日が昇り、熱くなり始めた部屋の中で、コーヒーを飲んでいると、事務所のドアがノックされた。
「ごめんください。すみません」
女の声だ。なんと珍しい。この事務所に女がやってくるのは一年ぶりだ。一年前、この事務所にやってきた女は、借金取りだったが・・・・。
「おい、忍。誰か来たぞ。開けてやれ」
言い忘れたけれど、俺と健二だけの時は、俺は健二のことを健二と呼ぶが、他人がいるときは、忍と呼ぶ。健二自身がずっとそう名乗ってきているからだ。
「はあい。ちょっとお待ちください」
健二も女モードに切り替わった。女言葉になってドアの前に立っていた女性を事務所の中に招き入れた。その女は、和服を着た30半ばくらいの、かなりの美人だった。小股が切れ上がったとは、こんな女を指して言う言葉だろう。
女は事務所の中をキョロキョロと見回してから、健二に勧められてソファーに座った。
「どういうご用件でしょうか?」
「あのう。ここは、おふたりで?」
「は、はい。ふたりでやっております」
小さな探偵事務所は信用できないと言うお客も多い。俺はいつもの言い訳をした。
「しかし、新宿に社員20名の本社があります。本社と連携しておりますので、ご心配はいりません」
「いえ、そう言う訳じゃなくて、できれば、社員が少ない方がいいんです」
俺は首を傾げながら聞く。
「はっ!? どういう意味でしょうか?」
「あまり人に知られたくないものですから」
「あ、なるほど。分かりました。お話しは、この事務所だけと言うことにしておきましょう」
「そうしていただけると、ありがたいですわ」
女は安心したように笑顔を見せた。唇が何とも魅力的だ。その唇に吸い付きたい衝動に駆られながら、俺は平静を保って聞いた。
「で、どういうご依頼で?」
「わたくし、小野田冴子と申します。夫が10日前から行方不明なのです。探して欲しいのです」
「・・・・それは警察の仕事では?」
「それが・・・・、警察には知らせて欲しくないと夫が書き置きを残していておりまして・・・・」
「はあ?」
女は、ハンドバックの中から封書を取りだして、俺に手渡した。表書きには、『冴子へ』と書かれてあった。
「読ませていただいていいんですね」
「はい、どうぞ」
手紙の内容は簡単なものだった。
『俺は元気に暮らしているから探さないでくれ。警察にも連絡するな。辰芳』
俺は手紙の入った封筒を女に戻しながら聞いてみた。
「この手紙のあと、連絡は?」
「昨日これが」
女は、もう一通封筒を取り出す。
『もう、おまえの元へは戻れそうもない。いや、希望はある。何とか元に戻って。
冴子、おまえを愛している。きっと戻るから、待っていてくれ。辰芳』
「何とか元に戻る? どういう意味でしょうか?」
「さあ、わたしには・・・・」
麻薬中毒にでもなって隠れているのだろうか? 中毒患者から正常に戻る。辻褄は何とか合うが・・・・。それに警察に連絡するなという理由にもなる。
「消印は・・・・、一昨日の夕方ですね」
「ええ。池袋から差し出されたもののようです」
夫が妙な手紙を残して失踪すれば、事件に巻き込まれたのではないかと冷静ではいられなくなるのが普通だろうが、消印の日付だけでなく、投函場所も確認しているとはなかなか冷静沈着な女性のようだ。
「池袋か・・・・。ご主人はどういうお仕事を?」
「あ、言い忘れておりました。実は、夫は小野田と言う探偵事務所をやっております」
「小野田探偵事務所! ああ、よく存じております。小野田探偵事務所・・・・。あの小野田さんの奥さんですか?」
「はい。ですから、あまり知られたくなくって。他の探偵事務所に頼むなんて」
「はい、はい。お気持ちはよく分かります。自分の事務所の探偵には、いろいろ知られたくないこともあるでしょうから」
「そうなんです」
「私生活で、失踪する原因らしいものに心当たりは?」
「まったく・・・・」
「そうですか。じゃあ、仕事の関係ですかね?」
「そうですね。わたしもそうじゃないかと考えています。あの人が失踪する理由なんて、それ以外に考えられないですもの」
小野田夫人は、ハンカチを取りだして涙を拭った。
「失踪直前に手がけていた仕事は、何でしょうか?」
「事務所に来ていただければ、資料があります」
「俺、いや、わたしたちが伺ってもいいのでしょうか?」
「探偵としてじゃなくて、お掃除か何かの理由を付ければ・・・・」
「あ、そうですね。そうしますか」
「事務所に入って、左側にあるファイルボックスの中にまとめて置かれているはずです」
「事務所に入って左側ですね」
「はい。これが鍵です。くれぐれも探偵だと見破られないようにお願いします」
「分かりました」
「報酬は、一日一万円。経費は別。もし主人を見つけていただいたら、100万出します。それでよろしいでしょうか?」
俺は心の中で万歳と叫んだ。久しぶりの大仕事だ。上手く小野田辰芳を発見できれば、100万になる。そんな気持ちを顔に表さないように俺は答えた。
「は、結構です」
「これが夫の写真です。それでは、お願いいたします」
テーブルの上に小野田辰芳の写真を置くと、小野田夫人はしずしずと事務所を出ていった。
「やったね」
小野田夫人が階段を下りていく足音が聞こえなくなると、健二が俺に抱きついて言った。
「ああ、こんな大仕事が飛び込んでくるなんて、思ってもみなかったよ」
「上手くいけば、100万だよ」
「上手くいかせるさ」
俺たちは、まるで100万がもう手に入ったような喜びようだった。
「せっかくスカートを穿いたけど、お掃除屋さんだからな。ジーンズに穿き代えろよ」
「ああん。これで外を歩きたかったのにい・・・・」
「またにすればいいさ。さあ、早くしろ!」
「はあい」
健二は、いつものTシャツにジーンズ姿に戻った。俺はどうしようか迷う。俺はいつものスタイルだ。真っ白なシャツに水玉のネクタイ。萌葱色のスーツを着ている。掃除屋らしくないのは分かっているが・・・・。
「兄貴。やっぱ、おかしいよ。ジーンズにしたら?」
「洗濯してないからな」
「どうせ。掃除屋だよ。汚くていいんじゃないか?」
「それもそうか」
自分でも反吐が出そうになるような汗まみれのジーンズとTシャツに着替えて、事務所を出た。
「親父さん、いるか?」
二軒隣のレンタカー屋に顔を出した。奥から阪神の野球帽を被った赤ら顔の男が出てくる。親父の名前は、北村。年の頃は50くらい。バツ2で、今も別居中。今年中にバツ3になる予定とか。アル中で、一日中酒を飲んでいる。今日も酒を飲んでいるようだ。足がフラフラしていた。
「一台借りたいんだけど」
「前の払いが残ってるぞ」
デスクの椅子にどかっと座り、トロンとした目で俺を見た。
「仕事が入ったんだ。経費で落ちるから、領収を切ってくれ。金が入ったら、前の分も払うから」
「仕事ねえ・・・・。利子付けて払えよ」
「貸してくれるんだね。サンキュウ」
「今度、払わねえと・・・・」
「どうするんだ?」
「と言っても、カタに取るもんなんてないからなあ・・・・。そうだ。その彼女を貰おう」
俺の後ろに立っていた健二を指さして、そう言う。
「忍を?」
「高く売れそうだ」
そう言ってにやりと笑った。
「馬鹿なこと言うなよ」
「そうだな。じゃあ、俺に一晩付き合ってもらおう。それでチャラにしてやる」
健二はとんでもないと首を振った。
「金を払うよ。必ず」
「金より、その彼女の方がいい」
「100年間、車をただで貸してくれたって、お断りだよ」
「・・・・必ず払えよ」
「分かってるよ。あそこの隅の軽トラを借りるからな」
「彼女と乗るんだろう? セルシオにしたらどうだ?」
「セルシオなんて置いてないくせによく言うよ。じゃあ、借りてくよ」
親父は、貸し出し簿に何か書き込んでいるようだ。法外な料金はつけないと思うが。
「ここは3丁目だから、次の角を右みたいね」
「了解」
ハンドルを切ると、2丁目が見えてきた。小野田探偵事務所は、すぐに分かった。俺の事務所と違って、表通りに面した、瀟洒なビルの3階にあった。
「儲かってるみたいね」
「そのようだな」
軽トラを駐車スペースに停めて、階段を上った。事務所の前に張り紙がしてあった。
『休業のお知らせ
病気療養中のため、しばらく休業いたします。悪しからずご了承ください
小野田探偵事務所 小野田辰芳』
「病気療養中ねえ。いい言い訳を考えたもんだ。さてと・・・・」
小野田夫人に渡されていた鍵を使って、事務所の中へ入る。かび臭い、埃っぽい臭いが部屋の中に漂っていた。
「忍。窓を開けろ」
「はい、はい」
事務所から一歩外に出ると、あたりに誰もいなくても俺は健二のことを忍と呼ぶ。健二も男言葉は絶対に使わない。壁に耳ありだからだ。
「これが、ロッカーだな」
「そうみたいね」
「忍。引出しを調べておいてくれ」
「関係ないんじゃないの?」
「何かの役に立つかもしれない。早く!」
今度は文句を言わずに、忍は机の引出しの中を調べ始めた。俺は、きちんとファイルされた書類を端から調べて行く。
「何か、あった?」
「けりがついていない依頼は、2件だな」
「どんなやつ?」
「持って帰って、よく調べてみよう。けりがついてるやつの中には、怪しそうなものはないが・・・・。忍! おまえの方に何か手がかりは?」
「ぜんぜん。なんにも収穫なしよ」
「そうか。じゃあ、引き上げるか」
小野田探偵事務所の部屋を出ると、前の部屋から中年の女が出てきた。
「あら?」
汚い格好をしている俺たちを怪しむような目で見たので、すぐに言い訳をした。
「小野田先生に、掃除を頼まれまして」
「そう?」
「ほら。ちゃんと鍵を預かってるでしょう?」
「そのようね」
鍵を見て、泥棒じゃないと分かったらしく、その女は奥のトイレに消えて行った。
「感じ悪う」
「おまえも年を取れば、ああなる」
健二は、不愉快そうに俺を睨み付けて言った。
「あんな婆あには、ならないわ」
「そうだな」
俺は肩を竦めて答えた。年を取った健二の姿なんて、とても想像できない。
「旦那の浮気調査に、婚約者の素行調査ね。探偵って、どこも同じような仕事をしてるのね」
「そう。テレビや映画で見るような、かっこいい仕事じゃないさ」
「父が言ってた、ガードマンと同じと言うわけにはいかないわね」
「何だ? そりゃ?」
「父が好きだったの。宇津井健って言う役者が、かっこいいガードマンを演じてて、次から次へと事件を解決するドラマなんだって」
「そんなガードマンがいたら、お目にかかりたいね」
「そうね」
軽トラをレンタカーの車庫に入れて、レンタカーの事務所を覗くと、親父はソファーの上で眠りこけていた。
「おい! 親父さん!! 車を泥棒に持ってかれるぞ!!」
大きな声で叫んだのに、親父は起きそうにない。俺は鍵をデスクの上に置くと、貸し出し簿に返却時間を書き込んでレンタカーの事務所を出た。
「あれでよく商売になるのね」
「常連客があるからな。そうじゃなかったら、今ごろここは駐車場になってるよ」
「楽でいいわね」
「人間苦労が大事さ。特に若いうちはな」
「口だけは達者ね」
「そうでも言ってないと、生きていけないさ」
「それもそうね」
俺たちの事務所は蒸れ返っていた。クーラーを入れても効果がないことが分かっていたので、窓を開けてから、近くのファミレスへ出かけた。ファミレスはクーラーが効いている。食事をとりながら、小野田探偵事務所から持ってきた書類から必要事項を抜き書きした。
「わおう。この浮気してるって言う、坂井って言う男、年収1800万だって!」
「そりゃすごい。何の仕事してるんだ?」
「野菜の輸入をやってる商社の総務部長」
「野菜でそんなにもうけるなんて、信じられないよ」
「わたしも。・・・・愛人にして貰おうかな?」
そう言いながら、俺の顔を覗き込んだ。。
「馬鹿なこと言うなよ。お前を愛人にするような男がいるもんか!」
「分からないわよ」
「試してみるか?」
「いいの?」
俺は返事をせずに話題を変えた。
「素行調査の方は?」
「矢崎真一郎。25歳。研修医? お医者さんみたいね。あれ!? なに? これ? 年収250万!?」
「医者で、たったの250万か?」
「源泉徴収のコピーがあるから、間違いないみたいよ。しかも見てよ。大学からの給料は、たったの60万よ。月5万て言うこと!?」
「そのようだな」
「いろんな病院に行っているのね」
健二は何枚かある源泉徴収票のコピーを見ながら呟いた。
「医者は当直に行って稼いでるって聞いたことがある」
「そうでもしないと、年収60万じゃあ、生きていけないわよ。6年もがっこに行ってこれなのね」
「信じられんなあ」
「小野田さんのファイルにもそう書いてあるわ。大学の研修医って、こんなものなのかしら?」
「さあ、俺にはわからん」
「そうね」
そんなことを喋りながら、抜き書きを続けた。ふと見ると、ファミレスの店員が、じろじろと見ていた。時計を見ると、入ってから3時間あまりが過ぎようとしていた。
「何か追加注文すればいいわよ」
健二も店員の雰囲気を察したようで、俺にそう囁いた。
「店員さん! コーヒー、もう一杯」
「コーヒーは、何杯飲んでもただだよ。わたしが注文してもいいわね」
「ああ、いいよ」
「やったあ。あのね。ストロベリーサンデーひとつ、お願いね」
「ストロベリーサンデーおひとつですね」
ちょっと考えて、俺も追加注文することにした。
「コーヒーはもういい。ビールをくれ」
「あ、自分だけ、ずるい!」
「おまえも飲むか?」
「飲む。飲む。ビールはふたつね」
「ビールはグラスと、ジョッキがございますが、いかがいたしましょう?」
「ジョッキで頼む」
「かしこまりました。ストロベリーサンデーおひとつと、ビールのジョッキおふたつですね」
「おい、忍。ストロベリーサンデーも食べるのか?」
「いけない?」
健二はちょっと首を傾げながら、にっこり笑った。
「じゃあ。それで頼む」
「すぐにお持ちします」
ビールを飲みながら、ストロベリーサンデーを食う健二を俺は呆れて見ていた。
「美味いのか?」
「うん」
「信じられん・・・・」
ビールを飲み終えた頃、夕飯時になったので、さらにミックスフライランチなるものを注文した。それも、健二とわいわい喋りながら食べたものだから、ファミレスを出たのは、午後8時過ぎだった。都合6時間ちょっとファミレスにいたことになる。金さえあれば、一日中ファミレスにいて、事務所代わりに使いたいところだ。
互いに金も少し余裕があったし、ビールが入っていたせいもあって、気分が良かった。今日も健二と寝てしまった。ま、健二と寝るのは、よほど喧嘩でもしない限り、殆ど毎日のことではあるが・・・・。