第十五章 知りたくなかった事実

 塩崎医師の夢を見た。悲しそうな顔でぼくを見つめている。下を見ると胴体がなかった。塩崎医師は首だけで、宙に浮かんでいるのだ。その首が、しだいに回り始め、突然目の前が真っ赤になった。
 目が覚めた。ぼくはひどい汗を掻いていた。ベッドに寝かせられ、点滴されていた。ここはどこだろう? 自分の病院ではなさそうだが・・・・。
 ベッドサイドを見ると、婦長さんの顔が見えた。
 「大丈夫よ。心配しないで」
 「どうしたの? 何が起こったの?」
 婦長さんは悲しそうな顔をして目を伏せた。ドアが開いて、ドクターが入ってきた。
 「清水智子さんだったね」
 「はい」
 「子どもはだめだ。掻破しなければならないが、いいね」
 子ども? 掻爬? 何だって!!!
 「清水さん、あなた、流産したの。分かる?」
 婦長さんがぼくの手を優しく握ってそう言った。
 「流産?」
 「そうよ。あなた、妊娠してたの。さっきのショックで流産したの。残っている子宮内膜を掻破しておかなければならないのよ」
 「流産・・・・」
 ぼくは、女になったとき以上にショックを受けた。流産だなんて・・・・。智子は妊娠していた。先週からの吐き気は、ストレスによるものではなくて、つわりだったのだ。
 考えても見れば、入れ替わってから一度も生理がなかった。生理がないのは妊娠していたせいなのだ。そんなことには気づきもしなかった。
 誰の子どもだろう。話の経緯からすれば、塩崎医師の子どもと言うことになるのだが・・・・。
 「すぐに手術するから、この書類にサインして置いてください」
 掻爬が必要だというのなら、仕方がない。ぼくは、書類の中身を見もせずに『清水智子』とサインした。
 三十分後、ぼくは着替えさせられて、手術室へ入った。下半身を剥き出しにされ、消毒された。
 「酸素です。大きな息をして」
 看護婦がぼくの顔にマスクを当てた。酸素だというのに、ひどく息苦しい。
 「眠くなりますからね。清水さん、十から逆に数えて」
 「十,九,八,七,・・・・」
 マスクを当てられているために自分の言葉が低く耳に届いた。一まで数えたらどうするんだろうと考えている間にぼくは意識を失った。

 目が覚めると、元のベッドに寝かされていた。吐き気とめまいで、気分がひどく悪かった。
 「もう大丈夫よ」
 婦長さんが、ぼくの手を握っていた。
 「院長先生に頼んで、一週間休養を貰うことにしたから、ここでゆっくりしておきなさい」
 「すみません。ご迷惑を掛けて」
 「あなたも大変ね。妙な経験をして」
 同情の籠もった言葉だった。
 「こんなことになるなんて、思ってもみませんでした。でも仕方がないです。これも運命ですから」
 そう。運命としか思えない。智子は伯父の運命を背負って死んでしまったのだから、流産くらいで気落ちすることはないのだ。。
 「そうかもしれないわね。まだ眠いでしょう? ゆっくり眠りなさい。また来てあげるからね」
 「ありがとう、婦長さん」
 ぼくは、再び眠りについた。

 翌日、点滴を受けながら、ベッドの上でぼんやりしていると、中年の男女がドアを開けて入ってきた。
 「おまえは、何という恥さらしな娘だ」
 「智子、お父さんに謝りなさい」
 ふたりは智子の両親らしい。妊娠して、流産したのは、ぼくのせいではないが、そんなことは、婦長さんと伯父以外、誰も知らない。ぼくは、今は清水智子だ。智子がしたことの責任を取らなければならない。
 「ごめんなさい、心配を掛けて」
 ぼくはふたりに向かって頭を下げた。
 「おまえをこんなふしだらな娘に育てた覚えはないぞ」
 「お父さん、声が大きいわ。外に聞こえるでしょう?
 「外に聞こえたっていい。もう、みんな知ってることだ」
 「智子、体が快復したら、病院を辞めて、家に帰っていらっしゃい」
 母親が優しいが毅然とした言葉で言った。
 「病院を辞めろって?」
 「こっちにいたら、何と噂されるか分からないでしょう?」
 「そうだ。それがおまえのためだ」
 「向こうなら、誰もこのことを知らないから、あなたも肩身の狭い思いをしなくていいわ。誰か、いい人を見つけてあげるから、結婚しなさい」
 母親の娘を思う気持ちはよく分かる。しかし、事情を知らない男に、不倫して流産した娘を押しつけるなんて、ぼくには理解できなかった。
 確かにこちらにいれば、ぼくは肩身の狭い思いをすることになるだろうが、智子としてなんとかやっていける。助けてくれる婦長さんもいる。しかし、智子の実家に行けば、ぼくは、まったくの異邦人だ。一からやり直さなければならない。しかもひとりぼっちで。両親もぼくが智子でないことに気付いてしまうだろう。
 「病院は辞めないわ。看護婦を続けます」
 ぼくはふたりを見上げて言った。
 「何を馬鹿なこと言ってるんだ。お母さんの言うとおりにしなさい」
 「いやです」
 「おまえはいつからそんな娘になったんだ」
 「わたしは、もう二十五です。わたしの勝手にさせてください」
 智子の両親には悪いが、そう言わざるを得ない。
 「馬鹿者!」
 智子の父親の手が、ぼくの頬を打った。
 「お父さん、そこまでしなくても」
 母親がぼくの肩を抱いた。
 「勘当だ。おまえの顔など、二度と見たくない。おい、帰るぞ」
 「智子、お父さんに謝りなさい。本気じゃないんだから」
 ぼくは答えなかった。ぼくはこちらに留まるしかないのだ。
 「智子、考え直すのよ。お母さんは、待ってるからね」
 そう言い残して、智子の母親は、おろおろしながら、智子の父親のあとを追って病室を出ていった。

 その日の午後、婦長さんが果物の入った籠を持って、見舞いにやってきた。
 「今朝、あなたのご両親が病院にみえて、あなたを辞めさせて、実家に連れて帰るって言ってきたけど、どうする? わたしが、本人の気持ちを聞いてくると言って、院長先生には保留にして貰っているんだけど・・・・」
 「わたし、辞めません」
 「こちらにいると、肩身が狭いんじゃないの?」
 「智子の実家には行けないわ。そうでしょう? 婦長さん。こちらにいれば、何とかやっていける自信があるけど、智子の両親と一緒にいれば、わたしが智子でないことがすぐに分かってしまうわ。それに、同級生なんかが来たとき、何を、どう話せばいいの? わたしにはできないわ」
 「そうか、それもそうね。分かったわ。院長先生に、清水さんは病院を辞めるつもりはないと伝えておくわ」
 「お願いします」
 「そう、そう。塩崎先生のことだけどね」
 ぼくは、聞きたくなかった。塩崎医師が死んだのは、半分はぼくの責任のような気がしているからだ。
 「離婚届は書いたらしいんだけど、奥さんが出していなかったの」
 「じゃあ、離婚は成立していないのね」
 「そう。だから、お葬式は、塩崎病院でやることになったって」
 「塩崎先生のおうちは病院なんですか?」
 「塩崎先生は、養子だったの。奥さんって言う人は、あんまり美人じゃなかったみたいよ。塩崎先生は、大きな病院を継ぐってことで、養子に入ったみたいだけど、夫婦仲はうまくいってなかったみたい」
 「そうなんですか」
 「離婚するってことは、塩崎病院からも縁を切られるってことなのよね。だから、離婚してあなたと一緒になることには、すぐには踏ん切りが付かなかったのかもしれないわね」
 その話を聞いて、ぼくは余計に悲しくなった。そうまでして、塩崎医師は、智子と一緒になろうとしたのだ。ぼくは応じるべきだったのだろうか? 今となってはもう遅いのだが・・・・。
 「それからね。愛人に振られて自殺したなんてことが表沙汰にならないように、事故死ってことになっているらしいわ」
 愛人。そうか、智子は塩崎医師の愛人か。ぼくは、大病院を捨ててまで、一緒になろうとした男を振って、自殺に追いやった女ということになる。どんな非難中傷が待っているのだろうか? 憂鬱だ。

 婦長さんが帰って一時間ほどして、今どき珍しい三揃えのスーツを着た恰幅のいい男がぼくを尋ねてきた。
 「清水智子さんですね」
 「そうですけど、あなたは?」
 「わたしは、塩崎病院の顧問弁護士をしている、植田というものです」
 そう言って、男はぼくに名刺を差し出した。
 「どんなご用事でしょう?」
 「実は、先週、塩崎病院の大先生に頼まれましてな。ご養子に愛人がいるらしく、ご養子がお嬢さんに、離婚を迫っているということで困っていらした。そこで、わたしに、愛人の方へ手を回して、ご養子と別れさせてくれと言うことになったんですな」
 「もう、その必要はないでしょう?」
 「まあ、そう言うことになりますかな。しかしですな。ご養子が、離婚届に判を押してまで、愛人のところへ行ったのに、振られてしまって自殺したなどと言うことを世間に知られたくないのだよ。分かって貰えるだろう?」
 「はい」
 「よろしい。ところで、あなたは流産したそうですな」
 「・・・・」
 「流産してよかった」
 「えっ!?」
 「子どもができると、認知の問題とか、うるさいことになりますからな」
 そうか。塩崎医師は正式には離婚していない。ぼくが子どもを産めば、子どもに相続権が生じる。財産がなければ問題ないが、塩崎病院はかなり大きな病院のようだ。本当に塩崎医師の子どもかどうか、裁判沙汰になるのは間違いない。
 「これは、今回のことを忘れて貰うためにお渡しするものだ」
 弁護士は、テーブルの上に、お札らしいものが入った封筒をぽんと置いた。
 「そんなものは受け取れません」
 「黙って受け取った方が君のためだよ。別に金を使わなくても、君みたいな看護婦のひとりやふたり、この世から抹殺するのは難しくないんだよ。・・・・まあ、亡くなったご養子さんからの見舞金だと思って、受け取ってくれたまえ。君の勤める病院の看護婦連中にも釘を刺して置いたからね。いいね。口外したら、ただではすまんよ」
 弁護士は、氷のような冷たい目でぼくを見た。ぼくは、心底ぞっとした。世の中には、紳士然としていても、こんな人間もいるんだ。それを思い知らされた。
 「君ほどの美人だったら、男がすぐに出きるだろう。早く結婚して、ご養子とのことは忘れたまえ」
 そう言い残して、弁護士は出ていった。封筒の中には、手が切れそうな一万円札が百枚入っていた。