第18章 静香の中に閉じこめられてしまった

 同じ頃、本間が市民病院に赴任してきた。忙しい合間に一緒に食事して飲むことがあったが、本間の話の行き着くところはいつも静香だった。本間は、静香を追って市民病院に赴任してきたようだった。それはほぼ間違いがない。
 静香の秘密は、約束通り本間には漏らさなかった。あんな秘密は本人の口から、本間に話して貰う以外にないのだ。本間も本間だ。好きなら好きで、静香に直接アタックすればいいのに。

 事件が起こったのは、二月の雪が降る寒い夜だった。京子とベッドで抱き合っていると、電話のベルが鳴った。ナンバーディスプレーが示す番号は祥子のものだった。祥子は、その夜は俺が京子といることは知っているはずだ。よほど大事な用事だろうといぶかりながら、受話器を取った。
 「もしもし、どうしたんだ?」
 《しんちゃん、大変よ。静香が自殺を図ったの》
 「何だって!」
 《救急車で、山田病院に運ばれたわ。わたしも行くから、すぐに来て!》
 「すぐ行く」
 電話を切って、何事が起こったのかと怪訝な顔をしている京子にキスをした。
 「京子、悪いが今日はこれで終わりだ」
 「どうしたの?」
 「森本静香を知ってるよな」
 「もちろんよ。あなたがむかし好きだった、あの森本静香でしょう?」
 「ああ。その静香が自殺を図ったらしい。山田病院に行って来る。おまえも行くか?」
 「こんな姿だもの。行けないわよ」
 「それもそうだな。もしかすると、帰って来られないかもしれないけど、泊まっていってもいいぞ」
 「分かったわ」
 俺は急いで着替えると、山田病院へタクシーを走らせた。病院の玄関で祥子がコートの襟を立てて待っていた。
 「静香の様子はどうだ」
 「睡眠薬をたくさん飲んで、昏睡状態らしいの。胃を洗滌したり、点滴したりしてるんだけど、意識が戻らないって」
 「どうして自殺なんか」
 「遺書もないし、原因が思い当たらないって、ご両親が言ってたわ」
 「本間には連絡したか?」
 「今日は当直だって。来られないわ」
 「そうか。当直じゃあ仕方ないな。病室は?」
 「集中治療室なの。家族以外は入れてくれないわ」
 「そうか。いつになったら会えるだろうか?」
 「それより助かるのかしら」
 助かるのかしらだって? そんなに静香の状態は悪いのか。祥子について病院の中に入った。病院の中は暖房が利いているというのに、何故か暗く冷え冷えとしていた。

 俺はその夜、寝ないで病院の廊下をうろうろした。静香の意識は戻る様子がなかった。深夜、集中治療室から出てきた父親に聞いたところ、脳波がほとんど出ていないとのことだった。脳死なのかと聞いてみたら、脳死ではないが似たもので、回復は不可能だろうと医者に言われたと言って涙を流していた。
 夜が明けて、本間が青い顔をしてやって来た。本間は医者であるという特権を使って集中治療室に入っていったが、出てきたときには、入ったときよりもっと青ざめていた。
 「ぼくのせいだ、ぼくの」
 廊下の堅い長椅子に腰掛けると、頭を項垂れて泣き始めた。
 「何があったんだ」
 「静香には、・・・・静香には誰にも言えない秘密があったんだ」
 あのことだな。本間があの秘密を知ってしまったんだ。俺の反応を待たず、本間は話を続けた。
 「静香は女の姿をしているが、本当は、染色体は男だったんだ。ぼくはそれを病院のカルテで知ってしまった」
 本間は、静香のカルテの内容を俺に説明した。あの夜、静香が俺に説明したとおりだった。
 「ぼくは昨日の夕方静香に会って、そのことを確かめたんだ。そしたら、泣きながら、飛び出していって」
 「何故、追いかけなかったんだ?」
 「昨日は当直で・・・・」
 俯いたまま小さな声で本間は答えた。
 「ばかやろう!」
 俺は本間を殴り倒した。静香が死んだら、本気で本間を殴り殺そうと思った。本間は口から流れ出る血を拭おうともせず、嗚咽を漏らした。
 「ほんとにぼくは馬鹿だ。あのとき、仕事のことなんか忘れて静香を追いかけるべきだった。それを・・・・」
 「静香はおまえのことが好きだったんだ。好きだからこそ、言えなかったんだ。それをおまえは・・・・」
 「それでもいいから結婚してくれと言うはずだったんだ」
 「何?!」
 「子供ができなくてもいい。セックスはできたんだ。いや、セックスができなくても良かったんだ。静香がぼくのそばにいてくれるだけで良かったんだ。高校一年の時のように。ぼくは静香がそばにいてくれるだけで幸せだったんだ」
 「何故それを言わなかったんだ!」
 「それを言う前に飛び出していったんだ・・・・」
 「こうなることは予想できただろう」
 「予想は・・・・できた。俺が浅はかだった」
 本間は両手に顔を埋めてなおも泣き続けた。ふと集中治療室の方を見やると、中から出てきた看護婦に、祥子が静香の様子を聞いているようだ。
 「しんちゃん、静香の血圧が下がり始めたって」
 「中に入れないのか?」
 「今はだめみたい」
 俺は考えた。このままでは本間が立ち直れなくなってしまう。何とかしなくては・・・・。
 かなり長い間あの能力を使っていないが、まだ使えるだろうか? そう、その通りだ。俺は静香に乗り移って、本間を慰めてやろうと考えていた。
 看護婦や家族が出入りするたびに集中治療室のドアが開く。その時、静香の顔がちらりと見える。俺は長椅子の上で、体勢を整え、ドアが開くのを待った。
 看護婦がドアを開けた。静香の姿が見える。今だ! 一瞬の点滅。ずいぶん久しぶりにやったが、うまくいったようだ。
 体が凄く重い。まるで小錦にのし掛かられているように感じる。重い眼瞼を開けると、心配そうな静香の両親と兄の顔が見えた。
 「静香、静香。気がついたのね」
 静香の母親が手を握って懸命に俺の顔を覗き込んできた。
 「秀一、先生を呼んでこい」
 静香の父親が言うと、静香の兄が看護婦さんと大きな声で叫んだ。看護婦が飛んできて、血圧を測り始めた。さらに白衣を着た担当医らしい白髪のドクターが部屋の中に入ってきた。
 「目が覚めたって?」
 「はい、先生。血圧が戻っています。110の70。脈は68です」
 「信じられん。どうなっているんだ」
 医者は俺の、静香の腕を取って脈を診ていた。
 「先生、もう大丈夫ですね」
 「まだ、予断は許しませんよ。もう少し様子を見ましょう。静香君、分かるかね」
 「はい、分かります」
 「もう少しの辛抱だ。頑張りたまえ」
 そう言うとドクターは首を傾げながら部屋を出ていった。もう少し様子を見ましょうは正解だ。俺が静香の体を抜け出れば、静香は恐らく死んでしまう。
 「お母さん、本間君を呼んで。廊下にいるでしょう?」
 「本間さんね。すぐに呼んであげるわ」
 本間が顔をくしゃくしゃにして部屋に入ってきた。
 「本間君と話があるの。ふたりだけにして」
 「静香、大丈夫なの?」
 「心配しないで。大丈夫よ」
 「じゃあ、外で待ってるよ」
 静香の両親と兄が本間だけを残して部屋を出ていった。
 「本間君。はやまったことをしてごめんなさい」
 「静香。君ともう一度話ができて良かった。あのとき言えなかったけど、君のことが好きなんだ」
 「わたしの病気のこと、知ってても? わたしは女じゃないのよ」
 「静香が女であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいよ」
 「こんなわたしでもいいの?」
 「ぼくは君のことを愛しているんだ。ぼくのそばにいて欲しいんだ」
 痛いほど手を握られていた。
 「わたしも本間君のこと、好きだわ。ずっと好きだったの。初めて本間君に出会ったときから」
 「静香、愛しているよ」
 「わたし、死んでしまうかもしれないわ。でも、わたしがもし死んでも、あなたのせいじゃないわ。本間君、死んでもあなたを愛しているわ」
 「静香、死なないでくれ。静香が死んだらぼくは生きていけない」
 「本間君、あなたは医者よ。あなたを必要としている人がたくさんいるわ。その人たちのために生きて。静香からのお願いよ」
 映画の中の一こまみたいだなあ。ここで静香の体を抜け出よう。俺は静香の体を抜けて自分の体に戻ろうとした。
 ところが、・・・・どうしたんだ? 元に戻らない。何故だ?
 そのとき、廊下から、祥子の叫び声が聞こえてきた。
 「誰か、誰か来て! しんちゃんが、しんちゃんが・・・・」
 廊下でばたばた足音がし始めた。どうしたと言うんだ? 俺がどうしたって? すぐに俺の体が向かいのベッドに運び込まれてきた。ドクターが俺の体に乗っかって、心臓マッサージを始めている。
 俺の周囲、つまり静香の周囲のカーテンが引かれた。向こうで騒いでいる声が聞こえる。本間はどうしたんだろうと言うような顔をしながらも、俺の、静香の手を握って離さない。
 俺には俺の体がどうなっているか分かっていた。俺が俺の体に戻れないと言うことは、俺の体はもう機能していない。もう死んでいるんだ。俺は目の前が真っ暗になった。どうしてこんな事に。
 三十分くらいドクターは頑張っていたが、ついに諦めて心臓マッサージを止めた。止めないでくれと叫びたかったが、俺の体が生き返らないのは分かっていた。生きているのなら、元に戻れるはずだ。
 いったん、自分の体に戻らなければ、俺は他の体には乗り移れない。俺の体が死んでしまった以上、それはできない相談だ。俺は静香の中に閉じこめられてしまった。しかも、この静香の体は、死に瀕している。このまま俺も静香の体と共に死んでしまうのだろうか? 誰か何とかしてくれ! そう叫びたいのをやっと押さえていた。
 どう考えても今の事態を解決する方法はなかった。死の恐怖に怯えながらも、時間が経過するにつれて、もしこのまま死んだら、それも俺の運命かもしれないなと思い始めていた。愛する静香とともに死ねるのだ。それもいいかと思ったのだった。
 ところが、俺の魂が入り込んだせいだろうか? 静香の体は急速に回復へと向かい始めた。俺は安堵した。
 死は免れた。死は免れたが、俺は静香のままだ。一時的ならともかく、俺は自分が愛した女、静香として生きる以外に道はなくなってしまった。しかし、このまま死んでしまうかもしれないとの恐怖に怯えていたことを考えれば、生きているだけ良しとするしかないだろう。甘んじて受けるしかない。
 後で聞いた話だが、俺の死因は窒息死だった。長椅子の上で眠り込んだと思った誰かが、寒かろうと俺の体に毛布を掛けたのだ。その毛布が、俺の口と鼻を塞いだというわけだ。意識のない俺の体は毛布を退けることができなかった。恩が仇になってしまったのだった。