第10章 進は優秀な主婦

 目を覚ましてベッドの中をまさぐると、隣にいるはずの進がいなかった。
 「すす・・・・、志穂! 志穂!!」
 わたしは寝室の外に向かって叫ぶ。
 「あら? 起きたの? おはよう」
 進が、寝室の入り口の顔を出した。進は、しっかり化粧して、昨夜わたしが揃えた服を着ていた。
 「ご飯、もうすぐできるから、顔を洗ってきて」
 そう言い残して姿を消した。
 (昨夜の約束を守ってるんだ)
 時計を見ると、午前7時だった。
 「あああ・・・・」
 大きく背を伸ばしてから、洗面所へ向かう。洗面所へ向かいながら、キッチンの方を見ると、進がエプロン姿で料理をしていた。洗面所とバスルームの間に置かれた洗濯機は、最後の脱水にかかっていた。
 (進は、かなり早くから起きていたみたいだな)
 ちょっと感心する。歯を磨いてから、顔を洗ってタオルで拭く。
 (そのうち髭を剃らなきゃならなくなるかも・・・・。でも、化粧をするよりは楽ね)
 そう思いながら、ダイニングへ行った。
 「ちょっと待ってね。すぐにお味噌入れるから。味噌汁は作り立てが美味しいのよ。出来上がるまで、新聞でも読んでいて」
 そう言って、新聞と熱いお茶の入った湯飲みをテーブルの上に置いた。わたしは、新聞を広げながら、進の顔をじっと見た。
 「あら? どうかした?」
 「あ、いや・・・・」
 「どこか、おかしいかしら?」
 そう言いながら、進は自分の服装を点検する。白いブラウスの下に、スリップとブラの肩紐が透けて見えている。膨らみもちゃんとあるから、ブラの下にはシリコンの人工乳房をしっかりとくっつけているようだ。プリーツスカートは萌黄色のミディ丈のもの。パンストもちゃんとはいている。
 「おかしくなってないよ。似合ってるよ」
 「そう? お化粧、濃かったかしら?」
 「そんなことないよ。綺麗にできてるよ」
 お世辞じゃなかった。
 「もちろん、君、一人で化粧したんだよね」
 「あったり前でしょう? 誰が化粧してくれるのよ」
 「それもそうだね。でも、ほとんど完璧だね」
 「ありがと」
 自慢げににっこりと笑った。
 「前にも、化粧、したことあんのか?」
 「まさか。昨日が初めてよ」
 「昨日が初めてって言ったって、昨日はぼくが全部やってあげたんだよね」
 「そうね」
 「君一人でそれだけの化粧ができるなんて、信じられないよ」
 「化粧なんて、キャンバスに絵を描くようなものでしょう?」
 「あ、まあ、そうだね」
 「わたし、絵の才能があるのよ」
 「そうかなあ・・・・」
 進の言うことは確かに理解できる。しかし、だからといって、昨日初めて化粧したのに、今日、こんなに上手に化粧できるなんて信じられなかった。
 「・・・・なんか、ぼくには才能がなかったって言いたげだね」
 「あら? そんなこと、一言も言ってないわよ」
 進の表情を見ていると、そう言いながらも、ほんとはそう思っているようだった。
 「嘘だな。きっとそう思ってる」
 「あなたにも才能があるわよ。・・・・抽象画の」
 「どういう意味だよ!」
 「ふふふ」
 進は、にっこり笑って、キッチンへ戻った。
 「ったく・・・・」
 (それにしても、進は、成り切ってるよ。言葉遣いだって、完璧女だし・・・・。割り切りが早いといえばいいのかもしれないけれど。まあ、そんな進が好きなんだけど)

 新聞を半分ほどやんだころ、テーブルに朝食が並んだ。飯に味噌汁、目玉焼きに塩さば、それにお新香だった。
 「さあ、食べて」
 「いただきます」
 学生時代、同棲していたときには、進は食事の準備をしたことがなかった。と言うよりさせたことがなかった。食事を作るのは女の役割だと思っていたからだ。だから、わたしが作るか、外食だった。
 進の作った食事を初めて食べたわけだが・・・・。
 「美味しい」
 味噌汁をすすって、わたしは思わず感嘆の言葉を上げた。
 「ほんと?」
 「ほんとだよ。こんなに美味しい味噌汁は久しぶりだよ」
 「そう言ってもらえると、嬉しいわ」
 「味噌汁も初めて作ったなんていわないだろうね」
 「初めてじゃないけど、何年ぶりかな?」
 進は自慢げに笑顔を向けてきた。
 「料理の才能もあるって言いたそうだね」
 「わかった?」
 「ああ、君には敵わないよ」
 「早く食べて。出勤は何時なの?」
 「出勤?」
 「あら? あなた、仕事でしょう?」
 「今日は土曜日だよ。週休二日で、今日は休みなんだ」
 「土曜日? そうか、今日は土曜日かあ。いろいろあったんで、すっかり忘れてたわ。そうか、休みなのね。なんだあ、早く起きて損しちゃった」
 「でもね。君を出迎えるために昨日の午後休みを取ったから、ちょっとしておかないといけないことがあるんだ。えっと、9時ごろ出かけようと思ってるんだ」
 わたしは時計を見上げていった。
 「なら、よかったわ。じゃあ、さっさと食べてしまって、出かける準備をして」
 「わかった。わかった」
 テーブルに並べられた食事を平らげると、進は片付けを始めた。わたしが着替えている間に、洗濯物をベランダまで運んだようだ。
 「じゃあ、行ってくるよ」
 「行ってらっしゃい。お帰りは、いつ頃?」
 「正午には帰ってくるよ」
 「正午ね。じゃあ、お昼の準備をしておくわ」
 「すまないね」
 「主婦の役目ですもの」
 「・・・・そうだね。あ、午後は、ご近所の挨拶回りをするから、そのつもりでいるんだよ」
 「そう。じゃあ、ちょっとおめかししておきます」
 「今の君で充分だよ」
 「あら? 妻は綺麗な方がいいでしょう?」
 「そりゃそうだけど、挨拶するだけだから」
 「わかりました。ちょっとだけよそ行きにしておきます」
 「じゃあ、行ってきます」
 玄関ドアを開けると、ちょうど向かいの戸村さんの奥さんが出てきた。
 「おはようございます」
 わたしは頭を下げる。
 「おはようございます。原田さん、今日もご出勤?」
 「はい。昨日の午後休みを取ったものですから」
 「そうですか。あら? 原田さんの奥さん。昨日の衣装も可愛かったですけど、そんなシックな装いもいいですわね」
 「ありがとございます」
 進は、戸村さんの奥さんに向かって笑顔を向ける。わたしは、階段を下り始めた。
 「あとで、お茶でもしません?」
 「いいですわね。でも、今洗濯していますから、洗濯物を干して、お掃除がすんだら」
 「じゃあ、10時ごろ伺いますわ」
 「お茶しかないんですけど」
 「美味しい和菓子があるんですよ。持って伺いますわ」
 「そうですか。じゃあ、お待ちしてます」
 そんな二人の会話を聞きながら、わたしは階段を下っていった。
 (進のやつ、大丈夫かな?)

 進のことが気になって、仕事が手につかなかった。
 (結局、出勤した意味がなかったな)
 出勤の記録をする磁気カードを機械に通してから、慌てて社宅へ戻った。
 「ただいま」
 「お帰りなさい」
 「あら? お帰りなさい。まだ、お邪魔してますわ」
 戸村の奥さんが居間にでんと座って、進とお茶を飲んでいた。
 「話が弾んだようですね」
 「ええ。お宅の奥さん、若いのにいろいろとご存知で、おしゃべりが楽しくて」
 戸村の奥さんは、腰を上げようとしない。
 「あなた。あなたもお茶を入れましょうか?」
 「ああ、頼む」
 「原田さんは、亭主関白なんですってね」
 「え、誰がそんなことを言いました?」
 「奥さんに決まってるでしょう?」
 わたしは進の方を見た。進は、惚けた振りをしてお茶を入れている。
 「ぼくは孫悟空みたいなもので、お釈迦様の手のひらの上で、遊ばされているだけですよ」
 「そう? でも、それが夫婦円満のかぎなのよ。男が外でしっかり働き、女は内でそれを支える。男女平等なんていっても、男と女は所詮は違う生き物なんですからね。違う生き物がうまくやっていくのには、平等なんてことよりは、その特性を生かしていく。それが正しい道ですよね」
 「は、はあ・・・・」
 返事に困ってしまう。戸村さんの意見にも一理はあると思う。しかし、それを他人に強制することはできないだろう。
 ちらりと時計と見上げると、戸村の奥さんも気づいたようだ。
 「ずいぶん長居をしてしまったわ。じゃあ、奥さん、また一緒にお茶を飲みましょう」
 そういい残すと、戸村の奥さんは、さっさと出て行ってしまった。
 「はい、お茶」
 「サンキュウ。2時間もいったい何を話していたんだ?」
 「あとで話すわ。お腹が空いたでしょう? すぐにお昼を作るから」
 「ああ、そうだね」
 進はエプロンをかけると、野菜をきざみ始めた。あっという間にチャーハンが出来上がり、横に中華風の卵スープが並んだ。
 「はい、どうぞ」
 チャーハンは絶品だった。中華風の卵スープもインスタントなのだが、少し手を加えて味を調節したようだ。インスタントとは思えなかった。
 「美味しい?」
 「ああ、美味しいよ」
 わたしはものも言わずに頬張った。
 「ああ、うまかった」
 スプーンを置くと、さっとお茶が出た。進の手際には、ほとほと感心する。
 「で、どんな話をしたんだ?」
 「主に会社の奥様方のお話ね」
 「奥様方のお話ねえ。どんな話?」
 「そうねえ。たとえば、奥薗署長の奥さん、若く見えるでしょうって言うのよね」
 「ああ、40前くらいだろうね」
 「あなたもそう思った?」
 「そう思ったって、違うのか?」
 「所長さんより年上なんだって」
 「ええっ!? 所長より年上って言うと、48以上だってことだよ」
 「そう。来年50になるんだって」
 「へえ、信じられないよ」
 「そうでしょう? それから、お二階の沢木さんは再婚だとか、このマンションで唯一独身男性の君野さんは、ホモらしいってこととか」
 「ホモねえ・・・・」
 ホモセクシュアルの経験があるわたしにとっては、あんまり好きな話題じゃない。
 「それから?」
 「所長の奥さんが、パーティーのときに婦人会の話をしていたでしょう?」
 「ああ、所長の奥さんが会長をやってるって言ってたね」
 「ええ」
 「どんな会なんだ?」
 「亭主族を支えるって明目の会らしいけど、ほんとは、ただの懇親の会らしいのね。観劇をしたり、お食事会をしたり、時には旅行に行くこともあるらしいわ」
 「観劇とか食事会はいいけど、旅行となると風呂に入ったりするとき、裸になることもあるだろう? 気をつけないと・・・・」
 「もちろん、わかってるわ。そんな場合は、口実をつけて断ることにするわ」
 「そうしてくれ」
 「ご近所に挨拶に行くんでしょう?」
 「ああ、もう1時半だね。すぐに行こうか」
 「ちょっと化粧を直してくるわ」
 「今朝も言ったけど、あんまり派手にするなよ」
 「わかってるわよ」
 寝室にあるドレッサーの前に座った進をこっそり覗き見した。結構楽しそうに化粧しなおしていた。

 わたしたちの住んでいる社宅は、4階建てで階段が三つあって、各々の階段の左右に部屋がある。つまり、全部で24室あることになる。そのうち、16室がわたしの勤めるGMIJが借り上げていた。わたしと進は、菓子の包みを持って、15軒の部屋を回って挨拶した。全住人が、昨夜のパーティーに参加していたから、わたしと進の顔をよく覚えていてくれた。
 「顔を良く覚えてくれているのはいいけど、これじゃあ、ここにいる間は、絶対男だってばらせないわね」
 わたしたちの部屋に戻りながら、進がぼやく。
 「ぼくらの方から言い出さなければ、絶対にばれやしないさ。大丈夫」
 「そうね。ま、一年たったら、別の場所でやり直せばいいわね」
 「そういうこと」
 ふたりとも薬剤師免許を持っているからこんなことが言える。ただのサラリーマンだったら、次の就職口を探すのはそんなに容易じゃない。

 挨拶回りが終わって部屋に帰ったのは、午後5時半過ぎだった。
 「疲れたね。志穂も疲れただろう? 今日は外食にしようか?」
 「外食にしようって言うけど、このあたりにそんな店があるの?」
 「ちょっと離れた場所に行かなきゃならないね」
 「わたしたち、車がないから、足に頼らなければならないのよ」
 「タクシーを呼べばいいさ」
 「そんなお金を使うの、勿体ないわ。主婦としては、一円でも節約よ。わたしが作るから、先にお風呂でも入って待ってなさいよ」
 「・・・・君がそういうのなら、そうしよう」
 (何が亭主関白だよ。完全にかかあ殿下やってるよ)
 「何か言いたそうね」
 「いや、何も言うことはないよ」
 わたしは慌てて首を横に振った。

 風呂のお湯が溜まるまでに、月曜日からの仕事の算段をやった。進は、料理の下ごしらえをしたあと、洗濯物を取り込んで畳んでいる。
 ゆっくり風呂に浸かったあと、リビングで寛いでいると、テーブルの上にビールのビンとコップが置かれた。
 「もう少しかかるから、これでも飲んでいてね」
 コップにビールを注ぐと、進はキッチンへ戻っていった。わたしは、一人でテレビを見ながら、ちびりちびりとビールを飲んで食事ができるのを待った。
 それから20分もしたころ、進から声がかかった。
 「できたわよ。こっちへ来て」
 「何作ったんだ?」
 「ポークをソテーしたものにホワイトソースをかけたもの。温野菜。それにコーンクリームポタージュ」
 「うまそうだね」
 「うん」
 進は自慢げに頷いた。食べてみた。言葉がなかった。美味しかった。
 「君がずっと主婦をやった方がよさそうだね」
 「あら? 一年間の約束よ。一年たったら、あなたが主婦をして、わたしが外で働くのよ。昨日指切りしたでしょう?」
 「あ、ああ」
 「一年たったら、わたしがあなたにしてあげたとおりにしてもらうわ。いいわね?」
 「わかってるよ」
 ちょっと下を向きながら答えた。

 片づけをしている進の後姿を見ながら考える。
 (わたしに主婦をしろなんて土台無理な話よ。わたしは男として生きるんだから。そのためには、一年たったとき、進が女のままでいるようにすればいいんだ。そのための計画は考えてある)
 わたしは、残りのビールをぐっとあおった。