第1章 男勝りのわたし

 「ただいま」
 「お帰り」
 玄関で靴を脱ぐと、わたしは階段を駆け上がった。
 「こら! 志穂!! もっと静かに階段を上がりなさいよ。あなた、女の子なのよ」
 台所から、母の甲高い叫び声が聞こえた。
 「はい、はい」
 「返事は一回!」
 「はあい」
 肩をすくめ、舌をぺろりと出しながら、部屋のドアを開ける。
 (ったく。うるさいんだから・・・・)
 鞄をベッドの上に放り出すと、直ちに着替えを始めた。
 (やだやだ、スカートなんて)
 着ていたセーラー服を引き裂くように脱いで、ジャージに着替える。
 (らくちん、らくちん)
 わたしはイチニイチニと二三度屈伸をして、さらに体をひねる運動をした。
 「さあ、でかけよう」
 わたしの出かける目的地は、家から歩いて5分ほどの場所にある小さな道場だ。その道場で、わたしは合気道を習っている。
 習い始めたのは、小学校2年のとき。母に連れられて公民館へ行ったことがきっかけだ。そのころ、近所で痴漢騒ぎが相次ぎ、護身のためにと婦人会が主催で合気道の講習会が開かれたのだ。若くて綺麗なお姉さんが、大男を投げ飛ばすのを見てかっこいいなと思ったわたしは、すぐに近くにある合気道の道場に入門した。というわけだ。
 合気道を習い始めて5年目。中学校1年ながら、わたしは合気道初段の腕前。剣道も秋には初段の昇級試験を受けることになっている。その上、小学校5年のときから背が伸び始めて、学年では男女併せて一番大きくなってしまったわたしに、大抵の男の子は敵わない。
 「男女」と陰口をたたかれているらしいけど、わたしはちっとも気にしていない。気にしていないというより、わたしは女でいたくない。
 (こんなに逞しくて強いのに、どうして男に生まれなかったのかしら?)
 いつもそう思っている。
 (あら?)
 ドアを開けて部屋を出ようとすると、足元に転がっているものに気がついた。
 (やだあ・・・・)
 顔が赤くなった。わたしは、それを拾い上げて、ブラジャーの中に押し込んだ。
 (ブラジャーなんて、したくないんだけどな)
 同級の女の子たちは、ほとんどみんなAカップ以上に育っている。だけどわたしは、ほんの少し盛り上がった程度。ブラジャーなんてほんとは必要ないんだけど、中学校に入って最初の保健体育の時間に、胸の大きさに関係なく女の子はみんなブラジャーをしてくるように言われた。そのとき、ブラジャーをしていなかったのは、わたしを含めてクラスの数人だけだった。ブラジャーなんてしたくなかったけれど、みんなするというから仕方なくブラジャーをした。
 わたしの胸はあんまり小さすぎてブラジャーのカップが覆うものがないから、パッドを二枚重ねで入れているんだけど、それが着替えるときに滑り落ちてしまったというわけなのだ。
 (ああ、恥ずかしい)
 いくら男の子になりたいなんて思っていても、こんなところはぜったい他人には見られなくない。
 (練習中に落ちたら困るな)
 そう思ったわたしは、いったんジャージを脱いでからブラジャーを外してTシャツに着替えた。
 (わたしがペチャパイなのは、道場のみんなが知ってるもんね)
 乳首が擦れてちょっとぴりぴりするけど、我慢することにした。
 「行ってきます!」
 「寄り道するんじゃないわよ」
 母が台所から首だけ出して叫ぶ。
 「はあい」
 わたしは家を飛び出していった。

 合気道の練習時間は、1時間半。剣道の練習に比べればそれほどきつくはないけれど、やっぱりかなり疲れる。全身汗びっしょり。三つ編みにした髪の毛の毛先から汗が滴り落ちるほどだ。
 「ありがとうございました」
 そう挨拶して、道場を出た。
 「先輩。練習、お疲れ様でした」
 道場の門の影から姿を現したのは、わたしのファンクラブの会長を気取る神取つかさだ。彼女は、小学校6年生。2年前、わたしがまだ小学校へ通っていたときに、彼女がわたしのファンクラブを作って会長に納まった。
 「わたし、女だよ」
 そう言うわたしに対して、彼女はこう言った。
 「だって、かっこいいんだもん!」
 彼女は、わたしのことを宝塚の男役のように見ていたのかもしれない。ま、確かにわたしはほかの女の子と違って、運動しているせいか余分の脂肪がついていなくて引き締まっていたし、男の子たちより背が高くなり始めていたから、かっこいいといえばいいのかもしれない。
 ファンクラブの会員は、彼女だけじゃなくて20人はいたようだ。毎月会報なるものも出ていて、どこでどうやって撮ったのかわからないけど、わたしの写真がでかでかと載っていた。
 その会報を見て、わたしをスカウトにきた芸能関係者がいたらしいけど、女だとわかってわたしには会わずに帰ったそうだ。わたしにそう伝えたのは、何を隠そう神取つかさだったから、事の真偽はわからない。
 男の子になりたいとは思っていたけれど、女の子に付き纏われるのは好きじゃない。だから、ショートカットだった髪の毛を肩まで伸ばしたのに、ファンクラブの女の子たちは、一向に減る様子を見せなかった。
 「そんなにくっつくなよ。汗臭いだろう?」
 神取つかさは、まるでわたしが恋人のようにべったりとくっついてきた。
 「この汗臭いのが、なんとも言えないわ」
 そう言われれば、返す言葉がない。
 「・・・・参ったな」
 神取つかさは、わたしが通う中学の校区に住んでいる。つまり、来年になったら同じ中学に通うことになる。彼女が中学に上がってきたら、今よりさらに付き纏われそうだ。
 「何とかならないかな?」
 「えっ!? 何か言った?」
 わたしの呟きを聞いて、彼女がわたしの目を覗き込む。
 「な、何でもないよ」
 慌てて目を逸らして、わたしは駆け出した。
 「ま、待ってよ」
 そんな彼女の言葉を尻目に、わたしは家まで走っていった。

 「ただいま」
 「お帰り。早かったのね」
 玄関から家の中に入って振り返ると、神取つかさが門柱のそばに佇んで悲しそうな顔をして見ていた。可哀相かなと思ったけれど、いつものことだから無視してドアを閉めた。
 母は、台所で夕食の準備に余念がない。わたしは、夕食はなんだろうかなと覗き込むけど、夕食の正体はまだわからない。
 「だって、お母さんが寄り道するなって言ったから」
 「感心、感心」
 「なんか冷たいもの、ない?」
 わたしは冷蔵庫のドアを開いてみる。
 「中にオレンジジュースがあるでしょう?」
 「オレンジジュースしかないの?」
 「あとは牛乳」
 「牛乳かあ・・・・。お母さん、お金頂戴? 缶ジュース買ってくる」
 冷蔵庫のドアを閉めて、母に猫のようにゴロゴロする。
 「先週お小遣いをあげたばかりでしょう?」
 「あ、うん・・・・」
 「もう使っちゃったの?」
 ちょっと睨み付けられた。
 (やぶへびだあ・・・・)
 「オレンジで、いいや」
 わたしは再び冷蔵庫のドアを開いた。
 「シャワーしたら? 汗臭いわよ。そんなんじゃあ、彼氏ができないわよ」
 「彼氏ができてもいいの?」
 「お母さんはね。お父さんは首を振るかもしれないけどね」
 (お父さん。わたしに彼氏ができたなんていったら、すごい顔するだろうな?)
 父の顔を想像して、わたしはくすっと笑った。
 「早くシャワーしてきなさい。それこそ、お父さんの思う壺よ」
 「はあい」
 オレンジジュースをコップにいっぱい飲むと、わたしはバスルームへ向かった。

 汗まみれの服を脱いで裸になり、三つ編みを解いて少しぬるめのシャワーを頭から浴びた。
 「気持ち、いい」
 すっきりしたところで自分の体を眺めてみた。少し膨らみかけた胸。
 (お母さんみたいに大きくなってしまうんだろうか?)
 まだ毛の生えていない股間。
 (ああ、ペニスがほしいな。生えてこないかしら?)
 そんな叶わぬ夢を抱く。
 「志穂! いつまで入ってるの? 少しはお手伝いしなさい!」
 「はあい。すぐ出るわ」
 (料理も嫌いなんだけどなあ。ああ、男になりたいよう)

 髪の毛を乾かして、パジャマを着て台所へ行くと、夕食の準備は終わっていた。
 「あれ? もうできちゃったの?」
 「できちゃったのはないでしょう? 1時間もシャワーする人がどこにいるもんですか? お手伝いしたくないみたいね」
 「そんなことないわよ。汗びっしょりだったんだもの・・・・」
 「まあ、いいわ。・・・・お父さん、遅いわね」
 「お腹空いたよ。先に食べようよ」
 「7時半まで待ちましょう。それまで、宿題をやっておきなさい」
 わたしはふてくされる。
 「志穂! 返事は?」
 「はあい」
 二階の部屋に上がって、鞄の中からプリント取り出して鉛筆を走らせる。
 (こんなの簡単、簡単)
 プリントが終わるころ、玄関のドアが開く音がして父の声がした。
 「ただいま」
 「お帰りなさい。あなた、どうします? お風呂? それともお食事?」
 「腹が減った。先に飯を食おう」
 「そう。じゃあ、すぐに。・・・・志穂! 志穂!! ご飯よ。早く降りていらっしゃい」
 その言葉を言い終わらないうちに、わたしは下へ降りていた。
 「お帰り。お父さん」
 わたしは女の子らしく笑顔を向けた。
 「ただいま。志穂。また、背が延びたようだな」
 「伸び盛りだもん!」
 「あんまりでかくなると、嫁の貰い手がないぞ」
 「お嫁に行ってもいいの?」
 「あ、ま、そうだな」
 (わたしを嫁に出すなんて、夢にも思っていない癖してよく言うよ。お父さんは)
 「絹代。飯だ」
 (お父さんって、ホント可愛いな。お父さんみたいな人だったら、お嫁に行ってあげてもいいんだけどな)
 父の横顔を見ながら、わたしはそう思っていた。

 「志穂! 朝だ、朝だ。朝だよ。早く起きなさい!!」
 お母さんが、階段の下から叫んでいる。
 「志穂! 志穂ったら! 早く起きないと遅刻だよ!!」
 時計は午前7時を指していた。
 (あと10分は大丈夫)
 そう思いながら、わたしは布団をかぶっていた。
 「こら! 早く起きなさいって言ってるのが聞こえないの?」
 とうとうお母さんが部屋まで上がってきたようだ。
 「眠い・・・・」
 「遅くまでテレビを見てるから」
 言われるとおりだから、口答えができない。
 「早く起きなさい。ホントに遅刻するわよ」
 わたしはしぶしぶ起き上がった。
 「髪の毛梳かないと、そのままじゃ学校へ行けないよ」
 そう言われて鏡を覗くと、ひどいことになっていた。わたしは慌てて鏡に向かった。スタイリッシュフォームを髪に広げてブラッシングすると、何とかまとまった。
 「お父さんは?」
 洗面所へ向かいながらお母さんに聞く。
 「とっくの昔に出かけたわよ」
 「そう・・・・」
 「お父さんにいってらっしゃいを言いたかったら、もっと早く起きなさい。早く歯を磨いて顔を洗ってきなさい。食べるわよ」
 「はあい」
 夕食はお父さんが帰ってくるのを待って3人で食べるけど、朝食は大抵はお母さんと二人きり。お父さんは7時前には出かけてしまうから仕方がないのだ。

 部屋に戻って学校へ行く準備にかかる。この時間が一番嫌いだ。わたしはハンガーにかかっているセーラー服をじっと見つめる。
 (小学校はよかったなあ。スカート、はかなくてよかったもの・・・・)
 毎日こうして10分は固まっている。だけど、今日は髪の毛を整えるのに時間がかかったから、もう余裕がなかった。わたしはセーラー服を頭からかぶってわきのジッパーを上げるとスカートをはいた。
 (はあ・・・・)

 通学中、よく振り返って見られる。わたしの背が高いからだ。髪の毛を三つ編みにしているから、でかい女の子だなと思われているだろう。だけど、髪の毛が短かったときには、小さな男の子に「お兄ちゃん、どうしてスカートはいてるの?」と言われたことがある。その事件も、わたしが髪を伸ばし始めた理由のひとつだ。
 今日も何人かの男の人たちがわたしの方を振り向いた。
 (いっそのこと、髪の毛を切って学生服を着ていたら、こんな風に見られないのかもしれない)
 本気でそう思う。

 (今日はやけに気分が滅入る。どうしてだろう?)
 「志穂! 今日はずいぶんおとなしいわね」
 クラスで一番仲のいい一条さやかが聞く。一条さやかって、タレントみたいな名前でしょうって、本人は言うけど、わたしはお父さんの読んでいるスポーツ新聞の広告欄で見たストリッパーの名前と同じだなと思っている。
 「そう?」
 「あなたらしくないわよ。どうかしたの?」
 「どうもしないわよ」
 「市原! 一条! 私語をするな!!」
 担任に怒られちゃった。わたしたちは首をすくめた。
 (あっ!!)
 「先生。ちょっといいですか?」
 「なんだ?」
 「あのう・・・・、トイレに・・・・」
 「トイレ? ・・・・行ってこい」
 「すみません」
 男の子たちがくすくすと笑っていた。だけどそんなことは無視して席を立った。
 「先生、わたしもトイレ」
 一条さやかが手を上げる。
 「仕方ないやつらだなあ。行ってこい」
 「すみません」
 「つれしょんだああ」
 誰か男の子が叫ぶ。
 「静かにしろ。授業を続けるぞ」
 担任は黒板に向き直ってチョークを走らせ始めた。わたしと一条さやかは教室を出た。
 「保健室に行ったらあるわよ」
 「わかってるわよ」
 わたしがトイレに行くために教室を出たのではないことに一条さやかは気づいていたようだ。彼女もトイレに行きたかったわけではないようだ。トイレを通り過ぎて、保健室のドアを開けた。
 「あら? どうしたの?」
 「すみません。あれ、置いてます?」
 「あれ? ・・・・ああ、あれね」
 藤田先生は一瞬言葉に詰まっていた。
 (わたしはちょっとむっときた。わたしだって、女なんだからね)
 「あるわよ。始まりそうなの?」
 「だと思うんですけど・・・・」
 「初めてなの?」
 「・・・・ええ」
 わたしは恥ずかしげに下を向いて答えた。
 「まあ、おめでとう」
 「ありがとうございます」
 嬉しくはなかったけれど、そう答えた。
 「やり方、わかるの?」
 「ええ、なんとか」

 その日一日は鬱陶しかった。初めてあてる股間のナプキンが気持ち悪かったせいもあるし、自分には絶対生理なんて来ないと信じていたのに、やっぱりやってきたことに対する苛立ちがわたしを滅入らせていた。
 「ただいま」
 わたしは力なく家の玄関を開いた。
 「お帰り、志穂。始まったんだって?」
 母が満面の笑顔を見せながら、わたしを出迎えた。こんなことはついぞなかったことだ。
 「誰から聞いたの?」
 「保健の藤田先生からよ」
 「ったく、余計なことを・・・・」
 「そんなこと言うもんじゃないわよ。せっかく知らせてくれたんだから」
 わたしはふてくされ気味に階段を上っていった。
 「普通のショーツ、はいてんでしょう? サニタリーに、はきかえなさい」
 「わかってるわよ」
 トイレで新しいナプキンに取り替えた。スカートをはくときの百万倍は気が滅入った。

 午後7時過ぎ、いつもより早くお父さんが帰ってきた。
 「あれ? 何のお祝いだ?」
 茶碗につがれた赤飯を見ながら、お父さんがお母さんに聞く。
 「始まったのよ」
 「始まった?」
 「・・・・もう、わかんない人ね。志穂にあれがきたのよ」
 「志穂にあれが? ・・・・あ、ああ。あれか。そうか、そうか。はあ、そうか。志穂もついに女になったか。そうか、そうか」
 お父さんは、複雑な顔をしてわたしを見つめた。わたしは、お父さんお顔を直視できず、テレビの画面を見ていた。