第2章 男子厨房に入ろう会

 目が醒めると、味噌汁の香りがした。時計は、午前7時少し前を指していた。トントントンとまな板の上で何かを刻む音がしている。幸恵はもう起きて朝食を作ってくれていた。
 ぼくはベッドから抜け出して、スリッパを履いてリビングへ入っていった。
 「あら? 起きたの?」
 「ああ」
 「もう少し寝ててもよかったのに」
 「お茶入れてくれ」
 「ちょっと待って。すぐに入れるから」

 幸恵はすこぶる機嫌がいい。セックスした翌日はいつもそうだ。まるで人が変わったみたいになる。毎晩セックスすれば、毎朝気持ちよく起きられるけど、幸恵がその気にならないこともあるし、こちらも疲れていることもある。
 昨日の晩のように、幸恵の方から誘ってくるなんて事は、酔ったとき以外はほとんどない。ただ、幸恵が酔ってるときは、自分から誘ったくせに、途中で眠り込んでしまって、ぼくは虚しいセックスを強いられる。そんな日の翌日は決して機嫌はよくない。
 幸恵が疲れて帰ってきて、その気がないのに手を出そうものなら凄い剣幕で怒りだす。
 「アメリカじゃ、夫婦の間でも、合意のないセックスは強姦罪が適用されるのよ」
 そう言われれば無理にはできない。それを敢えて無理強いすると、翌日は嵐になって、ぼくは幸恵が出勤するまでベッド中から起き出せないこともあるのだ。
 些細なことで喧嘩した翌朝も同じ事だ。だからぼくは、できるだけ幸恵とは喧嘩しないようにしている。
 それでも、耐えきれなくなって喧嘩することもある。先々月だったか? ぼくが幸恵に無断で、ハードディスクを取り替えたのが原因で口論になった。それから一週間、幸恵は口をきいてくれなかった。勿論、ベッドの中でも背中を向けたままだった。
 一週間後、ぼくの方から謝り、やっとセックスさせてもらった。その翌日、幸恵は今朝のように上機嫌で、ぼくにお茶を入れてくれた。
 女をコントロールするのは難しい。特に経済的なことで優位になれないぼくにとっては・・・・。

 「はい、お茶。何考えてたの?」
 「あ、いや。何でもない」
 いつまでこの上機嫌が続くのかな? 機嫌が悪くなる前に、また可愛がってやらなくちゃ。そう思いながら、お茶をすすった。

 「はい、これ入会金の3千円」
 朝食が終わって、幸恵がぼくに一通の封筒を手渡した。それには、入会金3千円也と書かれてあった。
 「入会金?」
 「男子厨房に入ろう会の入会金よ」
 「あ、そう」
 「もう忘れていたのね」
 「忘れてないさ」
 昨日のことなのに、きれいさっぱり忘れていた。しかし、忘れたなんて言ったら、機嫌が悪くなりそうな気がした。
 「それから、材料費がいるから、取り敢えず1万円渡して行くから使って」
 幸恵がもうひとつ封筒をぼくに手渡した。
 「分かった。午後3時だったね」
 「そうよ。楽しみだわ。どんなものを作ってくれるか」
 ぼくは肩を竦める。
 「乞ご期待って所だね」
 「じゃあ、わたし出掛けるからね」
 そう言って、幸恵は寝室に入って着替えを始めた。お茶を飲みながら、ぼくは幸恵のセミヌードを横目でじっと見ていた。裸の幸恵もいいけど、下着姿の幸恵もいいな。そう思ったら、股間のやんちゃ坊主が目を覚ました。今晩もできるのかな? 今晩はバックで行こうかな? ぼくは期待に胸を膨らませる。
 「行ってきます」
 そんな幸恵の言葉に、はっと我に返った。
 「気を付けてな」
 「夕食頼んだわよ」
 「はい、はい」
 結婚しているとは思えないようなミニスカートを翻して、幸恵はドアの向こうに姿を消した。

 午前中、依頼されていたホームページ制作の仕事を仕上げて会社へ送った。折り返し、ホームページの制作依頼が届いた。
 短い添付文書が付いていた。
 『橋谷克也様。
 貴君の作成したホームページは評判が良く、口コミでかなり依頼が来そうです。早急に仕上げて送り返してください。
 田坂』
 ホームページの制作は好きではないけど、背に腹は代えられない。かなり依頼が来そうだとすれば、今月は収入が増えるかもしれない。ぼくは、ほくそ笑んで早速依頼された仕事に取りかかった。

 休憩も取らずにホームページの制作に没頭した。腹減ったなと思いながら時計を見ると、午後2時40分を刺していた。6時間もぶっ通しでモニターを見ていたことになる。目が疲れるはずだ。
 何かしなければいけないことがあったなと考えながら、冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。昼飯にインスタントラーメンでも作るかと、ふとテーブルの上を見ると封筒が目に入った。いかん! 男子厨房に入ろう会に行かなきゃならなかったんだ!
 ぼくは、慌てて着替えると、封筒を握りしめて集会所へ向かった。

 集会所は、ぼくらの住んでいるアパートから歩いて5分ほどの所にある。ぼくは息を切らして駆けていった。集会所に着いた時、集会所の柱時計が丁度3時の時報を告げた。
 ドアを開けると、初老の男性ばかりが5人にて、楽しそうにお喋りをしていた。ぼくのような若い男はいないようだ。ちょっと尻込みしそうになる。しかし、怒った幸恵の顔を思い浮かべて、ぼくはドアの一番近くにいた白髪の男に声をかけた。
 「すみません。男子厨房に入ろう会の会合ですよね」
 「そうですよ。入会希望ですか?」
 「は、はい」
 「佐藤さん。この方が会に入りたいって来られてますよ」
 奥の椅子に座っていたほとんど髪の毛のない丸顔の男が腰を上げてドアのそばにやってきた。
 「やあ、あなたみたいな若い人が入ってくれるのは大歓迎ですよ。佐藤と言います。よろしく」
 「橋谷です。よろしくお願いいたします」
 「入会申込書はお持ちですか?」
 「あ、ああ。ここに持ってきてます」
 ぼくは、封筒を佐藤さんへ渡した。
 「入会金も入ってるんですね。じゃあ、預からせてもらいます。ええっと・・・・。妹さんとふたり住まいですね」
 「はい」
 妹さんとふたり住まいと言われるのはもう慣れた。結婚してからずっとだからだ。いや、大学を卒業してからずっと兄妹と偽って同棲してきたから、もう4年も一緒に暮らしていることになる。
 「今日から、早速仲間に入りますか?」
 「ええ、そのつもりで来ました」
 「じゃあ、上がってください。みなさんに紹介しましょう」
 ぼくは、靴を脱いで薄っぺらなスリッパを履き、集会所の中に入った。
 「今日は材料が着くのが遅れているから、丁度都合がいいですな。橋谷さんを交えて、自己紹介でもしましょう」
 ぼくを含めた6人が輪になって、椅子に腰掛けた。
 「じゃあ、橋谷さんからお願いします」
 「何を言えば・・・・」
 「年齢とかお住まい。ご職業など何でも結構ですよ。言いたくなかったら、言わなくてもいいです。ま、そのうち、知られてしまいますけどね」
 そう言って、佐藤さんは子供のような笑顔を見せた。
 「じゃあ、自己紹介させていただきます。ぼくの名前は、橋谷克也です」
 「どう書きます? かつやって」
 向かいに座っていたかなり年の人にそう聞かれた。
 「己に克つって言う字がありますね。克己と言う字です」
 「分かります」
 「それに、なりって言う字の也です」
 「いい名前だ」
 「ありがとうございます」
 「で、職業は?」
 「パソコンを使って、ホームページを作ったり、プレゼンテーションファイルを作ったりしてます」
 「ホームページ? プレゼント???」
 コンピューターに縁のない人ばかりのようだ。一堂に首を傾げた。
 「どこにお勤めで?」
 「所属しているのは、鳳ソフトエンジニアリングという会社ですけど、家で仕事してます」
 「家で!?」
 これまた、一堂に驚いた顔をした。
 「ええ、家にあるパソコンで仕事をして、電話回線でできたものを送るんです」
 「それはまた・・・・、最先端なお仕事ですな」
 5人は顔を見合わせ、頷きあっている。
 「それほどでもないですけど・・・・」
 「仕事はいつするんですかね?」
 「えっ!? ああ、暇なときでいいんです。だから、こうやって、こんな会にも顔を出せるんです」
 「なるほど、なるほど」
 感心したように、5人は腕組みをして頷いている。

 「こんにちわ。遅くなりました」
 野球帽に前掛けという、いかにも八百屋らしい男が集会所の玄関に顔を出した。
 「ああ、待ってたんです。そこに置いて貰えますか?」
 「はい、はい。毎度あり。あれ!? 新人さんですか?」
 ぼくの顔を見て尋ねる。
 「ああ、今日から入会した橋谷さんです」
 「橋谷です。よろしく」
 「橋谷さんって、前畑コーポ2号館の2階の方ですかね?」
 ぼくはちょっと驚く。
 「どうしてそれを」
 「一度、お届け物をしたことがありますよ。リンゴかなんかの詰め合わせをね」
 「ああ、覚えてます。あの時の八百屋さんなんですね」
 「石田八百屋店と言います。まあ、今後ともご贔屓に」
 「分かりました」
 「じゃあ、ここにおいときますから」
 石田八百屋店と言うから、石田さんなのだろう。床の上に段ボール箱を置いて、野球帽に前掛け姿の男は集会所を出て行った。
 「支払いは月末ね」
 佐藤さんが、ドアを開けて石田さんにそう叫ぶ。返事は聞こえなかったが、了解はしてるんだろうなと思った。
 「さあ、自己紹介の続きを簡単にすませましょう。夕食に間に合わなくなってしまう」
 「そうですね」
 「今、石田さんがおっしゃったように、前畑コーポ2番館に妹と住んでます」
 「ほう、妹さんとね」
 「何か、他に聞きたいことはありませんか?」
 みんな、顔を見合わせている。
 「じゃあ、われわれの自己紹介の番だ。わたしは佐藤一郎と言います。九電を退職して、2年目です。裏の団地に住んでます。妻に先立たれて、独り暮らしで、こんな事を始めました。一応、わたしが会長と言うことになっています。・・・・ええっと、じゃあ、左回りで行きましょう。和泉さん。お願いします」
 佐藤さんの左隣にいた少し若めの男がぼそりと呟いた。スポーツ刈りで体格がいい。何かの運動選手でもしていたのだろうかと思った。
 「わたしは和泉護。去年まで、陸上自衛隊に勤めていた。よろしく」
 自衛隊ね。それで納得。スポーツ刈りも分かるし、体格がいいはずだ。それにしても和泉さんは随分若く見える。自衛隊の定年って早いんだろうなと思った。
 「わたしは木下公明という。角の散髪屋だ。君には縁がなさそうだな」
 ぼくは、ここ数ヶ月散髪に行ってない。ぼさぼさに伸びてしまって、そろそろ後ろで縛れるくらいになっている。散髪屋に行かない理由は、待たされるのが嫌だからだ。
 「散髪屋さんって、行ってすぐにやってくれないでしょう? 時間が勿体なくって」
 「毎日時間があるのに?」
 木下さんは少し皮肉っぽくそう言った。さっきぼくの克也って字はどう書くって聞いたときから、木下さんって、ちょっと変わり者だと思ったけど、付き合いにくそうだ。
 「それはそうですけど、思いついたときに手元にコンピューターがないと不安でですね」
 「持ち歩きのできるやつがあるんじゃないのかね? 最近は」
 「ノートパソコンですか? あれはちょっと高くって、手がでないんですよ」
 「あ、そう言うこと」
 木下さんはひとりで納得していた。
 「わたしの番だな。わたしは衛藤喜一。自由業だ」
 「自由業って、何をされてるんですか?」
 ぼくが聞く。
 「ただの小説家だ」
 「小説家!? すごいですね」
 「衛藤さん。ぜんぜん売れてないから、小説家は言い過ぎじゃないですかね?」
 木下さんがやっぱり皮肉たっぷりに言う。この人嫌われてんじゃないかなと思う。
 「売れてないことはない。ちゃんと売れている」
 江藤さんは憮然として答えた。
 「ま、そう喧嘩なさらずに。じゃあ、最後に園田さん」
 指名されて、小柄な白髪混じりの人の良さそうな老人が顔を上げた。色が真っ黒だ。一見して農家の人みたいだ。
 「わしは園田仁だ。去年から、息子の所に来ている。こんな所には住みたくはないが、妻が死んで、田舎ではひとりでやっていけないから、こっちに来た」
 ちょっと悲しそうにそう言った。田舎で育った人は、田舎から離れるのは辛いだろうなと思う。
 「ほかに3人ほどいるんですけど、次の機会にでも紹介しましょう。さあ、それでは始めましょうか。今日は、肉じゃがに、グリーンアスパラとポテトのグラタンですよ」
 肉じゃがはともかく、グラタンなんて、こんな年寄り連中が作るの? 少し驚いた。

 材料が机の上に並べられ、料理が始まった。
 「橋谷さん。包丁を握ったことは?」
 「ぜんぜんです」
 「じゃあ、この皮むき機を使いましょう。お宅にありますかね?」
 手渡された器具をじっと見つめた。
 「あったような気がしますが・・・・」
 「なかったら、包丁です。皮はこうして剥いてですな。このジャガイモの芽は取らんといかんです」
 「どうしてですか?」
 「芽に毒があるんですよ。包丁の角の部分でこうすると取れます」
 佐藤さんは、器用にジャガイモの芽を取った。ぼくは感心しながらそれを見ていた。
 「適当に切ってください}
 「適当に?」
 「肉じゃが用は、食べやすい大きさでいいですよ。グラタン用は、半分に切って、こう言う風に5ミリ幅に切ります。いいですね」
 「分かりました」
 ぼくは包丁で、ジャガイモを切りまくった。
 「橋谷さん。それくらいでいいですよ。次人参ね」
 佐藤さんは、料理が上手いみたいだ。だから、こんな会をやってるんだろうけど。人参、タマネギ、グリーンアスパラ、しらたきを適当な大きさに切った。
 切った材料を肉じゃが用とグラタン用に分ける。グラタン用のジャガイモは、既に火が通され鍋の中で柔らかくなっていた。
 佐藤さんが説明を始めた。
 「今日の肉じゃがは豚じゃなくて、牛です。牛肉で作る肉じゃがは、肉を入れたまま煮込むと、肉の旨味が逃げて、しかも肉が固くなってしまいます。牛肉を油で炒めて味付けしたら、いったんボールに取りだして、野菜を煮込みます。味付けには、味醂、砂糖、醤油です。野菜が煮えて味が染み込んだら、ボールにあげておいた牛肉と合わせて、肉が暖まったら出来上がりです。いいですか?」
 「はい」
 じゃあ、じゃあと肉のこげる音と臭いがし始めた。牛肉の肉じゃがなんて、贅沢だなと思った。
 「佐藤さん。味醂とか砂糖の量はどうするんですか?」
 「マニュアルはありません。少しずつ入れて、味を見ながら調整したらいいんです」
 「随分いい加減なんですね」
 「あんまり細かいことは男には不向きですよ。旨けりゃいいんです。ああ、言っておきますけど、味付けの順番は『さしすせそ』ですからね」
 「さしすせそ?」
 意味が分からず、ぼくは首を傾げた。
 「そう。『さしすせそ』は料理の味付けの基本です。砂糖の『さ』。塩『のし』。酢の『す』。醤油の『せ』。味噌の『そ』の順番に入れるって事。そうしないと、量がもの凄く多くいるんですよ」
 「へええ。『さしすせそ』ですね。分かりました」
 幸恵もそのことは知ってるんだろうなと思う。今晩、帰ってきたら、聞いてみよう。
 「煮込んでいる間に、グラタンを作る準備をしましょう。グラタン皿に材料を入れます」
 「あのう。グラタン皿って、持ってきてないですけど・・・・」
 「わたしが貸します。次の例会の土曜日にでも持ってきてください。勿論よく洗ってね」
 「すみません。お借りします」
 「塩ゆでしたジャガイモを並べて、その上にグリーンアスパラを置きます。できましたか?」
 「ちょっと待って」
 園田さんが待ったをかける。佐藤さんはそれを無視して話しを続けていく。
 「次に適当に塩こしょうして、生クリームを注ぎます。さらにチーズを乗っけて、あとはレンジがやってくれます」
 「温度設定は?」
 和泉さんが尋ねた。
 「レンジの強、180度で25分くらいかな?」
 180度で25分、180度で25分。メモを持ってこなかったので、ぼくは何度も復唱した。
 「佐藤さん。塩こしょうって、どれ位すればいいんですか?」
 「好みだけど、少な目にして置いて、甘かったら食べるときに追加したらいいですよ。辛いと食べられないからですね」
 なるほどとぼくは頷いた。

 大雑把というか何というか。男の料理というものはこんなものだろうなとひとり納得して、ぼくは牛肉の肉じゃがと、あとはレンジでチンするだけになったグラタン皿を抱えて、アパートに帰った。
 材料費は、月末にまとめて支払えばいいそうだ。作るものにもよるが、一回500円から1000円で、一ヶ月で、多くても3000円は超えないと聞かされた。今日の分は、そんなに高い肉じゃないから、二人分で600円くらいかなと聞かされて、ほうと驚きの声を上げた。ふたり分のおかずで、それくらいなら、安いものだと思った。
 「グラタンは、幸恵が帰ってきてからチンすればいいと。180度で25分だったな」
 ぼくは独り言を言う。
 「めしは、釜の中にまだ残っているから大丈夫。そうだな・・・・。冷や奴でも追加しておこう」
 冷蔵庫を開けてみたが豆腐がなかった。近くのスーパーまで豆腐を買いに行った。一丁66円と120円のものが置いてあった。考えた末、120円のものを買った。高い方が旨いに決まっている。
 部屋の戻って、豆腐を半分に切って、一方は冷蔵庫にしまい、もう一方を切り分けて皿の上に置いた。その時になって、薬味がいることに気付いた。冷蔵庫を探す。ネギがあった。チューブ入りのショウガもある。問題ない。
 幸恵が帰ってくる時間まで、まだ1時間あまりある。少し仕事をしておこうと思ったが、どうも手に着かない。料理も結構楽しかったぞ。野菜の切り方を思い出しては復習した。

 ガチャッとドアの開く音がした。驚いて振り向くと、幸恵の姿があった。
 「ただいま」
 「お帰り。早かったね」
 幸恵はえっと言うような顔をして言った。
 「もう7時前よ」
 そう言われて壁にかけられた時計を見ると、針は午後7時を指そうとしていた。
 「ほんとだ。もう、こんな時間かあ」
 「夕食は作ってくれたの?」
 ぼくは笑顔になって幸恵の前に立った。
 「もちろんだよ。あっ! レンジにスイッチ入れなきゃ」
 「レンジ? レンジなんて使うの?」
 コートを脱ぎながら、幸恵がぼくについてきた。
 「ほら。グラタンだよ。グリーンアスパラとポテトのグラタン。チンすればいいようになってる」
 「グリーンアスパラとポテトのグラタンねえ。上手くできてるかなあ」
 「分からないんだ」
 「ええっ!? 分からないの?」
 「肉じゃがも作ったんだけど、そっちは味見してるからいいけど、グラタンは、出来上がって食べてみないと分からないんだよ」
 「ふうん。すぐに食べられるの?」
 「25分後だね」
 「25分後かあ。じゃあ、先にシャワーするわ」
 「ああ。いいよ」
 そう言ったけど、今日は一緒に入れないなと、ちょっとがっかりした。

 「このグラタン、美味しい!!」
 「ほんと、美味しいね」
 「肉じゃがも美味しいわ。牛だとお肉が硬くなっちゃうのに、これ、柔らかくってとっても美味しい」
 「冷や奴もあるよ」
 「あれ? このお豆腐。高い方を買ったでしょう?」
 「分かる?」
 「分かるわよ。贅沢しちゃって」
 「いいじゃないか。豆腐くらい」
 「主婦は一円でも節約しようといつも苦労してんだから、少しは考えてね」
 「はい、はい」
 「でも、やっぱ高いお豆腐の方が美味しいわ」
 「そうだろう?」
 その後、ふたりともものも言わないで、パクパクと夕食を済ませた。

 「ああ、美味しかった。人が作ってくれたお料理って、特に美味しいわ」
 「そうかい? じゃあ、明日も頑張って作ってあげるよ」
 「明日は、厨房に入る会はないんでしょう?」
 「俺さあ、料理に目覚めちゃったよ。作るのが楽しくてたまらない。それにさあ。美味しいって言ってくれると、余計に嬉しいよ」
 幸恵はにこっと微笑んだ。
 「ほかの料理を知ってるの?」
 「知ってるわけ、ないだろう? 明日、料理の本でも買ってくる」
 「料理の本で上手く作れるかなあ」
 「やらしてくれよ。きっと上手くできるから」
 「任せる。・・・・じゃあ、朝食はわたしが作るわ。それで貸し借りなしにしましょう」
 「別に貸しを作るつもりはないけど、・・・・そうだね。俺もゆっくり寝たいから」
 「じゃあ、契約成立ね」
 その夜も、幸恵は機嫌よくセックスに応じてくれた。夕食を作る代償としては、朝食を作ってくれるよりもこっちのほうが大きい。ぼく自身はそう思っているが、幸恵はどう思っているのだろうか?

 今朝もご機嫌な幸恵に起こされ、幸恵が作ってくれた朝食を食べた。自分で作った方が、美味しいんじゃないかなと思ったが、そんなことは言えなかった。
 「このジュース、いったい何が入ってるんだ?」
 コップに注がれたジュースをぼくは眺めていった。
 「オレンジに苺、卵の黄身にヨーグルトよ」
 「苺なんて、高かっただろう?」
 「あなたの健康のタメよ。安いものよ」
 「そう」
 昨日は一円でも安い方をと言っていたのに、ぼくの健康のためなら、高いものを買ってくれる。嬉しくなって、ぼくは、甘ったるいジュースをぐっと飲み干した。
 人生が楽しく感じられる。これで、ぼくの稼ぎがよかったらなあと、出かけて行く幸恵の後姿を見ながら思った。

 午前中一杯かかって、依頼されたホームページの制作をやった。もう2,3時間やれば完成しそうだが、納品期限は明後日だし、気分転換と夕食用の料理の本を買うために外へ出た。
 歩いて10分ほどの距離にある本屋さんで立ち読みして、あんまり高級料理ではなく、かと言ってそれほど粗末ではない料理の載った本を2冊ほど買い込んだ。
 公園のベンチに座って、夕食に作るメニュー決めたあと、アパートへの帰り道にあるスーパーで買い物をした。
 男が買い物するのは恥ずかしいような気がするが、ウイークデーの昼間と言うのに、結構男の人もバスケットを抱えて買い物をしている。ぼくは勇気付けられる思いがした。

 「いまいちかな?」
 「ええっ!! 俺はいいと思うけどなあ」
 「何かが足りないのよね」
 ぼくはちょっと膨れて見せた。
 「せっかく、克也が作ってくれたんだから、文句言ったらダメね。食べよう」
 「ああ」
 今晩の献立はマーボ茄子。確かに、ちょっとはっきりしない味だと思っていた。幸恵は鋭い。次回はもう少し工夫してみよう。
 「このお新香。どこで買ったの?」
 「ミヨシスーパーだよ」
 「こんな美味しいの、前はなかったよね」
 「店の前で行商みたいなおばさんが売ってたんだ。わたしの手作りだって言うから、買ったんだけどね」
 「うん。これはヒット作よ。そのおばさんの顔覚えてる?」
 「うーん。思い出せないけど、会えば分かると思うよ」
 「これなら、ほかにおかずはいらないわ」
 「何だよ。俺の料理に対するあてつけか?」
 「違う、違う。それくらい、このお新香、美味しいってことよ。誤解しないで。克也の作ったマーボ茄子も最高よ」
 「ちぇっ、調子いいんだから」
 「克也。お風呂。今日も一緒に入ろうか?」
 ぼくは、喜色満面となった。
 「すぐ片付けるね」
 その夜ももちろん、幸恵と合体した。三日連続なんて、何年ぶりかな?