第7章 もう稔には戻れない

 ぼくは水泳パンツをはいて広いプールの中を泳いでいた。泳げない岡野小百合が羨ましそうな顔でぼくを見ていた。プールから上がって、岡野小百合の前に行くと、彼女は好きよと言って顔を赤らめた。
 ぼくも好きだよと言おうとして、ぎょっとした。ぼくの着ていた水泳パンツが、紺色のワンピースタイプのスクール水着に変わっているのだ。しかもぺたんこになっていた胸がふたたび膨らんでいた。元に戻っていない。水着を着ていたら、ペニスがあることが分かってしまう。慌ててペニスを隠そうとしたら、ペニスがないのだ。
 あれ!? どうして? ぼくは、もう一度股間に手を這わせた。やっぱりない。
 「何してるのよ」
 「ぼくのペニスがない」
 「あはは。中川、なに馬鹿言ってるの? あなた、女の子なのよ。ペニスがあるはずがないでしょう?」
 「あるんだ。君には黙ってたけど、ぼくは男の子なんだよ」
 「冗談は止めて。あなたは立派な女の子よ。胸だってあるし、ペニスもないじゃない」
 「違う。ぼくは男の子だ」
 ぼくは大声で叫んだ。

 「どうしたの? 怖い夢でも見たの?」
 目の前にお母さんの笑顔があった。夢だった。
 「ビックリしたあ。ホントに女の子になった夢を見ちゃった」
 そう答えると、お母さんは、ぼくからちょっと視線をそらせた。
 「どうしたの?」
 「・・・・何でもないわ」
 「そう・・・・」
 何だか変だなと思った。見回すと、点滴を始めた部屋ではなかった。
 「ここ、どこ?」
 「あなたの治療をやってくれる病院よ」
 「治療!? わたし、何かの病気なの?」
 「そうじゃないけど・・・・」
 「じゃあ、どうして? どうして、病院なんかにいるの?」
 お母さんは、ぼくの問いには答えず、涙を流しながら部屋を飛び出していった。

 それからしばらくして、痛みが襲ってきた。股間が例えようもなく痛いのだ。
 「痛い、痛い、痛いよう」
 泣き叫んでいると、注射器を持って看護婦さんがやってきた。そして、何かをぼくに言いながら、お尻に注射した。
 「痛い。痛い」
 そう叫びながら泣いているうちに注射が効いてきたみたいで、ぼくは再び眠り込んだ。

 目を覚ますと、お母さんがぼくの手を握っていてくれた。また痛みが襲ってきた。
 「痛いよ。痛いよ。お母さん、痛いよ」
 「待ってね。すぐに注射して貰うから」
 お母さんが、インターフォンで連絡する。泣き叫んでいると、看護婦が飛んできてぼくに注射をする。こんなことが何回かあった。

 夜が明けて、痛みがようやく治まってきた。うつらうつらしていると、お父さんが部屋に入ってきた。
 「まだ、痛むか?」
 「もう痛くなくなったよ。でも、この痛みは何なの?」
 「・・・・おまえを騙してすまない」
 ホントにすまなそうに、お父さんがぼくに頭を下げた。
 「ぼくを騙した?」
 「ああ。そうだ」
 「騙したって、何のこと?」
 「注射でおっぱいが元に戻ると言ったのは嘘だ」
 「嘘? じゃあ、ぼくのおっぱいはまだ膨らんだままなんだね」
 「そうだ。触ってみてないのか?」
 ひどい痛みがしていたから、おっぱいが元に戻ったかどうか、確かめるどころではなかった。点滴されていない右手で胸を触ってみると、まだ膨らんでいた。
 「あれは何の注射だったの?」
 「あれは麻酔のための注射だ」
 「麻酔?」
 「ああ、そうだ。おまえにある手術を受けて貰うためだ」
 「手術!! いったい何の手術なの?」
 お父さんは言い淀む。
 「・・・・若菜は、もう帰ってこないだろう」
 手術の話しをしているのに、どうして若菜お姉ちゃんの話しをするんだろう?
 「若菜って、若菜お姉ちゃんのこと?」
 「そう。おまえのことじゃなくて、いなくなった若菜のことだ」
 「そうだよね。もう一年も見つからないんだものね」
 「おまえはここ一年若菜として暮らしてきた」
 「もう稔に戻っていんでしょう?」
 「・・・・イヤ、この先も若菜として暮らして貰うつもりだ」
 男の子に戻れると思っていたのに、お父さんの言葉にひどいショックを覚えた。
 「でも、ぼくは男の子だよ。若菜お姉ちゃんの振りを続けるのはもう無理だよ」
 「だから、お前に手術を受けて貰ったんだ」
 「ぼくが若菜お姉ちゃんの振りを続けていくための手術なの?」
 「そうだ。おまえが受けた手術というのは、・・・・女の子になって貰う手術だ」
 「女の子になる手術!」
 ぼくはお母さんの顔を見た。お母さんは小さく頷いた。
 「そうだ。おまえはその言葉を知っているかもしれないが、性転換手術と言う手術だ」

 「性転換手術! じゃあ・・・・」
 「そうだ。おまえは、今日から、完全な女の子だ。もう二度と立っておしっこはできないんだ」
 「立っておしっこできない・・・・。それって・・・・」
 「お前のおちんちんとたまたまを取って貰ったんだ」
 「どうしてそんなことを・・・・」
 涙が一粒、頬を伝って落ちていった。
 「言っただろう? おまえにこの先ずっと若菜として暮らして貰うためだ」
 「どうしてぼくが若菜お姉ちゃんとして暮らさないといけないの?」
 「おまえとお父さん、お母さんのためだ。我慢してくれ」
 お父さんに目に涙が浮かんだ。
 「分からないよ」
 「そのうち、分かる」
 「元に戻してよ!!」
 「だめなんだ。もう元には戻せない。おまえは、女の子として、中川若菜として生きるしかないんだ」
 「そんなこと・・・・」
 ぼろぼろと涙がこぼれた。若菜お姉ちゃんが戻ってくるまでと思っていたのに、一生若菜お姉ちゃんの振りをして暮らさないといけないなんて・・・・。
 「若菜。心配しないで。今まで通りにしていればいいんだから」
 お母さんがぼくを抱きしめてくれる。
 「どうして、止めてくれなかったのよ!!」
 「あなたのためなの。あなたの・・・・」
 ぼくには、その意味が理解できなかった。その意味を理解するのは、ずっと先のことだった。

 女の子になってしまったことを確認できたのは、そのすぐ後だった。あの外人のお医者さんがやってきた。ぼくの手術をしたのだ。
 傷の付け替えをするとき、鏡で傷を見せてくれた。そこには何にもなかった。悲しくて涙が出た。

 お医者さんは、ぼくにあの時、男の子が好きか? 女の子が好きか? 女の子になりたいか? 男の子に戻れなくなってもいいか? などと聞いたらしいけれど、お父さんが、ぼくには違った通訳をして、ぼくを騙していたことを後で聞かされた。
 ぼくを騙していたのは、お父さんだけじゃなかった。お母さんもお父さんと一緒になってぼくを女の子にしようとしていたのだ。
 「ごめんなさいね。あなたを女の子にして、若菜として暮らさせる計画は、ずっと前に始まったの」
 「ずっと前って、いつから?」
 「行方不明になった人たちが遺体で見つかったでしょう?」
 「うん」
 「あの時、若菜ももう生きてはいないだろうってことになって」
 「あの時も、若菜お姉ちゃんとして暮らしていたよ」
 「裸になったら、若菜じゃないって分かるでしょう? 現に水泳ができなかったじゃないの」
 「・・・・そうね」
 「だからあの時から、おっぱいを大きくするために女性ホルモンをあなたの食事に混ぜ始めたの」
 「どこからそんなものを」
 「お父さん、薬品会社のプロパーでしょう? 簡単に手に入るのよ。お母さんも看護婦をしていたし」
 「ブラのせいだって嘘言って・・・・」
 「ごめんね。でも、あなたのためなのよ」
 「女の子になるのが、どうしてわたしのためになるのよ!」
 「・・・・二十歳になったら分かるわ」
 「二十歳になったら? どうして?」
 「その時になったら、分かるわ。今は言いたくないの」
 二十歳になったら、何が分かるというのだろうか? ぼくには理解できないことばかりだ。

 手術して一週間後、人造膣の中に詰めたガーゼを取ると言われた。膣って、生理の時、血が出てくる管だよね。ぼくには子宮がないのにどうして膣なんて作ったんだろうか、と不思議な気がした。
 この処置はもの凄く痛いらしいけれど、麻酔の注射をしてくれて、眠っている間に行われたから、ちっとも痛くなかった。
 ぼくにとって必要とは思われない膣を作った上に、狭くならないように拡張しなければならないと聞かされた。ぼくにはさっぱり合点がいかなかった。
 しばらくして、膣が生理の時の血を体の外に出す管じゃなくて、子供が産まれる時の通り道だということを病院にある図書館で知った。ぼくには子宮がないから、こどもはできない。だから、こどもの通り道は必要じゃない。じゃあ、どうしてぼくの体に腟を作ったんだろう? ますますわからなくなった。
 さらに本を調べてみた。調べてみて、男と女がセックスをすると言うことを初めて知った。日本の本にはそんなことは書いていなかった。
 子供を作るときに、男のペニスを受け入れるために女の膣があると知ったときのぼくの驚きは、説明のしようがないものだった。しかも、セックスがこどもを作るためだけじゃなくて、快楽のためでもあると言うことも知った。
 ぼくの体に膣を作った目的は、ぼくが女として、性的快感を得られるようにするためだった。ぼくの体の中に男のペニスが入るなんて、とても信じられなかった。
 「セックスは男と女が愛し合うためには、とても大切なことなのよ」
 お母さんが、ぼくに説明する。
 「お父さんとお母さんもセックスするの?」
 「・・・・そうよ。お父さんとお母さんは、愛し合ってるからね」
 「・・・・わたし、男の人を好きになったりしません」
 「今はそうでも、将来好きになる人が現れるかもしれないわよ。そのためには、腟が必要なの。なくなってしまってからでは手遅れなのよ。もう二度とあんな手術はしたくないでしょう? 痛い思いをしてせっかく作ってくれたんだから、なくならないようにしないとね」
 お母さんにそう言われて、何とか自分を納得させ、毎日3回腟拡張というのをやっているけど、痛くて痛くて泣き出しそう。
 それでも、二週間の滞在がすむ頃には、痛みはかなり軽くなっていた。

 ぼくは女の子になってしまった。女の子になったと言っても、子宮がないから、こどもが産めない。卵巣がないから、女性ホルモンを薬という形で補給しなければならない。膣はあるけれど、拡張しなければなくなってしまう。性転換と言うけれど、こんなのホントの性転換じゃない。仏作って魂入れずだ。
 だけど、そんなことは他人には分からない。ぼくは、女の子として、中川若菜として一生生きていかなければならない。
 万が一若菜お姉ちゃんが見つかったらどうしようか? ぼくはもう中川稔には戻れない。ぼくはどうしたらいいんだろうか?
 「見つかるものなら、とっくに見つかっているさ。一年も見つからないのは、残念だけど、若菜はもうこの世にはいない。だから、心配するな」
 お父さんはそう言うけれど、ぼくはいつも不安だった。

 ぼくは日本に帰る飛行機の中で、こう祈った。
 「若菜お姉ちゃん、死んじゃ駄目だけど、ぼくのそばへは戻ってこないで」
 そう祈りながら思った。人間って勝手なものだ。自分の都合のいいように考えてしまうと。