朝が来た。もはや期待はしていなかったが、やっぱり元に戻っていなかった。あ〜あ、看護婦さんしなければならない。憂鬱だが仕方がない。智ちゃんのためにガンバらなくっちゃ。ぼくが今うまくやっておかなければ、あとで智ちゃんが非難されることになるからだ。
ナース服を着て、鏡に映してみる。今日も化粧の仕上がりはばっちりだから、以前の智ちゃんと変わりはないはずだ。
「準備できた?」
婦長さんが今日も心配して覗いてくれた。
「大丈夫です。行きましょうか」
「教えたことを忘れないでね。それから、笑顔。清水さんの笑顔は、患者さんにとって何よりの薬だからね」
「はい。分かっています」
「じゃあ、いざ、出陣!」
ナースステーションで、申し送りを受ける間中、緊張で汗が出た。
早速点滴をして回ることになった。幸いなことに、ぼくの担当は、ボケ老人の多い、一号室と二号室だ。何回針を刺しても文句を言われることはないだろう。そんな安心感があるためか? それとも婦長さんの身を挺しての特訓が聞いたのか? 八人とも一発でうまくいった。ぼくは、万歳と叫びたい気持ちだった。
午前十時の検温もうまくいった。カルテの記録もばっちりだ。と言うか、変わりのない患者ばかりだったので、前に書かれていることを書き写せばいいようなものだったのだ。
婦長さんが、心配そうに見に来るけど、ぼくの様子を見て、安心したように外来に降りていった。
そう言えば、桜井さん夫婦と、大津さんはどうなったのだろうか? 元に戻っているのだろうか? そんなことはないだろうな。ぼくたちが元に戻っていないんだから。
何気なく様子をうかがってみると、桜井さん夫婦は、個室に移っていた。奥さんの具合が悪くなったという明目らしいが、そうでないことは一目瞭然だ。奥さんの病状はそんなに悪くはない。ただ、ご主人は、奥さんの精神が入り込んでいるわけだから、会社には行けないだろう。奥さんの具合が悪くなったことにして、会社を休んでいるに違いない。
大津さんの方は、お嫁さんは来ていない。いつもは九時には来るのにねえと、美代ちゃんが言っているのを耳にした。恐らく、大津さんとお嫁さんは入れ替わっている。パ−キンソン病で、体の自由の利かない大津さんの中に閉じこめられてしまったお嫁さんは、訳が分からずわあわあ言っているから、昨日から鎮静剤を打たれて、ほとんど眠らされているようだ。可哀想に。
午後の勤務も無事に終えて、引き継ぎをしてから、ぼくは寮の部屋へ戻った。着替えていると、ドアをノックする音がした。
「はい、どうぞ」
「うまくやれたじゃないの」
婦長さんが、にこにこ顔で部屋に入ってきた。
「婦長さんの特訓のお蔭です」
「あなた、才能があるわよ。ずっとやっていけそうね」
「ずっとするつもりはありませんけど・・・・。でもね、婦長さん。今日一日智子として過ごしてみて、あることに気がついたんです」
「なにに?」
「一生懸命智子になりきろうとしていたら、却ってだめなんです。力を抜いて、自然にしているといいようなんです」
「へええ、そうなの」
「看護婦の仕事も、体の方が覚えていて、勝手に動いてしまうって感じなんです」
「じゃあ、特訓はいらなかった訳ね」
「そう言う訳じゃあないとは思うんですけど、うまくやれそうです」
「なるほどね」
「癖なんかも、わたしのものじゃなくて、智子のものらしいんです。こんな風に頭を少し傾けて喋る癖とか、前髪が落ちてきたときに、頭を振る癖なんか、藤井真吾の癖じゃないんです」
「意識以外は変わっていないと言うことね」
「そう思います」
「よかった。これなら、元に戻っても、清水さんに傷が付くことがないわ」
「わたしとしては、早く元に戻ってくれることを願うだけですよ」
「わたしもそう思うわ。藤井さん、かなり悪そうなの。代わりをしている清水さんは、苦しいでしょうからね」
「そうですよね」
そんなことを話していると、院内放送がなった。
「手の空いている看護婦は、すぐに特室に来てください。繰り返します。手の空いている看護婦は、すぐに特室に来てください」
ぼくは、ぎょっとした。特室!! 伯父の病室だ。
「何かあったみたいね。早く行きましょう」
ぼくと婦長さんは、急ぎ足で、二階の特室へ向かった。
部屋の中から、院長先生の大きな声がする。病室から出てきた看護婦の服が血だらけになっている。部屋の中に飛び込んでみると、ベッドの周りのカーテンの上の方まで血が大量に付いていた。もちろん床も血だらけだ。
院長先生が、伯父(智ちゃん)の鼻から、太いチューブを一生懸命入れていた。伯父(智ちゃん)の口からごぼごぼと血が溢れ出ている。
「輸血は! 輸血を早く持ってこい! プラスマネートもだ。早く、早く!」
ぼくは呆然と立っていた。何が起こったのだろうか?
「智ちゃん、血圧を測って!」
婦長にそう言われて、正気に返った。慌ててベッドのそばに行って、血圧を測った。何度測ってもうまく測れない。やっと測れた血圧は、60だった。
「60です」
「プラスマネート全開だ。輸血はまだか」
「もう来ます。挿管はいいですか?」
「呼吸は大丈夫だから、いいだろう。だが、いついるようになるかもしれんから、その辺に置いておけよ」
「輸血、来ました」
美代ちゃんが血液バッグを抱えて入ってきた。
「全開で落とせ」
「先生! ルートが取れません」
婦長が伯父(智ちゃん)の腕を叩きながら叫ぶ。
「IVHからでいい。早く入れろ」
「分かりました」
婦長が輸血を継いでいる間に院長先生は、チューブを操作している。
「よし、チューブがうまく入った。これで、止血はできるだろう。婦長! 家族は呼んだか?」
「連絡してくれているはずです」
「よし。清水君、血圧は?」
血圧計の水銀をあげる。耳元で心臓がどきどきしている。
「80の30です」
「よかった。何とか持ちこたえたようだ。だいぶ出たなあ。輸血は何本ある?」
「全部で三本です」
「二千は出ているから、最低あと二本必要だ。まだ出るかもしれんから、400をあと五本追加してくれ」
「分かりました」
美代ちゃんが病室に顔を覗かせた。
「院長先生。家族に連絡が付きました。すぐに来るそうです」
「外来を片づけてくるから、家族が来たら呼んでくれ。婦長、一緒に来てくれ」
「はい、分かりました」
院長先生と婦長が特室を出て行った。ぼくは居残って血圧を測っていた。血圧は、80からなかなか上がらない。どうなるんだろう? このまま死んでしまうなんてことはないだろうな。ぼくは、何度も何度も血圧を測り直した。
二本目の輸血が終わる頃、ようやく血圧が100前後になった。ほっとした。
どたどたと足音がして、緑と、緑の母親がやって来た。ふたりとも色がなかった。
「お父さん」
「あなた。大丈夫ですか?」
伯父(智ちゃん)は、返事をしなかった。ぼくがこの部屋に来たときには、もう意識がなかった。意識が戻るだろうか? 心配になる。
「看護婦さん、お父さんの具合はどうなんですか?」
緑がぼくにそう尋ねた。涙で、顔がぐしゃぐしゃだ。
「意識はないけど、血圧はしっかりしているから、大丈夫ですよ」
大丈夫かどうかなんて、ほんとはぼくにも分からなかったが、分からないと言うよりは、そう言って置いた方がいいと思った。緑は少し安心したようだ。
「奥さん、お待ちしておりました」
院長先生が、ドアを開けて部屋に入ってきた。外来はすんだのだろうか?
「先生、主人はどうしたのですか?」
「五時半頃、突然吐血しましてね」
「吐血!? どこから血が出たんでしょうか?」
「おそらく、静脈瘤の破裂だと思います」
「静脈瘤の破裂ですか」
「肝硬変の時には、食道に静脈瘤ができるんです。それが破れたようですね」
「どうなるんでしょうか?」
「今は、止まっています。鼻からチューブが入っているでしょう? それで、止めてあるんです」
「血は止まるんでしょうか?」
「恐らく止まってくれるとは思いますが・・・・。それよりも問題は・・・・」
「問題があるんですか?」
「かなり出血して、血圧が一時的にかなり下がりましたから、肝臓へのダメージが大きいでしょう」
「そうすると、どうなるんです?」
「静脈瘤からの出血が止まったとしても、肝機能が落ちて、亡くなることも充分あり得ます」
「何とか、何とかならないんですか?」
「肝硬変は、癌より怖い病気です。こうなったら、もう祈るしかありません」
緑も、緑の母親もその場で泣き崩れてしまった。
伯父(智ちゃん)が死んでしまう。予想はしていたが、こんなに早くその事態が訪れようとは思ってもみなかった。伯父(智ちゃん)が死んでしまったら、ぼくはどうなるんだろう?
「清水君。・・・・清水君!」
「あっ、はい」
ぼくは、考え込んでいて、院長先生の声が耳に入らなかった。
「どうしたんだ? 何か考え事か?」
「いえ、何でもないです」
「血圧が安定していたら、自動血圧計を持ってきて付けなさい。サチュレーションモニターもな」
「はい、分かりました」
ぼくは、ナースステーションに戻った。
「自動血圧計を付けてくれって、院長先生が言ってるわ」
「清水さん、それが空いているから、持っていって付けてくれない? ちょっとこっちも忙しいの」
「分かったわ」
付け方がよく分からないが、そう答えざるを得ない。器械をごろごろ移動させていると、婦長が外来から上がってきた。
「婦長さん、ちょうどよかった。付け方が分からないから、付けて貰えますか?」
「いいわよ。どう? 藤井さんの具合は?」
「血圧は、100くらい。でも、意識がないわ」
「ううん。厳しいなあ。静脈瘤の破裂でしょう?」
「院長先生がそう言ってたわ」
「過去にも経験があるけど、意識が戻らないままのこともあるからねえ」
「そんなの困ります」
「そうでしょうけど・・・・。亡くなったら、元に戻るかもしれないし」
「期待できますか?」
「あなたがそう言ったのよ」
「・・・・そうでしたね」
自動血圧計を取り付けていると、ぼく(伯父)がやって来た。事情を聞いて、複雑な顔をしていた。
ぼくは、部屋に泊まりたかったが、婦長さんに、『あなたがいてもよくならないし、不自然よ。明日の勤務もあるのだから、部屋に帰りなさい』と言われ、仕方なく、部屋に戻った。ぼくのいる部屋は、特室のすぐ上だ。何かあったら、すぐに飛んでいける。