いつものようにロッカーでジャケットから白衣に着替えて医局へ向かった。今日は早野女史より早く来た。
「島岡先生、体調はもういいんですか?」
「うん。もう大丈夫」
「はい、コーヒー。いれたばかりですよ」
「サンキュー」
香りのいいコーヒーの入ったカップを受け取って口に含んだ。今朝は、美味いコーヒーだった。
「あら? 島岡先生。もういいの?」
ドアを閉めながら早野女史がボクに声を掛けてきた。
「はい、この通り」
「注射でもして貰ったの?」
「はい、ぶっとい注射をして貰いました」
三雲のあれを思い浮かべながらボクは答えた。
「そう。それはよかったわね」
ボクの心の中が読めたら、早野女史はビックリするだろうなと思い、ボクは心の中でにやりと笑った。
「お早うございます!」
麻生みどりがやってきた。今日は麻生みどりの脳天気な明るさも気にならない。例え彼女が三雲と寝たとしてもボクの元に戻ってきた。今はボクのものだ。そう思うと彼女の笑顔も苦にならなかった。
「あら? 島岡先生、もういいの?」
「みんなで心配してくれてありがとう。たまには病気もしてみるもんだね」
「何とかは風邪を引かないって言うけど」
中井助教授が横からぼそりと言った。ボクは口を尖らせる。
「鬼の霍乱よね」
「何だよ。早野先生まで」
「ふふ。まあ、元気になってよかったわ。あなたがいないと研究が進まないんだから」
「ぜんぜんしてないんですか?」
「わたしも久しぶりに早く帰ったのよ。たまには休まないと」
「はあ・・・・」
ボクがいないうちに少しはデータ解析が進んでいると思ったのにがっかりだ。
午前中は病棟で働いて、昼食後は早速研究室へと向かった。準備を整えて森田早百合のいる開放病棟へ電話を掛けた。
「もしもし、島岡ですけど、森田早百合さんを研究室の方へ連れてきてください」
《森田早百合さんを?》
「そうだけど」
《何なさるんですか?》
「ちょっとデータを取らせて貰うんだよ」
《教授の許可は取ったんでしょうか?》
「取ってるよ。取ってると言うより、教授の依頼なんだ」
聞いてる? と受話器の向こうで囁く声がした。
《誰もそんな話は聞いていないそうですけど》
「そんなこと言ったって、ホントなんだよ。早くこっちへ連れてきてよ」
《ちょっと待ってください。教授に確認を取りますから》
「わかりましたよ。確認でも何でも取ってくださいよ」
《少々お待ちください》
受話器が机の上にでも置かれたのだろう。ナースステーションのざわめきが聞こえてくる。ナースコールが鳴り、若いナースが返事をしている。
(あれは確か渋井とか言う看護婦の声だ。内科のドクターとつき合っているとか聞いたが、今はどうなっているんだろう?)
《この電話、誰?》
《ああ、それ、島岡先生から。教授に確認を取ってるの》
《教授に何の確認なの?》
《森田早百合さんからデータを取るんだって。今まで教授以外のドクターが彼女の診察をしたことなんてないから確認を取ってるのよ》
《そう》
そんな会話が流れてきてからずいぶん待たされた。もう切ろうかと思った頃返事があった。
《島岡先生?》
「はい」
《今からそちらへ連れて行きます》
「了解。早くしてね」
《わかりました》
ゆうに10分は待たされた。さて今から森田早百合がこの研究室に来るまであとどれくらい待たされるだろうか?
森田早百合を伴って看護婦が研究室に姿を現したのはそれから20分を回った頃だった。
「すみません。遅くなりました」
「そっちのベッドの上に寝かせて」
「はい。早百合ちゃん、ここに寝るのよ」
身長よりも胴回りの方が大きそうな看護婦、小森朝子が森田早百合を研究室の中央に置かれているベッドの上に寝かせ付けた。森田早百合は、夢遊病者のようにそれに従って、ベッドの上に仰向けになっている。
ボクと麻生みどりが電極を取り付け始めるが、森田早百合は天井を見たまま身じろぎひとつしない。
電極の取り付けが間違いないかどうか確かめてコンピューターへの記録のスイッチを入れた。ボクはモニターをジッと眺める。
「よし。いいようだ」
学生のボランティアとは違いが一見してわかる波型が記録されていった。
「島岡先生。どれくらいかかります?」
「えっとねえ、2時間くらいかな?」
「2時間も掛かるんですか。じゃあ、わたし、病棟へ帰っていてもいいですか?」
「いいよ。別に用事はないし」
「じゃあ、終わったら病棟へ連絡してください。すぐに迎えに来ますから」
「わかったよ」
小森看護婦は、太った女がみんなそうであるように、腹を突き出し両足を広げた格好で研究室を出て行った。
「島岡先生。わたしもいなくてもいいですよね」
麻生みどりはすでにドアのそばまで行きながら言った。
「ああ、いいよ。3時過ぎには戻っていてくれよ」
「了解、了解」
小森看護婦とは対照的にスキップをするようにして麻生みどりは研究室を出て行った。
30分もした頃、ドアの開く音に振り返ってみると、早野女史だった。
「どう? こっちの方は?」
「うまく記録できてるようです」
「そう」
「早野先生の方はどうですか?」
「さっぱりよ。人間の記憶って、無秩序に記録されているらしいのね。どうしてきちんと思い出されるのか不思議でならないわ」
「ヘッダーがあると思うんですよね。何かそんなものはないですか?」
「ヘッダーねえ。ちょっとやってみるわ。・・・・ところで、森田早百合って美人だね」
ベッドの上に横たわっている森田早百合の顔を覗き込んで呟いた。
「そうですか?」
「見てないの?」
「いくら美人でも精神科の病人ですからね」
「それはそうかもしれないけど、ぜんぜん興味がわかない?」
「沸かないですよ」
今のボクは女には興味がわかない。興味があるのは三雲の動勢だけだ。
「へえ。そんなものなの?」
不思議そうな顔をして早野女史は隣の部屋へと戻っていった。
安静時のデータを取り終わって、ボクは刺激試験をするために森田早百合のそばに近寄った。
「まず光刺激だ」
森田早百合の目の前にストロボのような機械を設置してスイッチを入れた。眩しいのだろう、森田早百合は目を瞑った。しかし、そのほかの行動は何一つ起こさない。ボクはモニターの方を見やった。
「反応はちゃんとあるな」
光刺激を止めると、モニターに映し出される波形も変わった。
「ふん、ふん」
光刺激装置を片づけながら森田早百合の顔を覗き込んだ。伸び放題の髪の毛は看護婦が梳いて後ろでまとめていた。まったく手入れしていないやや太めの眉毛の下に、大きく真っ黒な瞳がある。形のいいちょっと小さめの筋の通った鼻。その下に口紅もささないのに真っ赤な唇がある。
「確かに美人だよな」
溜息が出るほどだ。これで、きちんと化粧でもして外を歩いたら、100人が100人とも振り返ってみるだろう。女に興味のないボクみたいな男以外は。そう思う。
「スタイルもいいみたいだし・・・・」
ピンクのダサイパジャマの上からも森田早百合のスタイルの良さが垣間見れた。
「まるで西洋アンティーク人形だな。しかし・・・・」
自我というものがない森田早百合は、何でもかんでもやってやらなければならない。食事は問題ない。問題は排泄だ。時間を決めてトイレにやらないとお漏らししてしまうのだ。しかも本人はまったく恥ずかしいとか言う感覚がないから、気の毒というか可哀相というかしかない。
今、森田早百合は、お漏らししてもいいように紙おむつをしている。顔とスタイルからすると、なんとアンバランスだなと思う。
「次は音刺激試験だな」
ボクはヘッドホンを森田早百合の耳に当てて音響装置のスイッチを入れた。これもきちんと反応があった。ボクはさらに嗅覚、味覚の試験を繰り返した。データが次々と記録されていった。
「さて・・・・」
最後は触覚の試験だがボクはちょっと戸惑った。看護婦か麻生みどりを呼ぶべきだろうかと。女性である森田早百合の身体に、男性であるボクが刺激を加えるのはちょっと躊躇われたのだ。しかし、ボクは医者で、彼女は患者だ。別に問題ない。そう考えて触覚試験を始めた。
小さなピンとか筆のような器具で森田早百合の足や手を触って反応を伺った。これもきちんと反応があり、データが記録されていった。
ボクはドアの方を見た。それから時計を見た。まだ午後2時過ぎだ。誰も入ってくる気遣いはない。
ここ数年、男としての欲望が表に現れたことはない。けれど、森田早百合を目の前にしてそれが頭を持ち上げてきたのだ。
ボクは森田早百合のパジャマのボタンを外した。ちょっと手が震えた。もう一度、ドアの方を見た。大丈夫だ。
パジャマの中に手を滑り込ませた。森田早百合はパジャマの下には何も身に着けていなかった。柔らかい素肌が触れた。そして柔らかい膨らみが。モニターに反応がある。彼女の乳首をつまんでみた。大きな反応があった。
「ちゃんと感じているよ」
人形のように横たわっているから、反応なんてないような気がしていたから、なんだか不思議な気がした。
下半身にまで手を伸ばそうとして、紙おむつのことを思い出して止めた。それと同時に、自分の愚かな行為に急に腹が立った。
「拒否しないことをいいことになんてことをしているんだ、ボクは・・・・」
恥ずかしさと後悔が渦巻き、ボクは慌ててパジャマのボタンを留めてやった。
刺激試験は終わりにして刺激を与えずに安静状態でしばらくデータを取ったあと、ボクは病棟へ電話した。
「島岡です。森田早百合さんのデータ取りが終わりました。迎えに来てください」
《すぐに行きます》
今度は、何分もしないうちに迎えが来た。まるで部屋の前で待っていたみたいに。ボクは少なからず頭に来たけれど黙っていた。
(女を怒らせるな。不快な思いをさせるな)
呪文のように頭の中で唱えた。
「うまくいきました?」
「いいデータが取れたよ」
「治りますか?」
「はっ?」
「治療に役立てるんでしょう?」
それが当然というような顔で看護婦がボクを見た。
「あ、ああ。勿論だよ。きっとよくなる。よくなるよ」
「島岡先生。期待してますから」
看護婦はボクに満面の笑顔を向けてきた。
「わかった」
森田早百合の手を引いて出て行く看護婦の後ろ姿を見送りながら、去年の忘年会のことを思い出した。
今、森田早百合の手を引いている看護婦の名前は、松本紀美子。去年の春入った新人看護婦で、まずまずの美人だ。
「今年はお世話になりました」
そう言いながらボクのコップにビールを注いでくれたのだが、その様子がどうもおかしかった。一通りお酌して回った後、ずっとボクのそばにいて何人かで話しているのを聞いていたのだ。
「松本ちゃん、島岡先生にホの字?」
同僚に言われて頬を染めていた。ボクに気があるようだった。ボクは気がつかない振りをしていた。迫られたって困るのだ。三雲と関係を持って以来、ボクは女に興味が向かなくなっていたからだ。今日、森田早百合にあんなことをしてしまったのは、異例中の異例と言ってよかった。
「島岡先生、どうなった?」
そんな早野女史の言葉に、思考が中断された。
「あ、うまく取れましたよ」
「こっちの方、うまくいかないのよ。ちょっと手伝ってくれない?」
「いいですよ」
ボクは、森田早百合のデータを分析プログラムに載せてから隣の部屋へ移動した。隣の部屋では、早野女史と研修医の井原がモニターを前に腕組みをしていた。
「まったくだめですか?」
「だめねえ」
早野女史は溜息をついた。
「何とかなるかしら?」
「やってみましょう」
ボクはモニターの前に座って、キーボードにコマンド打ち込んだ。
「ふうん・・・・」
ヘッダーらしいものはないようだ。
「ダメでしょう?」
「ちょっと待ってくださいよ。一朝一夕には行きませんよ」
少し言葉を荒げて答えたので、早野女史は黙り込んだ。ボクは、さらにいくつかコマンド打ち込んだ。
「これも違うか・・・・」
「諦めましょう?」
「いや、ちょっと待ってください。ええっと・・・・」
ボクはコマンドを打ち続けた。
「先に帰るわよ」
「えっ? もうですか?」
「もうですかって、もう8時過ぎよ」
「えっ! 8時過ぎ?」
モニターから目を離して時計を見ると短針が8の位置を示していた。アッという間に4時間が経過したことになる。
「島岡先生ももう諦めて明日にしたら?」
「いや、何とかなりそうなんだけど」
「そう言いながら、4時間よ。今日中には無理よ」
「いや、もう少し・・・・」
「やるならやって。わたしは帰るからね」
「どうぞ。もう少しやってから帰りますから」
「じゃあ、お先に」
すでに着替えをすませていた早野女史は手を振って研究室を出て行った。ボクはコマンドを打ち続けた。
「なんだ。簡単なことじゃないか」
早野女史が帰って30分もしないうちに人間の記憶の謎が解けた。被検者から記録された記憶を年代順に並べ替えることができた。
「同じ方法で他のデータも並び替えられるかな?」
ボクは、他の被検者のデータを引き出すことにした。
「学生の記憶を見たって面白くないな。・・・・確か、早野女史のデータもあったよな。夜な夜などこへ出かけているんだろうか?」
知的財産を共有するという教授の目的は素晴らしいことだ。しかし、今ボクがやろうとしているように、今回の研究は、他人のプライバシーを侵害する可能性がある。
ちょっとどきどきしながら、早野女史のデータをメモリーに載せた。コマンドを打ち込むとデータが並び代わる・・・・はずだ。
あまり大量のデータを使うとボクまで狂ってしまう。最後の方の一週間分程度のデータをボクの頭の中に送り込んでみた。
映像がボクの頭に浮かんだ。成功だ。しかし音声が乗っていない。完全な成功とは言えない。けれど、知識だけを得るという目的からすれば、これで充分かもしれない。
早野女史の顔が真正面に見えた。いつもの早野女史の顔とは違うような気がした。口紅を持った左手が口元へと動く。早野女史が鏡に向かって化粧をしている場面だ。
「いい化粧品を使ってるな」
コマンドを打つと早送りになった。車に乗り込み大学に着く。着替えをして医局に顔を出す。いつもの風景だ。ボクがいた。妙な気分だ。気が狂わないかとちょっと心配になる。しかし、そんなことを思えると言うことは気が狂っていない証拠だ。
ボクにさよならを言って大学を出る。車のメータは80キロ。ちょっと飛ばしすぎだよとボクの足がブレーキを踏む動作をした。体が早野女史のデータに引きずられる。危ないなと思いながらも、止められなかった。
車はあるマンションの駐車場へ入っていった。早野女史のマンションへは行ったことがある。そのマンションとは違う場所だ。
ドアが開いた。ボクはギョッとした。ドアを開けたのが、・・・・教授だったからだ。その教授とキスをした。早野女史が教授とキスしているわけだけど、早野女史の記憶を垣間見ているボクにとっては、ボクが教授とキスしたような錯覚を覚えた。
シャワーを浴びる早野女史。胸にバスタオルを巻き付けただけで、教授の待つベッドルームへと入っていった。
ボクはコマンドを入れて中断した。
「信じられない。あの早野女史と教授が・・・・」