翌朝、ボクは相変わらず自我がない振りをしていた。しかし、小森看護婦は何度か小首を傾げているようだ。ともかく、事件のほとぼりが冷めるまでは、動くつもりはなかった。しかし、事態が変わった。ナースステーションにいる看護婦たちの話が聞こえてきたのだ。
「犯人は島岡先生らしいわよ」
「ええっ! 嘘!」
「ホント。研究のいざこざで教授を殺して、たまたまやってきた教授のお兄さんも殺して、早野先生と一緒に逃げるときに事故って死んだんだって」
「早野先生と、そんな仲だったの?」
「いつも遅くまで一緒だったじゃない」
「そうか。そうだったの」
ボクが犯人になってしまう。考えてみれば、昨日寝る前に考えたボクの筋書きはまったくなっていない。片岡宏一がボクと早野女史を殺す動機、教授と仲間割れをする理由がないのだ。看護婦たちの噂話の方がよっぽど筋が通っている。
ボクは動いた。
看護婦のひとりが検温にボクの部屋にやってきた。
「さあ、早百合ちゃん、体温を測りましょうね」
「おしっこ」
「ええっ!」
看護婦は驚きに目を見張った。
「な、なんて言ったの?」
「おしっこ」
「おしっこ、おしっこなのね」
ボクは小さく頷いた。ホントのところは、もっと洒落た言葉を掛けようと思っていた。だけど、ホントにおしっこをしたかったのだ。今朝までは、自我がない振りをしていたから、トイレに行くわけにもいかずに、おむつの中にした。気持ち悪いし情けなかった。自我の存在を主張するには今はこれしかないと言ってよかった。
「信じられない。早百合ちゃんが意思表示した!」
看護婦はボクを放り出してナースステーションへ駆け戻っていった。
「大変よ。大変!」
「なによ。どうしたの?」
「早百合ちゃんがおしっこって言ったのよ」
「嘘でしょう?」
「ホントよ。小森さん、早く早百合ちゃんのところに行って」
ばたばたと足音が近づいてきた。小森看護婦を先頭に、看護婦が数人と中井助教授が部屋に入ってきた。
「早百合ちゃん、わかる?」
これ以上我慢したら漏れそうだった。しかし、あんまり急がないことだ。ボクは繰り返した。
「おしっこ」
「おしっこなのね。さあ立って。トイレに行きましょう」
腕を抱かれてトイレに連れて行かれた。パジャマを下ろそうとして小森看護婦が振り向いて中井助教授を睨んだ。
「先生! ここは遠慮して」
「あ、すまん」
中井助教授はすごすごと部屋の外へ出て行った。パンツ式のおむつも下げられ、ボクは便器に座った。小森看護婦がジッと見ている。恥ずかしかったけれど我慢は限界に来ていた。下腹に力を入れるとシャーッと音がして小便がほとばしり出た。
男の小便は、尿道を通る感触がはっきりとあるけれど、ぜんぜん違った。なんだかホースが途中で破れて出ているような感じだった。
出終わると、ホッとした。小森看護婦がトイレットペーパーを巻き取ってボクに手渡してくれた。
「自分で拭ける?」
拭かなきゃいけないんだと思ってボクは頷き、小便で濡れたその部分を拭いた。何とも奇妙な感触がした。
「早百合ちゃん、いつからそんな風にわかるようになったの?」
ボクは首を傾げ答えた。
「少し前から」
「少し前って、どれくらい?」
「島岡先生の部屋に行くようになってから」
これくらいが妥当だろうと考えていた。
「島岡先生の? じゃあ、島岡先生が何か治療をやっているって言ったのはホントなのね」
ボクは答えない。そんなことは今のボクには関係のないことだからだ。
「あ、もしかして、昨日の事件のこと、研究室で何が起こったか知ってるの?」
ボクは小さく頷いた。
「中井先生! 聞いたでしょう? 警察に連絡して。早く」
「わ、わかった」
警察が来るまで、ボクはどれくらいのことを答えようかずっと考えていた。
連絡を受けた夕べの刑事・太田がもうひとりの刑事とともにやってきたのは、それから30分ほどした頃だった。
「昨日はまったく反応がなかったでしょう?」
「それが、今日はちゃんと受け答えができるんです」
「昨日の事件ことを目撃したって?」
「そう言ってますわ」
そんな大きな声が廊下から響いてきた。太田刑事がボクの目の前に顔を出した。
「お嬢さん? お名前は?」
間違えないように答える。
「森田早百合です」
「昨日の夜、早百合ちゃんの前で起こったこと、覚えているかい?」
「はい」
「どう言うことかな?」
あの首輪のことを伏せなければならないから、ボクは都合のいいように作り話をすることにした。
「島岡先生がわたしを治療してくれて、わたし、回復していたんです」
「それで?」
「詳しいことはわかりませんけど、わたしが何かの書類にサインすると、片岡先生たちの得になるみたいなんです」
「得になる?」
「そんなことを言っていました」
「ふうん・・・・。それで?」
「片岡先生のお兄さん、わたしのお父さん、お母さんとお兄ちゃん、お姉ちゃんを殺した人なんです」
「何だって!!」
「そのことを島岡先生に知られて、片岡先生のお兄さんが島岡先生を殺したんです。女の先生も・・・・。わたし、怖かった」
「怖かったでしょうね」
小森看護婦がボクの肩を抱いた。
「片岡教授を殺したのは、片岡宏一なんだね?」
「それ、誰?」
「片岡教授のお兄さんのことだよ」
「・・・・そうですか」
「それから?」
「片岡先生のお兄さんが島岡先生と女医さんをどこかへ運んでいって戻ってきたとき、片岡先生がパイプ椅子で殴りかかったんです」
「ほう」
「そうしたら、片岡先生のお兄さんが独り占めにする気かって怒って、椅子を取り上げて片岡先生を殴ったんです」
「なるほど。あのパイプ椅子が凶器って言うわけだな。それはわかった。・・・・片岡宏一はどうして死んだんだ?」
「さあ? わたしにはわかりません。でも、自分で頭を柱にぶつけて、それからぐったりしてしまったんです」
「自分で柱に頭をぶつけた?」
「はい」
「自殺ってことか?」
ボクは黙っていた。ボクがそれ以上いろいろ言わない方が得策と考えたからだ。
「片岡宏一が森田一家惨殺事件の犯人だとすれば、自殺するようなタマじゃないんだが・・・・」
ボクに疑いが掛かることになるのだが、女である細腕のボクが、あの屈強な片岡宏一を柱にぶつけて殺すことができるなどと考えるはずはない。
「よくわかった。早百合ちゃんの話を元に裏付けを取ってみよう」
刑事はばたばたと病室を出て行った。
「島岡先生、殺されたなんて可哀相。14年間、誰も治せなかった早百合ちゃんを治してあげたのに」
そんな声がボクの耳に届いてきた。島岡毅は死んでしまったと認識されている。ボクはここにいるのに。どうしてこんな状態になったのかはわからない。あの首輪のせいかもしれない。でも、そんなことは言えない。もしボクの人格がこの森田早百合の中に存在することを知られれば、その理由が追及され、ついにはボクが人間コントローラーとも言うべきあの首輪を使って殺人を犯したことがばれてしまう可能性があるからだ。
ボクは島岡毅の手によって回復した森田早百合を演じ続けなければならない。
あの事件から一週間がたった。ボクはおむつを外されて可愛らしいショーツをはかされている。ダサイパジャマ式の病衣ではなく、小さな花柄のパジャマを着せられた。伸ばし放題だった髪の毛も綺麗にカットされてブラッシングされている。眉も整えてくれた。化粧も少ししている。
人格があるのとないのとでは取り扱いに格段の違いがある。こんなことホントは許されないのだろうけれど、それが現実だ。
「早百合ちゃん、勉強してる?」
小森看護婦の愛嬌のある顔がドアから覗いた。ボクは、算数の本を開いて読んでいた。森田早百合は、5歳の時から精神科に入院していて、自我がなかったから何も勉強することができなかったとされているから、毎日教材を与えられて勉強させられていた。今は、ひらがな、カタカナ、数字、足し算、引き算などだ。そんな簡単なことはできるのだけど、できたらおかしい状況なので一生懸命勉強している振りをしていた。
「はい、頑張ってるわ」
そう返事をしながら、小森看護婦の後ろにいる男性に気づいた。太田刑事だ。
「刑事さんがお話があるって」
「どうぞ」
「久しぶりだね。ずいぶん元気になったようで安心したよ」
「ありがとうございます。今日はどんな用事ですか?」
「早百合ちゃんの証言でいろいろとわかったから、今日は報告に来たんだ。ここ、座ってもいいかな?」
「どうぞ」
太田刑事は、ベッドのそばに置いてあったパイプ椅子に腰掛けて、手帳を取り出した。
「早百合ちゃんの家族を殺害したのは片岡宏一だということについては、まだ捜査中なんだけどね。どうやら、彼の仕業らしいと言うことになりつつある」
「どうしてあんな非道いことをしたの?」
横に腰掛けた小森看護婦が聞いた。
「それについては当時の新聞や雑誌に一杯載ってるんだけど、知らないかい?」
「14年前でしょう? わたし、小学生さんだったから、知らないわ」
小森看護婦は14年前は小学生だった? もっと年令が言っていると思っていたから、ボクはちょっとビックリした。
「じゃあ、説明しておこう。早百合ちゃんのお父さんは、アメリカでIT関係の会社をいくつか経営していてね」
「へえ、すごいんだ」
「向こうでは企業買収がしばしば行われていて、早百合ちゃんのお父さんも会社のひとつが買収にあって相当の収入を得たんだ」
「どれくらい?」
「公表されていないんだが、3000万ドルくらいだったと言われている」
「3000万ドルって、ちょっと待って、40億円近いの?」
「そう言うことだ」
「すごい」
「当時、森田家には金庫の中に数億円のお金がいつも入っているって言う噂があってね。その金が目的であの事件が起こったらしい」
お金のために家族全員を殺すなんて非道い男だとボクは思っていた。
「勿論、警報装置などが装備されていたんだけど、鍵を壊された形跡はなくて賊は玄関から堂々と進入しているんだ。だから、最初は顔見知りの犯行とされて捜査が行われたけれど、結局犯人を特定できなかったんだ」
「教授のお兄さんが犯人だとすると、どうやって玄関から入ったの?」
「今回、早百合ちゃんから証言を聞いて、彼の調査をやってみたんだ。すると、事件のあった屋敷の建設に彼が関わっていたことがわかった。これはどういうことを意味するかというと、屋敷の鍵とかを手に入れられる立場にいたと言うことなんだ。あ、早百合ちゃん、今の説明、わかるかな?」
「はい。わかります」
「早百合ちゃん、すごいね。何でもわかるようになったんだ」
「そうなんですよ。乾いた土が水を吸収するように覚えていくんですよ。ビックリしてしまいます」
「あの事件についてはさらに裏付け捜査が行われているところだよ」
ボクは嬉しそうな顔をして微笑んで見せた。
「それで、先週の事件だけど・・・・」
小森看護婦が興味津々という表情で身を乗り出してきた。
「島岡徹と早野玲子のふたりは、解剖の結果、事故の前に死亡していたことが確認された。つまり、早百合ちゃんの証言通り、殺されたあと事故に見せかけたと言うことなんだ」
「そうなんですか」
小森看護婦は感心したような声を上げた。
「それから、パイプ椅子から片岡隆二の血痕と、片岡隆二と片岡宏一の指紋が検出されたんだ。片岡隆二は、片岡宏一にパイプ椅子で殴り殺されたと断定された。で、最後は片岡宏一は柱の角に頭部をぶつけたための脳挫傷で死亡していた。すべての所見は、早百合ちゃんが証言したとおりなんだけど・・・・」
「どこかおかしいんですか?」
看護婦が聞いた。
「片岡宏一と片岡隆二が仲間割れを起こして宏一の方が隆二を殺したというのは間違いないと結論されたんだけど、どうして片岡宏一は自殺したんだろうと言うことになってね」
太田刑事がボクをちらりと見た。
「早百合ちゃんが、片岡宏一を柱にぶつけたなんて特拍子もない意見が出たんだけど、あの巨体を早百合ちゃんがぶつけるなんてとても無理だよね」
「それは無理だわ」
看護婦が馬鹿なことを考えるわねと言うような表情を見せながら言った。ボクの思惑通りだ。誰だってそう思うだろう。
「早百合ちゃんがテレキネシスを使ったとか?」
テレキネシスの意味はわかっていたけれど、ボクは首を傾げて見せた。
「刑事さんもテレキネシスなんてものの存在を信じるんですね」
「そんなことはないんだけど、そう考えれば、つじつまが合うものだからね」
「いくらつじつまが合うからって言っても、テレキネシスだなんて」
呆れ顔で小森看護婦が言った。
「ま、テレキネシスなんてことを信じる刑事は一人もいないんだ。実は他の可能性を考えているんだが・・・・」
「それは何なんですか?」
壊してしまったけれど、あの装置は見つかっていないだろうなとちょっと心配になった。
「今の段階ではそれは言えないんだ」
「捜査中って言う訳ね」
「そうなんだ。で、早百合ちゃんに聞きたいんだけど」
「はい?」
首輪のことだろうか? ボクは戦々恐々としていた。
「早百合ちゃんがサインすると彼らが得をすることって何だろう? 心当たりはあるかい?」
「さあ?」
これについてはボクもまったく思い当たらなかった。
「早百合ちゃん、お父様の財産を相続してるんでしょう?」
「ああ」
「それをあのふたりに譲るとかサインさせるんじゃないですか?」
小森看護婦がしたり顔で言った。
「早百合ちゃんは未成年だから、そんなサインだけでは譲れはしないだろうね」
「そうですか」
小森看護婦は小さくなった。
「ホントに心当たりはない?」
もう一度ボクに向かって聞く。ボクは首を振るしかなかった。
「早百合ちゃん、外科の三雲医師と面識は?」
三雲の名前が出てきてボクの心臓は爆発しそうになった。どうして彼の名前が出てきたのだろう?
「誰ですか? その人?」
それだけをやっと口にした。
「いや、いいんだ。知らなければそれでいい。じゃあ、捜査状況が進展したら、また報告に来るよ」
そう言って太田刑事は立ち去っていった。
「どうして三雲の名前が・・・・」
訳がわからなかった。