第十六章 気分転換

 一週間後の日曜日の夕方、ぼくは寮へ戻った。智子の両親は、ぼくの決心が固いことを確かめると、勝手にしなさいと言って、帰っていった。弁護士の圧力が聞いているのか、誰もぼくの話題に触れようとはしなかった。そのことが、却ってぼくを孤独に陥れた。
 仕事に専念している間は紛れても、部屋に戻ってひとりになると、ぼくはひどい欝状態になった。
 あの時、塩崎医師の申し出にイエスと言っておればよかったのか? それとも・・・・、と自問自答した。そもそも、どうしてこうなったんだ。智子と入れ替わるなんて。それが今の不幸の原因だ。ぼくは不条理な運命を呪った。
 智子は自分が妊娠していることを知っていたのだろうか? もし、知っていたら、その状況を抜け出したいと思っただろうか? もし、そう思っていたのなら・・・・。
 ぼくも、ある意味で、緑との結婚から逃げ出したいと思っていた。伯父は当然、死から免れたいと思っていた。三人が三人とも、あの時、自分の置かれた状況から逃げ出したかった。その願いが叶ったのだろうか? 分からない・・・・。

 土曜日の夕方、あまりにもぼくの元気がないので、婦長さんが部屋にやってきた。
 「清水さん、あんまり考え込んじゃだめよ。もう、みんな忘れなさい」
 「そんなこと言っても・・・・」
 ボクは項垂れる。
 「今晩は、わたしと、パアッとやりましょう」
 「パアッとやるって、何を?」
 「美味しいものを食べて、お酒を飲むの」
 「・・・・そうですね」
 「話が決まったら、着替えましょう。さあ、さあ」
 「何着よう?」
 婦長さんは、タンスを開けて、ぼくの服を取り出した。
 「これ着るんですか?」
 「いいから早く着なさい。わたしも着替えてくるわ」
 婦長さんが出してくれた服は、ワインレッドのタンクトップに、黒のミニスカートだった。下着も真っ赤なものだった。パンストも黒の柄入りのものだ。
 「こんなもの恥ずかしくて着られないわ」
 「それは、あなたのものよ。大丈夫。堂々としていればいいんだから」
 婦長さんはそう言い残して自分の部屋に戻っていった。服を身につけて、鏡に映してみた。すごい! よく似合う。でも、やっぱりちょっと恥ずかしい。ぼくは、上に薄いブラウス(?)を羽織った。髪をとかして、化粧をちょっとし直す。
 鏡をじっと見た。美人と入れ替われただけでも、幸せだなと思う。
 「婦長さん。靴は何履けばいい?」
 ぼくは廊下越しに婦長さんに尋ねた。
 「ブーツがあるでしょう?」
 靴箱を開けてみると、ロングブーツがあった。それを取り出す。ブーツを履いて準備オーケーだ。
 廊下に出ると、あのいつか見かけたBMWに乗っていた髪の長い女が目の前にいた。ぼくはぎょっとして、女を見た。
 「何ビックリしてんのよ。さあ、行くわよ」
 女は、婦長さんだった。婦長さんは、髪の毛が短い。カツラをかぶっているんだ。それにしても、ぜんぜん見違えた。今のぼくと同い年くらいに見える。
 「婦長さんだったんですね」
 「えっ!?」
 「いえ、この病院に随分派手な女の人がいるんだなあと思っていたんですけど、見あたらないから、どこの誰だろうって思っていたんです」
 「これは、遊びに行くときの変装よ。病院の連中は、みんな知ってるけどね」
 「そうだったんですか」
 階段を下りて、駐車場へ向かった。婦長さんの車は、あのBMWだった。
 「車で行くんですか?」
 「お互いこんな格好で、電車に乗れるの?」
 「絶対無理ね」
 「そうでしょう? さあ、行きましょう」
 帰りは、どうするんだろう? 酒気帯びで帰るつもりだろうか? 代行タクシーでも使うつもりだろうか?
 「何を食べに行くんですか?」
 「そうね。ふぐはどう?」
 「ふぐですか。いいですね」
 「安くて、美味しい店を知ってるの」

 車は、夕方のラッシュを繁華街へと向かう。トラックの運転手が、じろじろとぼくたちの車を見る。スカートが短いから、ふとももが剥き出しだ。ストッキングを穿いていても恥ずかしいなと思いながら、そんなことは、気にもしていないと言うような振りをしていた。

 ふぐ刺しもふぐちりも美味しかったが、ひれ酒が最高だった。ぼくはお代わりをして、三杯も飲んでしまった。店を出る頃には、ぼくは、かなり酔っていた。
 「婦長さん、次はどこ行くの? もう、帰る?」
 「婦長さんは止めてよ。わたしの名前は律子よ」
 「じゃあ、律子さん、どうする?」
 「まだ十時よ。カクテルの美味しい店があるの。行きましょう」
 「仰せのままに」
 ぼくは少しふらつきながら婦長さんの後を追った。

 婦長さんに連れて行かれた店は、そう広くなかったが、洒落た店だった。マスターは、顎にひげを蓄えた、優しい目をした人だった。店には、静かなジャズピアノが流れ、落ち着いた雰囲気だった。
 「りっちゃん、久しぶりだね。智ちゃんもようこそ。美人がふたり揃ってきてくれるなんて嬉しいね」
 「久しぶりって、わたしは先週来たわよ」
 「あれ、そうだったかな。けど、智ちゃんは、随分久しぶりだよな」
 智子は、ここに来たことがある。けれど、それはぼくの知らないことだ。
 「ちょっと、いろいろあって」
 「他の店に浮気してたんじゃないのか?」
 「違うわよ。忙しかっただけよ」
 「まあ、いいや。美人が来てくれたんだ。今日は、うんとサービスするからね」
 マスターは、おつまみをごっそり、ぼくたちの前に差し出すと、早速カクテルを作り始めた。
 「わあ、これ、ダイコンなの?」
 おつまみを箸で口に運んで初めてダイコンだとわかった。
 「そう、ダイコンのサラダ。俺の実家で取れたダイコンだよ。うまいだろう」
 「うん、美味しい!」
 マスターの特製というカクテルをふたりで飲んだ。甘くて、口当たりがよく、飲みやすかった。
 もう一杯注文しようとしたとき、学生らしい数人が、店に入ってきた。婦長さんは、また来るからと、マスターに告げると、ぼくの手を引っ張って店の外に連れ出した。
 「もう一杯飲みたかったのに・・・・」
 「飲ませてあげるわ」
 「次は、どこにいくの?」
 「黙って、付いてらっしゃい」
 そう言って婦長さんはぼくの手を引いた。

 次に婦長さんに連れて行かれたのは、大きなホテルの、最上階にあるスカイラウンジだった。ぼくたちは、夜景の見える窓際に陣取って、バーボンの水割りを注文した。
 四十三階から見る町の夜景はすばらしく美しかった。昼間は、ごみごみとした町並みも、こうして夜の明かりの中で見ると、まるで天国のようだ。辛かったことをぜんぶ忘れられそうだ。
 「律子さん、ありがとう。お蔭で、来週からは、元気で働けそうよ」
 「よかったわ。これも、わたしの仕事のうちですからね」
 ぼくはゆったりした気分で、水割りを口に運んだ。