洋子にとってキャンプはとても楽しいものだった。トニーがどこからかレンタルしてきた大きなキャンピングカーに乗って、ふたりは軽井沢のオートキャンプ場を訪れた。
トニーは、洋子と結婚して以来ずっと、三ヶ月に一度はいろんなところへ連れていっていた。専業主婦で買い物以外ほとんど外に出ない洋子にとって、息抜きのチャンスなのだった。しかし、トニーが連れて行くからこそ外に出かけるだけで、実際には洋子は一日中うちにいてもぜんぜん苦にはならない人間だった。
キャンプの間、トニーは洋子に何もさせず、料理や追加の買い出しなどすべてをしてやった。せっせと働くトニーの横顔を見ながら、洋子は幸せを噛み締めていた。手錠を掛けられる夢さえ見なければ・・・。権藤を殺して以来、洋子は毎日のように警察官から手錠をかけられる夢を見ていたのだった。
キャンピングカーの中にはセミダブルくらいのベッドがあって、ふたりは毎朝毎晩愛し合った。このままずっとこうしていたいと念じながら洋子はトニーの腕に抱かれていた。
三泊四日のキャンプも終え、いつもの日常に戻った。洋子が殺人を犯してから早や一週間が経った。
洋子が庭の花壇に水を遣っていると、玄関先に黒塗りのセダンが停まった。車からふたりの男が降りてきて玄関のチャイムを鳴らした。一番恐れていたことが起こるのだろうかとの恐怖に怯えながら、洋子はできる限り平静を保ってドアを開けた。
「新宿西署の山岸といいます。トニー・オブライエンさんのお宅ですね」
「そうですけれど、何か・・・・」
「ご主人はご在宅でしょうか?」
「主人は、今朝から出張で、もう出かけましたが」
「あなたは、オブライエンさんの奥さんですか?」
「そうですけれど・・・」
「お名前は?」
「洋子と言いますけれど」
「洋子さんですね。奥さん、突然で悪いのですが、二,三質問にお答えいただけますか?」
「何か事件でも起きたのでしょうか?」
「いや、大したことではないんですけれどね。ええと、昨年の十二月二十二日、藤並通りで、JAFを呼んで車のパンク修理をなさいましたね」
権藤と出会った日のことだ。やはり権藤のことで来たんだと洋子は覚悟を決めた。
「ええ。パンク修理はして頂きました。日付けははっきり覚えておりませんけれど、クリスマス前だったのは確かですわ。それがどうなさいました?」
自分でも不思議なくらい平静な返事が口から出てきた。
「奥さん、権藤又三郎という人物をご存知ですか?」
「いえ、存じ上げませんけれど・・・・」
「確かですね? 権藤又三郎ですよ」
「権藤さん? 権藤さんですね。・・・・そういえば、むかしお世話になった病院の院長先生のお名前が権藤といいますけれど、又三郎とおっしゃっていたかどうか・・・・」
「その先生に最近お会いになりましたか?」
「退院してから一度もお目に掛かっておりませんわ。そろそろ二十年も経ちますから、お顔も忘れましたわ」
「そうですか。・・・・それでは、辻田徹という人物はどうです?」
「辻田さんなら存じてますわ。そのパンク修理のときにお世話になった方です。携帯でJAFを呼んでいただいて、お陰で助かりましたわ」
洋子は感謝しているという表情を浮かべて見せた。
「その後、辻田さんとお付き合いは?」
「・・・・いえ、その時だけですけれど・・・・」
ここは隠さない方がいいと即座に判断した。刑事はわかっていてここへ来ているのだからと洋子は考えたのだ。しかし、簡単に答えても帰って疑われる。曖昧にした方がいいのだと。
「奥さん、嘘をつかれては困りますがねえ。辻田さんの日記に奥さんのことが詳しく書かれているんですけどねえ」
思った通りだと洋子は自分の筋書き通りに運んでいることにほくそ笑んだ。
「・・・・あのう。中にお入りになっていただけます? ご近所に聞かれたくありませんから」
「ああ、気がつきませんで。それではお邪魔します」
「コーヒーお飲みになります?」
「遠慮なくいただきます」
コーヒーを入れながら洋子は考えた。
(わたしを逮捕に来たわけではないらしい。刑事は辻田の日記と言った。権藤の日記だろう。日記があるなんて思ってもみなかった。権藤の日記からわたしを割り出したんだろうが、とりあえず計画通りの話をしよう。落ち着いて、落ち着いて、証拠は何ひとつないはずなんだから)
そう自分に言い聞かせながら、コーヒーをふたりの刑事に差し出した。
「辻田さんとのご関係は?」
「話さないといけませんでしょうか?」
「話していただいた方がいいと思います。もし隠し立てなさるようでしたら、署までご同行願わねばならなくなるかもしれません」
「主人には絶対内緒にして頂けますでしょうか?」
「もちろんですとも」
「・・・・パンク修理でお世話になったひと月くらいあとに偶然お会いしまして、お食事に誘われて・・・・。ちょうど主人が出張でいなかったものですから・・・・。アルコールのせいで、その夜、辻田さんと関係を持ってしまったのです」
洋子は顔を両手で覆って涙を流した。洋子は自分でもこれは最高の演技だと思っていた。山岸と名乗った刑事は、洋子の肩に手を置いて優しく続けた。
「奥さん、その後も何回か辻田さんと会っていますね」
「脅されたわけではないんですけれど、主人に知られるのが怖くて、ずるずると・・・・」
「そうですか。ところで奥さん。その辻田さんが、亡くなったのはご存知ですか?」
「ええっ、亡くなった? いつのことですか?」
せいぜい驚いて見せた。
「先週の金曜日です。正確に言うと殺されたのです」
「殺された。どうして? どうしてなんですか?」
「それを捜査中なのです。だから関係者を調べています。奥さんもそのひとりです」
「わたしじゃありません。わたしは辻田さんのことが好きだったのです。愛していたのです。主人に不満があった訳ではなかったのに・・・・。こんなこと言っても信じて頂けないとは思いますけれど・・・・」
「その辻田さんが権藤又三郎さんだったということはご存知ですか?」
「ええっ! そんな。わたし、名刺を頂きました。主人に見られるといけないので処分しましたけれど。D医科大学の助教授をされているといってました」
「辻田徹は偽名です。権藤又三郎が彼の本名です。権藤精神科病院の院長をされていました」
「権藤精神科病院の院長先生。だから・・・・」
「どうされました?」
「わたし二十年ほど前、ある病気で権藤先生の病院に入院しておりました」
「それで?」
「院長先生の顔は思い出せなかったんですけど、院長先生のことが大好きだったことは覚えているんです。死ぬほど好きだったんです」
「ほう」
「不思議だったんです。辻田さんに出会ったとき、どうして惹かれてしまったのかが。それで理由が分かりました」
「なるほど。若いころ憧れていた先生にそれとは知らずに声を掛けられたから、簡単に体を許してしまったのですね」
「・・・・はい。そうだと思います」
「先週の金曜日、辻田さん、いや権藤さんと会う約束をなさいましたね」
当然聞かれると思っていたから、洋子は疑われないようにして答えた。
「・・・・はい、新宿の新宿北洋デパートの隣にあるカラオケボックスで」
「新宿北洋デパートの隣のカラオケボックスですか?」
「はい」
「間違いないですね?」
「はい。店の名前ははっきり思い出せませんけれど、新宿北洋デパートの隣にある五階建てのビルです。午後三時に待ち合わせをしておりました」
「海王ホテルではないんですね」
「海王ホテル? いえ、違います」
「そうですか。それでは、先週の金曜日のあなたの行動を教えていただけますか?」
ここらかは刑事を騙せるか賭だと洋子は思っていた。何度も復唱して覚えていたストーリーを話し始めた。
「分かりました。先週は土曜日から主人とキャンプに出かける予定でしたので、その準備も兼ねて少し早めに家を出ました。お昼ちょっと前に出て、新宿北洋デパートに着いたのは午後一時過ぎだったと思います」
「午後一時過ぎですね」
「はい。車を駐車場に停めて、キャンプに着ていくジーンズを買いに行きました。六階か七階だったと思います。裾上げを頼みましたら、三時に仕上げて頂けるというので、店の中をぶらぶらしていました」
「どこかほかの店には寄らなかったのですか?」
「ほかには寄っていません。食料品の買い出しは後回しにしましたから。食料品の入った袋を下げて会いに行くわけにもいきませんし、車に置いておけば傷むような気がしましたので。・・・・あっ、そうそう、ジーンズショップを出てから、一階か二階下に降りて、プチ何とか言うお店で、ネックレスを買いました」
「ジーンズショップの一階か二階下のプチ何某という店ですね。それから?」
「そのあとはほかの店には寄っていません。ぶらぶらしていただけです。三時少し前になって、ジーンズショップに伺ったら、出来あがっていて、受け取るとすぐに隣のビルに向かいました」
「なるほど。それから?」
「カラオケボックスの受付に聞きましたら、辻田さんは、いえ権藤先生でしたね、まだ来ていないとおっしゃるので、部屋で待たして頂きました」
「予約はどちらの名前で?」
「予約は青田という名前で入れていました」
山岸という刑事ともうひとりの若い刑事は顔を見合わせた。
「青田ですね」
「はい。部屋の中で三十分くらい待ちましたけれど、お見えにならないので、受付の男の子に伝言を頼んで、店を出ました」
「伝言は何と?」
「正確には思い出せませんけれど、青田さんへ、お見えにならないので、帰ります。午後三時四十五分、J、と書いたメモを渡しました」
「午後三時四十五分ですね」
「はい。正確ではないとは思いますが」
「Jとはどうしてですか? 奥さんのお名前は確か洋子さんでしたよね」
「はじめてお会いしたときから、何故か惹かれる自分が怖くて・・・・。だから、純子って偽名を使っていました・・・・。だからJと」
「これまで、今回のように、すっぽかされたことはありますか?」
「お忙しい方ですから、ときどき来られないことがありました。遅れて来られることもあったのですが、あの日は、わたしの方が時間がなくて、会えずに帰りました」
これは嘘だ。権藤が約束して来なかったことや遅れたことなど一度もなかった。しかし、こう証言しておかなければ、不審に思われるからだ。
「それからどうしました?」
「新宿北洋デパートに戻って、地下の食料品売り場で食料品を仕入れて帰りました。家に戻ってきたのは午後五時くらいだったと思います」
「分かりました。ご協力に感謝します。最近のあなたの写真を一枚お借りできますか? それと、また二,三お聞きしなければならないことがあるかもしれません。遠方にお出かけになるときには、ご一報下さい。わたしの名刺をお渡ししておきます」
「主人には、主人にはくれぐれも内密にお願い致します」
洋子は涙目で頭と床にこすりつけた。
「分かっております。個人のお付き合いに干渉するつもりはありませんから、ご安心下さい。それでは、コーヒーごちそうになりました」
刑事たちは疑う様子もなく帰っていった。
(ざるのようなアリバイだが、どうなるだろう。なるようにしかならない。警察があれだけの短時間にわたしが権藤を殺すことができたと考えるかどうかだ)
不安が洋子の胸に押し寄せてくる。どうなるのかじっと待つことにして、洋子はトニーの帰りを待った。
(トニーが忘れさせてくれる。あの間だけはすべてを忘れられる)