俺があいつに初めて出会ったのは、高校入学直後に行われた鍛錬遠足の時だった。高校生にもなって、遠足もなかろうとは思ったが、遠足を機会に知らないもの同士の親睦を図ろうという意味らしかった。
俺の入った高校というのは、県下でも有数の進学校だった。俺なんかとても入れないとは思ったのだが、滑り止めというか、取り敢えずまあまあの私立高校入学の切符を手に入れておいたから、気楽な気持ちで受験したらなんと合格してしまったのだ。
俺はそんなに勉強が好きなわけではなかったから、入学にはあんまり乗り気ではなかったのだが、親がどうしても行けと言うので、仕方なく通い始めた。県下でも有数な進学校に通う息子。俺は両親の自慢の息子だった。親の見栄のために通っているようなものだった。
初めて自分のクラスに入ったとき、周りがみんなできるやつばかりに見えた。まあ、実際にそうだった。入学してすぐに行われた実力考査で、俺はなんとベストテンに入っていた。もちろん後ろから数えてだ。
しかも、俺と同じ中学の出身者はクラスに一人もいなかった。何しろ県下の至る所から進学してくるものだから、同じ中学出身者は数えるほどしかいないのだ。俺と同じ中学出身者は俺の他に八人いたが、いつも俺を見下しているような奴らばかりで、小学校からの同級生の本間彰一以外は、ほとんど付き合いがなかった。
その本間は、別のクラスだったから、俺は入学早々、後悔の嵐に見舞われた。親の意見など聞かないで、初めに合格した私立に行っておれば良かったと。あの高校なら、同級生がわんさかいて、こんな孤独感を味あわなくて良かったのだ。
そんな後悔も、あいつに出会って、太陽の前の霧のように消えてしまった。そう、あいつは俺にとって、太陽とも言うべき存在だった。
高校のグランドから、弁当箱と水筒を抱えて、片道十キロあまりの坂道を登って近くの小高い丘を目指した。まだ一年生で素直だから、文句も言わずに登ったのだが、これが三年生なら、当日は仮病で休みだな。
辿り着いた丘の上で、汗を拭き拭き水筒から水を飲んでいるとき、隣のクラスの世話をしているあいつの姿が目に飛び込んできた。
みんなお揃いのワインレッドのジャージを着ていたのだが、あいつだけは輝いていた。少なくとも俺の目にはそう映った。肩まで伸ばした少し茶っぽい髪の毛。屈託のない笑顔。小柄なあいつが、動き回るのをぽかんと口を開けて見ていた。そんな俺の様子を隣にいた田岡道夫が見ていて、俺の脇腹を肘でつついた。
「あいつ、静香って言うんだ。フルネームは森本静香。俺と同じ南中学の出身だよ。結構可愛いだろう?」
「あっ、ああ」
俺は心の中で森本静香、森本静香と呟きながらジッと見つめていた。
「そんなに美人という訳じゃあないんだけど、魅力があるんだよなあ、森本は。そう思うだろう?」
「そ、そうだな」
田岡は一方的に話し続けた。
「美人というなら、ほら、あそこに座っている五組の山本美代子。それから、あそこにいる田代清香。彼女は六組だったと思うけどね。そうそう、森本の親友の木村祥子もかなりいけてるよ。三組の前の方にいるよ。顔はちょっとここからじゃあ見えないけど、あとで教えてやるよ」
田岡の言う通りかも知れない。確かに彼女は取り立てて美人というわけではない。だが、俺の好みだ。
俺の女の好みは、小さい頃初めて好きになった女の子の面影を引きずっている。その女の子は、松本絵里子と言った。髪の長い子だった。そしてやはり笑顔が可愛い子だった。少し気取り屋さんで、どちらかというと女王様を気取ったところがあった。いつも女の子のグループの遊びやおしゃべりの中心にいた。
幼稚園で、松本絵里子と席が隣同士になった俺は、いつも絵里子と一緒に遊んだ。俺は今でも絵里子が好きだ。俺の初恋なのかも知れない。
ただ、小学校の高学年になって、一時的に彼女の方が背が高くなってしまってから、何となく彼女とは疎遠になってしまい、今に至っている。
彼女は女子校に通っているから、最近は滅多に顔を合わすことはない。時々通学する道すがら、彼女を見かけることがあるが、彼女は相変わらずおしゃべりの中心にいる。俺の思いとは裏腹に、俺と目があっても、もう俺には関心がなさそうだ。
そんな時、俺は幼い頃の彼女を思い出しながら、彼女をぼんやりと眺めていた。彼女はもはや美化された思い出に過ぎない。今の彼女とはイメージがかけ離れすぎている。
森本静香は、面影が幼い頃の松本絵里子に似ている。
俺は森本静香の仕草をじっと見つめ続けていた。この女と結婚したい。その時、本気でそう思った。まだ、高校1年だというのに・・・・。
「高田! あそこに見えるのが木村祥子だよ」
田岡が指さす方に、のちに俺の最初の相手となる木村祥子がいた。『わたしは美人ですよ』と言わんばかりの雰囲気を漂わせている。確かに非の打ち所のない美人だ。長い髪の毛をたくし上げる動作も堂に入っている。
「うん、確かに美人だけど、ちょっと気取ってないか?」
俺は視線を木村祥子から田岡に移した。
「そう見えるけど、話してみるとそうでもないよ。紹介してやろうか?」
「いや、いいよ」
「やっぱり、森本か? 紹介するよ」
田岡は俺の顔を見てにやりと笑った。
「できるのか?」
「できるさ。ただ、彼女は気が強いし・・・・。高田はこの前の実考は何番だった?」
「実考か? 言いたくない。何故、そんなこと聞くんだよ」
「彼女はたしか二十二番だったと思うよ。そこそこの成績でないと彼女とはつき合えないよ」
「二十二番! そんなに成績がいいのか?」
「南中では、いつも全校で三番以内だったからね。トップになったことも何回かある。南中のレベルからすれば、二十二番は悪すぎるくらいじゃないかな」
「そうか・・・・、二十二番かあ」
「まあ、小説や漫画の中では、できの悪い男と優秀な女のカップルの話はよく出てくるけどなあ」
「できが悪い男はないだろう」
「そうじゃないのか?」
「・・・・否定できないな」
クラスの最下位なんてとても告白できない雰囲気だ。
「俺もそう自慢できたものではないけどね」
田岡は俺のすぐ前に席に座っている男だ。一年の一学期という事で、アイウエオ順に席順が決められたからだが、田岡はやたらと俺の世話を焼いてくれる。本間彰一以外の友人としては初めての友人らしい友人だ。スポーツ系ばりばりの俺に比べて、田岡は背丈もそう大きくはなく、うらなり瓢箪だ。
聞いてみると、小さい頃から病気がちで、ほとんどスポーツらしいスポーツはやったことがないと言った。泳ぎも五十メートルも泳げないと恥ずかしそうにしていた。
俺も何やかにやで田岡に世話になるものだから、鍛えてやろうとしたけれど、すぐに諦めた。田岡の運動音痴は国宝ものだ。かと言って、成績がいいかというとそうでもない。いや、200番以内だから、俺よりずっとましだ。
「高田は、伸太郎だったっけな」
「そうだよ」
「伸びるに太郎だよな」
「だったらどうしたんだよ」
「いや、どらエもんの静香にのび太だなと思ってな」
「何だって!?」
「だからさあ。高田の名前、のび太って読めるだろう。成績から言っても静香にのび太だなあ」
「のび太はないだろう?」
俺はぶうたれる。
「でも、のび太は静香と結婚するんじゃなかったかなあ」
「そうだったな」
「ただね。『のび太さんはわたしがいないとだめなんだから』と言うのが静香の結婚の動機だったね。そうならなければいいけどね」
「静香はそれで幸せなんだし、のび太は成長して、おもちゃ会社かゲーム会社の社長かなんかになるんじゃなかったかな? 人の人生は高校の成績だけでは決められないよ」
「それは理想論だな。現実は厳しいよ。成績で進学する大学が決められるんだから」
「そうか・・・・」
俺は静香の横顔を眺めながらため息をついた。
「どうする? 紹介しようか?」
「いいよ。のび太は静香と結婚できても、俺にはとても無理だ」
不本意ながらそう答えざるを得なかった。
それ以来、俺の渾名はのび太になった。俺たちの話を聞いていた同級生が俺のことをのび太と呼び始めたのだ。気に入らなかったが、のび太は静香と結婚するという、ただそれだけの理由から、俺はのび太と呼ばれることに甘んじた。
こんなきっかけがあって、俺と田岡道夫は急速に仲良くなった。課題のプリントをするときなど、しばしば互いのうちに泊まったりもした。
田岡の家は、父親が県の公務員で、堅いことこの上なかったが、進学校に通う同級生と言うことで、俺が田岡の家に泊まることは許してくれていた。ただ、田岡の父親というのは怖くてちょっと近寄り難かった。いつも眉をひそめ口をまっすぐに結んでいた。『うむ』以外の言葉を聞いた覚えがない。
田岡の弁では、仕事場で上司に虐めに近いくらいの扱いを受けている反動で、家庭ではものすごく傲慢で、手の届くところにあるものも自分では絶対に取らないそうだ。
しかも、どこかに愛人がいるらしいと言う。田岡は父親のようにはなりたくないと、常々俺にこぼしていた。
田岡の母親はかなり美人の部類に入るだろう。俺の母親がこんな人だったらいいなと、田岡の家に泊まりに行くたびに思っていた。田岡の母親の実家は呉服屋で、その援助があるらしく、田岡の家は公務員というのに結構贅沢をしていた。田岡は俺の三倍は小遣いを貰っていたようだ。
田岡にはふたつ年下の和代という妹がいた。背丈が小さいが、可愛い子で性格が凄く良かった。俺が田岡の家を訪れると、いつも俺にすり寄ってきた。俺に気があるんじゃないかと思っていた。
田岡は成績はそこそこ、中の中だったが、凄い特技があった。100人あまりいる同学年の女子生徒の名前と顔と出身中学をことごとく知っているのだ。美人と言われる女子生徒に関しては、家がどこにあって家族が何人いるかまで覚えていた。ファイルを持っているわけではない。すべて頭の中に入っているのだ。信じられないだろう?
俺と一緒にいるときに、女子生徒が前を通りかかると、一人ひとり俺に説明してくれた。お蔭で、おれもほとんどの女子生徒の顔と名前を覚え込んでしまった。勉強にもこれくらい身が入ったらいいなと互いに言い合った。
俺が一目惚れした森本静香は、現在両親と三人暮らし。秀一という兄がいるのだが、その兄は、何と今年から東大に通っているという。兄妹そろって頭がいいようだ。
父親は数学、母親は国語の教師をしている。『ともに中学校の教師だ』と、田岡に聞いた。俺はその両親には直接会ったことがない。
田岡が紹介すると言ったのに、意地を張ったものだから、きっかけがつかめず、森本静香が俺のそばを通るたびにどきどきしながら彼女を見ていた。時には、彼女が現れそうなところに先回りしてジッと待ったりもした。しかし、彼女が俺に気づくと、俺は慌てて目をそらした。彼女と直接目を合わせることができないほど、俺はまだ初だったのだ。口を利くなんてとてもできなかった。
一学期の期末考査が終わった頃、その森本静香と俺の親友、本間彰一が気安く話をしているのを見かけた。俺は嫉妬に駆られた。本間と静香は、数学の問題の解き方で議論しているらしかった。俺も数学は苦手な方ではない。ちょっと割り込んで、その数学の問題とやらを見せて貰った。しかし、俺には象形文字を見せられているようなものだった。俺はすごすごとその場を退散した。
静香は、全校で常に二十番以内の成績であったが、本間はその上を行った。ほとんど二,三番なのだ。この進学校で。
それでも、本間は中学時代は三年間というもの、常に全校で一番で、誰にも負けたことがなかったから、一番になろうと猛勉強していたようだ。ただ、本間は家庭環境に恵まれていなかった。成績は抜群なのに、経済的な理由で大学進学は難しい状態だった。
本間の父親は、肝臓が悪く入退院を繰り返していて、定職がなかった。生活保護を受けるような状態なのに、母親が受け入れず、昼はお菓子屋の店員、夜はスナックで働き、五人家族を支えていた。睡眠時間は三,四時間くらいだそうだ。
それでも本間の母親は、何と三十三歳と若かったから無理が利いたようだ。本間は母親が十七の時の子供と言うことになる。
本間には、ひとつ年下の弟と、三つ年下の妹がいる。この妹が、小学校の低学年の時から家事を手伝っていると聞いた。
本間と弟は、生活費の援助をするために幼い頃から朝夕の新聞配達をやっていた。高校に進学した今も、本間は新聞配達を続けている。掃除や洗濯の手伝いもやっていたようだ。ほとんど勉強する時間もなかろうに本間は成績が良かった。すでに話したように中学ではずっとトップだった。
中学時代、俺は本間に聞いたことがある。いつ勉強してるんだと。本間の答えは簡単だった。授業中だよ。よく聞いていれば、全部分かるよと。
信じられなかった。中学時代の本間の勉強時間は宿題をする時間だけだったらしい。それで三年間ずっとトップの成績だったのだ。俺とは頭の構造が違うのだ。天才という言葉は本間のためにあると言っても過言じゃないだろう。
高校に入って、さすがに授業だけでは付いていけないと感じたのか、勉強時間をとっていたようだ。弟も妹も大きくなって、少し余裕ができたせいであろう。それでもせいぜい二時間くらいらしい。
一度一緒に課題のプリントをやってみたが、俺が一問目を四苦八苦して解いたときには、本間はすでに全部を終えていた。俺は本間の十倍くらい努力しなければ、追いつけないと思った。俺が本間に勝てるのはスポーツだけだった。
何故そんなに勉強するのかと聞いたら、『医者になって家族を楽にしてやりたい、人の役に立って、お金も手に入るだろう?』と言った。俺には理想も目標もない。ただ、成り行き任せだ。頭が下がる。
本間は、俺のようなできの悪い連中にも分け隔てなく付き合ってくれた。他のガリ勉連中とは違った。そんな本間が俺は好きだ。本間が困ったときには、どんなことをしてでも助けてやろうと思っていた。俺にできることがあるならばだが・・・・。
俺の嫉妬していることを知ってか知らずか、本間は森本静香には興味がなかった。
ある日、本間は俺の追求に恥ずかしげにうち明けた。静香の親友の木村祥子がいいと言うのだ。静香に近寄っているのは、どうも木村祥子との接点を持ちたいがためらしいと俺は想像した。
俺はと言えば、本間を接点として静香に近寄ろうとしたのだが、ふたりの関心は勉強のことだけであったから、俺が間に入れるはずもなかった。