第9章 森田早百合に残されていた記憶

 毎日午後になると森田早百合を研究室に呼び寄せて、首輪型のリモコン装置を取り付けて彼女を遠隔操作して楽しんだ。
 ボクの命令に100パーセント従うのだから面白いと言えば面白い。ただ、服を脱げだの、乳房を揉めだのというよな命令は下さなかった。病人の彼女に対して、医者たるボクが立場を利用して辱めるような行為をするわけにはいかなかった。ボクは大人だ。それに、森田早百合がいくら美人でも、今のボクは何の興味もわかない。

 そんなある日のこと、三雲の腕に抱かれて眠っているとき、奇妙な夢を見て目が覚めた。
 「どうしたんだ?」
 目を覚ました三雲が不思議そうな顔をしてボクの目を覗き込んだ。
 「溺れる夢を見ちゃった」
 「溺れる夢?」
 「うん。溺れる夢。それがちょっとおかしいんだ」
 「何が?」
 「仰向けに水の中に沈んでいく夢なんだけど、天井に灯が見えるんだ」
 「灯? 太陽じゃないのか?」
 「・・・・あれは太陽じゃなかった。あんまり明るくなかったもの」
 「変な夢だな。おまえ、溺れたことがあるのか?」
 「ないわよ。泳ぎ、得意なんだから」
 「おまえが泳ぐところなんて見たことがないな」
 「全身脱毛させといて、泳ぎに行けるわけがないでしょう?」
 「あ、そうか」
 笑いながら抱き合って眠った。

 次の日も同じ夢を見た。おかしいなと思いながら、はたと気がついた。
 「これは森田早百合の記憶だ」
 森田早百合は浴室で溺れたために今のような状態になった。溺れたときの記憶が残っていてそれがボクに伝わってきたのだと考えられた。
 「しかし、おかしいなあ」
 首輪式のリモコン装置は、ボクの方からの一方通行のはずだ。森田早百合の記憶が伝わってくるはずはないのだ。
 「現実に森田早百合のものらしい記憶が伝わってきている・・・・。そうだ。首輪を入れ替えてみよう。森田早百合は人格がないから、妙な命令をされる気遣いはない。入れ替えれば、彼女に記憶が残っていれば、それがボクに伝わってくるはずだ」
 そう結論した翌日、ボクは早速首輪を入れ替えて装着してみた。彼女の中にある記憶が伝わってきた。それは溺れる瞬間だけのものだった。他には何もなかった。恐らく死を意識していたために強烈に刻印された記憶なのであろう。こんな記憶だけを持つ森田早百合。涙が出そうになった。

 その夜、昼間森田早百合から伝わってきた記憶とは違った夢を見た。溺れるボクの首に手が掛かっていたのだ。天井方向に人影が見えた。男らしい人影が。
 「はあ、はあ、はあ」
 その夜は三雲はいなかった。ボクは恐怖に怯えていた。冷や汗でパジャマがびっしょりだった。
 「溺れたんじゃなくて、殺されそうになったのか? いや、今見た夢は、森田早百合のものだろうか? もしかするとボクが森田早百合の夢に脚色したのだろうか?」
 わからなかった。翌日、もう一度首輪を入れ替えて森田早百合の記憶を探ってみた。しかし、男の手は現れてこなかった。やっぱりボクの脚色か・・・・。そう思ったけれど、そんなことをする理由がボクにはない。森田早百合の記憶に違いないという気がした。

 「島岡先生、毎日何やってるんですか?」
 不審そうに看護婦が聞いてきた。
 「彼女に記憶がありそうなんで、何とか思い出させないかと思ってね」
 「ホントですか?」
 「ああ」
 「うまくいけばいいですね」
 「そうだね」
 看護婦が出て行くと、すぐさま首輪を架けてみた。今度ははっきりと男の手が見えた。その手が首をむんずと捕まえ、水の中に押し込まれた。
 苦しさ、死の恐怖がボクを襲った。森田百理子の記憶だとわかっていても真に迫った場景だった。
 「男の顔ははっきりしなかったなあ。ボクの夢の中では男の顔がぼんやりと見えたんだけど・・・・」
 その夜見た夢で男の顔がかなりはっきりしてきた。しかし、それが誰なのかわからなかった。
 「どこかで見たような気がするけど・・・・」
 思い出そうとすればするほど男の顔は不鮮明になっていく。人間の記憶なんてものはおかしなものだ。

 森田早百合が殺されそうになったことは間違いないように思われた。
 「何らかの事件なのだろうか? それとも虐待? そう言えば、森田早百合の家族が見舞いに来たのを見たことがないなあ」
 精神科に入院している患者の見舞いは一般病とに比べて極端に少ない。しかし、まったくないなんてことはない。年に一度くらいは誰かが見舞いに来る。
 「虐待ならば、来ないのも理解できるけど・・・・」
 看護婦を呼ばずに、森田早百合の手を引いて病棟へ行った。
 「あら? 先生、連れてきてくれたんですか?」
 「ああ、暇だから」
 「早百合ちゃん、病室へ戻りましょうね」
 看護婦に森田早百合を引き渡すと、ボクは彼女のカルテを探した。
 「ちょっと見てもいい?」
 「別に構いませんけど」
 主任のそんな返事を待たずにボクはカルテを開いていた。
 「家族はと・・・・」
 家族歴の欄を見てボクは驚きを隠せなかった。森田早百合以外の家族がすべて黒塗りだったのだ。黒塗りは死亡していることを示している。
 「どう言うことだ?」
 肉親が時期を違えてすべて死亡なんて、否定はできないけれどそうそうあることではない。可能性が一番高いのは、家族全員が事件に巻き込まれて死亡し、森田早百合だけが助かったと言う可能性だ。
 カルテには、そんなことはどこにも書いていない。
 「このカルテは、最近2年間のものだ。前のカルテ、特に入院時のカルテには何か書いてあるかもしれない」
 そう考えたボクは、早速カルテ保管庫へと向かった。

 「すみません。先ほど電話した、精神科の島岡ですけど」
 カルテ保管庫のドアを開けて覗き込むと書籍の独特の臭いがした。
 「ご依頼のあったカルテ、そこの机の上に出してますよ」
 眼鏡を掛けた神経質そうな女性がボクを見ずにモニターに向かったまま答えた。
 「失礼します」
 ボクは椅子に腰掛けて、森田早百合のカルテをめくった。
 「・・・・書いてない」
 何冊かに分かれて保管されている森田早百合のどのカルテにも、浴槽で溺れて脳死状態という記載以上のものはなかった。
 「おかしいなあ・・・・」
 ひとつだけ収穫があった。現在ではそんなことは行われていないのだけれど、その昔、精神科の患者の家族の中には、連絡の途絶えてしまう家族がいたことから、連絡先を確保するために入院時に戸籍謄本の提出を義務付けていた。もっとも古いカルテに、森田早百合の戸籍謄本が添付されていたのだ。
 「両親、ふたりの兄とも死亡年月日が同じだ。と言うことは、ボクの想像が正しい。森田早百合の家族は何らかの事件に巻き込まれて森田早百合以外の全員が死亡しているのだ」
 ボクは、家族の死亡年月日を控えてカルテ保管庫をあとにした。

 「早退するから」
 教授がいないときはそう言ったことが割と自由にできる。ボクは、麻生みどりにそう告げてから医局を出た。
 ボクが向かったのは、市立図書館だ。そこで過去の新聞記事を調べるつもりだ。

 市立図書館は、小さな子供たちで一杯だった。どうやら近くの幼稚園児が大挙して押しかけているようだ。庭で何やら子供向けのイベントが行われていたのでそれを見るために集まってきたようだ。
 ボクはそれを横目で見ながら、司書に声を掛けた。
 「平成元年の新聞記事を調べたいんですけど」
 「平成元年分でしたらマイクロフィルムになりますけど、よろしいでしょうか?」
 「はい、いいです」
 最近の新聞記事はコンピューターにデータベース化されていると言うことだが、昔のものは追いつかずにマイクロフィルムのままだそうだ。
 「わからないことがありました、声を掛けてください」
 「申し訳ないです」
 ボクは椅子に腰掛けてハンドルを回し、平成元年10月の記事を探した。目的の記事を見つけたのは、ハンドルを回し続けて30分ほどした頃だった。
 「あった!」
 『資産家宅で一家惨殺』の文字があった。その記事によれば、殺されたのは、森田早百合の父・森田忠義40才、母・絹子35才、兄・忠行11才、姉・亜弥子9才、祖母森田ミチエ65才で、森田早百合も死亡したことになっていた。
 「資産家かあ・・・・」
 教授が受け持っていて、長期に入院している患者の大部分は、医者や弁護士の関係者だ。森田早百合はどうして教授の受け持ちなんだろうと思っていた疑問が今解けた。
 「犯人は見つかったんだろうか?」
 マイクロフィルムの中には解答はなかった。
 「見つかりました?」
 司書がやってきて尋ねる。その笑顔を見ていると、なんだかボクに気があるんじゃないかと思ってしまう。
 「ありがとうございます。おかげで見つかりましたよ。この事件なんですけど、ご存じですか?」
 司書は新聞記事をジッと読んでああと頷いた。
 「この事件なら知ってるわ。わたしがここに就職した年に起こった事件ですもの」
 36,7には見えないなと思いながら、ボクはさらに質問した。
 「犯人はどうなりました?」
 「確かまだ捕まっていないって聞いたけど、どうだったでしょうか?」
 「捕まっていないんですか?」
 「少なくとも今年の春まではね」
 「はっ?」
 「ほら、テレビでやってるでしょう? 未解決事件を紹介して広く一般に情報提供をお願いするって言うのが」
 「ああ、聞いたことがあります」
 「今年の春にこの事件のことが取り上げられていたのよ。だから、まだ捕まっていないと思うわよ」
 「そうですか・・・・」
 「この事件がどうかしました?」
 「あ、いや。今入院している患者さんと関係があるようなので」
 「入院している患者さんておっしゃいますと、あのう、病院の先生なんですか?」
 「あ、まあ、そんなもんです」
 「そうですか」
 「じゃあ、ありがとうございました」
 市立図書館を出ると、ボクは森田一家惨殺事件を管轄している警察署に電話してみた。
 「すみません。過去に起きた殺人事件のことでお聞きしたいんですけど」
 《どう言ったことでしょうか?》
 「平成元年に起こった、森田一家惨殺事件についてですけど」
 《森田一家惨殺事件ですね。あなたはどう言ったご関係になるのでしょうか?》
 「あ、申し遅れました。その事件のただひとりの生き残りである森田早百合の主治医をしている島岡と言います」
 《ドクター? あ、そうですか。少々お待ち下さい》
 何度か電話が転送された。しびれを切らした頃中年の男性の声が戻ってきた。
 《森田一家惨殺事件のことでお尋ねと聞きましたが》
 「あ、はい。わたし、その事件の唯一の生き残りである森田早百合の主治医をしています」
 《その件なら聞きました。で?》
 「犯人はまだ捕まっていないと聞きましたが、本当なんでしょうか?」
 《・・・・まだだ》
 居丈高な口調が、不愉快だと言わんばかりの口調に変わった。
 「わかりました。どうもありがとうございました」
 《それだけですか?》
 「すみません。それだけを聞きたかっただけです」
 怒りと苛つきが伝わってくる電話の切り方だった。

 家族を殺されてしまった森田早百合。事件が起きてから14年になるのに犯人はまだ見つかっていない。あと1年で時効になってしまう。何とか犯人を見つけられないものだろうか?
 森田早百合に残されたわずかな記憶。完全に復元できれば、犯人に辿り着けるのではなかいと思う。