第十四章 不倫していた?

 ぼくは、清水智子だ。ぼくは、女だ。そして、看護婦なんだ。藤井真吾じゃないんだ。改めて自分にそう言い聞かせ、仕事に没頭した。婦長さんの助力もあったが、ぼくは、看護婦としての仕事をそつなくこなした。
 女として振る舞うことは、特別のことがなければ、大丈夫だった。スカートを穿いて、繁華街に買い物に出ることもできるようになった。
 それでもストレスは貯まる。ストレスが胃に来て、むかつくようになった。こっそり胃薬を飲んでは紛らわせたが、簡単には治らないようだった。胃カメラするのは嫌だな。癌なんてことはないだろうから、我慢するしかない。時間がたてば、ストレスも消えて、むかつきもなくなるさ。そう考えていた。

 九月半ばの木曜日、ナースステーションで、カルテに記録していると、白衣の男性がいきなり入ってきて、ぼくを階段の踊り場まで引っ張っていった。男は塩崎医師だった。
 「どうしてぼくを無視するんだ。ぼくの気持ちは分かっているだろう?」
 塩崎医師は何を言っているのだろう? 清水智子は、塩崎医師と付き合ったいたのだろうか? 今の言葉はそうとしか思えない。
 「何故黙っているんだ。ぼくのことが嫌いになったのか?」
 ぼくは何も答えなかった。清水智子が、塩崎医師と付き合っていたとしても、今はもう関係がない。ぼくは、塩崎医師と付き合うつもりはない。塩崎だけではない。ぼくはまだ、男と付き合うことなんて、考えたこともない。塩崎には気の毒だけど、今のぼくに、男女関係を持ち込むことは無理な話だ。
 「ごめんなさい。仕事があるの。邪魔しないで」
 「智子、どうしてだ。こんなに愛しているのに・・・・。君もぼくに抱かれて、言ってくれたじゃないか。ぼくのことを愛しているって」
 ぼくに抱かれて? 愛してるって? その言葉に頭がくらくらしてきた。
 「仕事に戻らなきゃ」
 「妻と別れて、君と結婚するよ。だから・・・・」
 妻と別れる? 塩崎は結婚しているのか? と言うことは、智子は不倫していたのだ。信じられない。そんな風には見えなかった。あの時だって、二号なんてとんでもないと怒ったように言ったではないか。
 「あなたとは、もう付き合うつもりはないわ」
 塩崎医師がまだ何か言おうとしていたが、ぼくは無視して、ナースステーションへ戻った。そうする以外に道はなかった。
 智子は、二十五になる。二十五にもなって、処女である方がおかしい。しかし、不倫とは思ってもみなかった。
 智子が、塩崎との結婚を望んでいたかどうか、ぼくには分からない。もし、望んでいたとしても、ぼくにはその気はない。それに、妻と別れて結婚するなんて言う言葉は、浮気をする男の口癖のような言葉だ。ずるずると関係を続けて、若さがなくなったところで捨てられるのが落ちだ。無視し続ければ、塩崎医師も諦めるだろう。

 部屋のドアをどんどん叩く音に起こされた。時計を見ると、午前八時過ぎだった。日曜日だというのに、誰だろう? もう少し寝ていたいなと思いながら、目をこすりながら、ベッドを出てドアを開けた。
 塩崎医師が部屋の前に立っていた。看護婦寮にまで上がり込んでくるなんて、何という男だろう。
 「塩崎先生、何を考えているんですか? ここは看護婦寮ですよ。しかも、こんな朝早くから・・・・。帰ってください!」
 「妻と別れてきた。ぼくと結婚してくれ!」
 奥さんと別れてきた? ほんとだろうか? 塩崎医師は、奥さんと別れてまで、智子と一緒になりたかったのか! どう答えていいか分からず、ぼくは呆然と立っていた。
 騒ぎを聞きつけて、婦長さん、美代ちゃん、佐智ちゃんが廊下に顔を出した。三人とも、好気の眼差しだ。
 「塩崎先生、困ります。ここは男子禁制ですから、別の場所でお話しになってください」
 そんな婦長の言葉が耳に入らなかったのか、無視したのか、塩崎医師は、ぼくに食い下がった。
 「今、返事を聞きたい。智子、お願いだ。ぼくと結婚してくれ」
 塩崎医師と智子は、愛し合っていたのかもしれない。しかし、ぼくはうんとは言えない。ぼくは、清水智子だが、中身は以前とは違う。
 「塩崎先生、先生がわたしのことを好きなのは分かるわ。だけど、わたしは、先生と結婚する気はないの。諦めて」
 「そんなこと言わないで、お願いだよ。・・・・妻と、妻と別れてきたのに・・・・」
 「塩崎先生、女々しいまねは、もう止めましょうよ。清水さんが嫌だと言っているんだから、男らしく諦めなさい」
 婦長さんは、ぼくの秘密を知っているから、助け船を出してくれた。
 「先生! お帰りにならないと、警察を呼びますよ」
 そんな婦長さんの言葉に、塩崎医師は、未練がましそうにぼくを見ながら、階段を下りていった。
 「ごめんね。騒がせてしまって」
 「清水先輩、どうしてイエスと言ってあげなかったの?」
 美代子はどうやら、智子と塩崎が付き合っていたことを知っているようだ。
 「美代ちゃん、おとなには、いろいろと事情があるの。分かった?」
 婦長さんが、美代ちゃんを諭すように言った。
 「分からないけど、そうなのね」
 「結婚したくても、できないこともあるの。清水さんも辛いのよ。ねえ」
 婦長さんが、ぼくに同意を求める。ぼくは、曖昧に頷いた。

 四人がそれぞれ自分の部屋に戻りかけたとき、佐智ちゃんが、窓の外を指さした。
 「ねえ、みんな。あれ、塩崎先生じゃない?」
 指さす方を見てみると、塩崎医師がとぼとぼと歩いていた。病院の裏にはJR線が走っている。その線路の脇にある小道を、塩崎医師は歩いていた。
 踏切の警報が鳴り始め、遙か遠くに電車の姿が見えてきた。電車の姿がどんどん大きくなっていく。塩崎医師が、こちらを見た。悲しそうな顔で・・・・。
 電車が、塩崎医師が立っている場所から五十メートルほどに近寄ったとき、塩崎医師が、線路のそばにある塀を乗り越えて、線路の上にばたりと倒れ込んだ。
 キキキキキーッという、鋭い金属音がして、電車がブレーキを掛けた。しかし、間に合わなかった。
 電車が通り過ぎると同時に、両腕が肘から切断され、線路の外に転がった。そして、そして・・・・、胴体から切り離された首が、血しぶきをあげながら、ごろごろと転がって、線路の脇にある側溝へと消えていった。
 ぼくは目の前が暗くなって気を失った。
 「清水先輩、大丈夫?」
 「清水さん、しっかりしなさい」
 婦長さんと美代ちゃんが、ぼくを揺り動かしている。ぼくは廊下に倒れていた。ぼくは今見た光景を思い出して、泣き叫んだ。ぼくのせいだ。ぼくがイエスと言っておれば、こんなことにはならなかったんだ。
 突然、下腹部に激痛が走った。
 「痛い・・・・」
 何かが下半身から流れ出るのを感じた。見ると、血液が流れ出ていた。
 「清水さん、あなた・・・・。美代ちゃん、うちじゃだめだわ。救急車を呼んで!」
 何がぼくの体に起こったというのだろう。ぼくは、再び意識を失った。