権藤を殺す唯一の動機となり得るかもしれないものは完全に否定された。
 権藤精神科病院に勤める古い看護婦に聞いたところでも、退院時の洋子は、退院したくないと言って涙を流し、権藤の首に抱きついてキスをせんばかりにしていたという。そんな彼女に権藤に対する恨みなどある筈がない。彼女はたまたま権藤の餌食となった可愛そうな女性のひとりに過ぎない。それを確かめるだけのつもりが・・・・。
 山岸はある決心をして署へと戻った。


 刑事が帰ったあと、生きていれば何か良いこともあるだろうと洋子に少し生きる希望が沸いてきた。そう思い始めたら急に空腹感を感じ、冷蔵庫からレトルトのスパゲティーを取り出して、レンジで温めてがつがつと餓鬼のように食べた。こんなわたしを見たら、誰もわたしに言い寄らないだろうなと洋子はお腹の中で笑った。
 (笑ったのは何日振りだろう)
 食事を済ませると、洋子は散らかった家の中を簡単に掃除した。掃除が済むころには正午を回っていた。汗をかいたのでシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びながら洋子は午前中の刑事の言葉を思い出した。権藤の殺害は麻薬組織の仕業だと言った。もう手錠を掛けられる夢を見ることはないだろう。そう思うと自然と笑みがこぼれた。
 体を拭いているとまたチャイムが鳴った。下着を着る時間はない。ガウンを羽織ると洋子は玄関へ向かった。今度は、覗き穴から外を確認した。またあの刑事だった。今度こそ逮捕に来たかと思ったが、やはりそんな様子はない。どんどんとドアを叩き出したので、やむなくドアを開けた。
 「奥さん、何とお詫びをしていいか・・・・。重要なお話があるのです。中へ入れていただけませんか? いや、もうあのようなことは致しませんから。あなたにとって重要なお話なのです」
 刑事の切羽詰まったような、鬼気迫る言葉に押され、彼を中に招き入れた。もう一度あのようなことをされても良かったのだけれど、それは口には出さなかった。
 「どのようなお話ですの?」
 「これは殺された権藤又三郎の日記を調べていて分かったことです」
 洋子の秘密が何かわかったのだろうか? 洋子は戦々恐々としていた。
 「日記の中にどのようなことが?」
 「日記には、あなたを含め、百三人の女性と関係があったことが詳しく書かれてありました」
 「百三人もですか」
 ちょっと驚いたが、権藤ならそう言うこともあり得るなと洋子は思い直した。
 「そう、百三人です。全部偽名で書かれてありましたが、あなたの場合のように名前を特定できる手掛かりのある女性もありました」
 「わたしの場合は、どのようにして分かったのですか?」
 「JAFの記録からです。パンク修理のね」
 「ああ、なるほど。パンク修理の・・・・」
 「調査した範囲で三人の女性が特定できましたが、三人が三人とも権藤のことをまったく覚えていないのです」
 「覚えていない?」
 洋子は首を傾げた。不倫をしていてまったく覚えていないなんてことがあるだろうかと思ったのだ。それは至極当然のことだった。
 「そうなのです。彼女たちは日記に書かれている特徴とよく一致しますから、絶対間違いないのですが、頑として否定するのです。それも嘘を言っている様子はないのです」
 「そんなことが有り得るのですか?」
 「そこで、権藤の経歴を調べてみると驚くべきことが分かったのです」
 「なんですの?」
 「彼は催眠術の名手なのです」
 「催眠術?」
 「そう、それも後催眠と呼ばれるものが得意なのです。つまり、何らかの手段を用いて催眠状態に入らせたあと、暗示をかけるのです。言葉とか音など暗示となるものはなんでもいいのです。催眠状態を解かれた後でも、キーワードなりを告げると催眠状態に戻るのです。権藤の場合、餌食となった女性は、キーワードを告げられると否応なく彼に抱かれたと思われるのです。飽きると自分の記憶を消すような催眠術を掛けたのでしょう。だから、だれも権藤のことを覚えてないのです」
 「信じられないわ」
 そう答えたが、洋子には心当たっていた。
 「わたしも信じられませんでした。けれど、今日わたしはあなたにそれを試してみたのです」
 「えっ!」
 「日記の裏表紙にキーワードがありました。ほかの女性たちは、暗示の言葉を消されているのか、まったく反応がありませんでした。あなたの場合、権藤が死んでしまっていたから、暗示は消されていないだろうと思って、今朝、ここに来たとき試してみましたのです」
 だから洋子は目の前にいる刑事に抱かれてしまったのだと洋子は理解した。
 「酷いわ」
 「その通りです。わたしは酷い男です。だが、信じてください。初めはあなたと交わるつもりはなかったのです。あなたの反応を見るだけの予定だったのに、あなたの裸の姿を見て、自分を押さえ切れなくて・・・・」
 刑事は項垂れた。
 「初めからそのつもりだったに違いないわ」
 「誓って言います。初めはそのつもりはなかったのです。信じてください。奥さん、お願いです」
 「訴えてやる」
 「奥さんこの通りです。許してください」
 刑事は土下座をして許しを乞った。訴えるつもりなど爪の先ほどもなかったのだが、苛めてみたかったのだ。
 「奥さん、これで許してもらえるかどうか分かりませんが、さっき辞表を出してきました。ただ、奥さんの秘密は誰にも話していません。だから、どうかわたしを許してやってください」
 「それだけじゃあ、足りないわ」
 「どうしたら許してくれるのですか?」
 「こういう場合の男の責任の取り方はひとつしかないでしょう」
 「えっ?」
 「わたしと結婚してくださる?」
 「なんですって」
 洋子の要求に刑事は唖然として口を開けた。
 「奥さんがいるのなら、離婚して! 独身なら問題はないでしょう?」
 「五年前妻に死なれて、今は独身ですが、わたしのようなものでもいいのですか?」
 「どうするの? それとも刑務所に入る?」
 「奥さんがそれを望むのなら結婚しますが、本当にいいのですか?」
 「奥さんは止めて。洋子でいいわ。刑事さん、名前はなんて言うの?」
 「山岸ですが・・・・」
 「そうじゃなくて、下の名前!」
 「悟です」
 「じゃあ、悟さん、契約成立ね。契約を実行して。今から」
 「どうするんですか?」
 「他人行儀な言葉はもう止めて! さっきしないといった、あのようなことをするの。分かった?」
 「今から?」
 「そう、今から。お願い」
 褥の中で洋子は山岸の女性遍歴を問いただした。山岸は、ことし四十五になるという。奥さんが亡くなって以来五年間、忘れるために仕事に没頭してきて、女性の手も握っていないと洋子に告白した。ホントのところはそれは真実ではなかったのだが、洋子にとってはどうでもいいことだった。
 山岸の持ち物はトニーのものより小さく、権藤くらいだが、権藤と違うのは山岸が元気だということだ。洋子はすっかり山岸のことが気に入ってしまった。
 夕方まで、山岸はずっと洋子を愛し続け、洋子は何度も達してしまった。
 (これならバイブレーターは蔵の中にしまっておける)
 山岸の腕の中で、洋子は快い眠りに就いた。


 (権藤、あなたはあの時までわたしの信頼する大好きなひとだった。山岸が最初にわたしに会いに来たときに話したように、顔は忘れて思い出せなかったが、あなたのことを愛しているとさえ思っていた。辻田と名乗っていたあなたが権藤だと分かっても、むしろ喜んで関係を続けただろう。あのとき催眠術を使わなければ良かったのだ。そうすればわたしがあのこと、西岡ケイのことを思い出すこともなかったから、いまでもうまくやれていただろうに・・・・)
 権藤が洋子にかけた催眠術がきっかけとなって、洋子は、忘れてしまっていた閉ざされた記憶の中からあのことを思い出した。あの忌まわしい記憶を思い出した洋子は、憎しみに駆られ般若のようになって権藤を殺してしまったのだった。
 (殺されて当然だ。殺されて当然のことをした。だけど、いまはもう恨んではいない。むしろ感謝しているくらいだ。いまのわたしがあるのはあなたのお陰なのだから。二十年前にあなたが西岡ケイにした仕打ちの・・・・)