第十一章 理不尽な結果

 入れ替わって一週間が経った。今日のぼくの勤務は、夜勤だ。午後五時に交代する。自由な昼間、勇気を出して近くのスーパーまで買い物に出かけた。智子の部屋には、コーヒーと紅茶しかないのだ。ぼくは緑茶が好きだ。お茶の葉と急須を買い込んだ。
 ふと、スーパーの棚に生理用品があるを見つけた。これを使うことになるのだろうか? こんなものを使う前に元に戻りたいけれど・・・・。

 勤務交代の申し送りで、藤井正太郎の尿量が減っていて、院長先生の指示で、ラシックスという利尿剤を投与するようになったという。三時間ごとに三アンプルを投与するようにと言う指示だった。
 「まったく反応なしね。三本も使ってるのに。正常なら、一本打っただけで、蓄尿瓶が一杯になるほど出ちゃうのにね」
 下岡佐智ちゃんが、ため息をつきながら、ナースステーションに戻ってきた。
 「今の尿量はいくらなの?」
 「今朝から、100よ」
 「100って、随分少ないわね」
 「もう時間の問題でしょう? 清水先輩」
 「そう、そうね」
 「明日の朝まで保つかしら」
 明日の朝まで保たないかもしれないって? 大変だ!
 「ご家族は、集まっているかしら?」
 「今日の午後から、すし詰め状態よ。もう、ベッドのそばに行くのに大変なんだから」
 「そう・・・・」
 その次の注射をするために特室へ行った。佐智ちゃんが言うとおり、特室の中はラッシュアワーの電車並だ。ぼくの父も来ていた。もちろん、ぼく(伯父)も部屋の中にいた。ぼくに気付いて、こっそりウインクしてきた。そんな場合じゃないだろう? そう言ってやりたかったが、黙ってラシックスを注射して特室を出た。
 おしっこが出る注射をしているにもかかわらず、尿量は100からまったく増えなかった。伯父(智ちゃん)の手足は腫れるばかりだった。意識はもう全くない。ごうごうと大きな鼾をかいて眠ったままだ。
 午前三時。血圧が下がり始めた。
 午前六時。ついに血圧が測定できなくなった。伯父(智ちゃん)はもう虫の息だ。喘ぐような浅い息をしていた。
 院長先生に連絡すると、眠たそうな顔をしてやって来た。部屋に入って、『もう時間の問題です』と家族にひと言言って出てきた。
 その言葉を聞いて、ぼく(伯父)が部屋の外に出てきた。顔が青ざめていた。自分の死ぬ姿は見たくないだろうし、もしかすると、死んだ瞬間に入れ替わって自分が死ぬかもしれないと思うと、部屋の中には居られないのだろう。
 ぼく(伯父)は、廊下の長椅子に腰掛けて、頭を抱え何かを祈るようにじっと下を見ていた。
 午前七時を少し回った頃、心電計の脈が急に少なくなってきた。
 「清水先輩、院長先生を早く呼んで! 間に合わないわ」
 ぼくには分からなかったが、佐智ちゃんには、分かっていた。こんな時、心電計の脈が減るのは、心臓が止まる前だと言うことを。
 院長先生が、自宅から走ってやって来た。ほんのさっきまで百二十あった心電計の脈は、もう三十もなくなって、波形も乱れていて今にも停まりそうだった。
 ぼく(伯父)は、長椅子に座って、やはり頭を抱えている。ぼくの方は、ナースステーションのイスに腰掛けて目をつぶっていた。
 ぼくはどうなる? 元に戻るのか? それとも清水智子のままなのだろうか? 審判がもうすぐ下る。
 心電計の音が、ピイーッと言う単調な音に変わり、すぐにピピピピッ、ピピピピッと警報が鳴り始めた。緑の大きな泣き声が特室から聞こえてきた。
 どっちだ? ぼくは、特室の前の廊下にある長椅子の上か? それともナースステーションの椅子の上か?
 恐る恐る目を開けてみた。白衣のスカートの上にのせられた細い指が目に入った。目を上げて見回す。ぼくは、ナースステーションにいた。ぼくは、清水智子のままだった。ため息が出た。
 ぼく(伯父)が、ナースステーションの前に姿を現した。その顔は、喜々としていた。
 「やったぞ。わたしは生き残ったぞ」
 貧乏くじを引いたのは智子だった。死ななければならなかった伯父が生き残り、死ぬはずがなかった智子が死んでしまった。ぼくには、神様が信じられなくなった。この世に神様がいるのなら、こんな薄情な、無慈悲な、理不尽なまねはしないだろう。可哀想な智子。
 「午前七時十八分だ。記録して置いてくれ。死亡診断書を頼む」
 院長先生がナースステーションに戻ってきてぼくに指示した。
 「死亡診断書?」
 「そこの引き出しに入っているだろう? 智ちゃん、このごろちょっとおかしいんじゃないか?」
 ちょっと目をそらして指で示された引き出しを開いた。
 「いえ、そんなことありません。はい、診断書です」
 「それならいいが、・・・・生理か?」
 「院長先生! セクハラで訴えますよ」
 「おお、こわ。いや、ほんの冗談だよ」
 院長先生の顔を見ると冗談らしいことは分かったのだが、こんな時に、平気で冗談が言えるなんて信じられなかった。
 「三十分位したら、死後の処置を頼むよ」
 「はい」
 とは言ったものの、死後の処置などしたことがない。まして、伯父の処置など、したくない。
 そうこうしていると、婦長さんが姿を現した。
 「院長先生、藤井さん、亡くなったんですか?」
 「ああ、七時十八分だ」
 診断書を書きながら答えた。
 「そうですか・・・・」
 そう言って、婦長さんは、ぼくに目配せしてきた。ぼくは、首を横に振った。ぼくの態度を見て、元に戻っていないことが分かっただろう。ぼくは婦長さんのそばに歩み寄って、小さな声で聞いた。
 「死後の処置何てしたことがないんですけど・・・・」
 「わたしが手伝ってあげるわ」
 「助かります」
 いつまでも泣きやまない緑を母親が廊下へ連れだして、長椅子に腰掛けさせた。他の親族は、部屋の中の荷物を片づけている。
 ぼくと婦長さんは、部屋の中に入って、死後の処置を始めた。
 「可哀想な智子さん。成仏するのよ」
 婦長さんが、誰にも聞こえないように小声で、そう呟いた。

 霊柩車に乗せられて、藤井正太郎の遺体が運び出されていったのは、午前九時少し前だった。
 申し送りを済ませて、ぼくは智子の部屋へ戻った。部屋に戻ると、疲れで布団に入るやいなや眠り込んでいた。
 夢を見た。智子が体を返してくれと言って、ぼくにすがりつくのだ。その顔を見ると伯父の顔だった。ビックリして目が覚めた。午後三時だった。布団に入ってから、まだ五時間しかたっていなかった。けれど、もう眠れなかった。眠ったら、また智子の亡霊が出てきそうな気がした。
 ぼくはのろのろと起きあがってシャワーを浴びに行った。頭から熱いシャワーを浴びた。体を拭きながら、鏡で裸の体を見た。智子の体、女の体が鏡に映っていた。
 ぼくは、この体と一生付き合っていかなければならない。もう、緑とは結婚できない。緑のことを思って涙が流れた。
 部屋に戻って、床に寝ころんでぼんやり天井を眺めた。ぼくは女になってしまったが、こんなに美人で、スタイルもいい。良しとしなければいけないな。死んだ智子に比べれば、幸せだよな。そう、思った。清水智子として、看護婦として、一生懸命生きよう。それが、智子へのせめてもの報いとなるだろう。

 その日の夜、通夜が営まれ、翌日の日曜日、葬式が行われたと聞いた。ぼく(伯父)が連絡してきたのだ。けれど、ぼくは行くわけにはいかなかった。ぼくは、藤井正太郎とは赤の他人だからだ。