第8章 どんどん女に近づいていく

 睾丸の摘出を受け、女性ホルモンを飲み始めて1年がたった。あと1年、再発がなければ、恐らく大丈夫だろうと大沢先生に言われたと幸恵がぼくに言った。
 あと1年は、女性ホルモンを続けなければならないのだろうけど、そのあとはどうするのだろう? 完全に女性化した体を男に戻せるのだろうか? 例え男に戻ったところで、何のメリットがあるのだろう? 女として暮らしていくことにもなれたし、今のままでも幸恵はぼくを愛してくれている。橋谷克也として、胸を張って外を歩けるだけしかないのだが・・・・。
 「2年たっても、ホルモン飲んだっらいいじゃないの? 再発予防のためにはできるだけ長く飲んだ方がいいって言ってたでしょう?」
 「でも、それじゃあ、わたしはずっと男に戻れないわ」
 「戻れなくてもいいわ。わたし、今のままでいいわ」
 「ど、どうしてよ?」
 「男の姿に戻ったら、期待してしまうでしょう?」
 「なにを?」
 「こども」
 「・・・・そうね」
 幸恵は、ぼくが女の姿のままでいれば、こどもができないことも苦にならないと言うのだ。それはそうかもしれない。そうなると、ぼくは、一生女の姿で生きなければならない。それも、この病気のせいだ。仕方がない。

 「髪の毛、伸びたわね」
 「そうね。また、切ってくれる?」
 髪の毛が長いことはそんなに苦にはならないのだけど、洗うのが面倒になっていた。
 「美容院に行こうか?」
 「美容院!?」
 「そうよ。女の格好にも慣れたみたいだし、そろそろ外に出て見ようよ」
 「ま、まだ早いわよ」
 「大丈夫よ。今の克也を見て、男だと気づく人は誰もいないわ」
 「・・・・自信ない」
 「そんなこと言ってたら、いつまでたっても外に出られないわよ。さあ、着替えて出かけましょう」
 言い出したら聞かないのは分かっている。ここでいくら抵抗しても、結局時間の無駄になるだけだ。ぼくは渋々うんと頷いた。

 外出用に化粧をしていると、幸恵はぼくが着て出る服を物色し始めた。鼻歌を歌いながら、タンスの中を探す。
 「これがいいわね。これにしよう」
 まるで自分が着るように、にこにこしながらぼくに手渡した。その服は、ライトブルーのノースリーブのワンピースで、同じ色の上着が付いていた。アンサンブルというらしい。ぼくは着替えるために、普段着のブラウスとスカートを脱いだ。
 「着る前にちょっとしなくちゃいけないことがあるわね」
 「えっ!? なにを?」
 「膨らみがね」
 ぼくは股間に目を落とす。そんなに目立たないけど、タイトスカートのようなものを穿くと、膨らみがあるのが分かってしまう。アンサンブルのスカートは、あまり広がるタイプじゃないから、外に出るには膨らみを何とかしなければならない。
 「どうしたら・・・・」
 「後ろに回して股の間に挟んでみて」
 ぼくはショーツの前から手を入れて、ペニスを後ろへ回した。これでいいのかなと思っていると、幸恵がぼくの目の前にベージュ色の下着を差し出した。
 「これを上に穿いて!」
 「なんだい、これは?」
 「ショートガードルよ。これを穿いたら、大丈夫と思うけど」
 穿いてみた。まるで女の股間だ。これならホントに大丈夫だなと思った。さらにパンストを穿いて、ワンピースを着た。
 「似合うわ」
 誉められて、ぼくはちょっと頬を染める。
 「ちょっと短いんじゃない?」
 「可愛いからこれで行きましょう。上を着て! はい、これ、バッグ。必要なものは入れてあるわ」
 ショルダーバッグの中には、ハンカチ、ティッシュ、化粧道具、財布、システム手帳が入っていた。
 「いつの間に揃えたの?」
 「いつの間にって、克也が退院してからよ。服とかもみんなそう。女性化するのが分かってたから、揃えなくちゃいけないと思って。いっぺんには買えないから、毎月少しずつ準備していたのよ」
 「ありがとう。俺のために」
 「俺じゃないでしょう。外に出たら気を付けるのよ」
 「そうだったね。気を付けるわ」
 「それでいいわ。じゃあ、先に出て、バス停で待ってるからね」
 「一緒に行ってよ」
 「ここは、わたしと男の克也が一緒に住んでいることになってるのよ。女がふたり出ていったらおかしいでしょう?」
 「それもそうか・・・・」
 「じゃあ、バス停で」
 「・・・・分かった」

 幸恵の姿がドアから消えたとたん、心細くなって出ていけなくなった。勇気を振り絞ってパンプスを履き、ドアに手をかけたが、そのドアをなかなか開けられない。
 どれくらいたっただろうか? 電話のベルに、心臓が口から飛び出しそうになった。最近電話には出ていない。いつも幸恵が電話を取っていた。
 電話のベルはなかなか鳴りやまない。15回ほど鳴って止まり、ほっとする間もなく再びなり始めた。勇気を振り絞って受話器を取った。
 「・・・・もしもし」
 「なにしてんの? 早く来てよ。2本も乗り過ごしたじゃない」
 幸恵の怒ったような声が聞こえてきた。
 「ごめん。すぐ行くわ」
 電話を切って、大きく深呼吸してドアを開けて外に出た。

 「あら、こんにちは。お出かけですか?」
 引っ越しした佐々木さんに代わって入居したお向かいの奥さんだ。返事をしないわけには行かず、小さくなって答えた。
 「こんにちは。ちょっと髪を切りに」
 「ああ、そうですの。お兄さんは、お元気?」
 お兄さんって、ぼくのことだ。ぼくは幸恵と思われている。
 「ええ、相変わらず、パソコンに向かってます」
 「橋谷さん、お願いがあるんですけど・・・・」
 早くこの場を切り抜けたいのに、引き留められてぼくは内心冷や冷やしていた。
 「なんでしょうか?」
 「今度中学校に上がるうちの息子が、インターネットをやりたがってるんですの。それで、もしよろしかったら、お兄さんに教えてもらえないかと思って・・・・」
 教えられそうもないけど、ここはいい返事をして解放してもらおう。
 「いいですよ。兄に言っておきます」
 「助かりますわ」
 「じゃあ、予約の時間に間に合わないから、失礼します」
 「あら、引き留めてごめんなさいね」
 ぼくは、小さく手を振って階段を下りていった。背中に汗が流れているのが分かった。びっくりしたあ・・・・。しかし、これで自信がついた。うまくやれそうだ。

 バス停に近づいていくと、幸恵が手を挙げて振った。
 「歩き方はいいけど、もうちょっと歩幅を小さくした方がいいわよ」
 ぼくは黙って頷く。バス停で待っていると、信号停車した車の中から若い男がぼくたちをじっと見ていた。
 「幸恵。見られてるわ。どこかおかしいのかなあ」
 「違うわよ。わたしたちみたいな美人がふたりもいたら、男はみんなわたしたちを見るわよ。朋恵、経験者でしょう?」
 「そうだったわね」
 ぼくも、いい女がいたら、それとなく見ていた。自分が見られる立場になってみると、なんだか恥ずかしい。
 「幸恵は、見つめられて、恥ずかしくない?」
 「恥ずかしくなってないわよ。嬉しいわ」
 「嬉しい!?」
 「自分が男に見つめられる価値のある女だって証拠でしょう?」
 「そっかあ」
 女はみんな、ナルシストというわけだな。ぼくはなるほどと納得した。

 5分ほどしてやってきたバスに乗り込んで、空いていた座席に並んで座った。座ると膝上丈のワンピースの裾がずり上がってきた。太股の中程までしかない。ぼくは膝をしっかり合わせて、ショルダーバッグを膝の上へ置いた。向かいの席には男性が座っている。スカートの中を覗かれやしないかとびくびくした。
 反対側の窓を流れる外の景色を見ていると、誰かの視線を感じた。向かいの席に座っている中年の男が、文庫本を読みながら、ちらりちらりとぼくたちの方を見ていた。ぼくが視線を向けると、慌てて視線を文庫本へ戻した。
 今度もばれているんじゃないかと思ったが、男はぼくだけじゃなくて、ぼくたちを見ているようだ。視線が幸恵に行ったり、ぼくに向かったりするのが分かる。ぼくは安心して、窓の外を眺めた。
 「朋恵! 膝が開いてるわよ」
 幸恵にそう耳元で言われて、慌てて膝を合わせた。油断するとすぐに開いてしまう。女は大変だなと思った。

 隣町でバスを降り、大きな店の方がお客に対する注意が集中しないからいいと言う理由で、かなり大きな美容室に入った。
 「ご姉妹? 双子ですか?」
 「双子じゃありませんけど、姉妹です」
 「よく似てらっしゃるわ。どうなさいます?」
 「肩の高さに。スタイルはお任せしますけど、ふたりとも同じにしてください」
 「承知いたしました」
 ふたり並んでカットされた。ヘアスタイルまで一緒になると、ホントに双子に見えた。
 「少しブラウンにされて、軽くパーマをかけられるといいかと思いますけど」
 横目で幸恵を見ると、頷いているのが目に入った。
 「お願いします」
 カールを巻かれ、何か液体を髪に塗られた。しばらく釜の中に放置された後、洗髪になった。座っていたイスがぐるりと回された。
 「仰向けになります。首が痛かったら、言ってくださいね」
 「はい」
 最近、散髪しないけど、いつも下を向いて洗髪していた。この方が楽だなと思っていたが、ふと気が付いた。喉仏があるのを見られたんじゃないかと。しかし、そのことを確かめるわけにはいかなかった。胸がどきどきし始めた。
 何事もなかったように洗髪は終わり、乾燥、ブラッシングがすむと、2時間前とはまったく変身したぼくが鏡に映っていた。
 ぼくは鏡の中の自分を見て、にっこり微笑んだ。

 「ホントに双子じゃないんですか?」
 「わたしの方が、ふたつ下なんですよ」
 そう言いながら、幸恵は会計をしていた。学年はふたつ違うけど、年齢はひとつしか変わらないじゃないかとぼくは、心の中でつぶやいた。
 ちらりと店の方を見ると、従業員がひそひそ話しながら、ぼくの方を見ていた。ぼくがそっちを向くと慌てたように目を反らした。やっぱりばれている。

 急がず騒がず、ゆっくりと店を出た。
 「幸恵。ばれちゃったわ」
 「どうして? 気づいていなかったと思ったけど」
 「仰向けで洗髪されたでしょう? 喉仏を見られちゃった」
 幸恵は、ああというような顔をした。
 「気が付かなかったわ。洗髪は下向きでもできたのに。失敗だったわ。もうあの店には行けないわね」
 「それより、喉仏、何とかしないと、この先もばれちゃいそうだよ」
 「そうよね。この先ずっと女してないといけなんだから、喉仏があっちゃ、いけないわよね」
 一日中、いや何日でも家の中にいても、まったくどうもないぼくにとっては、喉仏なんてホントはどうでもよかったのだけど、幸恵はぼくを連れ出したがっていた。外に出ざるを得ないとすれば、喉仏の存在は大きな障害となる。
 「どうしよう・・・・」
 「大沢先生に相談しましょう」

 幸恵が大沢先生に相談したところ、福岡の形成外科を紹介してくれた。ぼくと幸恵はJRに乗って、指定された日時に紹介された病院へ向かった。
 事情がある程度知らされていたらしく、ほかの患者から隔離されたところで診察された後、こっそりと手術が行われた。
 「抜糸はしなくてもいいようにしてある。一週間たったら、傷の上に貼ってある薄い膜を剥ぎなさい。どうかあったら、大沢先生と相談したらいいよ」
 そう言われ、痛み止めと化膿止めを手渡されて、その日のうちに病院を離れた。
 最終の高速バスで大分に戻った。喉仏がなくなって、外見上男だと疑われることがなくなると思うと自然に笑みがこぼれた。快適な旅だった。

 何事もなく傷は癒え、言われたように薄い膜を剥ぐと、綺麗な喉になっていた。
 「これでもう心配しないで外出できるわね」
 幸恵は嬉しそうにぼくに向かって呟いた。
 「そうだね」
 「あら、嬉しくないの?」
 「嬉しいさ。幸恵と一緒に外出できるんだからね」
 「ひとりでも行けるわ」
 「ええっ!?」
 「買い物とか、やってもらわないといけないからね。わたしにおんぶに抱っこじゃイヤでしょう?」
 「・・・・そうだね」
 ひとりで外出なんてできるんだろうか? 考えても見れば、喉仏があったときでさえ、美容室に行ったときも、福岡に行ったときも、誰も気づかなかった。喉仏がなくなった今、気づく人間はいないだろう。

 ウイークデーは、幸恵は銀行へ行っているから、部屋から幸恵に似た女が出ていくのは拙いと思い、幸恵が帰ってきてから、ときどきコンビニへ行ったりした。
 幸恵が休みの土日は、別々に出かけて外で落ち合い、ショッピングをしたり、食事をしたりした。
 「たまには別行動しましょうよ」
 そんな幸恵の提案で、まったく別行動を取ることもあった。
 「彼女オ。お茶しない?」
 ひとりで歩いていると、そう言われて、何度もナンパされた。ナンパされるのは気分のいいものだ。そう思いながら、ぼくは気持ちまで女になっているのではないかと、驚きを禁じ得なかった。

 女性ホルモンを飲んでいる影響が体以外にも現れていた。色に対する感覚が変わってきたのだ。
 以前はぱっとするような原色が好きだったのに、最近は淡いパステルカラーが好きになった。その影響はホームページ作りにも現れている。それが好評らしく、仕事が順調に増えてきた。月々貰う給料が、20万を越えるようになっている。
 忙しい合間を縫って、小説作りも続けている。できあがった小説は5作になった。しかし、どこへも投稿せず、ハードディスクの中に眠っている。
 「また書いてるの?」
 「気分転換にね」
 「気分転換に性転換の小説書いてるのね」
 「80点だわね」
 「80点? もう少しちょうだいよ」
 「今一だもんね。せいぜい85点。100点は絶対上げられないわ」
 「85点かあ。まあ、いいわ。ところで、せっかく書いたのに、どこにも発表しないの?」
 「考えてないわ。こんな小説、どこも印刷してくれないわよ」
 「そうかなあ」
 「無理、無理」
 「ホームページ作って、発表したら?」
 「あ、それならできるわ」
 ホームページの制作を仕事にしているのに、そんな簡単なことに気が付かなかった。

 「できたわよ。こんなものでどう?」
 翌日ぼくは、できあがったホームページを、仕事から帰ってきた幸恵に見せた。
 「ださあ」
 「お金にならないものに時間をかけたくないの。余裕ができたら、少し改造するわ。とりあえず、小説を読んで貰えばいいのよ」
 幸恵は肩をすくめた。

 『性転換を題材としたミステリーを書いてみました』というホームページのタイトルは、ちょっと安直だったかなと思ったが、結構アクセスが多いようだ。このまま行くことにした。