一晩中まんじりともしなかった。朝起きると、急いで着替えて、病室へ行った。緑も、緑の母親も寝ていないようだった。ぼく(伯父)は、和室で寝ていたらしく、髪の毛がぼさぼさだった。
自動血圧計の数字は、112の68だった。少なくとも、すぐ死ぬなんてことはないようだ。だが、意識はまだ戻っていない。
ぼくは、看護婦として勤務するしかなかった。特室の様子が気になりながらも、前日と同じように仕事をこなした。
午後になって、特室の担当をしている大杉という看護婦さんが、意識が少し戻ったようですと院長先生に電話している声が聞こえた。よかった。ホッと胸をなで下ろした。
伯父(智ちゃん)が吐血して丸二日目、ぼくは個室の担当になった。伯父(智ちゃん)の様子ばかりを見ていたかったが、桜井、大津のふたりも見ないわけにはいかない。
桜井さんの病室をノックしようとして、中からふたりの会話が聞こえてきた。
「ごめんなさいね、わたしの代わりをして貰って」
声は男の声だ。入れ替わったから、ご主人(奥さん)が、ベッドの奥さん(ご主人)に話しかけているのだ。
「こんなに苦しいのに、おまえはよく我慢していたね」
「あなたの悲しむ顔を見たくなかったの」
「馬鹿だなあ。おまえの苦しみは、わたしの苦しみだ」
「でも・・・・」
「もし、このまま死んでも、悔いはないよ。おまえの代わりに死ねるのなら」
「いいえ、死ぬのはわたしよ。あなたを死なすわけにはいかないわ」
ふたりは、仲のよい夫婦のようだ。ぼくが元の戻って、緑と結婚できたとしたら、こんな夫婦になれるだろうか? いや、きっとなって見せるぞ。
「このまま元に戻らなかったら、そうなるしかないんだ。これも運命だろう」
ぼくは、どきりとした。これも運命だって!? いやだ。ぼくは元に戻って、緑と結婚するんだ。
ぼくは、ドアをノックした。会話が途切れた。
「桜井さん、ご気分はどうですか?」
婦長に言われたようにぼくとしては最高と思われる笑顔を二人に向けて話した。
「最悪だわ。このきついのを何とかして」
「院長先生に何かいい方法を聞いておきますから、待っていてくださいね。脈と血圧を測りますから」
「看護婦さん、できるだけ早く何とかしてください」
「分かりました。待ってってくださいね」
病室を出て、すぐに院長先生に指示を仰いだ。
「きついのはどうにもならんのだがなあ」
顔をしかめて院長先生が答えた。
「・・・・そうだな。ステロイドでもやってみよう。プレドニンを三十ミリグラム、ルートしてくれ。毎日ね」
「はい、分かりました」
ぼくは院長先生の指示をメモに書き留めた。
「話は変わるが、智ちゃん、今晩一緒に飲みにいかないか?」
「院長先生! 藤井さんが悪いんですよ。よくそんな気になりますね」
「藤井さんは、まだ大丈夫だよ。今週末だろう」
具体的な日時が出てきて、ぼくは小さく叫んだ。
「えっ! 今週末?」
「わたしの予想としてはだね」
「当たるんですか?」
「まず間違いないだろう。だから、今晩は大丈夫だ。どうだ。ふぐでも食いにいこう? なあ、智ちゃん」
今週末、今週末。頭の中にその言葉が、ぐるぐる回った。ぼくは、院長先生の誘いに返事をせずに、二階に上がった。
指示されたプレドニンという薬を桜井さんに静脈注射すると、『気分が良くなった、看護婦さん、ありがとう』と言われた。
ナースステーションに戻ると、美代ちゃんが、『大津さんのお嫁さんが久しぶりに来ているわ』とぼくに話しかけてきた。大津さんと大津さんのお嫁さんは入れ替わっているのだろうか?
ぼくは、個室の前で、聞き耳を立てた。
「あら、寿子さん、お元気?」
大津さんの名前は、大津茂子だったはずだ。と言うことは、間違いなくふたりは入れ替わっているのだ。大津さんはものが言えないから、お嫁さんお声だけが聞こえてくる。
「ごめんなさいね。久しぶりに元気になれたものだから、遊び回っていて、ここに来るのをすっかり忘れていて」
大津さんのお嫁さんは、毎日看病に来ていたと聞いている。それを、何という仕打ちだろう。
「あなた、ことあるごとに、もう年だからと言っていたけれど、あなたはまだ若いわよ。わたしなんかに比べれば、もうぴちぴちよ。息子が相手にしてくれないなんてぼやいていたけど、あなたのやり方が悪いのよ。毎晩毎晩満足させて貰ったわ」
ええっ!! 大津茂子さんは、お嫁さんと入れ替わったことをいいことに、自分の息子と寝たんだ。体は、お嫁さんだから、いいのはいいだろうけど、そんなことが許されるのだろうか? 母親は、夫よりも息子の方が大切で、許されることなら、息子と寝てみたいという願望が心の奥底にあるという話を聞いたことがあるが、大津茂子は、それを不道徳と言われない状況で実現してしまったのだ。信じられない・・・・。
部屋の中から、大津さんの泣き叫ぶ声がし始めた。それはそうだろう。自分の大事な夫を姑に取られたのだから。
「わたし、元に戻りたくないわ。ここにいたら、元に戻るような気がするの。もう、二度とここには来ませんからね」
ひどい。ひどい人だ。こんな人は生きている資格がない。だが・・・・。同じ立場になったら、みんなどうするだろうか? ぼくも智ちゃんも元に戻りたいと願っている。しかし、伯父は・・・・。伯父はきっと元に戻りたいなんて思っていないだろう。それが人間の性というものだろう。
ドアを開けて出てくる大津寿子(茂子)とぶつかりそうになった。ぼくは、彼女を睨み付けてやったが、彼女は、知らんぷりで出ていった。可哀想な大津茂子(寿子)。ぼく自身のためだけでなく、桜井、大津のふたりも元の戻るように願った。
しかし、ぼくの願いは虚しく、一向に元に戻る気配を見せない。時間が過ぎて行くばかりだ。