第12章 青柳一郎の告白

 午前の授業が終わり、グランドを横切って学食へ向かっていると、脇道から伊東先輩が姿を現した。伊東先輩は、経済学部の4年生で、ぼくの高校の先輩だ。この大学に進学してきたとき、数少ない同窓生だと言うことで、寮への手続き、バイトの斡旋などいろいろと世話を焼いてくれた。マンドリンクラブの部長をしていて、入学したとき、入部しないかと誘われたけど、ぼくはワンゲルに入った。マンドリンクラブなんて、柔なクラブには入りたくなかったからだ。
 「いよう、青柳。調子はどうだ?」
 「別に」
 「相変わらず、愛粗ねえなあ。もう少し明るくしろよ。山男らしくないぞ」
 ぼくは肩を竦めて、伊東先輩と一緒に学食へ向かった。
 「今日も定食か? たまにはスペシャルにしろよ。スペシャルに」
 そう言いながら、伊東先輩も定食を頼んでいた。
 「そんな金、ないですよ」
 「うちは医者だろう? 仕送りを増やして貰えよ」
 「医者って言っても、公務員で安月給だから」
 「そうなのか?」
 「奨学金を貰えないだけ、伊東先輩何かより不利なんですよ」
 「へえ、そんなもんなのか?」
 ぼくは、肉よりころもの方が厚い豚カツを囓った。
 「ところで、青柳?」
 「なんですか?」
 「来週の火曜日に体は空いてないか?」
 「火曜日ですか? 火曜日は・・・・、家庭教師のバイトがあります」
 「家庭教師? そんなの断れよ」
 「断れませんよ」
 「俺の誘いを断るのか?」
 いつも世話になっている手前、断りきれなかった。
 「・・・・じゃあ、断りますけど、何の用時ですか?」
 「実はな。火曜日の朝から、マンドリンクラブの連中で一泊泊まりのキャンプに行くんだ」
 「それで?」
 「女が多くて、バランスが取れないんだ。よかったら、お前にも行ってもらおうと思ってな」
 「ぼくはいいですよ。遊びより、生活費を稼ぐ方が大事ですから」
 「たまには息抜きも大事だぜ」
 「息抜きするなら、寮で寝てます」
 「寝るくらいならキャンプに行こうぜ。焼き肉食って酒を飲んで、翌日は海で泳ぐ。可愛い子もいるぜ」
 「女の子に興味はないです」
 「まあ、そう言うなよ。金がねえって言うのなら、費用は俺が出してやる。いいな」
 うんと返事をせざるを得なかった。

 約束の日、シェラフを初めとする荷物を背中に担いで集合場所へ行った。ワンゲルの仲間で、経済学部に所属するふたりの顔も見えた。
 「いよう、青柳。お前も来たのか」
 「テント張り要員みたいですね」
 「そのようだな」
 「可愛い子がいるみたいだな」
 和泉和夫がにやりとしながら言った。田中益男もウンウンと頷く。ふたりとも、キャンプと言うよりも女目当てと言ったところのようだ。
 少し遅れてきた背の高い女性を見て、ぼくは少しめまいを覚えた。どこかで会ったような気がしたが、思い出せなかった。

 車に分乗して、海岸近くのキャンプ場へ行った。テントを張り終えて、火をおこしてやり、焼き肉パーティーが始まった。あんまり飲めないビールを片手に、焼き肉をつまんでいた。
 しばらくして、自己紹介が始まった。男連中は、女の興味を引こうとおもしろおかしく自己紹介している。しかし、ぼくはそんな気になれない。
 「青柳一郎。医学部1年」
 それだけ言って座り込んだ。いくつか質問されたけど、ぶっきらぼうに答えた。最後は、話すことはもうないで締めくくった。
 女性陣が自己紹介を始めた。内容はぜんぜん聞いていなかったけれど、3番目に立った背の高い女の子、どこか見覚えのある女の子に、ちょっと興味が沸いて耳を傾けた。
 「中川若菜です。大分県大分市出身です。薬学部2年。趣味は、読書と音楽鑑賞です」
 その名前がぼくの耳に飛び込んできた瞬間、頭の中にズキンとした痛みが起こった。ぼくは、もう一度名前を聞き返した。
 「中川若菜です」
 中川若菜? その名前を繰り返すと痛みがますますひどくなった。伊東先輩が、ぼくの顔色が変わったのを見て、心配して覗き込んできた。
 「な、なんでもない。頭が痛い。先に寝る」
 ぼくはそう言い残して、先輩が止めようとするのを振り払ってテントの中へ入った。誰かがぼくの悪口を言っているようだが、そんなことは気にならなかった。
 シェラフにくるまってテントに天井を見つめる。中川若菜という名前、彼女の顔を思い出そうとすると、頭痛がひどくなった。

 ぼくには、幼い頃の記憶がない。その失われた記憶が蘇ってくるような気がした。ぼくは必死で記憶をたどった。しかし、どうしても思い出せない。
 ぼくの記憶は、7年ちょっと前から始まっている。あの日、海の中から助けられたときから・・・・。

 口を塞がれ息ができない。ぼくは必死で藻掻いた。
 「ごほっ! ごほっ! ごほっ!」
 「よかった。生き返った」
 息をすると、まだ咳が出た。ここはどこ? ぼくはここで一体何をしているの? 目を開いてキョロキョロと見回すと、ぼくは小さな小舟の上にいた。目の前に30代半ばくらいの男性が座っていて、心配そうな顔でぼくを見ていた。
 「急いで岸に戻ろう。寒いだろう。これを着なさい」
 その男性は、着ていたウインドブレーカーを脱いで、ぼくに手渡してくれた。ぼくはのろのろとそのウインドブレーカーを着た。ウインドブレーカーを着たけれど、寒くて歯がガチガチと鳴った。
 「まさか人間が釣れるとは思わなかったよ」
 「はあ?」
 ぼくは訳が分からず首を傾げた。
 「最後の一投をあげているとき、あんまり重いから、ゴミでも引っかけたんだろうと思ってたんだが、君が上がってきたときには、さすがにビックリしたよ」
 ぼくは寒さで体が震えて声を出せない。
 「てっきり死んでいると思ったんだが、体に少し暖かさが残っていたから、蘇生をやってみたんだ。イヤ、助かってよかった」
 そう言うと、エンジンをかけて港に向かって舟を走らせた。風が冷たい。意識が途切れそうになる。

 港に着くと、男は車から出してきた毛布でぼくの体を包んで抱き上げ、車の中に乗せてくれた。しばらく走って、小さな家の前に着いた。
 「おおい。春子!! お湯を溜めてくれ」
 「どうなさったんですか? そんなに大声を出して」
 「海でこの子を拾ったんだ。体が冷え切っている。暖めてやらないと」
 春子と呼ばれた女性は、ぼくを見て目を丸くした。
 「病院へ連れて行ったら?」
 「それよりすぐに暖めてやらないと死んでしまう」
 「分かりましたわ」
 浴室に連れて行かれて、濡れた服を脱がされた。
 「さあ、小父さんが一緒に入って暖めてやるからな。ややっ!! ・・・・女の子なのか!? 男の子の服を着ているから、てっきり男の子だと思ったが・・・・。そう言えば、ちょっと髪の毛が長めか。おおい、春子。ちょっと代わってくれ。この子は女の子だ」
 春子さんが、走り寄ってきた。
 「あらあら。そうなんですの? じゃあ、わたしが入りましょう」
 ぼくは自分の体をじっと見つめた。ぼくには、出ていった男の人のようなおちんちんが付いていないから、女の子なんだろうなと思った。

 浴室から出ると、ぼくは男の子のパンツとシャツ、ブルーのトレーナーを着せられた。
 「男の子用しかなくてごめんね。去年死んだ長男のものなの」
 春子さんと呼ばれた30くらいの女の人は悲しそうな表情を見せた。
 「顔色はよくなりましたけど、やっぱり病院へ連れて行った方が・・・・」
 「お前が風呂に入れている間に電話しておいた。小児科にベッドを用意してくれている。すぐに出るぞ」

 車で20分ほどの場所にある病院へと運ばれていった。
 「青柳先生、電話で話していた子は、この子ですか?」
 「そうだ。海から助け上げたときには仮死状態だったんだ。よく助かったよ。風呂に入れて体を温めたが、かなり水を飲んでいるし、ともかく入院させてくれ」
 「分かりました。おい君、すぐにルート確保だ。それからすぐにレントゲンと採血」
 「はい」
 「青柳先生、身元は聞きました?」
 「まだだ」
 ぼくを助けてくれた男は青柳という名前らしい。先生と呼ばれているところを見ると、お医者さんのようだ。
 小児科・山田と書かれたネームプレートを付けた若い医者が、ぼくに尋ねた。
 「君。お名前は?」
 名前? 名前は・・・・。まったく思い出せなかった。ぼくは首を傾げた。
 「名前を思い出せないの?」
 ぼくは頷く。
 「困ったな。お父さんやお母さんの名前も?」
 ぼくはもう一度頷く。
 「どこに住んでるの?」
 ぼくは首を振った。
 「記憶喪失か・・・・。一時的なものかな? ま、そのうち、捜索願でも出るだろう。ともかく治療しましょう」
 「山田先生、お願いしますわ」
 その日の夜遅くから、ぼくは39度以上の高熱を出して、生死の境をさまよった。あとで聞いたところによると、肺炎を起こしていて、死んでもおかしくなかったとのことだ。
 三日目に熱が下がり、ぼくは命を取り留めた。その間、ずっと春子さんが付きっきりで看病してくれた。
 ぼくは二度死に直面し、二度とも助かったことになる。
 「さあ、しっかり食べて、早く元気になるのよ」
 そう言いながら、春子さんがお粥をぼくの口に運んでくれた。

 ぼくの回復を待って、婦人警察官が事情聴取にやってきた。
 「お嬢ちゃん、お名前は?」
 ぼくは首を振る。
 「やっぱり思い出せない?」
 ぼくは頷く。
 「困ったわね」
 「大分のフェリー事故で、行方不明者が出ているって聞きましたけど・・・・」
 春子さんが、婦人警官に聞いた。
 「それがですね。行方不明者に該当者がいないんですよ。66歳の女性と、52歳の男性。それに11歳の男の子なんです」
 「この子、11歳くらいですし、男の子の格好をしてましたから、間違いじゃあないですか?」
 「いえ、その点も問い合わせましたけど、間違いなく男の子の行方が分からなくなっているとのことでした。だから、この子じゃないですわ」
 「そうですか・・・・。他に捜索願は出ていないんですか?」
 「この子らしいのはありませんね。少し待ってみましょう。何か分かるかもしれません」
 「待つ間、この子はどうなるのでしょう?」
 春子さんが心配そうに聞いた。
 「そうですね。退院したら、施設に入れることになるでしょうね」
 「施設ですか・・・・。あのう、もしよろしかったら、うちで預かることはできませんか?」
 「お宅にですか?」
 「はい。身元が分かるまでで結構ですから」
 「そうですね。上司と相談してみます」
 「お願いいたします」
 青柳夫妻は、一年前交通事故で一人息子を亡くしていた。だから、身元不明のぼくを引き取りたかったらしい。

 一週間たっても、ぼくの身元は判明しなかった。退院するとき許可が下りて、身元が分かるまでと言う約束で、ぼくは青柳夫妻の元に引き取られた。
 「今日から、ここが自分のうちだと思ってね。・・・・名前はどうしようかな? なにがいい?」
 「・・・・分かりません」
 「そうね。亮子にしましょう。女の子が生まれたら、付けようと思っていたの」
 「それでいいです」
 「さてと、お年はいくつだろう?」
 ぼくは首を傾げる。
 「どれくらいお勉強ができるか、それで分かるわね。さあ、やってみましょう」
 小学校5年くらいの問題を出されてけど、まったく分からなかった。
 「分からないの? じゃあ、これは?」
 いろいろとやってみて、ぼくがひらがなと数字、簡単な漢字しか分からず、計算も足し算と引き算程度しかできないことが分かった。
 「きちんとした教育を受けてないのかしら?」
 「そんな風には見えないがなあ。かなり長い間仮死状態だったから、脳が障害を受けているのかもしれないな」
 青柳さんがそう言う。
 「小学校1年生からやり直すわけにもいかないでしょうから、わたしが少し教えてみます」
 春子さんは、結婚前、小学校の教諭をやっていたという。
 「そうしてくれ。そのうちに身元も分かるだろう」
 「・・・・分からない方がいいけど・・・・」
 春子さんは、肺炎で死にそうになったとき、ずっと看病してくれていた。だから、ぼくのことが気に入っていた。手放したくないばかりに、そう呟いた。
 「そう言うことは言うなよ。親がいるのなら、親元に戻した方がいい」
 「もう10日もたっているのよ。探さない親なんて、親じゃないわ」
 「それはそうだがな・・・・」
 春子さんは、毎日いろいろと教えてくれた。ぼくは乾いた砂が水を吸うように教えられたことを覚え込んでいった。覚えたと言うよりも、思い出していったという方が正しいのかもしれない。

 正月が来たけれど、ぼくの身元は分からなかった。ぼくのことを誰も捜していないと言うことは悲しいことだったけど、ぼくには探すような両親はいないと漠然と感じていた。青柳夫妻の希望で、ぼくは青柳家の養女として迎えられる準備が進んでいった。
 2月に学力の検査が行われた。その結果、小学校を卒業するくらいの能力があるとの判定が下され、4月から、青柳亮子として中学校へ入学することになった。

 3月のある日、春子さんとお風呂に入っていると、春子さんが素っ頓狂な声を上げ、裸のまま、外に飛び出していった。
 「あ、あなた! 大変よ。早く来て!!」
 「なんだ、どうした。お前、服くらい着たらどうだ? ご近所に見られたら、みっともないぞ」
 「それどころじゃないですわ。早く浴室に来てくださいな」
 何が起こったのだろうかと思っていると、春子さんが青柳さんを連れて戻ってきた。
 「亮子さん。そこに立って、少し足を開いて見せなさい」
 「恥ずかしい」
 「分かってるけど、ちょっとだけでいいわ。はやく!」
 ぼくは口を尖らせながら、言われるとおりにした。
 「どう? おかしいでしょう? クリトリスがこんなに大きくなっているわ」
 「あ、ああ。そのようだな。ちょっと検査をしないといかんな。亮子、明日、病院へ行くぞ」
 「病院? どうして?」
 「・・・・どうしてって、検査しないといけないからだ」
 「ふうん」

 訳が分からないまま、翌日病院へ連れて行かれた。採血、CT、シンチグラムが行われた。
 結果を見ながら、青柳さんが溜息をついた。
 「参ったな。手続きをやり直さないといけないぞ」
 「どうなさったの?」
 「亮子じゃおかしい。亮子は、男の子だ」
 「ええっ!!」
 春子さんは驚きに目を丸くした。

 ぼくに下された診断は、男性仮性半陰陽。本来は男として生まれるはずが、妊娠中の母親の問題で、女性のような外陰部で生まれると言う病気だ。クリトリスが大きくなったのではなくて、小さく隠れていたペニスが発達してきて見えるようになったのだ。第二次性徴が出現して、男としての特徴が現れて来たというわけだ。
 「停留睾丸も合併しているが、男性ホルモンを少し補充してやれば、陰嚢の位置まで降りてくるかもしれない。降りてこなければ、手術して、ちゃんとした位置に戻そう」
 山田先生が、青柳さんにそう説明していた。

 その日から、ぼくは男性ホルモンの投与を受け始めた。名前も一郎と改め、青柳琢磨の養子となり、詰め襟の学生服を着て中学校へ通学し始めた。

 3月までスカートをはいていたのに、妙な気分だった。だけど、男の格好の方が、なんだかすっきりしているなという思いがしていた。
 夏休みになる頃には、睾丸が陰嚢の中に収まって、手術しないですんだ。男性ホルモンの補充もしなくてすむようになった。声変わりが始まり喉仏も出てきた。髭も生えるようになった。
 ぼくが一年間女の子の格好をしていたことを知っている近所のこどもたちから、かなり虐められたけど、牛乳を飲み体を鍛えて男らしい体になること、勉学に打ち込んで成績を上げることで、虐めを克服した。
 だけど、女の子の格好していたと言うことが、ぼくの心の傷となっていて、どうしても明るく振る舞うことができなかった。
 高校をトップで卒業し、父の影響もあって、こうして医学部へ進んだ。将来は僻地医療に貢献するつもりでいる。両親に言えば、バイトしなくてすむくらいの仕送りはして貰える。しかし、ぼくとしてはそこまで迷惑をかけたくない。だから、授業料以外の生活費は自分で稼いでいる。

 そう言う訳なのだが、ぼくが助け上げられた以前の記憶が気になる。ぼくは一体誰で、親は何をしているのだろうか? いつもそれが気がかりだった。それを今、思い出しそうな気がするのだ。あの中川若菜が鍵を握っている。そんな気がする。