熱い炎がわたしの髪を焦がす。目の前で、わたしたちが住んでいたアパートが炎に包まれ、スローモーションのように崩れて行った。
「克也! 克也あーッ!!」
サイレンをあげて漸くたどり着いた消防車が放水を始めた。
「わたしの・・・・、わたしの克也・・・・」
わたしは、地面にがっくりと膝をついて、大声をあげて泣いた。
救急車で、一番近い大沢の病院へ運ばれた。わたしは、『克也、克也』とうわごとのように言い続けた。わたしは、大沢と相談していた計画を実行している。
翌朝、警察官がやってきた。事情聴取のためだ。
「橋谷幸恵さんですね」
「はい」
「お話しを聞かせていただいてもよろしいですか?」
「・・・・はい」
「火災の原因は何なんですか?」
「克也が、・・・・克也が灯油を頭からかぶって火を点けたんです」
わたしは涙を浮かべて話す。
「灯油をかぶって? と言うと自殺ですか?」
「はい」
「焼け跡から焼死体で見つかったのは、橋谷克也さんに間違いないということですね」
「はい。わたしの目の前で、火を点けましたから・・・・」
「なるほど」
警察官は、手帳にメモを取っている。
「どう言うわけで、お兄さんは自殺を」
「克也は、・・・・兄ではありません。夫です」
「夫ですって!?」
警察官は、ペンを止めて驚いたような顔をしてわたしを見た。
「はい。近所の方にも勤務先にも内緒にしてましたけど、わたしたち、夫婦なんです」
「ほう。なんでまた?」
「克也の収入が少なかったので、妻のわたしに養ってもらっていると知られるのがいやだったんです」
「なるほど。気持ちは分かります。で、自殺の動機について、心当たりは?」
「・・・・克也は・・・・」
わたしはそう言ったまま押し黙った。
「何か話しにくいことですか?」
刑事が優しくわたしを覗き込んだ。
「・・・・話します。克也は、睾丸の病気で睾丸を両方とも取ってしまったんです」
「睾丸を! 両方とも!」
「だから、子どもを作ることは勿論、夜の生活もできなくなってしまったんです」
「それは気の毒に」
「克也は、給料も少ない上に、男としての機能を失って、わたしに離婚してくれと迫りました。・・・・だけど、わたしは、セックスなんてできなくてもそばにいてくれるだけでよかったんです。だから、離婚には応じませんでした。克也は喜んでいました。だけど、やっぱり悩んでいたようです」
「それはそうでしょうね」
警察官は、同情からか小さな溜息を洩らした。
「あの日・・・・、克也に知られてしまって・・・・」
「何をですか?」
わたしは涙を浮かべて警察官を見た。
「わたし、克也のことを愛してました。だけど、過ちを犯してしまって・・・・」
「過ちというと、・・・・つまり、誰かと浮気したとかですか?」
「・・・・はい。克也の主治医の大沢先生と、克也のことで相談するうちに・・・・」
「なるほど。それも仕方のないことでしょうね」
「克也に問い質されて、わたし、嘘をつけなくて・・・・。そしたら、いきなり灯油をかぶって・・・・」
わたしはベッドに突っ伏して大声を上げて泣いた。
「事情は分かりました。また何かありましたら伺います。今日の所はこれで失礼します」
警察官は、丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。演技は上手くいったと思うけれど、わたしの嘘を信じてもらえただろうか?
大沢は、橋谷克也の病気の状態と橋谷幸恵との関係を事情聴取された。大沢は、こうなることが分かっていたように、カルテに欝状態がひどいとか、自殺企図があるとか書き込んでいた。さらに、『わたしは構わないわ。どんな姿になっても、あなたはあなたでしょう? わたしはあなたを愛しているわ』と言う言葉も書き留められていた。橋谷幸恵が橋谷克也をいかに愛していたかが、カルテの記載から証明された。看護婦の証言でも、大沢のカルテの記述が間違いないことが裏付けられた。
アパートの焼け跡から見つかった死体は、男女の区別が分からないほど焼けただれていたらしい。監察医制度のない田舎の大分では、警察から委託された開業医が検死をする。アパートの住人で、いなくなったのは橋谷克也だけで、警察に話したわたしの話しの内容から、詳しい解剖などなされないまま焼死体は橋谷克也だと認定された。わたしはホッと安堵の溜息を付いた。これで、大沢のやったことが知られずにすむ。
夫のことを邪魔に思った妻が殺したのではないかという線も考えられていたらしいが、別に殺さなくても離婚できる状態でもあったし、生命保険もかけておらず、財産もないと言うことから、自殺と言うことで決着が付いた。そして、葬式が行われた。
わたしたちの両親や親族が駆けつけてくれて、ホワイトロード沿いの葬儀社で葬式が営まれた。
「幸恵、しっかりするのよ」
誰もがそう言ってわたしを励ましてくれた。
「・・・・はい」
小さな声でそう答えて、わたしは涙を流した。この嘘の涙を誰もが信じた。
葬式が済んで一段落した頃、大沢から呼び出された。
「会いたかったよ」
「先生。まだ、お葬式が済んだばかりだから・・・・」
「君とわたしが不倫関係にあったことは知られているからいいさ」
「でも・・・・」
抱きしめられ、唇を塞がれた。体がジンと痺れた。久しぶりに大沢に抱きしめられ嬉しかった。
「幸恵には手術の瘢がある。君にはないから、傷を付けていた方がいい」
「・・・・そうしないといけないんですね」
「君が幸恵じゃないとは誰も思わないだろうが、念には念を入れておいた方がいい」
「いつ?」
「今日からでも入院してくれ。葬式の疲れが出たとか理由を付けて」
「分かったわ」
わたしは、朋恵。幸恵じゃない。だけど今は幸恵。あの夜、わたしは橋谷幸恵に生まれ変わった。誰もがわたしのことを幸恵だと思って疑っていない。
あの夜の出来事を思い返す。
あの夜、幸恵に性転換したことを知られてしまった。しかも、性転換した目的が大沢のためだと言うことも。
わたしの別れて欲しいという言葉に、幸恵は言った。
『愛してたのに、ホモになってしまうなんて! あんたなんか、死んでしまったらいいんだ!!』
幸恵は、床にあったものをわたしに向かって手当たり次第投げつけた。そうしてから、泣き続けるわたしを残して、部屋から出て行った。
わたしは幸恵がわたしにやったひどい仕打ちを知っていた。大沢に聞かされていたからだ。幸恵がわたしと別れるために、健康のためにと作ってくれたジュースの中に女性ホルモンを混入していたと聞かされたとき、わたしは信じられなかった。大沢が嘘を言っていると思った。睾丸がなくなっても、例えペニスがなくなっても愛していると言った幸恵の目に嘘はなかった思っていた。
しかし、睾丸腫瘍という話しが嘘であることを示され、幸恵がわたしに女性ホルモンを投与し始めたときと体の変調を覚えたときが一致していることを知り、大沢先生の信じざるを得なかった。
幸恵から愛して貰えないと知ったとき、わたしは大沢の望みを受け入れ、性転換手術を受けた。幸恵に知れれば、離婚してくれるものと思っていた。しかし、わたしの口からは別れてくれとは言えなかった。
幸恵はわたしのことをもはや愛してくれてはいないと思っていた。だけど、部屋を出ていくとき、『愛していたのに』・・・・愛していたのにと幸恵は言った。その言葉を聞いて、大沢から聞かされた幸恵の仕打ちもどこかへ消えてしまっていた。わたしは・・・・。わたしは幸恵をまだ愛している。どんなにひどい仕打ちを受けても、わたしは、幸恵を愛している。幸恵に見捨てられたら、わたしはもう生きてはいられない。わたしは悲しさのあまり泣いた。
どれくらい泣いていただろうか? わたしは決心してふらふらと、灯油の入ったポリタンクの方へ歩いていった。灯油を頭からかぶって、火を放ち、死ぬつもりだった。
その時、電話のベルが突然鳴り始めた。幸恵だろうか? 幸恵がわたしを許すと言ってくれるのだろうか? わたしは電話を見つめたまま佇んだ。
ベルは鳴りやまない。わたしは思いきって受話器を取った。
「はい。・・・・橋谷です」
「わたしだ」
大沢の声だ。死のうと思っていたのに、大沢の声を聞いたとたん、その決心が揺らいだ。
「先生! 女になったことが幸恵にばれてしまって・・・・」
「知っている。その件で話しがある。ドアを開けてくれないか。すぐに上がっていく」
「近くまで来ているんですか?」
「そうだ。早くしてくれ。ひとに見られたくない」
「すぐに開けます」
大沢が来てくれる。わたしはもう死ぬ気はなくなっていた。
近くまで来ていると言ったのに、大沢はなかなか訪れない。10分ほどして、階段を上がってくる足音がした。ドアを開いてみると、大沢は、幸恵を抱えていた。
大沢は幸恵を床の上に下ろすと、ドアに鍵をかけた。幸恵には血の色がなく、息をしていなかった。既に死んでいることは明らかだった。
「幸恵・・・・」
「君と別れて幸恵と一緒にならなければ、幸恵とわたしで君にしたことを全部わたしのせいにすると言われて・・・・、ついカッとなって・・・・殺してしまった」
わたしは、冷たくなった幸恵の体を抱き、声を殺して泣いていた。あんなことをされたと分かっているのに、涙が溢れ出た。
「先生。どうしたら・・・・」
「そのことだが、朋恵、話しがある。良く聞いてくれ」
大沢の提案は、わたしを驚かせた。今のわたしは、幸恵とうり二つだ。幸恵の死体を死因も性別も分からないくらいに焼いてしまえば、幸恵とわたしが入れ替わることができるというのだ。
幸恵が死んでしまった以上、わたしには頼る相手は大沢しかいない。このままにしていれば、大沢は殺人罪で警察に捕まり、わたしは、幸恵ばかりでなく、大沢をも失うことになる。
考えた末に、愛する大沢のため、わたしは大沢の提案を実行することにした。幸恵がいつも身につけている下着に着替え、パジャマも幸恵のものを着た。わたしはその瞬間から、橋谷克也から、橋谷幸恵に生まれ変わった。
いざ灯油をかける段になって、わたしは迷った。愛した幸恵をこんな形で焼いてしまう自分が恐ろしくなった。悩んだ挙げ句、わたしは大沢との愛に生きるために決心した。大沢に言われた通り、幸恵の死体に頭から灯油をかけ、マッチの火をつけて引火させた。
「幸恵、さよなら。ぼくは君を愛していたよ」
そう心の中で呟いた。涙がまた溢れてきた。
火は瞬く間に燃え広がった。
「誰か! 誰か、助けて!!」
わたしは、ドアを開けて声を限りに叫ぶ。お隣の木本さんが出てきたが、わたしたちの部屋から吹き出てくる炎に一瞬動きが停まり、それからすぐに大声で叫んだ。
「タツ子。火事だ! 早く逃げるんだ。橋谷さん、早くあなたも逃げなさい」
「克也が・・・・」
「お兄さんが中にいるのか?」
わたしはそれに答えず、部屋の中に向かって叫ぶ。
「克也!」
「ここにいては危険だ。早く逃げましょう」
木本さんに無理矢理手を引かれて駐車場へ連れて行かれた。
「誰か、誰か、克也を助けて!」
「橋谷さん、もう手遅れだ。諦めろ」
熱い炎がわたしの髪を焦がす。目の前で、わたしたちが住んでいたアパートが炎に包まれ、スローモーションのように崩れて行った。
「克也! 克也あーッ!!」
サイレンをあげて漸くたどり着いた消防車が放水を始めた。
「わたしの・・・・、わたしの克也・・・・」
わたしは、地面にがっくりと膝をついて、大声をあげて泣いた。
そう言うわけだ。
大沢から、下腹部に幸恵と同じ傷を付けようと言われた翌々日、わたしは大沢の病院へ入院した。
「今日は全身麻酔をするからね」
わたしの意見も聞かずに、大沢は全身麻酔をかけた。
目が醒めたときには、病室のベッドで寝ていた。手術前とまるで違ったような気がしたが、それが何から来るのかは分からなかった。
退院後、銀行へ退職届を出した。銀行業務などできるはずがなかったからだ。住むところのなくなったわたしは、大沢に借りてもらったマンションに移り住み、大沢のために食事や身の回りの世話をした。大沢は毎日泊まっていくのに、キス以上のことをやってくれなかった。
「先生。ようやく堂々とできるようになったのに、どうしてわたしを抱こうとしないの?」
「まだ傷に響くだろう?」
「そんなことはないわ。何か理由があるの?」
「なんでもないさ。気になるのなら、婚約しておこうか? それならいいだろう?」
「えっ!? 婚約って、わたしと結婚してくれるの?」
「そうだよ」
「ほんとに?」
「ああ、ホントだ。明日、婚約指輪を買いに行こう」
わたしは今は戸籍は幸恵のもの使っている。だから女として結婚はできる。しかし、大沢が本当に結婚してくれるとは思ってもみなかった。
翌日、1000万円もするダイヤの指輪を婚約指輪として買ってくれたのにはビックリしてしまった。
幸せに浸りながら、3ヶ月が過ぎたある日、下半身に妙な違和感を覚えた。何かが流れ出たような気がして、調べてみると、ショーツに血が付いていた。出血は、腟からだった。何事が悪いことが起こったと思って、慌てて大沢に電話した。他の医者には絶対相談できないからだ。
「とうとう始まったか」
大沢は、病院からマンションへやってくると、戦々恐々としているわたしに向かってそう言った。
「何が始まったんですか? 手術の後遺症ですか? 縫ったところが破れたとか・・・・・」
大沢は首を傾げて言う。
「女の腟から血が出るのは、生理に決まってるだろう?」
「生理!? わたしに生理なんてあるはずがないでしょう?」
「どうしてだ?」
「だって、・・・・だって、わたしはホントの女じゃないもの・・・・」
わたしは、先生が冗談を言っていると思って俯いてそう答えた。
「女だから生理があるんだろう?」
大沢はにこにこしながらそう言う。わたしは大沢の言っていることが理解できなかった。
「先生。わたしには、子宮も卵巣もないのよ。どうして、生理が起こるって言うんですか?」
「子宮も卵巣もあるから、生理があるのと違うかね?」
「どういうこと? 説明して」
「3ヶ月前、手術をしたよね」
「ええ。傷を付ける手術でしょう?」
「その時に、移植したんだ」
「ええっ!?」
「幸恵の子宮と卵巣をね」
「そんなこと・・・・」
「幸恵を殺してしまったとき、君を完全な女にしようと思いついて、幸恵の子宮と卵巣を切除して培養液につけて置いたんだ。幸恵の体を焼いて貰ったのは、君と入れ替えるだけではなく、子宮と卵巣を幸恵の体から盗んだことを知られたくなかったからだ」
「・・・・そんなこと、信じられないわ」
「信じられないのは当然だが、それが事実だ。移植そのものは上手くいったが、拒絶反応が出ないかどうか、移植した卵巣と子宮がちゃんと機能するかが心配だった。拒絶反応はないようだ。生理があったと言うことは、卵巣も子宮もきちんと機能していると言うことだ。だから、今後は女性ホルモンも飲む必要がない。君は、今や完全な女だ。その気になれば、子どもを産むことだってできる」
「嘘・・・・」
「生まれてくるこどもの遺伝子は幸恵のものを受け継ぐことになるが、君と幸恵はそっくりだから、問題は生じないだろう」
「・・・・ほんとに、わたしは女になったのね」
「わたしからのホントの婚約プレゼントだ。気に入って貰えたかな?」
「はい。とっても」
「わたしの子どもを産んで貰えるだろうね」
「勿論です」
わたしは、にっこり笑って大沢に抱きついた。
それから半年後、わたしは大沢と結婚し、大沢幸恵となった。
幸恵がわたしにあんなことをしたことを初めて聞いたとき、幸恵を恨んだ。しかし、今では恨んでいない。こんなに幸せになれたのは幸恵のお蔭だ。
ただ、わたし自身の両親、すなわち橋谷克也の両親から、幸恵は病気になった克也を見放したと思われていることがつらかった。事実を話すわけにはいかないから、黙って耐えるしかないのだが、これも犯した罪から見れば、軽いのだと思っている。
わたしは、幸恵が眠る橋谷克也の墓に毎月お参りをして冥福を祈っている。
「ありがとう、幸恵。わたしは、幸せになるよ。君の分まで」
わたしは少し大きくなり始めたお腹をさすった。
「幸恵、あなたとの間にはできなかったけど、あなたの愛した大沢のこどもを立派に産んでみせるから」