だが、その次の火曜日、午後十時頃ラムールに顔を出すとマスターが目配せしてきた。あの女が店の隅の止まり木に座って、カクテルを嘗めるように飲んでいた。あのグラスに入ったあの色のカクテルはマルゲリータだ。
「マスター、マルゲリータを頂戴」
「えっ!? はい、マルゲリータね」
マスターはちょっと驚いて見せた。いつもと違う戦法で俺は攻めようとしている。女がちらりと俺の方を見た。俺は気づかない振りをして、カラオケの分厚い本をめくる。めくりながら考えたが、どうしても思い出せない。やはり何処かであったような気がするのだが・・・・。俺はマスターに、『恋の町札幌』をリクエストした。
「お上手なんですね」
俺が歌い終わると同時に、軽い拍手をしながら女が声を掛けてきた。
「いや、こんな歌しか知らなくて、恥ずかしいですよ」
「声がとても素敵だわ」
「お世辞でも嬉しいですよ」
「お世辞じゃないです。うっとりしてしまったわ」
どうも俺は逆ナンパされているようだ。そんな気がする。望むところだ。乗ってやろうじゃないか。
女は名前は名乗らなかったが、隣町の、割に大きなスーパーのレジをしているということだった。毎週水曜日が休みなの、と女は言った。
いつもは偽名にサラリーマンなのだが、俺は名刺を渡して、正直に高田伸太郎と本名を名乗り、職業も土建屋だと告げた。女がスーパーのレジだと恥ずかしがらずに言ったものだから、ついほんとのことを言ってしまった。スーパーのレジが悪いとは言わないが、女が自己紹介するときは、あっさりそう言う女は少ない。OLですと誤魔化すに決まっている。女の正直さに俺は参ったのだ。もっともマスターが俺の本名を女に話しているから、誤魔化しようはないのだが・・・・。
少し酔わせてから、ホテルに誘おうとしたのだが、女はとんでもなく強かった。俺も弱い方ではないが、俺と対等に飲んで顔色ひとつ変えないのだ。誘うきっかけを見つけられないまま、とうとう俺は酔いつぶれてしまった。
雀の鳴き声で目が覚めた。目を開けると見慣れた天井の模様が目に入った。俺は自分の部屋のベッドの中にいた。足元の壁にある時計は7時30分になるところだった。最後に時計を見たのが午前0時を少し回ったくらいだった。あれからどうやってここまで帰ってきたのだろう。ぜんぜん思い出せなかった。
意識がなくなるまで飲んだことなど、生まれてこの方そんなに多くはない。とくに女と一緒に飲むときには、そんなことは絶対なかった。女と飲むときには、最後はホテルに誘うという目的があったから、飲んで酔った振りはしても、意識を失うまで飲むと言うことはなかったのだが・・・・。
参ったなあ。あの女がそんなに強いとは思わなかった。そうぼんやり考えていたとき、人の気配を感じた。横を向いてみると、あの女がうつ伏せで、顔だけ俺の方に向けて、すうすうと軽い寝息を立てて眠っていた。女は化粧を落としていた。素顔の女の顔をまじまじと眺めてみた。化粧をしていなくとも女はかなりの美人だ。思い出せない。見覚えがある顔なのだが・・・・。
そう思いながら、そっとシーツをはぐってみた。細い肩。そして、うつ伏せの腋の下に、押しつぶされた胸が見えた。予想通りBカップ位の乳房だ。女は全裸なのだろうか? そう思った瞬間、俺のジュニアがむくりと頭を持ち上げた。自分の体を触ってみるとトランクス一枚だった。昨夜、俺はこの女とやったのだろうか? 思い出せなかった。こんなことは初めての経験だった。
突然女が目を開けて俺を見た。そして、にこりと笑った。
「おはよう」
「あっ、ああ。おはよう」
「結構飲んじゃったわね」
「そうだな」
「あなた強いのね。わたしに最後まで付き合った人は、あなたが初めてよ」
「へええ、光栄だね」
最後まで付き合ったのか。思い出せないが、女がそう言っているんだ。付き合ったのに違いない。覚えてないだけだ。何かの本に逆行性健忘とか書いてあったのを見た覚えがある。その時はきちんと行動しているのに、あとで思い出せない。きっとそうだ。
思い出せないのはともかくとして、俺はこの女と最後まで行ったのだろうか? 気になる。今の状況では、もしやっていなくとも、飲んだ末に犯された。結婚してくれなんぞ言われても申し開きができない。処女じゃなさそうだが・・・・。
「ねえ、どうしたの? 深刻な顔をして」
「いや、なんでもないよ」
「昨日の夜は良かったわ。もう一度してくださる?」
俺のことだ。やってないはずはないとは思ったが、やっぱり。しかし、思い出せないと言うことは奥歯に何かが挟まったようで気持ちが悪い。女と話をしたら思い出すかも知れない。正直に聞いてみることにした。
「悪いんだが、昨日ラムールを出る前あたりからの記憶がないんだ。教えてくれないか?」
「ええっ。忘れちゃったの? ひどいなあ」
「ごめん。聞いたら思い出すと思うんだ。順を追って話してくれないか?」
女はちょっと拗ねたような顔をして、話し始めた。
「ラムールを出たのは、午前一時少し前よ。それくらい覚えているでしょう?」
「0時半までしか覚えていない」
「その後はまったく?」
「そう。まったく覚えていない」
「わたしを誘ったことも」
「俺が誘ったのか?」
「女のわたしから誘うわけがないでしょう? マスターに聞いてみる?」
いつものパターンとしてそれは納得できる。女と飲んだときは、俺は必ず女をホテルに誘う。ただ、自分のマンションに連れ込んだ事はこれまで一度としてない。それだけはどうも納得できない。
「ここまではタクシーか?」
「そうよ。行き先をあなたが運転手に言ったわ」
「俺がか?」
「そうよ。わたしはてっきりホテルにでも行くのかと思ったら、ここだったのよ」
「そうか。ここに女を連れてきたのは初めてだなあ」
「嘘でしょう? 何人も連れ込んでいるんでしょう」
「ナンパは数知れないよ。それは隠さない。だけど、ここに連れて来たのは、君が初めてだ」
学生時代のことで懲りて、祥子にばれないように、こちらに帰ってきてからも自分のマンションは使っていないのだ。
「嬉しい! わたしのことそんなに気に入ってくれたの?」
「分からないが、そういうことなのかな? ここに着いてどうした?」
「シャワーを浴びてから・・・・、女の口からそんなことを言わせるの? 恥ずかしいわ」
「良かったか?」
「初めてだったけど、感じたわ」
「初めてだった!?」
「そうよ。わたし、処女だったのよ」
いかん、いかん。最悪のパターンだ。処女じゃないと思ったのに。参った。あのときと同じパターンになりそうな予感がする。付き纏われそうだ。困ったぞ。
「あなたはわたしの初めての人よ。ずっと一緒にいてくださる?」
そら来た。何とか逃げ出せないものだろうか? 困った、困ったぞ。
「ほんとにしたんだな」
「間違いないわよ。今更逃げる気じゃないわね?」
「そんなつもりはないけど・・・・」
「ねえ、はっきり返事をして」
俺は困り果てた。これまでなら、場所がホテルで、偽名だし、適当にあしらっておれば良かった。俺はこの女に、本名を名乗っている。しかもここは俺のマンションだ。逃げおおせる手だてが浮かばない。俺は顔色を真っ青にして、ただ俯いていた。