第一章


 クーラーの音がかすかに聞こえる。閉め切られたカーテンの裾がクーラーから吹き出された冷風に揺れている。女は揺れているカーテンから視線を時計に移した。時計の針はあれから1分すらも進んでいないように思えた。
 女は視線をさらに自分の横へと移動させた。女の目の前に男の顔があった。顎髭は丁寧に剃られていたけれど、一本だけが長く残っていた。
 女は男の顔をジッと見つめた。男の顔はすでに土色に変化し始めていた。見開かれた男の目には光はなく、人形のように虚ろだった。男は『ひと』から『死体という物体』へと急速に変化しつつあった。テレビなどで見る死んだ振りの死体とは違う、本物の死体に。
 女は視線を顎から喉元に移動させる。そこには古びたナイフの柄が見える。その柄は男の首から生えているように見える。ナイフの付け根から赤黒い血液が流れ出て凝固し始めていた。
 女は、どうしてそんなところにナイフが刺さっているのだろうかと思った。そう思ったけれど、そのナイフをそこに突き立てたのはその女自身だったことを思い出す。
 そう。女はたった今その男を殺したのだ。女の小さな手のひらの中に隠れるようなナイフで、ひとはこうもたやすく死ぬものなのだと女は不思議な感慨を覚えていた。
 女の顔が歪んだ。自分のしたことが急に怖くなったのだ。男の顔から目を背け、女はゆっくりとベッドから起きあがった。まだ半分勃起したままの男のそれが、女の中から抜け出たのを女は他人事のように思っていた。
 女はベッドの抜けだし、バスルームへと向かう。男がこの世で最後に放った体液が女の中から溢れ、内股をゆっくりと伝い落ちていった。
 女はバスタブの中は入り蛇口をひねる。冷たい水がかかり、半覚醒の女の思考を一気に現実の中へと引き戻す。次第に熱くなっていくシャワーを浴びながら、ほんの十五分前にこの部屋の中で起こった出来事を女は思い出していた。


 「ああっ、ああーっ。いいっ。いいわあ」
 女は、両手でシーツをぎゅっと握り締め、上半身を捩る。快感の波がゆっくりと女を飲み込んでゆく。男が両腕で女の太腿を抱いて女の秘陰にゆっくりと舌を這わせていた。男の舌が襞のすみからすみへと這い回り、おそらく包皮の中から顔を覗かせて硬くなっているだろう女の敏感な部分に遠慮勝ちに触れるたびに、階段を一歩一歩昇るように女は絶頂へと向かって行った。
 女は気が狂わんばかりに髪を振り乱し、叫び声ともつかぬ声を上げ続けた。最初の快感の大きな波が女を飲み込んだのを見計らったように、男の舌が女の股間を離れ、下腹部から胸へと移ってきた。男のの固くなったものが、女の右の膝から太腿へとぴょんぴょん飛ぶように触れてゆく。女はそのまま自分の中へ入ってくることを期待していたのに、男は女の唇に軽くキスをすると、女の横にばたりと仰向けに倒れた。
 「お返しをしてくれるか?」
 男は女の顔は見ずに天井を見たまま要求した。
 「いいわ」
 女は体を起こし男の股間に顔をうずめると、男の硬く怒脹したものを口に含んで、ゆっくりと舐め始めた。
 (可愛いわたしのフランクフルトちゃん。夫のものより一回りほど小さくて硬さも劣るのに、わたしはこの男とするときの方が何故かより一層感じてしまう。彼のテクニックなのだろうか? それとも夫とのセックスがマンネリ化しているせいだろうか? 不倫しているという罪悪感がそうさせるのだろうか? ・・・・分からない)
 そんなことを思いながら、女は男の硬くなったものを舐め続けた。カリの部分やひもの部分を舌で触れると男の体がぶるっと震える。男が感じているのを少し醒めた面持ちで観察しながら、女はなおも舐め続けた。冷めかけていた女自身も再び燃え始め、女の股間は気持ちが悪いほどびしょびしょに濡れてきた。
 いつもなら、女の方から「お願い! もう入れて!」とせがむのに、今日は男を少し焦らしてやろうと、自分からは言い出さないと女は心に決めていた。指でゆっくりしごきながら、袋を舐め始めると男が降参するように言った。
 「純子! もう止めてくれ。出てしまう」
 喘ぎながら、男は腰を引こうとする。
 「あら、出してもいいのよ」
 女は離さない。
 「馬鹿なことを言うな。わしが二度も三度もできないことは知っているだろう。わしはおまえの中に出したいんだ」
 ここでも女はまだ焦らせることにした。
 「分かったわ。でも早く入れさせてって、お願いして下さる?」
 「いつもの仕返しか? 意地悪しないでくれ」
 「どうなさるの? 早く言って!」
 今度男が期待通りの返事をしなければ、女の方が入れてと言ってしまいそうだ。
 「分かった。お願いだよ。早く入れさせてくれ」
 勝った。でも、もう一押しと女は心の中で思う。
 「もっと、心を込めていただかないと」
 「純子! 降参するよ。お願いだ」
 「ふふふ。じゃあ、いいわ」
 言葉とは裏腹に、女の心は嬉しさでいっぱいになる。
 「上になってくれるか?」
 「ええ、仰せのままに」
 女は男に跨ると、男のものを入り口にあてがい、ゆっくりと腰を沈めた。すぐに男が下から突き上げてきた。男との会話の途中でほとんど昇り詰めようとしていた女は、すぐに達してしまった。
 「しまった。騙されてしまったな。もう少し我慢するんだった。おまえは悪い女だ」
 力が抜けて人形のようになって男の腰の動きに合わせている女の胸を掴むと、男は荒々しく揉み始めた。
 「ああー。いいわ。またいきそう」
 「そんなにいいか? それじゃあ、ちょっとお休みだ」
 「だめよ。止めないで」
 「さっきのお返しだ」
 「いいわよ。自分でするわ」
 女は膝を突いて腰を上下左右に動かし始めた。そうすると、まるで女が男を犯しているような錯覚に女は捕らわれていた。しばらくすると男はにやにやしながら、女の腰の動きに合わせて腰を動かし始めた。脳天を突き抜けるような刺激が女を貫いて、女は辻田の胸の中に倒れこんだ。
 「やれやれ困ったお嬢さんだ。わしはまだいってないぞ」
 「ちょっと待って。ちょっとだけ」
 女は男に跨ったまま、唇を合わせた。舌と舌を絡ませ合いながら、女は枕の後ろに隠していたものに手を伸ばした。
 (チャンスは今だ。これ以上良いチャンスはない。今日ほど条件の揃った日はない。そのために準備してきたのだ。やろう)
 女がそう決心したとき、男の腰の動きで、女は挫けそうになる。
 (終わってからじゃいけないかしら。こんなに気持ちが良いのに)
 (馬鹿を言わないで。時間がないのよ)
 (そうよ。時間がないのよ。三時までには戻らなきゃいけない。早く事を済まさなければ)
 女はは意を決して、隠していたものを握り締めた。
 「辻田さん」
 「何だい」
 「だめ、止めないで答えて」
 「分かった」
 男は、ゆっくりと腰を上下させながら、女の乳首を指で摘まんで刺激し始めた。女は挫けそうになりながら話を続けた。
 「辻田さん、西岡ケイって子、覚えている?」
 「西岡ケイ?」
 男は首を傾げた。
 「そう、西岡ケイ」
 「・・・・・・覚えんなあ。どこの女だ?」
 「女じゃないわ。男よ」
 「男? うーん」
 思い出せないはずはないのに、どうしてと女は思っていた。
 「恵って書いて、ケイって読むの。覚えているはずよ。・・・・・・止めないで! もっと突いて」
 「そんなこと言ったって、考えながらするなんて男には無理な話だな」
 「激しくなくて良いから、動かしていて」
 「分かった。しかし、思い出せんなあ。西岡ケイ? 誰だったかな」
 動きが止まる。女は自ら腰を上下させながら言葉を続けた。
 「ずっと昔。二十年くらい昔の話なんだけど」
 「二十年前? ・・・・まさかあの男のことか?」
 「思い出した?」
 「あの男の名前がそうだったような気がするが・・・・」
 「あなたのお嬢さんの紗織さんと駆け落ちした男よ」
 「やっぱりそうか。しかし、何故おまえがあの男の名前を知っているんだ?」
 男の動きが完全に止まった。女をじっと見つめている。
 「分からない?」
 「分からん。何故だ? 純子」
 「純子は本名じゃないわ。わたしの本名は洋子よ。これで分かった?」
 「洋子? ・・・・まさか。あの洋子か?」
 男の目が見開かれた。
 「そう、あの洋子よ。思い出してくれたかしら、辻田さん。いえ、権藤さん」
 そう言い終わらないうちに女は手にした果物ナイフを両手で握ると、渾身の力をこめて男の喉仏の下にある窪みに突き立てた。
 果物ナイフは、皮膚を切り裂き、骨にあたってがりがりと音を立てながら、根元まで突き刺さった。男の腕が女の両手に伸びてナイフもろとも引き離そうとした。女は体重のすべてをかけてそれに抵抗した。争っているうちに男の体が後ろに仰け反って痙攀し始めた。その刹那、女の中にあった男の怒脹したものがびくっ、びくっと震え、女は達してしまった。
 (いけない・・・・)
 女の手から力が抜け、ナイフの柄から手が離れてしまった。女はナイフを握りなおそうとする。しかし、力が入らない。けれど女の心配は危惧に終わった。男は既に事切れていた。女は男の胸の上に倒れこんでほんの少しの間まどろんだ。


 ここは新宿にある海王ホテルというシティーホテルの一室。フロントを通らなくても部屋に行けるということから、逢い引きや売春に使われることで有名なホテルだ。
 殺人劇が行われたこの部屋は、殺された男・辻田こと権藤が、青田という偽名で予約し、午後一時にチェックインしていた。
 殺人者である女・洋子は、茶髪のセミロングのウイッグを被り、ピンクとグレーの細かい横縞の入ったタンクトップに真っ赤なミニスカート、黒のストッキングに、真っ赤なハイヒールといういでたちで、紫色のアイシャドウに真っ赤な口紅をしてサングラスを掛けて、地下街を通ってこの部屋にやってきた。洋子を見かけた人物がいるとすれば、売春目的でその部屋にやってきたと思うだろう。
 洋子は、持ってきたバッグを開いて、中からビニール製の大きな買い物袋と着替えを取り出した。着てきた衣服をすばやく畳み、床の上に落ちていた黒のショーツとブラ、ウイッグ、ハイヒールをその中に詰め込んで、バッグの中に押し込んだ。さらにそのバッグを買い物袋の底に入れて、シャワーのあと体を拭いたバスタオルを畳んで被せておいた。バスタオルには髪の毛が絡み付いているから、残しては置けないのだ。
 取り出したコットンの白のショーツ、ブラスリップ、薄いベージュのパンティストッキングを身につけ、ベージュの地味な半袖のワンピースを着ると、バスルームに戻っていつもの薄化粧を手早く施した。
 髪を梳かして、バスルームに散らかった髪の毛を拾い集め、バスの排水溝に溜まった髪の毛までも取り出してトイレに流した。
 ベッドに戻ると権藤は完全な無機物質に変わっていた。枕に洋子の髪の毛が三本ほどあるのを見つけて、洋子は再びトイレに戻り流した。洋子はこの部屋に入ってきたときから指紋を残さないように気を付けていた。さらに触った可能性があるところを丁寧に拭き取っていった。
 買い物袋を抱え、ベージュのロウヒールを履くと、洋子は部屋の入り口に立ってもう一度やり残したことはないか確認した。洋子がいた痕跡はまったくないといってよい。よしと大きく頷くと、洋子はドアをそっと開けて廊下に誰もいないことを確かめ、そろりと外へ出た。
 「権藤さん、短い間だったけど楽しませていただいたわ。二十年前のことがなかったら、わたしたち、ずっとうまくやれていたでしょうにね」
 そう心の中で言い残して、洋子は部屋をあとにした。


 洋子は裏階段を昇ってレストランのある最上階へと向かった。最上階へ辿り着いてドアを少し開いて見た。幸い誰もいない。洋子はドアを開いて最上階へと滑り込み、後ろ手にドアを閉めた。
 廊下をまっすぐ進むとレストランに行き当たる。途中で左に折れるとエレベーターホールだ。昼食時間を過ぎているせいか、洋子は誰にも出会わずにエレベーターの前に着いた。
 チンと音がして、すぐにエレベーターのドアが開いた。誰も乗っていないと思ったのに、数人の男女が降りてきて洋子は少しびっくりした。しかし、レストランから出て来たように装って、入れ替わりにエレベーターに乗り込むと地下二階のボタンを押した。
 途中で厚化粧をした女が乗ってきた。さらにもう一度エレベーターが停まり、若いカップルが乗ってきた。他人が乗っているのにいちゃいちゃして、そのうちキスし始めた。見ているこちらが恥ずかしくなると洋子は顔を背けた。
 カップルはロビーで降りたが、厚化粧の女は洋子と一緒に地下二階で降り、そそくさと地下街へと消えていった。
 (カップルはわたしのことを気にも掛けていないようだったし、厚化粧の女は後ろめたそうに顔を隠していたから、不倫か売春でもしていたのだろう。わたしのことを証言される恐れは少ない。わたしだって彼らの顔はもう覚えていない)
 洋子はフウと大きな息を吐いた。急いでホテルを離れたいという気持ちを押さえ、周りの人間に合わせて新宿北洋デパートというデパートへ向かった。

 新宿北洋デパートの七階までエスカレーターで昇って、洋子はジーンズショップの店員に声を掛けた。
 「あのー、もう仕上がってます?」
 「ああ、奥さん。もう出来てます。ちょっとお待ち下さい」
 店員は店の奥に行って、ごそごそと探している。二,三分すると紙包みを抱えて洋子の方へやって来た。
 「オブライエンさんでしたね」
 店員はオーダー票を確認しながら洋子に言った。
 「はい、そうです」
 「お約束通り、ちゃんと仕上げておきましたよ。三時ぴったりでしょう? 奥さん美人だから、超特急で仕上げましたよ。また、お願いします」
 若い店員は、ぴょこりと頭を下げた。
 「まあ、お上手ね」
 「明日のキャンプ、楽しんでください。どうもありがとうございました」
 「お世話になりました。ありがとう」
 「またお願いいたします」


 ジーンズショップを出て、エスカレーターで地下二階の駐車場へ直行し、洋子は停めてあった車のトランクにふたつの袋を放り込む。すぐさま、トランクの中に置いていったハンドバッグを持って新宿北洋デパートの隣のビルへ向かった。

 そのビルは全体がカラオケボックスになっていて、純粋にカラオケを楽しむ人たちも多いが、あのホテルと同様、不倫や売春の場としても利用されているという。
 受付では黄色に髪を染めた若い男が気だるそうにテレビを見ていた。
 「あのー、三時から予約を取っている青田ですけど。連れはもう来てますか?」
 「青田さんね。ええっと。予約は入っているけど、まだ誰も来てませんね」
 「じゃあ、先に部屋に行ってていいですか?」
 「使用料、前払いで三千円です。今日は予約で一杯だから、四時前には終了してください。延長はなしです」
 「分かったわ。三千円ね。それじゃあ、ハイ、ちょうど」
 「ハイ、確かにいただきました。部屋は303号。そこの階段を昇るか、エレベーターでどうぞ。ハイ、部屋のキーです」
 受付の男から部屋のキーを受け取ると、洋子はエレベーターに乗って三階に昇り、303号室のカギを開けてソファーに腰掛けた。
 洋子は部屋の中を見回す。部屋はカギを掛けると密室になる。ソファーが両サイドと奥の方の三ケ所にあるのだが、奥のソファーはベッド代わりになりそうなくらいの大きさがある。念の要ったことにティッシュまでが置いてある。さすがにコンドームは見当たらない。ただ廊下の突き当たりに、それらしい自動販売機が置いてあったような気がすると洋子は思い起こしていた。
 洋子は腕時計を見た。
 (まだ、三時十五分を回ったばかりだ。ここに着いたのが三時八分。十分も経っていない。あと何分ここにいようか? こんなアリバイ工作が役に立つのだろうか? 穴だらけのアリバイが。いや、完璧過ぎるアリバイは、かえって怪しまれる。少し疑われるくらいがちょうどいいのだ)
 洋子はじっと我慢することにしてソファーに寄りかかった。


 洋子が新宿北洋デパートの地下駐車場に車を停めたのが、午後一時五分ごろだった。今洋子が着ている地味なワンピース姿で七階まで昇り、ジーンズショップに行くと、カーキ色のジーンズを買い求めた。
 裾上げを頼むと三日後の仕上がりだというので、明日キャンプに着て行きたいからと無理を承知で頼み込んで、三時に受け取ると言う約束を取り付けて店を離れた。
 以前の経験からジーンズの裾上げはその日にはできない筈だった。それなのに無理に頼み込んだのは洋子がその時間にその店にいたことを印象付けるためだった。
 三時にはカラオケボックスで待ち合わせをしていたというアリバイを作る予定だったから、別に三時に受け取る約束をしなくても良かった。ただ、カラオケボックスの受付は当てになりそうもなかったから、三時に仕上げてくれるという店員の言葉に洋子は内心ほくそえんだ。
 ジーンズショップを離れると洋子は五階の「プチ・ママ」というアクセサリーを扱う店に寄った。この店のオーナーは、たいして印象付けなくても、店に来たお客がいつ来たか驚くくらいよく覚えているという話を近所の奥さんから仕入れていたからだ。そこで洋子は細いゴールドのそう高くないネックレスを一本買った。
 「プチ・ママ」を出たのが一時四十分。洋子は急いで駐車場に降りると、車の中でワンピースを脱ぎ、あの娼婦のような服に素早く着替えた。さらにストッキングを穿き替え、ウイッグをかぶって手早く厚化粧をし、二時に会う約束をしていた海王ホテルへ向かった。
 権藤の待つ部屋に着いたのが午後二時二分。部屋を出たのが午後二時三十七分だった。たった三十五分間によくもまああれだけのことが出来たと洋子自身ビックリするくらいだ。


 権堂の死に顔を思い出して気分が悪くなった。時計を見ると三時四十分を回っていた。洋子は立ち上がって部屋を出て、受付へ降りていった。
 「すみません。連れが来ないので、もう帰ります。伝言頼んでいいですか?」
 「いいけど、忘れるかもしれんよ」
 「じゃあ、メモ書いておきますから、渡していただけますか?」
 「それも保証できないけどね」
 「忘れないでね。お願い。青田さんよ。ア・オ・タ」
 洋子は、男にメモといっしょに駄賃代わりの千円札を三枚渡すと店を出た。メモには「青田さんへ、いらっしゃらないので帰ります。連絡待っています。3:45PM。J」と書いておいた。
 Jは純子のJ。純子は、権藤に会うときの洋子の偽名だ。権藤も洋子に辻田と名乗っていた。青田は権藤がたまたま今日の予約のために使った偽名だ。
 当初は海王ホテルではなく、このカラオケボックスを予約していた。権藤に海王ホテルの方が良いからと変更させて、こちらは計画のためキャンセルしないでおいたのだ。
 万が一洋子と権藤が今日会う約束をしていたことが警察などに知られた場合を考えて、ここで待ちぼうけを食わされたことにしようというアリバイ工作のために。
 このカラオケボックスは出入り口が一箇所しかないから、この時間のアリバイは確実だろう。
 (ただ、あの受付の男の子がきちんと覚えてくれていれば、・・・だが)
 洋子は祈るような気持ちでカラオケボックスを振り返った。


 新宿北洋デパートに取って返すと、地下一階の食料品売り場に直行し、翌日ののキャンプに使う食料品などを買いこんで、車に乗って自宅に戻った。
 洋子が帰宅したとき、時計は午後四時五十五分を指していた。洋子の夫はまだ帰っていない。洋子の夫の帰宅は早くても六時過ぎだ。
 洋子は、夕食の準備をしながら、裏庭の焼却炉でウイッグやミニスカートなどの証拠品を紙くずなどといっしょに焼いた。洋子はここ数日毎日ごみを焼いていた。だから、そうやってゴミと共に証拠品を焼いていることを怪しむ人間はいないと考えたのだ。しかも証拠品となる衣服などは、洋子のサイズだけを教えて、すべて権藤に買わせたものだ。衣服から足が付く危険はまったくといってない。
 焼却炉の中には燃え滓しかないことを確かめると、急に疲れが出た洋子は居間のソファーで眠り込んだ。