序章 結婚式は疲れる

 今どき、時代遅れとも言える結婚行進曲が場内に流れている。俺は、スポットライトを浴びながら、雛壇へ向かってゆっくりと歩いている。俺の足取りは、極度の緊張でロボットのようにぎこちない。自分の手足が自分のものではないように感じる。しかも、まるで空中をふわふわと歩いているようだ。
 ライトの明かりが眩しく、誰がどこに座っているやら、さっぱり分からない。暗闇の中から、家族や親族、友人や知人の拍手が聞こえる。心からの祝福を込めて、手が痛くなるほど拍手してくれるものもいれば、義理でそこに座ってやむなく拍手しているものもいるだろう。だが、今日は俺の晴れ舞台だ。
 一時間前、このホテルの式場で結婚式が行われた。式が始まる前まで、俺は結構リラックスして友人たちとのおしゃべりを楽しんでいた。だが、式場に入って式が始まるやいなや、自分の体が自分のものでなくなったようにガチガチになってしまった。
 震える手に握られた三三九度の杯から酒が零れ、口の持っていくと杯が歯に当たってカチカチと音を発てた。俺は酒には強いはずなのに、三三九度の僅かな酒で顔が火照り、心臓がどきどきと踊り始めた。いや、これは酒だけのせいではないのかも知れない。
 エンゲージリングを交換するときには、指輪を危うく床に落としそうになってしまった。しかも俺は右手を差し出してしまった。入場前に、人という文字を手のひらに書いて三回飲んだのに何の効果もなかった。そんな迷信を信じた俺が馬鹿だった。
 婚姻届のサインは、ミミズがのたうち回ったようになった。こんな婚姻届で、本当に結婚を認めて貰えるのだろうかと、もの凄く心配になった。書き直せと言われなかったから、きっと認められるのだろう。これじゃあ、他人が書いて出してもいいのかも知れないな。
 何度深呼吸をしても緊張は取れない。落ち着け、落ち着けと思えば思うほど緊張感は高まるばかりだ。互いの父親が親族を紹介している間、こんな事はもう二度としたくないと思った。二度もすることはないとは信じてはいるけれど・・・・。
 披露宴の方はどうなのだろう。きっと緊張するんだろうな。何故こんな煩わしいことをしなければならないのだろう。二人で婚姻届を出しにいくだけにすれば良かった。そんなことを思いながら、金屏風の前で、披露宴に来てくれた人々に笑顔を振りまいた。つい数分前の話だ。
 俺たちが雛壇に到着すると、明かりが点けられ、司会の合図で拍手が一段と高まった。俺たちは大した人間でもないのに、こんな拍手なんて恥ずかしくて仕方がない。しかし、結婚式でもない限り、これほどの拍手を浴びるなんてことはないだろうな。
 友人たちのテーブルに目をやると、振り袖姿も艶やかな祥子の姿が目に入った。祥子は美しい。まるで映画のスクリーンの中から飛び出してきたようだ。このイベントの主役である花嫁を無視して、会場の男どもの視線が祥子に集中している。祥子は祥子で、それが当然というような顔をしている。
 その祥子が片手をちょっとあげて笑顔で俺に手を振ってきた。俺もテーブルの上に少しだけ手を出して、それに応えた。仲人婦人が『あなた、はしたないわよ』というような表情をしてちらりと俺を見ている。俺は澄まして、会場を見やった。ようやく俺も落ち着いてきたようだ。
 それにしても仲人の話は長い。もう十五分あまりも喋っている。何度も仲人やっていると聞いていたのに下手くそだ。やたらに、『ああー』や『ええー』、『そのう』が多い。大した話でもないのに、もったいぶらないで早く終わってくれよ。俺たちに不相応な美辞麗句はいらないからさ。
 腹減ったなあ。それに酷く眠い。
 今朝は、午前四時に起こされた。昨夜は少し興奮していたせいだろう。早めに寝たのになかなか寝付かれず、眠りについたのは午前一時を回っていたと思う。睡眠時間は正味三時間以下だ。準備に追われて、朝食も満足に食べていない。
 正午に始まった披露宴も、もはや三十分が過ぎようとしている。腹がぐうと鳴った。
 長い、長い仲人の挨拶がようやく終わった。ほっとしていると、祝辞が始まった。これがまた長かった。しかも新郎側二人、新婦側二人の合計四人だ。急な披露宴だったのだから、ひとりずつにすればよかったのに。披露宴は難行苦行だ。
 祝辞が終わって、乾杯用にシャンパンが注がれ始めた。乾杯が済めば一段落だ。ところが、乾杯の音頭をすぐにやるのかと思えば、長々と挨拶をしている。俺ばかりでなく、参列者の顔もうんざり顔だ。
 乾杯が終わり、司会が、しばらくお食事をしながらご歓談くださいと宣言したときには、午後一時を回っていた。ほんとに参った。やっと腹に何か入れられる。
 早速食べようとしたが、『あんまりガツガツ食べるものじゃないわよ』と披露宴の前に釘を刺されたことを思い出した。
 腹が減っているんだ。そんなことは無視して食べようとしたが、披露宴の食事なんて、ほんと食べるものがない。フランス料理のコースにすれば良かったなあと後悔することしきり。結婚式の料理は和式にするべからず。刺身を2,3切れ抓んで、次は何を食べようかと物色していたら、お色直しと言われて、仲人婦人に連れ出された。
 控え室に戻り、衣装係の中年のけばけばしい化粧をした女性に着替えさせられた。俺はただ、為すがままにされている。振り袖など、俺は着たことがないが、鏡に映った姿を見てみると結構なものだ。もう少し背が高かったらいいなと思う。
 振り袖は独身の女が着るもので、俺が着るのは今日が最後と言うことだ。この振り袖はかなりいいものらしいが、俺にはその価値が分からない。猫に小判。豚に真珠だ。
 母親が成人式のために作ってくれたものだが、成人式はもちろん、その後も一度も着たことがなく、今日俺がこの振り袖を着るのを母親は涙を流して喜んでいた。
 俺か? 俺は花嫁だよ。花嫁が俺なんて使っちゃおかしいか? それはそうだろうけど、これにはいろいろと事情があるんだ。勘弁してくれ。
 帯をもう少し緩くしてくれないかなあ。腹が減っているのに、締め付けられて食べられないよ。そう言うと、いや、これはちゃんと女言葉で言ったけどね。衣装係は、花嫁はそんなに食べるものじゃありませんと一喝された。そんな理不尽な。花嫁は着せ替え人形じゃない。人間なんだ。腹が空くんだよ。
 俺がぶすっとしているものだから、『笑顔を忘れないでね』と言われて披露宴会場に戻る。普通の花嫁なら、そんなこと言われなくとも自然と笑顔が出るのだろうが、俺の場合はそんなわけにはいかない。いろんな事情があって結婚するんだからな。しかし、我慢して笑顔を作る。
 会場の入り口で、父親が待っていた。相合い傘で会場の中央まで進み、新郎に俺を引き渡すのだ。いつものパターンだ。父親は男のくせに涙でぐしゃぐしゃだ。気持ちは分かるがそんなに泣くなって。俺が泣いてないのに、父親が泣くなんておかしいじゃないか。父親が泣く理由か? その理由は、そのうち分かる。娘の俺を嫁に出すだけではないのだ。
 新郎の彰一に連れられて雛壇に戻ったのはいいが、何分もしないうちに、またお色直しだ。今日は俺と彰一が主役だ。主役がいない舞台なんかあるものか。だが、俺の主張は無視されて、俺は彰一と共に会場の外へ引っぱり出され、主役がいないまま、披露宴は両家対抗のど自慢大会へと変貌してゆく。
 次はウエディングドレスだ。ウエストは絞られてはいるが、和服の帯よりはましだ。時間があったら、今度は少しは食べられそうだ。
 着替えの部屋を出ると、真っ白のモーニングに着替えた彰一が待っていた。彰一は、裏の事情を何も知らない。そう、裏の事情があるんだ。彰一には内緒のね。彰一には絶対知らせるわけにはいかないのだ。
 彰一は、にこにこして俺の手を取った。
 「とっても可愛いよ、静香」
 「ありがとう、彰一さん」
 俺は精一杯の笑顔を彰一に返した。俺は今日から長年の親友の彰一と暮らして行かねばならない。彰一はいいやつだから諦めもつく。彰一のことはそのうち話すよ。
 会場の入り口で、小さな花束の入ったバスケットを手渡された。招待客の一人ひとりに挨拶しながら配って回るのだ。俺は腹が減って幻暈がしそうだ。テーブルの上にハイ勝手に取ってと言ってバスケットを置いてしまいたい衝動に駆られながら、一人ひとりに挨拶して花束を手渡す。
 酔っぱらった叔父が、俺に抱きついて頬にキスした。こんな時でなかったら、ぶん殴ってやるところだ。まあ、叔父もこんな時でなかったら、そんなことはしないだろうが・・・・。
 雛壇にようやく辿り着いたと思ったら、ウエディングケーキへ入刀ですと言われた。オレンジジュースをがぶがぶと飲んで位置に着いた。少しは腹の足しになった。ナイフが入るところだけが本物の飾り物のウエディングケーキへの入刀に何の意味があるというのだろう。ふたり揃って行う初めての共同作業だと? 聞いて呆れる。
 『みなさん写真をどうぞ』という司会の言葉に、カメラを持った男女が押し寄せてきた。撮り終わるまで、じっとケーキの前でカメラに向かって微笑む。疲れる。『花嫁さん、もっとにこやかに』と係りのホテルマンに耳打ちされた。
 雛壇に戻り、何食べようかと思案していたら、またお色直しだと。いい加減にしてくれよ。俺は餓死しそうだよう。
 薄いピンクのウエディングから真っ白なウエディングに着替えさせられた。このウエディングドレスは、祥子が似合う、似合うと言って選んだものだ。ほんとに似合っているのだろうか? 祥子の趣味で選んだだけだと思うのだが・・・・。
 彰一は俺が着替えている間、部屋の前でうろうろしている。男はいいよな。何度も着替えなくていいから。何だって! 女はお色直しが多いほどいいんだって! 一生に一度の晴れ姿なのだから? そうかなあ。疲れるばかりだよ。俺にとっては。どうしてこんな事になっちまったんだ。やっぱり結婚なんて止めとけば良かったかなあ。・・・・いや、そう言うわけにはいかない。祥子と彰一と、そして俺自身のために、すべてを丸く収めるためには、俺は彰一と結婚せざるを得ないのだ。
 知りたいかい? 裏の事情を。そうだろうな。でも、ちょっと待ってくれ。披露宴が終わったら、ゆっくり話すよ。とにかく今は、この場を切り抜けるのが先決だ。
 お次はキャンドルサービスだ。披露宴の定番だな。ろうそくに水を付けておくというのはよくあるが、芯を根本で切ってあるというのはやりすぎだよ。彰一の大学時代の友人の仕業だ。うちに遊びに来たら仕返ししてやる。
 さあ、披露宴ももうお開きに近い。小さな、確か俺の甥と姪に当たる子供が花束を彰一と俺に届けてくれた。さすがにこのときは俺も笑顔になった。俺の笑顔はかなり可愛いはずだ。それは俺もよく知っている。・・・・変な言い方だな。
 受け取った花束を各々の両親に渡す。俺は涙も出ないが、花嫁が泣かないわけにはいかない。何とか泣いている振りをする。
 花嫁から両親への手紙という場面になった。ここは涙を流さないと絶対白けると思っていたが、手紙を読み進むうちに涙が溢れてきた。自分で書いた文章なのに不思議だ。友人たちはともかく、両親、親戚連中も涙を流してくれた。俺の作文も旨くなったものだ。
 彰一の継父のお礼の挨拶が済み、万歳三唱で、披露宴はお開きになった。招待客の作ったアーケードをくぐり、会場を出る。
 彰一は途中で胴上げされていた。落とされて腰を打って、できなくならないかなとちょっと心配になった。今夜は彰一との大事な初夜なんだからな。俺なんて言ってるけど、一応俺は式を挙げたばかりの花嫁だからな。夜のことは心配になるさ。裏の事情は別として、それくらいは分かってくれよ。
 招待客がみんな帰るまで、金屏風の前でお見送り。最後のひとりが会場を出たときには、時計は午後四時少し前を指していた。ああ、ほんとに疲れた。
 腹は減っているが、空腹を通り越して、もう空腹感を覚えない。おかしなものだ。真っ白なツーピースに着替えて、二次会の会場に出かけた。
 祥子がひとり隅の席に座っていた。祥子は真っ白なワンピースに着替えていた。やっぱり俺より祥子の方が美人だなと、ちょっと嫉妬する。
 俺は祥子の隣に座ると水割りを飲みながら、おつまみを手当たり次第に掻き込んだ。
 「疲れたでしょう」
 「疲れたなんてものじゃあないよ」
 「静香、言葉に気を付けなさいよ」
 「あっ、うっかりしてた」
 「ほらほら。まだ、誰も来てないからいいけど、気を付けてね」
 「分かりました」
 「あなたの大事な旦那さんはどうしたの?」
 静果が辺りを見回す。
 「かなり飲んでたからねえ。控え室で倒れてたみたいよ」
 水割りの中に浮かんでいた氷をがりがりと噛み砕く。
 「静香。あなたは今日から彰一さんの妻なのよ。介抱してあげなくちゃあ」
 「お義母さんが介抱してたからいいわよ。わたしが行ったら却ってこじれちゃうわ」
 「ほんとにいいの?」
 「大丈夫だって。そろそろ復活する頃よ」
 そんなことを話していると、ドアが開いて、彰一と何人かの友人たちがワイワイ言いながら入ってきた。
 「ほら来たわ。彰一のことはわたしが一番知ってるんだから。任せといて」
 「へえ、わたしが知らないこともあるんだ」
 「そりゃそうよ。彰一とはわたしが一番付き合いが長いんだから」
 「そうだったわね」
 俺は静香。旧姓森本静香。今日から本間静香だ。俺には秘密がいくつかある。祥子はそのうちのいくつかを知っている。祥子自身は、俺のすべてを知っていると思っているだろうが、そんなものじゃあない。祥子には言えない秘密もいくつかある。
 何から話そうか? そうだな。高校時代くらいに遡るかな。俺の人生に大きな変化が現れたのは高校に入ってからだし、登場人物が揃うのもこの時期だ。
 物語を始める前に、主な登場人物を紹介しておこう。俺は静香。今日から本間静香。もう言ったな。結婚したばかりの新妻だ。もうひとりの俺、高田伸太郎。どうして俺が二人いるかって? 話を聞けば分かるよ。次は本間彰一。今日、俺の夫になった男だ。高田伸太郎の親友でもある。それから、木村祥子。静香の親友で、伸太郎の恋人。もうひとりいる。伸太郎の高校時代の友人、田岡道夫。赤木京子という女も出てくるな。この女と他の五人との関係は、ここでばらすと面白くないから、秘密にしておこう。さあ、前置きはこれくらいにして、物語を始めよう。