第6章 嫉妬するボク

 ボクは壁に掛けられた時計を見上げた。針は11時過ぎを指していた。
 「いつもなら、もうここに来ている時間なのに・・・・」
 三雲の顔を思い浮かべた。そして、嬉しそうな麻生みどりの顔・・・・。

 今日の夕方のことだった。データ整理の合間にボクと早野女史は医局に戻ってコーヒーを飲んでいた。そこへ帰り支度をした麻生みどりがニコニコと笑顔でやってきた。
 「あら? みどりちゃん、何かいいことでもあったの?」
 「ふふ。わかります?」
 「わかるわよ。気合いの入った化粧をして、そんなにニコニコしてたら」
 早野女史の『気合いの入った化粧』と言う言葉を聞いて、ボクも改めて麻生みどりの顔を見た。確かにいつもとは違って『気合いの入った化粧』をしていた。
 「へへ、これからデートなの」
 「デート? 誰と?」
 「ふふふ。外科の三雲先生と」
 三雲先生とと言う言葉に、ボクは動揺を隠せなかった。
 「う、嘘だろう?」
 「それがホントなのよ」
 そんな馬鹿なと思いながら、麻生みどりの顔を見た。その笑顔は、間違いなく麻生みどりが三雲とデートすることを示していた。
 「よくもまあ、みどりちゃんの誘いに乗ったわねえ」
 「わたしが誘ったんじゃないのよ。三雲先生の方から誘われたのよ」
 ガツンと頭をぶん殴られた気分だった。三雲が麻生みどりをデートに誘った!? 頭がくらくらしてきた。
 「へええ、信じられないわね」
 「早野先生! それって、どういう意味ですか?」
 「え? ああ、まあ、気にしないで」
 そんな早野女史の言葉にちょっと不満そうな表情を見せたけれど、麻生みどりはすぐに元の笑顔に戻った。
 「そう言うことですから、今日は時間通りに帰らせていただきますので、よろしく!」
 そう言い残すと返事も待たずに医局をさっさと出て行った。ボクは力が抜けたようにぼんやりと椅子に座っていた。
 「あら? 島岡先生、どうしたの?」
 「あ、いえ。何でもありません」
 「みどりちゃんを取られちゃって意気消沈?」
 「そ、そんなんじゃあありませんよ」
 「動揺しているわよ。そんなんだったら、早くみどりちゃんを誘えばよかったのに。でももうだめね。みどりちゃん、三雲先生だったら、今晩はきっとホテルまで行っちゃうわ」
 そんな早野女史の言葉にボクは完全に打ちのめされていた。研究室に戻っても何も手につかず、結局午後8時にはマンションに戻ってきたのだが・・・・。

 「デートって言ったって、ただ食事でもするくらいだよな」
 そんなことを呟きながらボクは三雲がマンションに戻ってくるのを待っていた。しかし、9時になっても10時になっても三雲はやってもない。携帯に電話を掛けてみたけれど、どうやら電源を切っているようだ。
 『みどりちゃん、三雲先生だったら、今晩はきっとホテルまで行っちゃうわ』と言う早野女史の言葉が、頭の中をぐるぐると駆けめぐった。
 「そんなことないよね。もうすぐ戻ってくるよね」
 そんなことを思いながら、ボクはほとんど5分おきに時計を見ていた。そして、午後11時になったのだった。

 「はあぁ・・・・」
 もう一度時計を見た。午後11時8分だった。もう一度携帯に電話してみた。やはり女性のアナウンスが流れてきた。
 ぼんやりとベッドの端に腰掛けて床をジッと見つめていた。床の上にぽたりと水滴が落ちた。それはボクの目から流れ落ちた涙だった。涙は止めどなく流れた。
 「三雲の馬鹿・・・・」
 ふと顔を上げると涙で化粧の乱れたボクの顔が鏡に映っていた。
 「ひどい顔・・・・」
 ボクは立ち上がってバスルームへ行き、顔を洗うとドレッサーの前に座って化粧し直した。麻生みどりよりも気合いの入った化粧を。

 午前0時を回ったけれど三雲は戻ってこない。ボクは待ち続けた。待ちながらボクは想像を巡らせる。三雲はなんと言って言い訳するだろう。
 「いやあ、飲み過ぎちゃってスナックで寝てしまって」
 「町で同僚と偶然出会っちゃって」
 イヤそんな言い訳はしないな。黙って部屋の中に入ってきて、たばこを吹かす。ただそれだけ。ボクが何か言うのを待っている。
 ボクは三雲を責め立てる。泣き叫ぶ。・・・・イヤ、その前に三雲に優しい顔を向けられたら、ボクはなんにも言えなくなってしまう。
 ボクに近づいてきて、ボクの肩を抱きキスしてくる。そうしたらボクは三雲を許してしまう。
 きっと、そうなってしまう。

 4時の時報が鳴ったのまでは覚えている。いつの間にかボクは眠り込んでしまっていた。結局、三雲は戻ってこなかった。
 「三雲とはもうこれで終わりになるかもしれない」
 そう思うと悲しかった。本当のところを言えば、三雲との関係をもう終わりにしたかった。イヤ、終わりにしなければならないのだ。こんな関係をずるずると続けていていい訳がない。ボクはどうなっても構わないけれど、三雲は大病院の息子で、教授の信頼も厚い。将来のある奴だ。だから、終わりにしなければならない。いつもそう思っている。だけど、三雲の優しさに触れるとどうしても思い切れない。
 ボクはふらふらと立ち上がって女装を解きシャワーを浴びた。悲しみが全部洗い流されるまで、ずっとシャワーの湯を浴びていた。
 「そう言えば・・・・」
 あの日のことをボクは思い出す。後藤亜由美とホテルに行った夜のこと、ベッドの中から後藤亜由美はどこかへ電話していた。あれは、尚子への電話だった。尚子は、ボクと後藤亜由美がホテルのベッドの中にいると知ってどれほど悲しんだことだろう。嘘だ嘘だと思いながら、一夜を過ごしたことだろう。そんな彼女の気持ちもわからず、出来心とはいえ尚子を裏切ってしまった。三雲がボクを裏切ったというのはまだ想像に過ぎないけれど、あの時はボクが尚子を裏切ったのは間違いのない事実だった。尚子の悲しみは今のボクから想像もできないほどのものだったに違いない。
 「ホントに馬鹿なことをした」
 後悔が渦巻く。もう取り返しはできないのだけれど・・・・。

 ともかく大学へ行かなければ。二時間ほどしか眠っていなかったけれど、頭は妙にさえていた。ただ、空腹なのに何も食べる気がしない。コーヒーやミルクさえも喉を通りそうもなかった。いつものジャケットを羽織るとマンションを出た。
 車の窓から見る人々はみんな楽しげに見えた。
 「わあっ!」
 追突しそうになり慌てて急ブレーキを踏む。
 「三雲のことは、今は忘れよう。考えたって始まらないのだから」
 ハンドルを切った。

 ジャケットを白衣に着替えて医局に行くと、いつものようにコーヒーが沸いていた。珍しく早く来ていた早野女史がカップをボクに手渡してくれた。苦かった。ひとくち口に付けたところでカップをテーブルの上に置いた。
 「おはよっ!」
 振り向くと麻生みどりの笑顔があった。早野女史が麻生みどりに声を掛けていたけれど、ボクはそれを聞きたくなかった。立ち上がって病棟へ向かった。
 「三雲先生とのデートは楽しかった?」
 「もちよ!」
 そんなふたりの会話が医局から遠く離れた廊下まで響いてきて、ボクは耳をふさぎながら走った。

 夢遊病者のように病棟をうろうろと歩き回り、一心にカルテを書いた。まるでボク自身が精神病者のようだなと思った。
 「島岡先生? どうかしたの? 今日は変よ」
 肩をポンと叩いたのは、勿論早野女史だった。
 「・・・・なんでもありません」
 「なんでもないことはないでしょう? やっぱりみどりちゃんのことが気になるの?」
 「そんなんじゃないんです」
 「そんなんじゃなかったらどうしたの?」
 「もう、いいから、放っておいてください!」
 あまりのボクの剣幕に、早野女史は驚いたように口をつぐんでしまった。気まずかった。だけど、なんと言っていいわけをすればいいというんだ。

 昼までは何とかごまかして働いた。だけど、気が滅入ってそれ以上大学にいられなかった。体調不良を理由にボクは早退した。

 ベッドの上でぼんやりと考えた。三雲と麻生みどりがデートをしたのは間違いない。けれど、ホテルまで行ったとは限らない。
 「今朝、もう少し麻生みどりの話を聞いておけばよかったかな」
 そう思ったけれど、もしホテルに行ったというような話が麻生みどりの口から飛び出てくれば、ボクはショックで立ち上がれなくなっていただろう。あの場にいるわけにはいかなかった。
 「確かめる手だては・・・・」
 麻生みどりに聞く? とんでもない。先生には関係ないでしょうと言われるに決まっている。それでは三雲に聞く? それができたらこんなに悩むことはない。
 「麻生みどりと三雲がデートしたことは知らなかったことにしよう。そうして、いつものように三雲を出迎えるのだ。そうだ。そうしよう」
 そんな考えに落ち着くと急に眠たくなってボクはベッドの上で眠り込んだ。

 猛烈な空腹を覚えて目が覚めた。ハッとして時計を見ると午後7時前だった。冷凍室からカレーと飯を取り出して解凍して腹ごしらえすると、直ちに女装に掛かった。
 バスルームで体を入念に洗い、ブローした髪の毛を真ん中で分け直した。人工乳房を貼り付けてブラをする。お揃いの小さな花柄のショーツを穿いた。今日はパンストを履いた。それから、先々週三雲が買ってくれた真っ白なワンピースを着た。
 三雲が好きだといったハーフウイッグをかぶってから化粧をした。今日はワンピースに合わせて清楚なお嬢様風にまとめた。
 鏡に映るボクは、ちょっと悲しげな深窓のお嬢様という雰囲気だった。

 午後9時ちょっと過ぎチャイムが鳴った。
 「来た・・・・」
 もしかしたら、もう来ないかもしれないと持っていたから嬉しくて涙が出た。玄関ドアに走り寄ってドアを開けると、三雲が疲れたような顔をして立っていた。
 「お帰り」
 「ああ」
 それだけ言って靴を脱いだ。ボクは黙って三雲のそばに立っている。
 「どうした?」
 どうしたはないでしょう? 麻生みどりと寝たの? と喉まででそうになったけれど飲み込んだ。
 「疲れているみたいだけど・・・・」
 「ああ、お疲れたよ」
 「何があったの?」
 「麻生みどりって言ったかなあ、おまえんとこの研究助手」
 「か、彼女がどうかしたの?」
 「一晩中ベッドの中で責められてさあ、一睡もしていないんだ」
 ボクはそんな三雲の言葉に目を見開いた。涙がボロボロと流れ落ちてきた。
 「そんなことを言うためにここに来たの?」
 「彼女、すごいの何のってなかったよ」
 三雲はさらに追い打ちを掛ける。ボクは耳をふさいでリビングに駆け出した。ソファの上に身体を投げ出してしゃくり上げるボクに三雲が近づいてきて肩を抱いた。ボクは嫌々をする。
 「そんなに泣くなよ」
 ボクはただ泣き続けた。
 「嘘だよ。嘘」
 「えっ?」
 「冗談だよ。俺があんな女を抱くわけがないだろう?」
 「でも、昨日の夜、彼女と一緒だったんでしょう?」
 「俺と彼女だけじゃなかったんだぞ」
 「はあ?」
 「うちの伊東って言う男が、おまえんとこの教授秘書に目を付けて、何とかセッティングしてくれって言われたんだ。で、うちの研究助手が、麻生みどりと同期で仲がよかったから麻生みどりを通じて、サッちゃんとか言う教授秘書を食事に誘ったわけだ。ひとりじゃイヤだって言うんで、俺と伊東と徳田の3人と、女3人で食事をしたって訳だ」
 麻生みどりの奴、三雲とデートだなんて言いふらして・・・・。まったくなって女だ。
 「食事をしただけなの?」
 「ああ、そうだ」
 「それだけ?」
 「それだけさ」
 「じゃあ、どうしてそのあと電話くらいしてくれなかったの?」
 「そろそろお開きにしようって言う頃になって、3人のポケットベルが一斉になったんだよ」
 「ポケベルが?」
 「ああ。緊急手術があるから戻って来いってね」
 「緊急手術・・・・」
 「他のふたりの目があるから、おまえに電話もできずにタクシーで大学へ直行さ」
 ボクは黙って三雲の話を聞いていた。どこかに嘘はないだろうかと。
 「大学に戻って午後11時から手術だよ。3時まで掛かって、そのあとも術後の処置でまったく眠れず、夜が明ければいつもの仕事が待っていて、解放されたのがさっき。午後8時って訳だ」
 「ホントなのね」
 「嘘言ったって仕方がないだろう?」
 嘘には聞こえなかった。しかし、麻生みどりの笑顔はただ単に食事を一緒にしただけとは思えず、ボクは疑いを捨てきれなかった。
 「麻生みどりと寝ただなんて言わなくてもいいでしょう?」
 「悪かったよ。だけど、だいたい、おまえが悪いんだぞ」
 「どうして?」
 「このところ、いくら誘っても忙しいの一点張りで」
 「ホントに忙しかったんだからしょうがないじゃないの」
 「前はいくら忙しくたって、俺が誘った日には必ず時間を空けたじゃないか。それが今回に限ってはとりつく島もなかっただろう?」
 「一番大事な時期だから。それはわかっているでしょう?」
 「わかってはいるけどなあ・・・・」
 「もしかして、誘っても乗ってこないわたしへの当てつけなの?」
 「・・・・もういいじゃないか。今度のことは俺も悪かった。謝るよ。この通り」
 三雲はボクの前に両手をついて頭を下げた。こうなると事実関係はどうあれ許すしかないのだ。
 「もういいわ。わたしもできるだけ時間を作るから」
 そう言うと、三雲は笑顔になってボクの太股を撫でるようにしながら起きあがってボクの横に座った。
 「久しぶりだな」
 三雲の手がボクのお尻を撫で回す。三雲の熱い吐息が耳にかかる。ボクはもうそれだけで行きそうになった。
 「しばらく使っていないからこんなになっているよ」
 三雲はボクの手を自分の股間へと導いた。そこははち切れんばかりになっていた。麻生みどりと三雲のことなんかどうでもよくなっていた。今はボクのそばにいてくれてボクのものだ。ボクは欲望の命ずるまま、一匹の雌になっていた。