第13章 ぼくは中川若菜だ

 いつの間にか眠っていたようだ。雀の鳴き声がする。辺りも少し明るくなっていた。起きあがってみると、一緒に寝る予定だった和泉和夫の姿はない。先に起きたのだろうか? イヤ、あの人のことだ。誰か女を捕まえて寝たに違いない。
 テントを出ると、案の定和泉和夫が女性用のテントから出てきた。相手は中川若菜じゃないだろうなと思っていると出てきたのは別の女性だった。何故か、もの凄くホッとした。
 ふと反対方向を見ると、中川若菜が、伸びをしながら洗面所の方へ向かっていた。ぼくも、タオルと歯ブラシを持って、中川若菜の後を追った。
 横に並んでみると、ホントに背が高い。165,6あるようだ。何と言って声をかけようか? そんなことを思いながら、歯を磨いていると、中川若菜の方から声をかけてきた。
 「気分は良くなりました?」
 「気分? ああ」
 ぼくはどうも女性に対してぶっきらぼうすぎる。中川若菜の表情を見ると、ちょっと気分を害したようだ。逃げられないうちに話しをすることにした。
 「君、中川若菜って言ったよね」
 「え、ええ」
 ぼくの方は見ないで、遠くの方を見ながら、不機嫌そうに答えた。
 「実家は大分のどこ?」
 どうしてそんなことを聞くのと言う目で、ぼくをちらりと見た。しかし、ちゃんと返事はしてくれる。
 「どこって、西大分ですけど・・・・」
 西大分? 頭がまた痛くなってきた。思い出した。ぼくも西大分に住んだことがある。西大分へは、引っ越してきたんだ。その前は・・・・。たしか・・・・。
 「西大分・・・・。その前は?」
 「その前って・・・・」
 「西大分に引っ越す前だよ」
 ぼくの質問に不審そうな顔をしながら素直に答えてくれた。
 「明野ですけど」
 明野・・・・。西大分の前は、ぼくも明野に住んでいた。
 「明野・・・・。兄弟は?」
 「いません。一人っ子です」
 ぼくも一人っ子だった。妙に共通するところが多い。何故だろうか?
 「一人っ子かあ。可愛がられてるんだろうね」
 「勿論よ」
 近くに住んでいたようなのに、ぼくは中川若菜を知らない。ぼくの記憶が間違っているのだろうか? 両親のことを聞いてみよう。
 「君、薬学部だって言ったよね」
 「ええ」
 「もしかして、ご両親のどちらかが薬学に関係あるの?」
 「ええ。お父さんが、外資系の薬品会社に勤めているの」
 「そうか・・・・。お母さんは元看護婦さんだったりして」
 看護婦という言葉が自然に頭の中に沸いてきた。
 「ピンポン・・・・だけど。変なこと聞くのね。どうして?」
 ぼくの両親も薬品会社のプロパーと元看護婦だ。・・・・イヤ、違う。父は、新日鐵に勤めていて、母は専業主婦だ。ふたつの記憶が交錯する。どちらの記憶が正しい? 分からない。頭が痛む。しかし、痛みを堪えて、言葉を続けた。
 「なんでもないよ。・・・・昨日気づかなかったけど、君、可愛いね」
 中川若菜は、そんなぼくの言葉に顔を赤らめ、口元に笑みがこぼれた。なんて可愛いんだ! 思わずキスしたい衝動に駆られたとき、伊東先輩が肩を叩いた。
 「いよう、おふたりさん。上手くやってるかな?」
 「そ、そんなんじゃありません」
 ぼくは慌ててテントへ戻った。テントに戻ってからも、どきどきしていた。ぼくは、中川若菜に惚れてしまったのだろうか? これまで、女性を好きになったことなんて、一度もなかったのに・・・・。

 真っ白な水着姿で浜辺を走り、海に潜る中川若菜をずっと見ていた。スタイルは抜群だ。胸は大きからず小さからず。ウエストは抱いたら折れそうだ。ヒップは、他の女性に比べて小さいが、バランスとしてはいい。問題は身長だ。ぼくの理想とする女性像からすれば、ちょっと背が高すぎる。
 中川若菜をじっと見ていたら勃起した。ぼくは慌てて俯せになって誤魔化した。

 キャンプも終わり、前日の集合場所へ戻ってきた。中川若菜もぼくのことを気にしてくれているようだ。ちらりちらりとぼくの方を見ていた。もう一度話したいなと思っていると、石川智美というマンドリンクラブの女性が走り寄ってきた。
 「青柳さん。若菜が、あなたの電話番号を知りたいって」
 「えっ!」
 「若菜、あなたに一目惚れだってよ」
 「嘘だろう?」
 中川若菜の方を見ると、恥ずかしそうにグランドの土を蹴っていた。
 「ねえ、早く教えてよ」
 「分かった」
 ぼくは、メモに電話番号を走り書きした。
 「ありがと。これ、若菜の電話番号よ」
 代わりに、小さなメモ書きを手渡してくれる。
 「よかったら、電話してって言ってたわ」
 「ホント?」
 「ホントだよ。電話してあげてね」
 そう言い残して、中川若菜の元へ走っていった。

 中川若菜が、ぼくの記憶が戻るきっかけになるのは間違いないと思っていた。だけど、失われた記憶が戻って、何か悪いことが起きそうな気もしていた。しかし、迷った挙げ句、中川若菜に電話した。
 「はい、中川です」
 可愛らしい声が受話器から流れてきた。一瞬電話を切ろうと思ったけれど、このチャンスを逃したら、永久に電話できなくなると思い、口を開いた。
 「遅くにすみません。青柳です」
 「いえ、いいです。・・・・あのう、なんの用事でしょうか?」
 ちょっと緊張したような声。ぼくのことが一目惚れだと、石川智美が言ったけど、ホントなんだろうか? デートの誘いを受けてくれるだろうか? 断られたらどうしよう? 迷っていたけれど、言葉が出た。
 「・・・・よかったら、明日会ってもらえませんか?」
 「デートのお誘いですか?」
 どこか突っ慳貪な響き。いい返事がもらえるだろうか?
 「あ、そう。そうです」
 「どこに、何時に、行けば」
 「会ってくれるんですね」
 ちょっと嬉しくなった。
 「ええ、勿論です」
 ホッとする。
 「あ、じゃあ、午前10時に本学の正門前で」
 「午前10時に、本学の正門前ですね」
 「はい。何時間でも待ちますから、必ず来てくださいね」
 「間違いなく行きます」
 汗がどっと背中を流れた。母以外の女性と初めて電話した。しかも、デートの約束。緊張した。
 「やったあ」
 思わず、そう叫んでいた。

 翌日、朝早くから目が覚めた。髭を剃ろうとして、何故か剃っちゃいけないような気がした。それがどうしてなのか分からない。
 約束の時間まで、まだ30分以上ある。ぼくは、正門前でうろうろしていた。9時40分を少し回った頃、中川若菜が、笑顔を受けてぼくに駆け寄ってきた。もの凄く可愛い笑顔だ。そのまま抱きしめてキスしたい衝動をやっとの事で抑えた。
 シャングリアという喫茶店に行って、昼食を挟んで、6時間も話しをした。話しの中で、無精ひげのことを聞かれた。なんと答えていいのか分からなかった。そのうち分かるよとだけ答えた。
 そのたった6時間で、ぼくの記憶を呼び戻してくれるきっかけになりそうな人と言うよりも、大切な人と思えるようになった。
 交際を申し込んだら、あっけないほど簡単に受けてくれた。石川智美がぼくに言ったことはホントだったようだ。

 中川若菜と話しをしたことがきっかけとなって、ぽつりぽつりと記憶が戻り始め、夏休みが終わる頃には、かなり記憶が戻ってきた。

 ぼくは、青柳琢磨に助け上げられたとき、姿は女の子だった。その前も女の子として育てられていたことを思い出した。名前は思い出せない。他に姉妹はいない。一人っ子だ。
 二階建ての家に住み、父は会社に毎日出かけていった。母は、家にいて家事をしている。ぼくは近くの小学校へ通っていた。
 どこか遠くの場所に、おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいて、可愛がって貰っていた。
 ときどき遊びに行く、親戚らしい家にいた男の子。女の子だったぼくは、その男の子が大好きだった。顔は思い出せない。名前も・・・・。
 葬式の場面が頭の中に浮かんだ。。掲げられた写真は、おばあちゃん、おじいちゃん、そして、ぼくの両親と移り変わる。どれが本当だ?
 何日かして、葬式が3回行われたことを思い出した。おじいちゃんもおばあちゃんも、そしてぼくの両親ももう亡くなっている。ぼくは、泣いた。こんなこと、思い出したくなかった。
 ぼくは、青柳夫妻と暮らし始めた頃、ぼくには既に両親はいないと漠然と感じていた。しかし、心の奥ではそれが事実であって欲しくないと思っていた。一人娘だったぼくを可愛がってくれていた両親が死んでしまっていることを思い出して悲しかった。
 両親が死んだ後、ぼくは叔父夫婦に引き取られた。そこには、ぼくの大好きな男の子がいた。ひとつ年下で、とても可愛かった。名前は、・・・・まだ思い出せない。
 その男の子と、どこかのホテルの中で、大きくなったら結婚しようと約束して指切りした。
 ぼくは思いだして、フフッと笑った。結婚しようか・・・・。今となっては、男同士だから、結婚できないよな。

 ぼくは回復してきた記憶を確かめるため、中川若菜からの誘いをいろいろと理由を付けて断り、こっそり大分へ行って調べてみた。中川若菜のことも大事だったけど、自分のアイデンティティーの方がさらに重要問題だったからだ。
 JRを西大分駅で降りると、足は自然と、あるマンションへと向かっていた。ぼくはこの道を歩いたことがある。
 エレベーターで上がり、足の向くままたどり着いた部屋の表札に中川と書かれていたのを見つけたとき、ビックリしてしまった。
 中川若菜も西大分に住んでいると言っていた。・・・・偶然だ。ぼくの引き取られた叔父夫婦の名前も中川だっただけだ。
 女の子から、男になったことを知ったら、ビックリするだろうなと思いながら、ベルを鳴らした。出かけているのか、誰も出てこなかった。
 手紙を書こうと思い、住所をメモしようとした。その住所を確認して、ぼくは驚きを隠せなかった。中川若菜から聞いていた帰省先と同じだったからだ。マンションの名前、部屋の番号をもう一度確認する。やはり、同じだ。ぼくの記憶の中にある、引き取られた叔父夫婦が、中川若菜の両親なのだろうか?
 ぼくは考える。引き取られた叔父夫婦には、男の子がいたと思ったんだけど、あれは女の子だったのか? そう言えば、気が優しくて、いつも泣いていた。そうか、男の子だと思っていてけど、女の子だったんだ。それが若菜なんだ。
 中川若菜はぼくの従妹なんだ。こどもの頃から大好きだった。だから、出会ってすぐに好きになったんだ。
 幼かったんだなあ。女の子同士で、結婚の約束をするなんて。何だか微笑ましいなと笑いがこみ上げてくる。
 ぼくは男になったから、若菜と結婚できるんだ。そう思うと嬉しくなった。

 マンションから出て、ぼくが四国まで流されてしまった原因を探そうと、図書館に寄って昔の新聞記事を調べてみた。
 『別府湾でホーバーフェリー沈没』の記事がすぐに見つかった。行方不明者の中に『中川稔君(11)』と言う文字を見つけた。
 当時のぼくの年齢は、11,2歳だったと青柳夫妻に聞かされていた。ぼくがその中川稔に違いない。・・・・しかし、稔君と書いてあるところを見ると男の子だ。ぼくは当時女の子みたいに見えたけど、男の子として、中川稔として生活していたのか? イヤ、違う。ぼくは幼い頃女の子として生活していた。スカートをはいていた覚えがある。おかしい。おかしい。何かがおかしい!!

 ひどい頭痛が襲ってきて、ぼくは図書館の机の上で一時間ばかり伏せっていた。
 「大丈夫ですか?」
 誰からか連絡を受けたらしく、司書が心配して声をかけてきた。
 「だ、大丈夫です」
 またひとつ思い出した。早く着替えようよとべそを掻く、スカート姿の女の子。ぼくの幼いときの姿だろうか?
 「早く着替えようだって?」
 また頭が痛くなってきた。記憶がよみがえってくる。
 シャワーを浴びる人影。その股間にちらりと見えた唐辛子大の小さなペニス。あれは、稔だ。体を拭きながら、出てきた稔がぼくに言う。
 「ぼくの服を返してよ」
 「イヤよ。稔は、わたしの服を着なさい!」
 「イ、イヤだよ。女の服なんて着られないよ」
 そうだった。ぼくと稔は服を交換していた。そして、あのホーバーフェリーの事故にあった。ぼくは、稔と服を交換して、男の子の服を着ていた。だから、稔がいなくなったと報道された。
 あれ!? ・・・・と言うことは、ぼくが若菜だってことだ。当時ぼくは女の子だったし、そうに違いない。
 じゃあ、今いる若菜はいったい誰だ? ぼくが若菜なら、あれは稔の筈だけど・・・・。稔が女装しているのか?
 キャンプ場での中川若菜の水着姿を思い出す。真っ白なワンピースタイプの水着だった。あの水着なら、男のシンボルを隠せるわけがない。違う。稔の筈がない。じゃあ、あの中川若菜は誰だ? ぼくが中川若菜だと言う認識が間違っているのか? ぼくが稔? 違う。絶対に違う。
 混乱するばかりだった。

 訳が分からないまま、前期試験が終わった日、中川若菜とデートした。久しぶりに会う彼女は、一段と綺麗に見えた。
 「若菜。教えてくれ。ぼくはいったい誰なんだ。君はホントに中川若菜なのか?」
 そう言いたいのをぐっと我慢した。

 思い出した記憶をたどる。考えれば考えるほど、ぼくは中川若菜だという確信が沸いてきた。だけど、中川若菜は目の前にいる。
 考えても考えても分からなかった。ぼくは中川若菜。小学校の時は女の子として育てられたけど、今は立派な男。
 その時、性転換という言葉が頭の中に浮かんだ。ぼくは他人の目から見れば、性転換したのと同じだ。女が、男になった。
 若菜は絶対にぼくだ。だけど、若菜が別にいる。若菜はいるけれど、稔はいない。どう考えるか? すべての辻褄が合う説明はひとつしかない。稔が性転換して女になったのだ。稔が性転換して、中川若菜を名乗っているとすれば、すべてのつじつまが合う。

 あの中川若菜が、ぼくの想像通り、性転換した稔なのかどうか確かめてみよう。無理矢理裸にしなくても確かめることはできる。三度目のデートの時に見せたぼくへの挑発的な服装から考えれば、誘えばすぐにでもぼくとベッドをともにしてくれるだろう。
 ぼくは、誘いをかけるチャンスを窺っていた。チャンスはすぐにやってきた。中川若菜の方からの誘ってきたのだ。
 ぼくは中川若菜の部屋に行き、食事をしたあとチャンスを窺った。ビデオの画面が、ちょっと怪しい雰囲気になったとき、ぼくは中川若菜を押し倒した。どきどきしていた。
 「若菜。ホントに君は、稔なのか?」
 ちょっと抵抗したけれど、すぐに力を抜いた。部屋の中は明るい。こんな明るい中で見れば、本物の女であるか否かはすぐに分かる。それが分かっていて抵抗しないのは、ぼくの想像が間違っていて、若菜はホントに女なのじゃないかと思った。
 ショーツを下げて、足を割って入り、その股間をこの目で確かめてみた。本物の女の陰部を見たことはない。だけど、解剖学の本をじっくり調べてきた。中川若菜の持ち物は、女性のものに似せてはあるが、違う。この若菜は、ホントの女じゃない。若菜は、ぼくの予想通り、性転換した稔だ。
 驚きと戸惑いで、若菜のそこを見つめていた。
 確かめるだけで済ませるつもりだった。だけど、ぼくはそのまま稔、今は中川若菜とセックスしてしまった。
 ぼくは稔が大好きだった。ぼく自身が中川若菜だと確信したとき、もし稔が男のままだったら、幼い日の約束を果たせないなと思っていた。稔が女になったことを確かめた今、約束が果たせると思うと止められなかった。

 中川若菜は、性転換した稔だった。何のために、性転換までして、ぼくの名前を騙るのだ?
 両親の葬式の夜のことを思い出した。ぼく、中川若菜には、両親の死亡保険金が遺産として相続され、かなりの財産がある。その財産のために・・・・。そうだとしか考えられない。
 稔がそんなことをするなんて・・・・。
 一時は、すべてを公にして、ぼくの財産をこの手に取り戻そうとも考えた。しかし、そんなことをすれば、今の中川若菜が稔で、性転換していることが表沙汰になってしまう。ぼくは稔を、性転換して若菜となった稔を愛していた。とてもそんなことはできない。
 じっと考えた。まだ幼かった稔が、財産を手に入れるために性転換するなんてことは考えられない。・・・・そうか、浩二郎叔父さんのアイデアだな。そうに違いない。稔に罪はない。
 若菜と結婚しよう。そうすれば、財産問題も解決するし、ぼくと若菜の幼い頃の約束も果たせる。