ボクの住むマンションの住人は、ボクを含めて近所づきあいを望まない連中ばかりだ。誰がどこに住んでいるなんてみんな無関心だ。だから、廊下で出会ってもほとんど挨拶することもない。気が向けばちょっと会釈する程度だ。そう言うわけだから、ボクの部屋から三雲が出て行こうとどうしようと関心を持つ人間はいない。だけど、やっぱりちょっと気になって、ボクはドアを少し押し開いて廊下に誰もいないことを確かめた上で部屋の外に足を踏み出す。
上から降りてきたエレベーターのドアが開いた。サラリーマン風のボクよりちょっと年上らしい男が乗っていた。彼もボクには関心を示さず、エレベーターの表示をジッと見上げていた。
そう言えば、ヒトはエレベーターに乗るとどうして表示をジッと見つめるのだろうか? 上りの時は、自分の降りる階を間違わないようにと注意を払うというのは理解できる。だけど、下りのエレベーターでもみんな表示を見つめる。癖? 違うな。恐らく一緒に乗った人たちと話をしたくないためだろう。ボクはそう思う。
一階でエレベーターのドアが開くと、彼はそそくさと玄関へ向かって歩いていった。彼はバス通勤だ。表通りに急ぎ足で向かっている。ボクは裏の駐車場へと向かった。
「そろそろ洗車しないと腐っちゃうな」
薄汚れたマークUに乗り込む。エンジンを掛けると、FMラジオから井上陽水の『コーヒールンバ』が流れてきた。こんな歌、陽水には似合わないなとボクは思う。
大学の門をくぐり職員駐車場へと車を進める。すでに半分くらいが埋まっていた。当直を除いてこの駐車場に一番乗りしてくるのは麻酔下の連中だ。彼らの朝は早い。その日の麻酔の準備があるからだ。次は外科系の連中だろうか? それに対してボクたち精神科の医者はそんなに早く来る必要はない。必要はないけど、教授が結構早く来ていろいろと用事を言いつけてくることがあるので、いわゆる始業時間よりもかなり早く来る。
医局に入るのは、ボクはだいたい3番目前後。最初に来るのは、研修医の井原か、研修が終わったばかり3年目の三浦。このふたり以外に早く来るのは、麻生みどりくらいだ。
ジャケットを脱いで白衣に着替えると、井原か三浦が沸かしたコーヒーをカップに注いで、テーブルの上に置かれている新聞に目を通す。
そうこうしているうちに、早野女史、中井助教授、松本助手たちがやってきてコーヒーを飲みながら雑談を始める。勿論、中井助教授は部屋の隅にいて、ほとんど窓の外を見ているか天井を見ていて、ボクたちに目を合わそうとしない。それでも、医局で医局員とコーヒーを一緒に飲むようになっただけましな方だとちょっと前に松本助手が言っていた。
電話が鳴り、麻生みどりが受話器を取った。
「はい。もう来てるわよ。わかったわ。すぐにそっちへ行くように伝えるわ」
受話器を置きながら、麻生みどりは早野女史とボクに向かって言う。
「教授秘書のサッちゃんからよ。早野先生。島岡先生。教授がお呼びだそうよ」
ボクと早野女史は顔を見合わせた。
「なに? 朝っぱらから?」
口をとんがらせて早野女史がボクに向かって言う。
「データを見せろって言うんじゃないの?」
肩をすくめてボクが答える。
「昨日の今日なのに、まだできるわけがないじゃん」
「でも、きっとそうですよ」
「そうか。他に用事はないしね」
仕方ないというような諦めの表情を浮かべながら、早野女史は席を立った。ボクもそれに従って医局を出た。
精神科の医局の向かい側には神経内科の医局がある。精神科は目に見えない精神を扱うのに対して、神経内科の方は文字そのもの、神経の病気を扱う。日本語で『神経がおかしい』と言うと精神科になってしまうけれど、医学で言う『神経の病気』とは、脳髄から筋肉などに命令を伝えたり、感覚を受け取ったりする神経そのもの病気のことである。
さて、その精神科と神経内科の間にある廊下を奥の方に進んでいくと向かい合わせに教授室がある。左手の教授室が精神科の教授室なのだが、直接ドアを叩くわけにはいかない。もうひとつ手前のドアをノックする。
「はい、どうぞ」
教授秘書のサッちゃんこと、飯干幸子の明るい声が戻ってきた。早野女史がドアを開き、ボクたちは中へと入った。
「いい?」
教授室へ通じるドアを頭でさして入ろうとするとサッちゃんが立ち上がって制した。
「ごめん。さっき医局に電話したあと来客があったの」
「来客? こんな早くから?」
サッちゃんは肩をすくめた。
「誰?」
「さあ? わたしの知らないヒト」
サッちゃんはこの春から教授秘書になった。まだ半年もたたないから、大学内部の人間しか知らない。と言うことは、外部からの来客と言うことだ。いったい誰だろうなとボクは思う。
「そう。じゃあ、ここで待たして貰うわね」
「お茶でも入れるわ。コーヒー、お茶、どっちがいい?」
「コーヒー、飲んできたから、お茶にするわ。島岡先生もお茶でいいでしょう?」
「あ、うん」
コーヒーにするって言ったら一悶着起こりそうなので、そう答えて椅子に腰掛けた。ともかく女には逆らうな。これがボクが大学を卒業して最初に得た教訓だ。
教授室の中から、ぼそぼそと何やら話している声が聞こえてくるけれど、声を落としているのか内容はよくわからない。隣にいる女どもがピーチクパーチクやっていなければ、あるいは聞こえたのかもしれないけれど、教授の話などに興味もなかったから、ボクは新聞を取り上げて眺め始めた。
新聞は、医局にあるものと同じ毎日新聞。一度目を通したのに、もう一度読んでみると、こんな記事が載っていたのかなと思うようなものに行き当たる。端から端まで読んでいるつもりなのに、どうしてなのかわからない。こう言ったところが人間の精神の奇妙なところだ。
「邪魔したな」
そんな声が聞こえてきて教授室のドアが開き、お客が出て行った。早野女史は立ち上がって秘書室のドアを少しすかして出て行くお客の姿を見ている。早野女史は、ホントに野次馬根性が旺盛な人だ。
すぐに教授室と秘書室の間のドアが開き、片岡教授が顔を出した。
「待たせたな」
「あ、いえ」
早野女史は慌ててドアを閉めボクのそばに駆け寄ってきた。
「データの件だが・・・・」
デスクに向かって歩きながら、早速話し始めた。ボクたちは教授のあとについて部屋に入って耳を傾けた。
「分析は早くなったかね?」
「教授、昨日設置されたばかりですよ。まだ分析までは」
「設置されて12時間もたってる」
早野女史はボクの方を振り返って両手を広げた。
「これまで貯めているデータを分析すれば、何らかの結論が導き出せたんじゃないのか?」
ホントはそれをやるはずだったんだけど、ボランティアがサンプリングに来てしまったから、そちらをやってしまったのだ。しかし、そんなことを言ったら、サンプリングなど延期して分析をやるのが優先だとどやされるに決まっていた。
「それがですね。今度のスパコンは性能が良すぎて、以前のデータではデータ量が少なすぎて分析にはかえって不向きなんです」
「と言うことは、今までの努力は水の泡と言うことか?」
教授は、ちょっと険しい顔つきでボクを睨んだ。
「いえ、まったく無駄というわけではないです。これから収集したデータを補完するのには役立つと思います」
「・・・・そうか。補完するだけの意味しかないか。もっと早くあのスパコンを入れて貰えば、無駄をせずにすんだのに。
「ごもっともです」
「で、ある程度の見通しが立つまでにはどれくらいかかる?」
「そうですね。ボランティアの集まり方次第です。サンプリングさえできれば、分析はほとんど自動でできますから」
「およその予定は?」
「これまでのサンプリングの進み具合から考えて、約2ヶ月くらいかと」
「2ヶ月か。・・・・まあ、いいだろう。できるだけ早急にデータを集めて分析してくれたま」
「わかりました」
「じゃあ、いいぞ」
「失礼します」
頭を下げてボクたちは教授室を退出した。
「島岡君、助かったわ。わたしひとりだったら、上手く答えられなくて、絶対にどやされていたわ」
ホッとした顔をして早野女史がボクを見上げてきた。
「たったあれだけのことだったら、電話でもいいのに」
「そうですよね」
「ところで、前のデータはホントに役に立たないの?」
「そんなことないですよ。あれでもある程度の分析できると思いますよ」
「でも、さっきはそんなこと言ってなかったでしょう? 新たなデータを補完するくらいしかできなって」
「そんなこと言ったら、その分析結果を見たいというに決まっているでしょう? まだだって言ったら、雷が落ちるのは目に見えてたじゃないですか」
「はあ、なるほど。島岡君、あなた上手いわね」
「誤魔化しにはなれていますから。でも、新たなデータの収集も必要ですよ。より正確な分析をするためには」
「そう。それなら、今日から早速サンプリングに励まなきゃ」
「今日はふたりでしたね」
「ええ」
「じゃあ、頑張りましょう」
「サッちゃん、またね」
ボクはサッちゃんに手を挙げて挨拶して廊下に出た。廊下に出るなり、早野女史が唐突に話し始めた。
「あの人、確か、教授のお兄さんだったと思うけどな」
「あの人って、さっき教授室にいた人のこと?」
「ええ。あの背格好。歩き方。間違いないと思うわ」
「なにしている人? 教授のお兄さんって? 医者なの?」
「医者じゃないわ。確か建設関係の社長をしているとか言ってたわね」
「建設会社・・・・。へえ、ぜんぜん畑違いだね」
「教授の実家らしいわよ」
「へえ。じゃあ、教授が畑違いの職業に就いたって訳だね」
「そう言うことね」
「教授のお兄さんかあ。なにしに来たんだろう?」
「さあ」
建設関係と言えば、不況のあおりを一番受けている業種だ。金銭的なことでやってきたのかもしれない。
「あ、忘れてた。今日から、学生が来るんだったっけ」
早野女史が不愉快そうな顔をした。ボクも思い出した。ポリクリと呼ばれる、医学部の学生の実習が始まるのだった。
「あ、そうですね。また、子守をしなきゃいけないんですね」
「わたしたちもそうやって勉強させて貰ったんだから、仕方ないわね」
「そうですね」
医局に戻ると、早野女史とボクが今日の学生の相手をするように医局長である松本助手から言い渡された。
病棟へ行くと、真新しい白衣を着た学生が4人、しゃちほこ張って待っていた。
「今日一日あなた達の面倒を見ることになった早野です。こちらは島岡先生。よろしくね」
「よろしくお願いします」
学生たちは一斉に頭を下げた。学生たちの名簿を見ると、4人とも現役らしい。去年は6浪したという、ボクより年上の学生がいてちょっとどぎまぎしたけれど、今年はそんなに年を食った学生はいないようだ。
「じゃあ、早速開放病棟から回診しましょう」
『治る患者なんているのか?』と三雲にいつも言われているけれど、治って退院する患者は確かに少ない。今入院している患者はここ数ヶ月変わっていない。早野女史がカルテを見ながら学生たちに説明している内容は、ボクにはみんな暗記できている。
「この次の患者さんは、ちょっと特殊な病態なの。記憶ってことについての脳内での仕組みをあとでよく勉強してね」
そう言いながら早野女史は、個室のドアを開けた。ベッドの上に白髪の交じった髪の毛を丁寧に撫でつけた品のいい男性が座っていて、新聞を読んでいた。
「渡辺さん、おはようございます」
「おはようございます」
「体調はいかがですか?」
「いいですよ」
そんな受け答えを聞いただけでは、この渡辺という患者のどこがおかしいのかわからない。
「何か面白い事件がありましたか?」
渡辺さんは、新聞に目を落とした。ボクたちは渡辺さんの返事をじっと待った。しばらくすると、渡辺さんは、新聞をめくり始めた。目にした記事を一心に読みふける。
「渡辺さん、面白い記事はありましたか?」
そんな早野女史の問いに対して、渡辺さんは目を上げボクたちに初めて気づいたというような表情を見せた。
「面白い記事? そうですね・・・・」
再び新聞に目を落とす渡辺さん。そうしてから、ちょっと時間がたつと新聞をめくって別の記事を読み始めた。
「さあ、次に行きましょう」
呆気にとられている学生たちを引き連れて、ボクたちは個室を出た。
「わかったかな?」
「なんか変なのはわかりますけど、どこがおかしいんですか?」
学生のひとりが聞いた。
「あの人は、元弁護士さんでとても優秀だった人なの」
学生たちは、渡辺さんが元弁護士と聞いて納得したような顔をした。
「ある日、勝訴した訴訟のお礼と言うことで接待を受けたのね。で、酒気帯びで車を運転して帰ったらしいのよ」
「事故かなんかを起こしたんですか?」
「事故と言えば事故だけど、ふつうの事故じゃないのね。渡辺さん、無事自宅に帰り着いてガレージに車を入れたまではよかったんだけど、そのまま車の中で眠り込んでしまったのよ。車のエンジンを掛けたまま」
「と言うと、排気ガスか何かで?」
「あなた、やるわね。今までそれに気づいた学生はいなかったわ」
学生は照れながら頭をかく。
「そうなの。閉め切ったガレージの中に排気ガスが充満して一酸化炭素中毒に陥ったの。奇跡的に命は助かったのだけど、記憶の中枢がやられてしまったのね。それで、新たな記憶がまったくだめなの。わたしが質問したでしょう? その時は覚えているんでしょうけど、数秒後には質問されたこと自体を忘れてしまうの」
「数秒後!」
「そう。昔の記憶は残っているから、新聞は読むことはできるけど、新たに読んだ内容はまったく覚えられないのね」
「どうなるんですか?」
「どうもならないわ。一生あのままよ」
学生たちは顔を見合わせ溜息をついた。渡辺さんは、ボクが学生だったときからあの個室に入院している。可哀相な人だ。渡辺さんのカルテには、『記憶障害・瞬間人』と言う病名がついている。
「次は閉鎖病棟へ行きましょう」
病棟を奥へと進み、鉄格子のはまったドアのそばに立った。中にいた看護士が鍵を開けてくれる。閉鎖病棟と言うことで、学生たちの表情に緊張が走る。
「閉鎖病棟って言っても、いわゆる気違いって言う患者さんがいる訳じゃないから、安心しなさい」
そう言いながら早野さんは学生たちを引っ張っていく。
「この窓から覗いてみて」
学生たちは交互に小窓を覗き込む。
「じっとしてますね」
「そう。シゾのカタレプシータイプね。完全に人格が崩壊しているわ。ああやって座らせていると、何時間でもジッと座っているわ」
「へえ・・・・」
次の個室を覗き込む。
「この部屋の患者さんは、被害妄想がひどくて、近寄るとけがをするから入らない方がいいわ」
そう言われて、学生たちは身を引くようにして次の部屋へと急いだ。次の部屋は4人部屋だ。年寄りの女性患者ばかりがベッドの上に寝ていた。
「調子はどうですか?」
入り口近くのニコニコとしてただ笑っているばかりの老婆。学生たちは気持ち悪そうにする。その部屋の奥にいた老婆が、饅頭をひとつ取り出した。
「これ、くっちょくれ。うまいけん」
そう言いながら饅頭を学生に差し出した。
「あっ! 貰っちゃだめよ」
早野女史がそう言ったときには、差し出された学生が饅頭を受け取っていた。その瞬間、老婆が泣き出した。
「あああ。饅頭、取った。こん人が、儂の饅頭、取った。取った。取った」
慌てて饅頭を老婆に戻したけれど、老婆は泣き叫び続けた。
「先に行っておけば良かったわね。しばらく泣くけど仕方ないわ」
部屋を出ようとすると、学生のひとりが右の出口付近にいた老婆に捕まった。老婆は訳もなく学生の腕をたたき続けた。振り払った瞬間に老婆はベッドの柵で腕を打ったらしく、痛い痛いと泣き始めた。
学生たちはパニック状態で部屋を飛び出した。これで、精神科に入局する学生がまた減ったなとボクは心の中で思っていた。
すべての部屋を回り終えて閉鎖病棟の中央の庭を横切って出口に向かっていると、庭で日向ぼっこをしていた女性患者のひとりがものすごい勢いで走り寄ってきた。何を思ったのかその女性患者は、学生のひとりの腕にすがりついて離れない。
「気に入ってもらえたようね」
早野女史がにやりと笑って言うと、学生は困り果てたような顔をした。
「どうしたら・・・・」
「しばらく相手をしてやれば?」
「相手って?」
「一緒に日向ぼっこしてやったらいいわ」
「えええ・・・・」
困惑の表情が絶望に変わった。その学生はこの日、午前中ずっとその女性患者に捕まっていた。明日からも閉鎖病棟に来るたびに捕まって相手をさせられることだろう。毎年、一人はあの患者に気に入られる学生がいる。ボクが学生でここに来たときには三雲が犠牲になった。
(そう言えば、あの患者もずいぶん昔から入院しているな)
午後は新たな入院患者があって、ボクはその手続きに時間をつぶした。早野女史は学生相手に結構楽しんでいたようだ。
午後4時を回った頃、ボクは研究室へ行き、待っていた学生ふたりからサンプリングをした。二人目のサンプリングが始まった頃早野女史が研究室にやってきた。
「ホント可愛いわね、学生は」
「そうですか?」
「いじめるのが楽しいわ」
「サディストなんだから」
「サディストで悪かったわね」
「サディストは結構マゾだって聞きますけど」
「そ、そんなことないと思うけど」
図星だったのか、早野女史はちょっと狼狽えた表情を見せた。ボクは話題を変える。
「あしたもふたりでしたね」
「あ、そう。そうね。確かふたりだった」
「新しいデータが5人になるから、前のデータと合わせてスパコンで分析してみましょうかね?」
「もうできるの?」
「まだ無理でしょうけど、嘘でもデータを出しておかないと、教授からなんと言われるか」
「そうね。それがいいわね」
いくらスパコンでも、人間の精神活動の分析などできるものではないとボクは思っている。できるはずのない研究。それでも教授がやれと言えばやらなければならないのだ。それが大学というものだ。主たるものでなくても、副次的なものが得られればいいとボクは思っていた。