ここ数ヶ月、元気を取り戻した若菜お姉ちゃんがいたから、いつも楽しい食卓だった。だけど、今日は若菜お姉ちゃんがいない。まるで葬式のような感じだった。
食事がすんでしばらくした頃、玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら?」
お母さんが玄関に向かった。
「はい。どなた?」
「わたし。君子です」
「ああ、君子さん。すぐに開けます」
お母さんが鍵を開けると、小野の叔母さんが暗い顔をしてリビングに入ってきた。
「稔君、行方不明なんですって?」
「そうなんだ」
お父さんが、小野の叔母さんに見えないようにぼくにウインクしながら答えた。上手くやれよって言う合図だ。
「テレビで見たんだけど、昨日は準夜で、今日は日勤だったから、お見舞いにも来れずにごめんなさい」
「いいさ。見舞いに来たから見つかるってもんじゃない」
「若菜ちゃんは、大丈夫だったのね」
小野の叔母さんがぼくに近づいてきて肩を抱いた。
「若菜と咲子が救命胴衣を付けるのを手伝っている間に、先に海に飛び込んでしまったから・・・・」
「そうなの。いったいどこにいるのかしら?」
「すぐに見つかるさ」
「すぐにって、もう丸一日経っているのよ。ホントに見つかるかしら?」
そう言われて、ぼくは不安になった。見つからなかったら、ぼくはずっと若菜お姉ちゃんの振りをしていなければならないんだろうかと。そんな不安の表情でお父さんを見たのだけど、お父さんは気づかなかったようだ。
「たくさんの人たちが探してくれているから、きっと見つかるよ」
「そうね。わたし、早く見つかるように、祈ってるから」
「ありがとう」
小野の叔母さんは、お茶を飲みながらしばらくお父さんやお母さんと雑談した後、腰を上げた。
「じゃあ、また来るわ。お休み」
「お休み」
「若菜ちゃんもお休み」
「お休みなさい」
若菜お姉ちゃんの声をまねて答えたのだけど、小野の叔母さんは、ちょっと不審そうな顔をして玄関を出ていった。
「ばれたかしら?」
お母さんが、お父さんに尋ねた。
「君子姉さんになら、ばれてもいいさ。口外はしないだろう」
「そうね。・・・・若菜。もう寝なさい」
ぼくはギョッとしてお母さんを見つめた。
「今日からあなたは若菜なの。若菜が見つかるまで、稔という名前は忘れなさい。いいわね」
「そうだよ。いいね。お前は今日から若菜だ。分かったね」
お父さんとお母さんのふたりにまともに見つめられてそう言われると、何にも言えなかった。ぼくは黙って頷いた。
お母さんは、さっきまで、ぼくが若菜お姉ちゃんの振りをすることにあんまり乗り気でなかったみたいなのに、何故か積極的になっちゃった。どうしてだろう? お父さんは何と言ってお母さんを説得したんだろう?
次の日も、お父さんは仕事を休んで捜索隊に加わるために出かけていった。ぼくは黄色のワンピースを着せられた。
若菜お姉ちゃんの通っていた小学校は、ぼくのマンションからは遠いので、友達が訪ねてくることがないから、安心して若菜お姉ちゃんを演じられた。ただ、街に出かけると、若菜お姉ちゃんの友達に出会うかもしれないので、トキワのおもちゃ売場に行きたいのに出かけることができなかった。一日中マンションにいて、プレステをして遊んだ。
時々、近所の人たちが、お見舞いにやってくる。ぼくは、ばれたらどう言い訳をするんだろうかと思いながら、若菜お姉ちゃんの振りをして、しゃちほこばっていた。
一週間たっても、若菜お姉ちゃんは勿論、一緒に行方不明になっている二人も見つからなかった。とうとう捜索は打ち切られてしまった。
「お父さん。どうするの? ぼくは、まだ若菜お姉ちゃんの振りをするの?」
「ああ、そうだ」
お父さんは、にべもなくそう言った。
「でも、新聞やテレビじゃ、若菜お姉ちゃんはもう死んでるだろうって・・・・」
「死んでなんかいないさ。きっと生きている」
「でも・・・・」
「必ず戻ってくる。だから、それまでおまえは若菜だ」
「もうイヤだよ。スカートはいていたことがばれてもいい。ぼく、稔に戻るよ」
「だめだ! おまえはずっと若菜の振りをしているんだ」
「どうしてだよ」
「どうしてもだ!!」
「イヤだよ」
「お父さんの言うことが聞けないのか!!」
お母さんが、ぼくの肩を抱いて諭すように言った。
「お父さんの言うことを聞いて。ねっ。もう少しの辛抱だから」
「もう少しって、どれくらい?」
「もう少しよ」
「ともかく、お父さんがいいと言うまで、おまえは若菜だ。いいな!」
どうしてぼくに若菜お姉ちゃんの振りを続けることを強いるのか、ぼくには理解できなかった。でも、両親に逆らうなんてできなかった。ぼくは小さく頷いた。
翌日、いつもより早く起こされた。
「若菜。早くそれを着なさい」
「これって・・・・」
タンスの取っ手にかけられていたのは、紺のセーラー服だった。
「今日は若菜の入学式なのよ。早く、早く」
「入学式って、まさか中学の?」
「当たり前でしょう? あなたは今日から中学生なのよ」
「ぼく、今度6年生だよ」
「ぼくじゃないでしょう?」
「あ、うん」
「うんじゃなくて、ハイって言いなさい」
「・・・・ハイ」
「あなたは若菜なんだから、今日から中学生なのよ。早く着て、入学式に出かけるわよ」
「中学の勉強なんて分からないよ」
「大丈夫よ。授業をしっかり聞けば分かるわ。あなたは頭がいいんだからね」
「・・・・でも」
「お父さんに言われたでしょう? いいと言うまで、あなたは若菜だって」
「分かったよ」
「そうじゃないでしょう?」
「分かったわ」
「そうそう」
お母さんが、朝ご飯をテーブルに並べている間に、ぼくはセーラー服を着て白のハイソックスをはいた。
「ネクタイはどうするの?」
「結んであげるわ」
お母さんがキッチンからぼくの部屋に入ってきた。
「よく似合うわね」
そう言われて、ぼくは顔を赤くした。
「あなたは、色白で気が優しいし、女の子に産んであげればよかったわね」
ぼくは黙って、ネクタイを結んで貰った。
「ほう。よく似合うじゃないか」
お父さんまでもが、ぼくのセーラー服姿を見て、そう褒め上げてから仕事に出かけていった。
ぼくに女の子の格好を続けさせるためにそう言ったのではないかと思っていた。だけど、鏡に映してみると、セーラー服は確かによく似合っていた。お母さんのいうように、女の子に生まれていたら、この姿が嬉しいんだろうなと言う思いが過ぎった。
お母さんは、まるで自分の入学式のように、嬉しそうな顔をして着飾っていた。
時々マンションの外には出ていたけれど、大勢の人たちの中に行くのは初めてだった。男の子だとばれたらどうしよう。それが怖くて、ぼくはおどおどしていた。だけど、周りのみんなは緊張していて、他人のことどころではないようだ。だから、ぼくのことを気に止めるものはいない。入学式が終わる頃には、ぼくの緊張も解けてきて、周りの女の子と同じように振る舞うことができるようになっていた。
ぼくは1年3組になった。入学式が終わって、各々の教室に入り、担任が自己紹介した後、生徒が自己紹介する番になった。
「それでは、出席番号順に自己紹介をして貰おう。浅井滋子」
「浅井滋子です。出身は、北小学校です。・・・・」
自己紹介が進んでいった。すぐにぼくの番が来た。
「中川若菜」
「ハイ。中川若菜です。明野東中学から来ました。よろしくお願いします」
「次ぎ、中山勝茂」
「ハイ。・・・・・」
誰もぼくのことを男のだと疑っていない。ホッと安堵の溜息が出た。
いろいろな書類が配られ、担任の注意があった後、下校となった。
「中川さん、あなた、明野からここまで来てるの?」
声がした方を見ると、髪の毛の長い、中学一年生には思えないような大人びた女の子が立っていた。
「あ、ええ」
「どうして?」
「去年の秋に、こっちに引っ越してきたんだけど、卒業まで明野に通っていたの」
「そうなの。それで事情が分かったわ。わたし、岡野小百合よ。仲良くしようね」
「あ、よろしくお願いします。中川若菜です」
「あなた、胸が小さいのね。生理も始まっていないんじゃないの?」
生理!? 生理って何? ぼくは訳が分からず、どぎまぎしていた。
「やっぱりそうなのね。中川さんは、まだ、こどもって訳だ」
「中学一年生は、まだ、こどもだよ」
「そんなことないわよ。わたし、子供が産めるもんね」
女がこどもを産むのは理解できる。だけど、それが生理と言うものとどう関係があるのか、ぼくにはさっぱり分からなかった。
「ま、いいわ。じきに始まるでしょうからね。じゃあ、また明日ね」
岡野小百合を茫然と見送った。お母さんに教えて貰わないといけないことがたくさんありそうだ。
入学式の帰り、お母さんはいつもと違う少し高級なレストランにぼくを連れていった。
「お祝いだから、何を食べてもいいわよ」
「ホント?」
「ええ」
「じゃあ、サーロインステーキ!」
「はい、はい」
注文を受けたウエイトレスが去っていくと、ぼくは早速お母さんに尋ねた。
「お母さん、生理って何?」
お母さんは、周りをちょっと見回してから、小さな声で言った。
「マンションに帰ってから教えたあげるわ。ここで話すことじゃないのよ」
「ふうん」
サーロインステーキは、いつもの倍くらい美味しかった。値段も倍くらい高かったみたいだけど。
マンションに帰って、普段着に着替えると、お母さんがぼくに聞いた。
「どうして、さっき生理なんてこと、聞いたの?」
「あのね。同級生の岡野小百合って子が、胸が小さいから、まだ生理が始まっていないんだろうって、わたしに言ったから」
「はあ、なるほどね。胸が小さいか。そうよね。確かにみんなもう胸が大きくなっていたわね。迂闊だったわ」
「ねえ、生理って何?」
お母さんは、しばし考えた後、言葉を選ぶようにして話し始めた。
「女の人がこどもを産むのは知ってるでしょう?」
「ええ」
「女のお腹の中には、子宮って言う、こどもを育てるベッドがあるの」
「子宮って言うベッド・・・・」
「女は大人になると、こどもを産むために毎月ベッドの準備をするんだけど、こどもができなかったときには、ベッドをゴミに出すの」
「毎月ゴミに出さなくてもいいのに。勿体ないよ」
「そう言う風になっているから仕方がないのよ」
「ふうん。それで? そのゴミが生理なんだね」
「そうよ。ゴミって言っても、血なんだけどね」
「血が出るの? どこから?」
「そんなことは知らなくていいわ。とにかく、大人の女は毎月一回生理があるの。分かったわね」
「分かったわ」
分かったようで、よく分からなかった。女は毎月一回、血がどこからか出るみたいだ。お母さんに内緒で辞書を調べてみた。『生理』という項目には乗っていなかった。だけど、よく見ると、『月経のこと』と書いてあった。
『月経』で辞書を引き直してみた。『約4週間間隔で起こり、子宮粘膜に源をもつ周期性の生理的出血のこと』とあった。まだよく分からない。と言うか、ぜんぜん分からない。
家庭の医学事典で探してみた。女には子宮というこどもを育てるところがあるというのは、お母さんの言ったとおりだった。その子宮に膣という管がつながっていて、そこが男のおちんちんのあるところに出ているらしい。どうもそこから毎月一回血が出るのだと言うことが分かった。
「こんな所から血が出るなんて、気持ち悪いだろうな。男と女はずいぶん違うんだ」
ぼくは感慨深げに溜息をついた。このときは、どうしてこどもを作るかまでは調べなかったし、そんなことは書いていなかった。
中学校生活の第一日目がやってきた。セーラー服を着ようとすると、お母さんが何かを手に持ってやってきた。
「これを付けなさい」
「なに、これ?」
「スポーツブラよ。普通のブラは付けられないでしょうから、それにしたのよ」
ブラジャーをするなんて、顔が赤くなった。ブラのカップの中に柔らかいものが入っていた。
「これは?」
「パッドを一枚縫い込んだのよ。少し膨らみをもたせないとね。少しずつ大きなものと取り替えてあげるからね」
女の子だから、おっぱいが大きくないとおかしいんだよな。ぼくはブラを見つめる。
「さあ、早く付けて。食事をするわよ」
「どうやって付けるの?」
「ああ、そうか。付けたことないんだ。こうするのよ」
お母さんがブラジャーの付け方を教えてくれる。男の子にこんなことを教えるなんて、お母さんはどう思っているんだろうか? ずいぶん楽しそうにしているけど・・・・。お母さんはホントに女の子が欲しかったのかもしれないな。
本来は小学校6年生のぼくだから、中学校の授業なんて分からないだろうと思っていた。だけど、結構分かるものだ。基礎からもう一度やり直しと言ったところが多いせいだ。
入学して初めてあった実力考査は、クラスで後ろから3番目だったけど、中間考査では、クラスで8番になった。
「若菜。頑張ったじゃないの」
「うん」
「勉強、楽しい?」
「楽しいわよ」
「女の子するのには、もうなれたわね」
「なれたけど、早く男の子に戻りたい・・・・」
「もう少しの辛抱よ」
「もう少しって、いつまで?」
「さあ・・・・」
お母さんは、言葉を濁す。この話題になるといつもそうだ。いったいいつになったら、若菜お姉ちゃんお振りをするのを止められるんだろうか?
実は先月、若菜お姉ちゃんと一緒に行方不明になっていた二人が相次いで水死体で見つかった。若菜お姉ちゃんもきっと死んでしまっている。そう思うと悲しかった。
この時も、お父さんに、もう男の子に戻りたいと訴えたんだけど、許してもらえなかった。お父さんはいったい何を考えているんだろうか? ぼくには分からない。