第二十章 正臣に抱かれて

 十一月最初の木曜日、患者さんのデータを持って、指示を仰ぐために正臣の元へ行った。正臣のそばに立っているとき、ぼくは興奮して卒倒しそうだった。
 病棟に戻ろうとしたとき、正臣がぼくを呼び止めて、こっそり小さなメモを手渡してウインクした。
 『今日、他に用事がなかったら、会ってくれないか? 七時に君と初めて会ったホテルのロビーで待っている』
 そのメモには、そう書かれてあった。ぼくは舞い上がった。用事なんてあるわけがない。もし、あっても、即キャンセルだ。

 正臣は、午後五時ぴったりに病院をあとにした。ぼくの方は、申し送りが済んだのに、残った仕事がなかなか片づかない。
 午後五時四十五分、ようやく仕事を終えて、ぼくは部屋へ飛んで帰った。何が起こるか分からない。シャワーを浴びておかなくちゃ。
 下着も新しいものを身につけた。何を着ていこうか? 時計を見ると、もう六時十五分を回っている。迷っている暇はない。もし遅刻したりしたら、正臣は二度と誘ってくれないかもしれない。クローゼットの真ん中にあった、薄い水色のワンピースを取り出して着た。
 タクシーを呼んでおいてから、入念に派手にならないように化粧した。化粧にかなり時間がかかってしまったなと思ったのに、タクシーはなかなか来ない。やっと来たタクシーに飛び乗ったが、夕方の道は渋滞していた。

 ホテルに着いたとき、七時を十分過ぎていた。ロビーにハアハア息を切らせて駆けていった。ロビーを見回したけれど、正臣の姿は見あたらなかった。
 ぼくは落胆して、ロビーの椅子に座り込んだ。あと十分、あと十分早ければ・・・・。
 後片づけを頼めばよかったとか、シャワーを浴びなければよかったとか、後悔が次から次へと沸いては消えた。

 七時半になった。ぼくは、もしかすると病院に連絡があっているかもしれないと思い、電話しようと立ち上がった。
 目の前に、正臣がふうふう息を切らせながら立っていた。
 「やあ、清水さん。待たせてごめん。ちょっと大学に寄ったら、引っかかってしまったんだ」
 「いえ、わたしも今、来たところです。渋滞に引っかかっちゃって、もうお帰りになったんじゃないかと思って、もう帰ろうかと・・・・」
 「すれ違いにならなくて、よかった。じゃあ、上がろうか?」
 正臣はぼくの肩を抱いた。
 「どこに行くんですか?」
 「この前、君たちに声を掛けたスカイラウンジだよ。九時までは、ディナーがオーダーできるんだ。ここのディナーは美味しいよ」
 「ホテルでディナーなんて、食べたことがないから嬉しいわ」
 「えっ!? そう?」
 ぼく自身は、このホテルには、あの時までは来たことがなかった。清水智子は来たことがあるのだろうか? もし来たことがあるにしても、そのことを正臣は知っているのだろうか? 今の正臣の反応に、ぼくは動揺した。
 「清水さん、誰かいい人とここに来たことがあるんじゃないの?」
 「先生、何か知ってるんですか?」
 「まあ、いいか。清水さんが、誰かと来たことがあろうとなかろうと、関係ないな」
 正臣は、独り言のようにそう言うと、黙り込んだ。エレベーターに乗る人たちが集まってきた。ぼくたちは、そこで会話をいったんうち切った。

 「あら、このテーブルは?」
 案内されたテーブルには覚えがあった。
 「この前と同じテーブルだよ」
 「席が詰まっているのに、よくここが取れたんですね」
 「予約しておいたんだ」
 「わたしが、絶対来るって、自信があったんですね」
 「絶対来てくれると思ってた」
 「自信家なんですね」
 「そう。ぼくの誘いを断れる女の人は、そういないと思うよ」
 「まあ」
 「医者で、背も高くて、いい男。実家は医療機器の大会社。申し分ないからね」
 正臣は、本気とも冗談とも付かぬ口調で、そう言った。ぼくは、正臣の本心が分からなかった。ぼくを誘ったのは、遊びなんだろうか? ・・・・そうだろうな。この前ぼくたちは、このホテルで男の誘いを待っていたんだから・・・・。でも、それでもいいと思った。抱いてさえくれれば・・・・。

 注文もしていないのに料理が運ばれてきた。席ばかりではなく、料理も予約していたようだ。
 「どう? 美味しいだろう?」
 「ええ、とっても」
 「この前、清水さんといた人は、婦長さんなんだろう?」
 「そうよ。信じられないでしょう?」
 「やっぱり。今聞くまで、半信半疑だったんだ」
 「あら、違う人だって言えばよかったかな。婦長さんに悪いことしちゃったな」
 「婦長さんは、三十四,五だろう? 君と同じくらいに見えたよ」
 「婦長さんは、三十三よ。でも、あんな格好をすると、確かに若く見えるわね」
 「三十三か。若いんだね。この前ぼくと一緒にいた、山田って名乗っていた男が、凄く気に入っててね。もう一度会いたいって、言ってるんだ。誘ってもいいだろうかな?」
 「わたしには分からないわ」
 「一度清水さんから聞いてくれないか? 彼は本気らしいから」
 「・・・・そうね、いいわ」
 そのことを聞くためだけに、正臣はぼくを誘ったのだろうか? いや、そんなことはないだろう。そのためだけなら、こんなところに誘う必要がない。そう思いながらも、食事が終わったら、さよならと言われることを恐れた。

 「カクテルでも、どう?」
 ぼくは笑顔で頷いた。さよならを言われなくて済みそうだ。
 モスコーミュールを一杯飲み終えた頃、正臣が時計をみた。午後9時半ぐらいかな。
 「清水さん。部屋を取ってあるんだ。いいだろう?」
 ぼくは、再び笑顔で頷いた。正臣が、初めからぼくを誘うつもりだったことが、これではっきりした。
 いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、抱いてくれれば・・・・。ぼくの頭の中には、正臣に抱かれることしかなかった。

 部屋に入るとすぐに、正臣はぼくを抱き寄せてキスし、ぼくの服を脱がせた。ぼくはもう、気持ちが悪くなるほど濡れていた。
 初めての時も最高に良かったと思っていたが、今日はさらに良かった。その瞬間、頭の中が真っ白になっただけではなく、ぼくはしばらく意識を失った。
 「清水さん、清水さん、大丈夫?」
 「ああ、先生。とっても良かったわ。気を失っちゃった」
 「死んだのかと思ったよ」
 「このまま死んでもいいわ」
 ぼくは正臣の胸に頬を寄せた。
 「馬鹿なこと言うなよ。死んだら、二度と楽しめないじゃないか」
 「また誘ってくださるの?」
 抱きついたまま正臣の顔を見上げた。
 「もちろんだよ。清水さんは、最高だよ。正直言って、ぼくもいろんな女の人と付き合ったけど、清水さんとしたときが一番良かった。特に今日はね」
 ぼくは、顔が赤くなった。
 「塩崎がすべてを捨てて、清水さんと一緒になろうとした気持ちがよく分かるよ」
 正臣は、智子と塩崎の関係を知っていた。それが当然だろう。正臣は、塩崎と同じ医局に属していたのだから・・・・。
 「ぼくも、清水さんにのめり込みそうだよ」
 ぼくは嬉しくて、正臣の胸にすがりついた。
 「わたしと塩崎先生とのこと、知ってるんでしょう?」
 「知ってるよ。ぼくと塩崎は同期で、仲が良かったからね。塩崎は学生時代から、美人とみると見境がなくてね。医者で、ホスト張りのいい男だったから、声を掛けられた女はみんな付いていったみたいだ」
 「今日のわたしみたいに?」
 「ぼくが医者で、いい男だったから、誘いに乗ったのかい?」
 「いえ、そうじゃなくて・・・・。正直に言います。わたし、先生に一目惚れなんです。この前、ホテルで別れたあと、もう一度会いたくて会いたくて堪らなかったんです。十月の初めの月曜日、先生がわたしの目の前に現れたとき、ほんと、嬉しかったんです。あんな出会いだったから、誘ってくれないだろうなとは思っていたんですけど、誘ってくれるのを、今か今かと待っていたんです」
 「そうか。実は、ぼくもそうなんだ。慌ててホテルを飛び出たから、電話番号も聞かなかったし、連絡の付けようがないから、諦めようと思ってたんだ」
 「ほんとに?」
 「ほんとだよ。今日、清水さんが、来てくれるかどうか不安だったよ。清水さんは、あの塩崎の誘いと断った唯一の女性だからね」
 「えっ!?」
 ぼく自身も塩崎のようなタイプの男は嫌いだ。しかし、智子があの塩崎の誘いを断っていたなんて。しかし、塩崎と不倫していた。訳が分からない。
 「断ったんだろう?」
 「えっ、ええ」
 「塩崎は、清水さんに断られて、自尊心を傷つけられたようだ。去年の忘年会の折りに、酔わせて、無理矢理君をものにしたと言っていた。そうなんだろう?」
 ぼくには答えようがなかった。ぼくは曖昧に頷いた。
 「塩崎は、清水さんを手に入れた。処女だったと、自慢げにぼくに言っていたよ」
 あの塩崎が智子の最初の相手だったのか。しかし、無理矢理犯されたのに、どうしてその後も関係を続けたのだろうか?
 「塩崎は、悪い男だ。奥さんと別れるからと言って、清水さんと関係を続けていたんだからね。しかし、今年の春頃から様子が変わった。塩崎が本気で、清水さんを好きになってしまったようなんだ」
 ぼくは、正臣がベッドの上で天井を見ながら話すのをじっと聞いていた。
 「塩崎が大病院の養子でなかったら、ことは簡単だったのかもしれない。塩崎が、地位も名誉も捨てる覚悟をするのが遅すぎたんだ。清水さんから別れると言われて、やっと決心したのだが、清水さんの決心が固かったというわけだ」
 こうして聞いてみると、智子は、ふしだらな女だったというわけではないようだ。今のぼくの方がよっぽどふしだらだ。ぼくは、智子の名誉を傷つけてしまった。
 「清水さん」
 「えっ? 何ですか?」
 「ぼくは、遊びのつもりはないんだ。ぼくと本気で付き合ってくれないか? ぼくは塩崎と違って、独身だから、いいだろう?」
 正臣が最初に出会ったときに、ぼくのことを好きになったとは言ったが、付き合ってくれと言われるとは思いもしなかった。ぼくは、そこまでは望んでいなかった。
 「冗談でしょう? わたしが塩崎先生と関係があっただけじゃなく、塩崎先生の子どもを流産したことを、ご存じないの?」
 「知ってるさ。塩崎の子どもを身ごもっていてさえ、清水さんは塩崎の申し出を断ったんだ。清水さんは、強い人だ。ぼくは、そんな清水さんが好きなんだ」
 そうではない。そうではないのだが・・・・。
 「先生、本気なの?」
 「本気に決まってるよ。本気じゃなかったら、こんな話はしないよ」
 「ほんとに?」
 「本気である証拠に、清水さんをぼくの家族に紹介するよ。それなら信じて貰えるだろう?」
 ぼくは涙がこぼれた。塩崎に犯され、妊娠、流産した経験を持つ智子と付き合ってくれると言うのだ。
 「先生、本当? 本当なのね」
 「今度の日曜日、家族に会って貰うよ。十時に迎えに来るから、待っててくれ」
 「先生! 嬉しい!!」
 「清水さん、先生は止めてくれ。正臣でいいよ」
 「じゃあ、正臣さん。わたしのことも清水さんって呼ぶのは止めて。智子でいいわ」
 「そうしよう。じゃあ、智子さん。まだ時間はたっぷりある。もう一度いいかい?」

 ぼくは、また失神してしまった。女としてのセックスは最高だと思った。夜が明けて、今度はポケベルも鳴らず、もう一度した。ぼくは幸せだった。
 女になってしまった日。ぼくは絶望していた。早く男に戻りたかった。それだけを願っていた。けれど、今はもう、男に戻りたいなんて思わない。女のままでいい。

 正臣の車で送ってもらって、こっそり通用口を入っていったら、人影が見える。婦長さんだった。
 「あら、朝帰りなの?」
 「えへへ、見つかっちゃったか」
 「あの車、もしかして藤井先生の車じゃないの?」
 ボクは俯いたまま黙っていた。
 「隠してもだめよ。わたしは車に詳しいからね。それに、番号も間違いなかったみたいだし」
 「誰にも言わないでね」
 「分かってるわよ。あなたが藤井先生のことが好きだってことは、あなたの態度をみていれば分かるわ。それに、あなたがあなたになって、藤井先生が初めてだったんだからね」
 「婦長さんのお蔭で、わたしは幸せになれそうです」
 「看護婦の幸せは、わたしの望みですからね」
 「ところで、婦長さん」
 「何?」
 「この前、婦長さんと一緒だった、山田って言ったかな。あの人が、婦長さんにもう一度会いたがっているって」
 「会ってあげてもいいけど、妻子のある人とは長く付き合わない主義だから」
 「妻子って、あの人結婚してるんですか?」
 「四十二だと言ってたわ。結婚してなければ、おかしいわよ」
 「お医者さんは、結構あれくらいの年でも結婚していない人がいるわよ。確かめたんですか?」
 「いいえ」
 「じゃあ、独身だったら、会ってあげる?」
 「まあね」
 「正臣さんに頼んで、連絡して貰っていいわね」
 「いいわ。独身だったらね。ところで、もう、正臣さんなの?」
 「ふかあい関係ですから」
 「病院じゃ、迂闊に正臣さんなんて呼ぶんじゃないわよ」
 「はい。分かっています」
 「じゃあ、早く着替えてきて。仕事が始まるわよ」
 婦長さんは、結構嬉しそうな顔をしていた。婦長さんも、山田という男が気に入っていたのだろうか?