「若菜。大丈夫?」
お母さんが、わたしの顔を覗き込む。大丈夫よと答えようとしたのに声が出なかった。それでも、わたしが大丈夫なのが分かったらしく、お母さんはにっこりと微笑んだ。
「体を大事にするのよ」
そう言い残して、お母さんが立ち去ろうとする。
「お母さん! どこに行くの?」
それも声にならなかった。お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。と何度も呼んだのに、お母さんは振り返ってくれなかった。そして、とうとういなくなってしまった。
「お父さんは?」
いつも、わたしを可愛がってくれるお父さんの姿もない。お母さんのことばかり考えていたので、腹を立てて何処かへ行ってしまったのだろうか? イヤ、そんなに度量の小さなお父さんではない。何か理由があるんだ。そう思って、お父さんを呼んだ。
「お父さん! お父さん、どこにいるの?」
何度呼んでも返事はなかった。
「お父さん! お母さん。わたしを置いて、どこへ行ってしまったの?」
涙が止めどなく流れ出た。
ずっと泣いていた。わたしのまわりには誰もいない。誰もわたしを慰めてくれる人はいない。
どれくらいたったろうか? 真っ白だった目の前の風景が変わった。イヤ、やっぱり真白だった。目に入ったものは、真っ白な天井と白いカバーのかけられた蛍光灯だった。
「若菜! 若菜ちゃん、気がついたのね」
誰の声だろう? 声のした方を見てみると、小野の叔母さんがわたしを見ていた。
「良かったわね。あなただけでも助かって」
わたしはその時、叔母さんの発した言葉の意味が分からなかった。お父さんとお母さんの次ぎに大好きな小野の叔母さんがそばにいる。わたしは安心して再び眠りに落ちた。
それからわたしは、何時間か眠っていたようだ。目が覚めると、天井の蛍光灯は消え、カーテンを通して太陽の光が部屋に射し込んでいた。
「目が覚めた?」
「叔母さん・・・・」
「痛くない?」
「どこも痛くない」
「よかったわね」
そう言った小野の叔母さんの笑顔に、深い悲しみが浮かんでいた。
「お母さんは?」
「・・・・若菜ちゃん・・・・」
「お父さんは? 怪我でもしたの?」
その時ドアが開いて、浩二郎叔父さんが稔と一緒に入ってきた。浩二郎叔父さんの表情も暗かった。稔も今にも泣き出しそうだ。
「何があったの?」
小野の叔母さんが、目に涙をいっぱい浮かべてわたしに言った。
「若菜ちゃん。よく聞いて。あなたのお父さんもお母さんも、・・・・天国に行ってしまったのよ」
言い終わると涙をぼろぼろと流した。
「天国に行ったって・・・・」
涙が溢れてきた。
「そう。あなたのお父さんもお母さんも、もうこの世にはいないの」
「嘘! 嘘よ」
「若菜ちゃん・・・・」
小野の叔母さんがわたしを抱きしめて泣き始めた。
「若菜ちゃん、君子叔母さんの言ったことはホントなんだ。居眠りをしたダンプに正面衝突されて・・・・」
「どこ? 会わせて! お父さん! お母さん!!」
「若菜ちゃん、お父さんにもお母さんにももう会えない。ふたりとも酷い状態で、若菜ちゃんが眠っている間に荼毘に付したんだ」
「荼毘に付した?」
わたしには、その意味が分からなかった。
「若菜ちゃん、よく聞いて。・・・・お父さんもお母さんも、もう骨になってしまったのよ」
小野の叔母さんがそう言って、もう一度わたしを抱きしめた。その時になって、わたしは、荼毘に付すと言う意味を理解した。
「お父さん。お母さあん・・・・」
わたしににっこり微笑んでカーデガンを掛けてくれたお母さんの顔。室内ミラーからわたしを見ていたお父さんの優しい目。もう二度と見ることがないと分かって、わたしは大声を上げて泣いた。
わたしが手足に軽い打撲傷を負っただけで助かったのは、奇跡に近いと聞かされた。こどもで体が柔らかかったのと、後部座席に横になっていたのが、助かった大きな要因だろうとのことだった。
浩二郎叔父さんが喪主となって、大分市内の葬儀社でお父さんとお母さんの葬儀が行われた。おばあちゃんの時より、たくさんの人が来てくれたけど、義理で来た人ばかりのようだった。
わたしは、ただただ泣いていた。それ以外にすることがなかった。
葬儀が終わって、安藤の叔母さん、小野の叔母さん、浩二郎叔父さん夫婦と稔と共に、わたしは我が家に戻った。
「姉さん、お義兄さんやこどもたちは来られなかったのか?」
「先週、母さんの葬儀に来たばかりなのに、そうそう来られないわよ。交通費も馬鹿にならないし、先週休んだ分を取り返さないと、あんたと違って、あの人は働いた分しか給料が出ないからね」
「そうだったな・・・・」
「ねえ、浩二郎。若菜ちゃん、どうする? ひとりじゃ暮らしていけないでしょう? それにこの家も会社のものだから、出て行かなきゃならないんでしょう?」
小野の叔母さんが、心配そうに浩二郎叔父さんに聞いた。
「俺たちがいるんだから、施設に入れるって言うわけにはいかないだろう」
「引き取るって言うの? うちはダメよ。経済的な余裕もないし、若菜ちゃんが男の子だって言うのなら別だけど、女の子を置いておくようなスペースはとてもないわ」
安藤の叔母さんは、浩二郎叔父さんの提案に、さも迷惑そうにそう言った。
「そうよね・・・・。わたしが引き取ってもいいんだけど、夜勤でアパートにいないときもあるし・・・・」
「彼氏も来るし」
安藤の叔母さんがチャチャを入れた。
「うるさいわね、姉さんは! ・・・・浩二郎、あんたが引き取ったら? あんたの住んでるマンションは結構広いし、給料もいいから、余裕があるでしょう?」
「そうだなあ」
「あなた。そうしてあげましょうよ。稔と若菜ちゃんは、結構気が合うみたいだし、わたしも女の子が欲しかったから」
わたしの顔を見て、咲子さんがそう言った。
「お前がいいって言うのなら、そうしてもいいが」
「じゃあ、決まりね」
安藤の叔母さんが、やっかい払いができて安心したというような顔をした。
「若菜ちゃん、わたしたちと一緒に暮らしてくれる?」
「・・・・はい」
例えその時、嫌いな健や康と一緒に暮らすことになったとしても、独りぼっちになってしまったわたしに、選択の余地はなかった。
「ところで、山香の土地はどうなるの?」
「俺たちは財産放棄して、兄貴が相続することになっていたんだよな」
「お兄さんが死んだんだから、無効でしょう?」
「いや、あの契約は有効だろう。きちんと名前を書いて印鑑を押したからな」
「じゃあ、どうなるの?」
「相続した兄貴が死んだから、あの土地は、若菜ちゃんのものになるんだろうな」
「・・・・そう言うことになるのね。でも、わたしたち、財産放棄の条件として100万貰うことになってなかった?」
安藤の叔母さんは、どうも金の亡者みたいで好きになれない。こんなことばかり話題にする。
「そうだったな」
「そのお金はどうなるの?」
「そうだな。兄貴の残した財産の中から貰うってことになるのかな?」
「お兄さんの残した財産は、若菜ちゃんのものでしょう? 若菜ちゃんから、取り上げるわけにはいかないわよ」
わたしを見ながら、小野の叔母さんが言う。
「でも、貰う権利はあるわ」
「わたしはいらないわ」
「あんたは一人暮らしで、気ままだからいいだろうけど、わたしにとっては100万は大きいわ」
「若菜ちゃんに残してあげましょうよ。可哀想じゃないの」
「なによ。一人だけ、いい子になって!」
小野の叔母さんと安藤の叔母さんは、ちょっと険悪な状態となった。
「兄さんの残した財産は結構あるから、山香の土地の件を終結させるために、一応100万ずつ貰うことにしよう」
「結構あるって、どれくらいあるの?」
「預貯金そのものは、800万くらいだな」
「そんなに・・・・」
「そんなにって、お兄さんの年齢からすると少ないくらいよ」
「それだけ? 他にもあるの?」
「兄貴とお義姉さんの死亡保険金が出る」
「い、いくらよ」
安藤の叔母さんの口から涎が出そうだ。
「兄貴の分が4000万、お義姉さんの分が500万」
「4500万!」
安藤の叔母さんが目をぱちくりさせた。
「事故特約がついていたから、その倍、出る」
「ってことは、9000万ってこと?」
「そう言うことだ。その他に、事故を起こしたダンプの会社からもかなりの保険金が下りるはずだ」
「わたしが若菜ちゃんを引き取るわ」
「姉さん、さっきは無理だって言ったじゃないか。金に目がくらんだのか?」
「併せて一億近くもあるんだったら、話は別よ」
「若菜ちゃんのお金で、姉さんのものじゃないよ。勝手に使うわけにはいかないんだ」
「・・・・そうなの?」
「当たり前じゃないか。もし姉さんがどうしても若菜ちゃんを引き取るって言うのなら構わないけど、若菜ちゃんに残された財産を勝手に使わないようにきちんとして貰うからね」
安藤の叔母さんは不服そうな顔をしている。
「あんたが引き取っても、勝手に使うんじゃないわよ」
「20歳になるまで、定期預金にして凍結することにしておくよ。それなら、いいだろう?」
「わたしの貰う100万は別にしてね」
「分かってるよ」
安藤の叔母さんにそう言うと、浩二郎叔父さんはわたしの方に向き直った。
「若菜ちゃん、醜い話しをしてごめんな。でも、こういうことはきっちりしておかないと、あとで面倒なことになるからね」
「はい」
「若菜ちゃんのお父さんとの契約で、叔父さんたちは、それぞれ100万貰って、山香の土地を貰う権利を放棄することになっていたんだ。だから、保険金が出たら、その分を貰うことにする」
「わたしは、いらないわよ」
小野の叔母さんが、横から割って入った。
「いや君子。こう言うことはきっちりしておいた方がいい。取りあえず貰ってくれ。そののちに、おまえが若菜ちゃんにやるって言うのなら、それは別の話しだ」
「そう。それなら、そうさせて貰うわ」
「若菜ちゃんは、叔父さんの家で暮らして貰う。生活費を貰う必要はない。若菜ちゃんを育ててあげるのは、親戚として当然だからだよ」
「生活費くらい貰ったら?」
「姉さん。俺がいらないって言ってるんだよ。余計な口出しはするなよ」
「分かったわよ」
「残った9500万あまりの財産は、定期預金にして、若菜ちゃんが成人したときに、若菜ちゃんのものになるようにしておくからね。いいね」
「はい」
わたしが相続する財産のことなんか、まったく分からない。勝手に処分されたとしても、こどものわたしにはどうしようもなかった。だけど、浩二郎叔父さんは、わたしのためにきちんと処理してくれたのだ。
奥で寝ていた稔が眠い目を擦りながら起きてきた。
「あら? 稔、起きたの?」
「みんな、いったい、何してるの?」
「若菜お姉ちゃんが、稔君のうちに来るのよ」
「ホント?」
「そうよ、稔。仲良くするのよ」
稔は、もの凄く嬉しそうな顔をして、わたしをじっと見つめた。
「稔君。よろしくね」
わたしは稔にぺこりと頭を下げた。
「うん」
にっこり笑って、稔はわたしに握手の手をさしのべた。
こうしてわたしは、浩二郎叔父さんに引き取られた。浩二郎叔父さんは、書斎として使っていた部屋に稔を移し、稔が使っていた部屋をわたしに提供してくれた。
「ごめんね、稔君」
「いいんだよ、若菜お姉ちゃん。お父さんは、書斎なんて滅多に使わないんだから。ぼくの部屋が広くなったようなものだよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。それに、お父さんの机の上にあるパソコンは、インターネットに繋がっているから、これからは、お父さんの目を気にしないでやれるんだ。今まで、勝手に書斎に入ると怒られていたからね」
「そうなの」
稔は、わたしに向かってVサインを出した。
浩二郎叔父さんの奥さんである咲子さんは、とってもいい人だ。死んだお母さんの次くらい優しい。
「若菜ちゃん。今日から、わたしをお母さんだと思ってね。・・・・そうね。叔母さんじゃなくて、お母さんって、呼んでくれる?」
「いいんですか?」
「いいわよ。わたしね。女の子が欲しくて堪らなかったんだけど、稔を産んだあと、どうしてもできなくてね。だから、若菜ちゃんのような女の子が欲しかったの。お母さんって呼んで貰えると、わたし、とっても嬉しいんだ」
「分かったわ」
「じゃあ、今から、お母さんって呼んでね。そうそう、わたしも若菜ちゃんのことを、若菜って呼ぶわ。それでいいでしょう?」
「はい」
わたしは笑顔で頷いた。
「うちの宿六のことも、お父さんって呼ぶのよ」
「宿六って? ・・・・浩二郎叔父さんのこと?」
「そうよ。お父さんには黙っているのよ。お母さんが宿六なんて言葉を使ったなんてこと」
「はい。分かりました」
「稔のことも稔君じゃなくて、稔って呼び捨てでいいわよ。若菜と稔は、今日からホントの姉弟になるの。いいわね」
「はい。お母さん」
「それでいいわ。じゃあ、夕食の準備をしましょう」
咲子さんは、日曜日となるとわたしを連れて街に買い物に出かけ、可愛らしい服を買ってくれたり、マンションに帰ると料理を教えてくれたりした。
小学校を卒業するまで残り半年だったから、転校させるのは可哀想だと言って、浩二郎叔父さんは、毎日わたしを元の小学校まで送ってくれた。
わたしは両親を失った悲しみから、急速に回復していった。
小学校の卒業式には、浩二郎叔父さん夫婦がそろって出席してくれた。死んでしまった両親のことは決して忘れないけれど、新しい両親のことをこれからずっと大切にするつもりだ。
「若菜、卒業祝いに、東京ディズニーランドに連れて行ってあげよう」
「ホント?」
「ああ、ホントだ」
「ぼくも連れて行ってくれるんだろう?」
横から、稔がちょっと不安そうな顔で尋ねた。
「ファミコンばかりしていたら、連れて行かないぞ」
「ファミコンじゃないよ。プレステだよ」
「どっちでも同じだ! お前には他にすることがあるだろう?」
浩二郎叔父さんが、稔をぎょろりと睨んだ。
「勉強するよ」
そう言って、稔は部屋に駆け込んでいった。浩二郎叔父さんが、稔をおいて行くはずがないのに、稔って何にも分かっていないんだから。
稔が終業式を迎えた翌日、わたしたちは飛行機に乗って東京へ向かった。大分も結構人が多いと思っていたのに、東京の人の多さにはビックリしてしまった。しかも、せかせかと忙しそうに歩く。何をあんなに急ぐのだろうかと思った。
東京ディズニーランドは、春休みのこどもたちで溢れていた。
「稔! 行くわよ」
わたしは短いスカートを翻して走り出す。稔が不満そうな顔で叫ぶ。
「メリーゴーランドに乗ろうよ」
「そんなの面白くないわよ。スペースマウンテンが40分待ちだよ。さあ、並ぼう」
列の最後に並ぶと、息を切らせて稔が横に並んだ。
「若菜お姉ちゃんは、どうしてそんなものばかりが好きなんだよ」
「稔は男の子でしょう? どうして嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど・・・・」
「じゃあ、いいでしょう?」
「・・・・うん」
白雪姫のような綺麗なドレスを着るのは、それは勿論素敵だなって思うんだけど、そんなのはまだ先の話し。今は、ジェットコースターとかに乗るのが好き。大人になったら、淑やかにしなけりゃいけなくなるから、今のうちに楽しんでいなければね。
午後8時にホテルに戻る頃には、わたしも稔も疲れ切っていて、豪華な食事も半分眠りながら食べた。
「お休み。明日は7時半に朝ご飯を食べるからね。朝ご飯がすんだら、そのまま出かけるから、7時には起きて準備しておきなさい。いいわね」
「はあい」
わたしと稔をベッドに寝かしつけると、咲子さんは浩二郎叔父さんの待つ隣の部屋に戻っていった。
ホントはわたしと咲子さん、浩二郎叔父さんと稔が同じ部屋で寝る予定だったのだけど、浩二郎叔父さんが急遽変更したらしい。その時のわたしは、どうしてなのか分からなかったけれど、久しぶりに夫婦水入らずで楽しみたかったんだと理解したのは、随分後になってからだ。