第二十一章 婚約

 約束の日曜日、ぼくは智子が持っていた中で、一番気に入っていた真っ白なワンピースの上にコートを羽織って、正臣が迎えに来るのを今か今かと待っていた。
 前日の土曜日に、デパートで買ってきたおみやげを確かめ、もう一度化粧をチェックした。
 婦長さんの部屋のドアが開く音がした。婦長さんも今日は山田という男とデートのはずだ。部屋の窓から見下ろすと、いつもより大人しいけれど、外出用の格好をした婦長さんの姿が見えた。うまくいくといいな。
 時計は、まもなく十時になろうとしている。正臣はまだ迎えに来ない。その時電話が鳴った。
 「清水先輩、お電話です。回しますから、電話を置いてください」
 美代ちゃんの声だ。今日は勤務しているらしい。正臣からの電話だろうか? 正臣からだとすれば、正臣とぼくの間に何らかの関係があることを、美代ちゃんに知られてしまったかもしれない。
 「はい、清水です」
 《智子さん、済まない。昨日から当直だったんだが、今朝帰りがけになって、急患が来てね。まだ、ばたばたしてるんだ。約束の時間に迎えに行けないんだ。連絡するから待っててくれ》
 そう言うと、ぼくの返事も待たずに、正臣は電話を切った。急患が来た? 本当だろうか? ぼくの中に疑念が頭を持ち上げた。しかし、一方では、嘘なら、電話しないですっぽかすだろうとも思っていた。
 待てども待てども電話はかからない。ぼくはベッドの上に寝転がって、少し諦め掛けていた。

 十一時半、車のクラクションが鳴った。急いで、窓から覗いてみると、正臣の車が裏の駐車場にいた。正臣が車の窓から顔を出して、ぼくの部屋の方を見上げている。ぼくは、窓から手を振って、急いで駐車場へ降りていった。
 「ごめん、ごめん。待ったろう?」
 「急患は、もういいんですか?」
 「落ち着いたから、後輩に任せてきた。今日は君との約束の日だからね」
 ぼくは、さっき電話があったとき、少しの間でも正臣を疑ったことを恥じた。正臣は本当にぼくを愛してくれているみたいだ。

 車は、ぼくが走り慣れた道を走る。次は、あのスタンドの交差点を曲がる。次は、あのたばこ屋の角を曲がる。そして、見えてきた。藤井家の家だ。
 「ただいま。今帰ったよ」
 「おかえり、遅かったのね」
 伯母が、緑の母親が顔を出した。
 「ちょっと、急患でね。かあさん、紹介するよ。清水智子さんだ」
 「まあ、この方だったの。お父さんが入院中はお世話になって。さあ、お上がりになって」
 「失礼します。あの、これつまらないものですけど」
 応接間に通されてから、ぼくは手にしたお土産を緑の母親に手渡した。
 「まあ、こんなことされなくても良かったのに」
 「お兄ちゃんが、女の人連れて来たんだって?」
 緑の声がする。ぼくの目に涙が浮かんだ。
 「緑、紹介するよ。清水智子さんだ」
 「清水です」
 「緑です。よろしくお願いします。あら、この方、お父さんが入院していた病院の」
 「そうだよ。大変世話になった人だよ。ぼくも、世話になっているけどね」
 「親子って、趣味が一緒なのね」
 「ええっ!?」
 正臣が目を丸くした。
 「お父さん、清水さんのことが好きで、元気になったら、絶対口説くんだって言ってもの」
 「親父が元気にならないで良かったなあ。親子で、清水さんの奪い合いになるところだった」
 「何変なこと言ってんのよ。はい、お茶。智子さん、お昼まだでしょう? 用意してますから、ご一緒してね」
 ぼくは、正臣の方を見た。初めて来た日から、いいのだろうか? 正臣の迎えが遅くなったから、食事時になってしまったのだけれど。
 「智子さん、遠慮しないでいいよ。一緒に食べていってくれ。ぼくが頼んでおいたんだ。緑、真吾はどうした?」
 ぼくはどきりとした。そうだ。ここには、緑と結婚した真吾がいるんだ。確か、今はこの家に住んでいるはずだ。
 「お兄ちゃんが帰ってくるのを待ってんだけど、仕事の電話が入って、ちょっと出てくるって言って。すぐに戻ると思うけど」
 「あの、真吾さんて言うのは?」
 ぼくは、知らない振りをして聞いた。聞かなければおかしいような気がしたのだ。
 「ああ、緑の旦那だよ。ぼくたちの従兄弟なんだけどね」
 「緑さん、結婚されているんですか?」
 またまた、ぼくは知っているが、知らない振りで尋ねた。
 「智子さんもそう思うだろう? 結婚しているように思えないような格好をしてるからね」
 そうなのだ。緑は、ひらひらのブラウスに、ミニのフレアスカートを穿いていた。とても、結婚している女の格好ではない。
 「真吾兄ちゃんの好みですもの」
 「真吾兄ちゃん?」
 緑は、結婚してまでも、ぼくの、いや、真吾のことを真吾兄ちゃんと呼んでいるのだろうか?
 「小さいときからずっとそう呼んでいたから、未だに真吾兄ちゃんて呼ぶんだ。そろそろ、改めろって言ってんだけどね」
 「仲良くっていいじゃないですか」
 「智子さんも、そう思うでしょう?」
 ぼくが、元のままだったら、どう呼ばせていただろうか? ・・・・やっぱり真吾兄ちゃんだろうな。
 「はい、いいと思います」
 「でしょう?」
 緑が嬉しそうな顔をして言った。

 「ただいま」
 玄関の方で、ぼく(伯父)の声がした。帰ってきたようだ。
 「お帰りなさい、真吾兄ちゃん。お兄ちゃんが、彼女、連れて来てるわよ」
 「どんな人だ」
 「美人よ。でも、わたしの方が美人かな」
 ぼく(伯父)が、応接間に姿を現した。
 「お邪魔しています。清水です」
 その時の、ぼく(伯父)のビックリした顔と言ったらなかった。口をあんぐり開けていた。
 「あっ、ああ。藤井です。藤井真吾です。正臣の従弟で、緑の夫です」
 「良く存じてます。病院で、よくお会いしてましたね」
 にっこりと笑ってぼく(伯父)の顔を見た。
 「病院で、そう、病院でね。看護婦さんでしたね」
 「よろしくお願いいたします」
 「こ、こちらこそ」
 ぼく(伯父)は、こちこちに固まっていた。
 「真吾兄ちゃん、なに上がってんのよ。清水さんは、お兄ちゃんの彼女なのよ」
 「ああ、分かってる。いや、相変わらず、美人だなあと思って」
 「真吾兄ちゃん!」
 緑が、ぼく(伯父)を睨み付けた。
 「分かってるよ」
 ぼく(伯父)が頭をかいた。ぼく(伯父)は、完全に緑の尻に敷かれているようだ。まあ、ぼくでも、そうなっていただろうな。

 用意されていた食事が済んで、コーヒーが出た。
 「あのう、わたし、一緒に片づけます」
 「いいわよ、智子さん。あなたは今日はお客様ですもの。ゆっくりしてらして」
 「智子さん、おふくろに任せていいよ」
 「いいんですか?」
 「いいさ。それとも、ぼくといるより、洗い物の方が好きかい?」
 「そんなことないわ。じゃあ、お言葉に甘えまして」

 電話が鳴っている。緑が出たようだ。
 「お兄ちゃん。病院から」
 「やれやれ、ゆっくりさせて貰えないなあ。真吾、相手をしていてくれ」
 「いいよ」
 正臣が、部屋を出てゆき、ぼくは、ぼく(伯父)とふたりになった。
 「男と付き合うなんて、とんでもないって、言ってたんじゃなかったのか?」
 内緒にしていたけれど、ぼく(伯父)は、緑と結婚してからも、付き合ってくれと、ぼくに電話してきていた。実際、ぼくとしては、正臣とあんなことになるまでは、女として男と付き合おう何てことは思っていなかった。
 「ちょっとした心境の変化よ」
 「相手が正臣だからか?」
 「そうかもね」
 「ぼくより、正臣の方がいいって訳か?」
 「それは、あなたの方が、正臣さんより背も高いし、いい男だと思うわ」
 「じゃあ、どうしてだ? 正臣の方が持ち物が大きいとか」
 「馬鹿なこと言わないでよ。若い女に向かって言う言葉じゃないわよ」
 「そうだな。つい、昔の癖で」
 「そんな悪い癖は改めた方がいいわよ。あなたは、藤井真吾なんですからね。わたしが恥ずかしいわ」
 「分かったよ」
 「・・・・気になるのなら、言ってあげるけど、そんなに変わらないでしょうね。あなたの方が、多少大きいとは思うけど」
 「じゃあ、正臣と付き合いだした理由は何なんだ?」
 「そうね・・・・。よく分からないけど、敢えて言うなら、フィーリングかな」
 「フィーリング?」
 「そうよ。正臣さんとは波長が合うのよね」
 「自分自身とは合わないって訳だな」
 「わたしの意識だけの問題だけじゃないみたい。清水智子の肉体と、わたしの意識が合体した上での話だと思うの。正臣さんといると、わたしが真吾だったという意識が全くなくなって、清水智子になってしまうのよね。昔からずっと清水智子だったという感じなの」
 「そう言えば、ぼくにもそんな感じがすることがあるなあ」
 「そうでしょう? 時間がたてば、私たちふたりとも、以前の意識がなくなって、入れ替わったなんてことは、夢だったと思うようになるのかもしれないわね」
 「そうかもしれないな」
 自然にそうなるかもしれないが、意識的にも、そうせざるを得ないのだ。ぼくたちは二度と元には戻れないのだから・・・・。
 「ねえ、何話してたの?」
 緑が戻ってきて、どちらに聞くとなく尋ねた。
 「真吾さんが、わたしを口説いてたの」
 「真吾兄ちゃん! ほんとなの!」
 緑は、目をつり上げてぼく(伯父)を見た。
 「嘘だよ。そんなこと言ってないよ。智子さん、緑は冗談が通じないんだから、変なこと言わないでくれよ」
 「緑さん、ごめんなさい。わたしの悪い癖なの。冗談よ、ほんの冗談」
 「みんな、何やってんだ?」
 緑はぷうっとふくれて、ぼくたちに背を向けて座っている。正臣は、ぼくとぼく(伯父)の顔を交互に見て、何が起こったか不思議そうにしている。
 「ごめんなさい。わたしが変な冗談言ったものだから、緑さんを怒らせてしまって」
 「怒って何かないもん!」
 すねた顔が可愛いとぼくは思った。
 「真吾さんって、いい男でしょう? 似合いのカップルだなあと思ったら、ちょっと妬けちゃったのよ」
 「真吾兄ちゃんがいい男だと思うの?」
 「もちろんよ」
 「じゃあ、許してあげる」
 緑は、二十三で、結婚もしていているというのに、まだ子どもだ。コロコロと機嫌が変わる。
 「智子さん、ぼくより真吾の方がいい男なのかい?」
 「客観的にはそうでしょうけど、わたしにとっては、正臣さんが一番よ」
 「客観的にも、ぼくの方がいいと言って欲しかったなあ」
 「わたしは、うそは言えない性分なの。それは知ってるでしょう?」
 「ううん、仕方ない。智子さんだけでも、ぼくが一番だと言ってくれるれば充分だ」
 「お兄ちゃんたち、結婚するの?」
 正臣が、真顔になってぼくの顔を覗き込んだ。
 「ぼくは、そのつもりだけど・・・・。智子さんが、うんと言ってくれるかどうか?」
 正臣は、ぼくと本気で付き合いたいと言った。本気だという証拠として、こうして藤井家を訪れたのだが、結婚したいとまで、この場で言われるとは思ってもみなかった。
 正臣が、じっとぼくの目を見ていった。
 「智子さん、ぼくと結婚してくれるだろう?」
 女として生きなければならない以上、結婚も当然考えなければならない。女として、正臣のことが好きだ。ぼくとしては、迷いはない。しかし、智子の過去を考えれば、素直に返事をして良いものやら。
 「後悔しない?」
 「何を後悔するもんか。智子さんは、過去のことを気にしているのかもしれないけれど、ぼくはそんなことは気にしない。今が大切なんだ。ぼくは智子さんのことが好きだ。智子さんも、ぼくのことが好きなんだろう?」
 「ええ」
 「じゃあ、問題ないじゃないか。ぼくと結婚してくれ」
 「ほんとに、いいのね」
 「男に 二言はない!」
 ぼくは返事の代わりの、ぼろぼろと涙をこぼした。