第十章 智子の彼氏

 また一日が過ぎた。今日は、ぼくは、三号室、四号室の担当だ。肝炎や胃潰瘍の中年の男たち、それに何故か右腕を骨折した若者が入院していた。
 「清水さん、彼氏いるの?」
 ほとんどの男たちが、ぼくにそう尋ねた。『どうでもいいだろう、そんなこと』と言ってやりたいのを我慢して、笑顔で『さあ、どうでしょう』と答えておいた。
 「いるよね。清水さん、美人だもの」
 そう言われて、そうかもしれないなとは思った。しかし、智子の部屋には、そんな男、恋人らしい男に関するものは何もなかった。智子には悪いと思ったのだけれど、一応調べておいたのだ。デートのお誘いでもかかったとき困ると思ったからだ。
 智子の部屋には、男からの手紙もないし、日記にもそれらしい記載はない。智子には、きっと男はいないのだろうと思う。ずっと智子のままだと決まったわけではないが、ぼくは少し安心していた。
 四号室からナースステーションに戻ろうとしていたら、緑が部屋から顔を出して、ぼくを呼び止めた。
 「すみません、看護婦さん」
 「ハイ、なんでしょう」
 ぼくは嬉しかった。どんな内容でも、緑と話せることが。
 「父が、何か言ってるんだけど、よく聞き取れないの。看護婦さんだったら、分かるかなと思って」
 「分かったわ。聞いてみるわ」
 部屋に入ってみると、伯父(智ちゃん)は、ぐったりとベッドの中に沈んでいた。顔はむくんで、黄疸がひどくなって真っ黄色だった。
 近寄ってみると、確かにブツブツと何かを言っているようだった。口元に耳を近づけて聞いてみた。『助けて』『助けて』『助けて』と言葉にならない言葉で繰り返していた。
 可哀想に。伯父の代わりに苦しんで。ぼくは思わず涙を流した。そして、伯父(智ちゃん)の耳元で、こう呟いた。
 「きっと元に戻るから。大丈夫だから。もう少しの辛抱よ」
 「えっ? 何ですって?」
 緑が、ぼくの声を聞いて尋ねた。
 「おまじないよ。ただの、おまじない」
 「父は何て言ってたの?」
 「わたしにもよく分からないわ。ごめんなさい」
 そう言って、ぼくは部屋の外に出た。もし、伯父(智ちゃん)が、助けてと言ってる何て言えるわけがない。父親の威厳は保ったまま死なせてやるべきだろう。

 「清水先輩、院長先生に患者さんの報告をしてきて」
 ナースステーションに戻ると、美代ちゃんが駆け寄ってきた。
 「わたしが?」
 「お願いします」
 美代ちゃんは元気がいい。ぼくに勢いよく頭を下げてメモを手渡した。ぼくは、患者の状態を書いたメモを持って外来の診察室に降りていった。
 「あら、院長先生は?」
 外来の診察室には、院長先生は居らず、看護婦がカルテの整理をしていた。
 「院長先生は、食事で、ご自宅よ」
 「患者さんの報告はどうしよう?」
 「あとで回診があるから、その時でいいんじゃないの」
 「分かりました」
 美代ちゃんは、回診があることを知っているはずなのに、どうしてかなとは思いながら、階段へ向かった。
 階段の下に、背の高い白衣を着た男性が立っていた。会釈をすると、ぼくに近づいてきて、小さなメモを手渡して、そのまま診察室へ入っていった。胸に付けたネームプレートには、塩崎と書かれてあった。誰だろう? 医者らしいが・・・・。
 階段を昇りながら手渡されたメモを見ると、『いつもの場所で待っている』とだけ書かれていた。
 いつもの場所で待っている? 彼は清水智子の何だろうか? 恋人なのだろうか? 美代ちゃんが院長先生に報告してと言ってぼくを一階に行かせたのは、塩崎に頼まれたのだろう。
 どうしたらいいだろう? どうしたらと言っても、いつもの場所というのが、さっぱり分からない。それに、智子が付き合っていたとしても、ぼくはあんな男は嫌いだ。いい男には間違いないが、まるでホストクラブのホストだ。智子には悪いと思ったけれど、ぼくは無視することにした。少なくとも元に戻るまでは拒否だ。
 午後1時過ぎから院長先生の回診が始まった。塩崎という医師は、回診の間、外来で患者を見ているようだ。回診は一時間ほどで終わったが、院長先生は、外来には行かずに、自宅へと戻っていった。
 「院長先生は、外来を診ないんですか?」
 「清水さん、わたしに聞いたからいいけど、みんなが知っていることを聞いちゃだめよ。おかしく思われるわよ」
 「うっかりしてました。それで、院長先生は?」
 「木曜日の午後は、塩崎先生に任せて、回診が終わったら、休みなの」
 「自分で外来をすればいいのに。来て貰ったら、お金がいるでしょうに」
 「大学との関係があるから、断れないのよね。それに、院長先生は、いつも病院に縛られているでしょう? たまには息抜きしたいのよ」
 「自宅で何してるの?」
 「さあ、今日は何でしょう? いつもはゴルフの練習に出かけるけど・・・・」
 「患者さんが悪くても?」
 「いつもなら、塩崎先生に全面委任よ。だけど、藤井さんは、医療関係者だし、世話になっているから、万が一を考えて出かけないとは思うけどね。自宅で、ビデオでも見ているでしょう」
 「そうなんですか」
 「塩崎先生は、毎日来るんですか?」
 「月曜日と木曜日の二回だけよ。それも午後だけ」
 塩崎医師と清水智子との関係を聞こうとして思い止まった。婦長も知らない秘密かもしれないからだ。