第二十二章 智子の両親への報告

 翌々日、勤労感謝の日、ぼくは正臣と共に、ぼく、智子の実家に帰った。初めて訪れる智子の実家。ぼくは、話を短時間で切り上げて戻るつもりだ。ぼくには、智子としてどう振る舞っていいのか分からないからだ。
 父親は、まだ怒っているのか、ぼくが帰ってきたという母親の声を聞いても、奥から出てこようとはしなかった。しかし、正臣が結婚の許可を貰いに来たというと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、慌てて出てきた。他の男との子どもを流産してから、二ヶ月も経たないのだ。ビックリするのも無理はない。
 「藤井正臣と言います。今日は、智子さんとの結婚を許して貰うために、こうしてやって来ました」
 「本当に、智子と結婚を?」
 「嘘や冗談を言っているわけではありません。どうぞ、お許しをください」
 「藤井さんと言いましたかな」
 「はい」
 「藤井さんは、何をやっておられるのですか?」
 「何をとおっしゃいますと、仕事のことでしょうか?」
 「そう、お仕事は?」
 「循環器専門の医者をやっています」
 「医者!? お医者さんですか?」
 「はい。今は、大学におります。ゆくゆくは開業するつもりでおります」
 「は、はあ・・・・。智子はもう立派な大人ですし、許すも許さないもないのですが・・・・、智子のことはどれくらいご存じで」
 「何もかも知っていますよ。知った上で、こうしてお願いに上がっているのです」
 「何もかもご存じで?」
 「そうです。塩崎君とは同期ですからね」
 ふたりは、信じられないと言う顔をして、顔を見合わせている。
 「ほんとうに、うちの娘を?」
 「頂いてよろしいんですね?」
 「も、もちろんですとも。智子、良かったな」
 父親は、ぼくにとっては初めての笑顔をぼくに向けた。
 「ほんと、いい人にお嫁に貰っていただいて」
 母親は涙ぐんでいる。
 「早速ですが、来月の二十三日、天皇誕生日の日に式を挙げたいのですが、それもよろしいでしょうか?」
 「来月!?」
 「できるだけ早く一緒になりたい。ただ、それだけです」
 「あのう」
 母親が心配そうな顔で、正臣を見た。
 「ああ、できたから、早く結婚したいというわけではないですので、ご心配なされなくてもいいです。ちゃんと避妊はしておりますから。あっ、いや、ぼくたちは子どもじゃないですから、いいですよね」
 「いえ、いえ、構いませんよ。どうせ結婚するんですから」
 「ありがとうございます」
 「せっかく遠くから来ていただいたんですから、お昼をご一緒してくださいな」
 「おう、それがいいな。すぐに準備しなさい」
 「何にもありませんけど、わたしの手料理で良かったら」
 「喜んでごちそうになります」
 母親は、慌てたように台所へ立っていった。
 「藤井さん、どうです。お近づきの印に、一献いかがです?」
 「いえ、車で来ておりますから」
 「そうですか。それは残念ですな。智子が運転できるといいのですが、智子は免許を持たないからですね」
 ぼくは、運転できるのだが、免許がない以上運転するわけにはいかない。ふたりの会話を聞きながら、正臣のそばに座っていると、母親が台所から怒ったような声で言った。
 「智子、少し手伝いなさい。今日からでも、少し教えておかないと、あなたは何にもできないんだから」
 「はい」
 智子は何にもできないか。しかし、ぼくよりはできるだろう。ハイと答えたものの、ぼくは台所に突っ立っていた。
 「智子、お味噌取って」
 「お味噌? どこにあるの?」
 「いつものところよ」
 そう言われても困る。キョロキョロしていると、母親がぼくの目の前から、味噌の入った容器を取っていった。
 「智子。結婚する以上、今まで通りにはいかないわよ。分かってるわね」
 「はい」
 「お勉強ができるからって、何にもさせなかった、わたしもいけなかったんだけど。とにかく、まだ一ヶ月あるから、頑張りなさい。一生懸命やれば、できるようになるわ。いいわね」
 「はい」
 「智子、今日は、ハイしか言わないんだね」
 「緊張してるの」
 「へええ。あなたでも緊張するのね。智子は、一度もそんなことなかったのにね」
 ぼくは、少しどきりとする。
 「まあ、結婚の申し込みですからね。緊張するのも、無理はないでしょうね。そこで、お母さんの作り方を見ていなさい。いいわね」
 「はい。分かりました」
 母親は、ぼくの雰囲気がいつもの智子と少し違うと感じているようだが、まさか、心が他人と入れ替わっているなんてことは夢にも思っていないだろう。いろいろとぼくに説明しながら、料理を作って見せた。

 午後三時、明日は仕事があるからと言って、ふたりで智子の実家をあとにした。本当は、ぼくは休みなのだけれど、何だか、ばれるような気がして、智子の実家に長居したくなかった。
 「智子、夕食を一緒にしようか?」
 「ええ、喜んで」
 「少し時間が早いから、どう? モーテルでも寄ろうか?」
 「・・・・ごめん。生理が始まっちゃったの」
 「そうか。じゃあ、少し遠回りして、ドライブを楽しもう」
 ちょっと残念そうな表情を見せて正臣はハンドルを切った。

 そうなのだ。ぼくは生理中だ。初めて経験する生理。始まったのは、金曜日だった。正臣に、病院まで送り届けて貰って、部屋で着替えているとき、ショーツにピンク色のシミができているのに気がついた。ぼくは慌てて婦長さんの部屋をノックした。
 「どうしたの? そんなに慌てて」
 「出血してるみたいなの」
 ぼくは小声で婦長さんに言った。婦長さんは、初めは何のことか分からず、きょとんとしていた。
 「出血? ・・・・ああ、生理なのね」
 「えっ!? 生理?」
 「そろそろ来る頃でしょう?」
 「そうか。生理なのね。どうかなったんじゃないかと思ってビックリしちゃった」
 「馬鹿ね。あなたは女なんだから、毎月あるのよ。当て方は分かっているわね」
 「ええ。すみません、おさがわせしました」
 生理用品の当て方なんて、男は誰も知らないだろう。けれどぼくはできる。あの不愉快な掻破手術のあと、ぼくは一週間ほど生理用品を当てていた。
 女であることには慣れては来たけれど、これだけは、いやだ。でも、そうはいっておられない。ぼくが女である以上、ずっと付き合っていかなければならないのだ。

 「智子。仕事はどうするつもりだ?」
 「どうしよう」
 ぼくは、予期せぬ出来事で、看護婦をやらなければならなくなったけれど、看護婦という仕事が好きだ。ずっとやりたい気持ちもあるのだが、医者の妻となってしまうと、続けようにも続けられないような気がする。
 「お医者様と結婚した看護婦さんは、みんな辞めてしまうみたいね」
 「辞めても後悔しないか?」
 「仕方ないと思うわ。でも、将来開業したら、少しは役に立てるかもしれないわ」
 「そうだね。じゃあ、十一月いっぱいでいいね」
 「はい」
 「ところで、寮にいると、連絡しにくいから、引っ越さないか?」
 「えっ!? どこに?」
 「もちろん、ぼくのマンションだよ。いやかい?」
 「いやじゃないけど、どこにあるの?」
 「弥生町にあるんだ。そうだ、今から寄ってかないか?」
 「いいわよ」
 車は、正臣のマンションへと向かった。しばらく走っていると、ぼくは懐かしさを感じ始めた。
 「もうすぐだよ」
 周りを見回してやっと気がついた。そうか。弥生町のマンションと言えば、ぼくの、藤井真吾の住んでいたマンションだ。真吾は、今は緑の実家に住んでいる。空き家になったマンションを正臣が使っているのだ。

 エレベーターで上がり、部屋の前まで歩く間、ぼくは言い知れぬ懐かしさを覚えた。けれど、それは部屋のドアを開けるまでだった。部屋の中の雰囲気は、ぼくがいたときと一変していた。住む人間によって、これほど違うんだと言うことを思い知らされた。
 「散らかってるけど」
 確かに散らかってはいるけれど、ぼくがいたときよりは片づいている。
 「持ってくる家財があるかなあ」
 「ドレッサーとタンスかな?」
 「いいものかい?」
 「安物よ」
 「じゃあ、新しいものを買ってあげるよ。中身だけ持っておいで。ぼくのタンスはまだ空きがあるから」
 「女は持ち物が多いわよ」
 思い浮かべてみると、空いているスペースには入りきらないと思った。
 「入らなければ、その時に考えよう」
 「いつ越してこよう?」
 「明日って訳にはいかないな。来週の日曜日は?」
 「来週は勤務。土曜日はお休みよ」
 「土曜日は、ぼくも休みは休みだが、一度顔を出さなきゃならないから、土曜の午後にしよう。もし、ぼくが帰れなくてもいいように、管理人に言っておくからね」
 「分かったわ」
 「じゃあ、飯を食いに行こう」

 夕食を住ませて、正臣に病院まで送ってもらった。お別れのキスをしていると、BMWが帰ってきた。婦長さんが、にっこり笑って、正臣の挨拶した。
 「藤井先生、ごちそうさま」
 「あれ、婦長さん。悪いところを見つかったなあ」
 「清水さんみたいな優秀な看護婦さんは、早々見つからないんだけどなあ。後任はいつまでに見つけたらいいのかな」
 「婦長さんは、何でもお見通しだな。今月中に見つけないと欠員が出ちゃうよ」
 「わあ、そんなに早いの? 困ったな」
 「すみませんね。ご迷惑を掛けて」
 「清水さんの幸せのためですもの、仕方ないですね」
 「お願いしますね。院長には、明日、来たときに話しておきますから」
 「はい、はい。分かりました」
 「じゃあ、智子さん。また、明日ね」
 「お休みなさい」
 「お休み」
 正臣は、ぼくと婦長さんに投げキッスをして帰っていった。

 「さあ、大変だ。後任を早く見つけないと。ふたりも見つかるかなあ」
 「えっ!? ふたりですって? どういうことですか?」
 「あなたとわたしのふたりの後任よ」
 「ええっ! 婦長さんも辞めてしまうんですか?」
 「そうよ。わたしも今月で辞めるわ」
 「どうしてまた? ・・・・まさか」
 婦長さんは、まるで少女になったように、嬉しそうな顔をしている。ぼくの考えに間違いないようだ。
 「わたしにも、春が巡ってきたという訳よ」
 「あの山田さんと?」
 「そうよ。山田さんじゃなくて、ほんとの名前は、三代って言うんだけどね」
 「聞かせて。どうなってるの?」
 「三代さんは、四十二歳の独身だけど、お子さんがいるの」
 「お子さんが? 奥さんはどうしたの?」
 「二年前、癌でなくなったそうよ」
 「そうなの」
 「おととい、三代さんに会いに行ったでしょう? 本気でわたしに求婚するのよ。最初は断ったのよ。娼婦みたいなことをしている女のどこがいいのって」
 ぼくはあの時、お金を受け取らなかったけれど、婦長さんは受け取ったんだ。そう思われてもおかしくはない。ぼくだって、お金を受け取らなくても、同じようなことはしたのだが・・・・。
 「彼が言うには、わたしはその亡くなった奥さんに、よく似ているんだって。亡くなった奥さんの代わりなんてしたくないわって言ったら、ぼくのためだけじゃない。娘のためにも一緒になってくれって言うの」
 「娘さんのために?」
 「そう。彼の娘さんは、十歳なんだけど、奥さんが亡くなってから、自閉症になってしまったんだって。だから、その娘さんのためにと言うのよ」
 「へええ」
 「それでね。今日、その娘さんに会いに行ってきたの」
 「どうでした?」
 「わたしの顔を見るなり、ママって言って、抱きついてくるのよ」
 「そんなに似てるんですか? 亡くなった奥さんに」
 「写真を見せられて、ビックリしたわ。まるで自分の写真を見せられているみたいに似ているの」
 「そんなことって、あるんですねえ」
 「信じられないけど、そうなの。その子が可愛い娘でねえ。わたし、すぐに好きになっちゃって。この子のために結婚してもいいかなと思って」
 うっとりとした表情を見せた。
 「承諾したのね」
 「その通りなの。だから、後任を見つけなくちゃならないの」
 「辞めないといけないんですか?」
 「仕事は辞めたくはないけど、仕事を続けていたら、その子のそばにいてあげられないでしょう?」
 「そうか。婦長さんは忙しいからね」
 「そういうことね」
 「あの日、遊びに行って良かったね」
 「人生、何が幸いするかしれないわね」
 そう、その通りだ。