第15章 死んでしまったボクの反撃

 太い男の腕がボクの首を捕らえている。声にならない声を上げるボク。グキッと音がして、ボクは床の上に倒れ込んだ。
 「死んだのか?」
 教授がボクに近寄ってきて、片岡宏一に尋ねた。
 「もちろんだ」
 ボクが死んでしまった。ボクはここにこうしているのに。ボクの魂だけが抜け出したのだろうか? ボクは床に倒れたボクの身体をジッと見つめていた。
 ふたりは話し続ける。
 「島岡を殺してしまったから、彼女をコントロールできないぞ」
 「別にニコニコ笑わせることはないだろう? サインさえさせればいいんだ」
 「それはそうだが・・・・」
 「サインさせることはおまえにもできるんだろう?」
 「ああ、できる」
 「なら、問題ない。サインさえできればいいさ」
 「そうだな」
 ふたりの会話の意味がわからなかったけれど、森田早百合が何かにサインすることによって、ふたりに恩恵が生じるように思えた。
 「いつにする?」
 「明日にでも。善は急げだよ」
 「そうだな。ところで、あの秘密を知っているのは他に誰がいる?」
 「早野という女医が知っている」
 「そいつは誰だ? この男の彼女か?」
 「イヤ、一緒に研究を任せている女だ」
 「そいつも処分しなければいかんな」
 「処分? いったいどうするつもりだ?」
 「そうだな。この男と一緒に車に乗せて、事故に見せかけて殺す」
 「また殺すのか?」
 「ひとりもふたりも同じことだ。他には?」
 「いないと思う」
 「思うでは危ないんだぞ。確かか?」
 「ああ、間違いないと思う」
 「この男に彼女とかは? 寝物語にでも話されていた日にはかなわんからな」
 「彼女はいないと言っていた」
 「そうか、それなら大丈夫だな。その早野とか言う女は今どこにいる?」
 「隣の部屋にいないから、まだ病棟にいるはずだ」
 「ここへ呼んでくれ」
 「ここでやるのか?」
 「ああ。ここでちょっと気を失わせて、車で運んで崖からジャンプして貰おう」
 「わかった。すぐに呼び寄せよう」
 教授がダイアルする。その間に片岡宏一がボクに近寄ってきてボクをジッと見た。彼にはボクの存在がわかるらしい。ボクはパニックになった。
 「生きた人形じゃなかったら、抱いてやりたいぜ」
 そう言いながらボクの顎を手で持ち上げた。ボクは混乱していた。足元にはボクの死体が転がっている。じゃあ、片岡宏一が触れたのはいったいなんだ?
 片岡宏一がボクの後頭部に手を回してボクを引き寄せキスしてきた。
 「いったいなんだよ! 男にキスするなんて!!」
 そう言いたかったけれど、言葉にならなかった。
 「兄さん。妙なことをするんじゃないよ」
 教授が受話器を置いてたしなめた。
 「あんまりいい女だからな」
 いい女? いい女? いい女? その言葉がボクの脳裏をぐるぐると回った。どういうことだ?
 「早野がすぐに来る。どこかに隠れていろ」
 片岡宏一はドアの陰に隠れた。すぐに足音が響いてきた。
 「逃げて! 早野先生!! 来たら殺されるよ」
 その言葉もボクの口からは発することができなかった。
 「教授! 何か用?」
 甘い声を出しながら早野女史が研究室に入ってきた。後ろに誰かいる気配を感じたらしく振り返ろうとしたときにはボクと同じように首の骨を折られていた。
 「ふたりを始末してくる。その間におまえはその女をうまく操るようにしておけ。いいな?」
 「わかったよ」
 片岡宏一が、ボクの身体と早野女史を外に運び出していった。片岡教授が、首輪をすると突然ボクの身体が動き始めた。抵抗することができない。不思議な力に操られてボクは椅子に座ると鉛筆を持って字を書き始めた。森田早百合と。
 鉛筆を持った細い指。ボクのものだという感覚があった。おさげにした長い髪の毛が肩口から目の前に垂れ下がってきた。
 もう間違いなかった。どう言う訳か、ボクは森田早百合になっていた。
 「糞! どうしてもひとつの動作しか命令できん!!」
 苛々しながら、教授は部屋の中を歩き回った。教授からの命令が届かないので、ボクはジッと座っていたのだけれど、ボクの手足がボクの意志に従い始めていた。
 教授に気づかれないように、小指や足の指をそっと動かしてみた。間違いなかった。ボクの意志がボクの身体、何故か森田早百合の身体に通じていた。
 教授は時計を見た。
 「もうすぐ9時か。そろそろ彼女を病室へ戻さねばならないが、兄貴のヤツ、いつまで掛かってるんだ?」
 片岡宏一の帰りが遅いのでいらだちが募っているようだった。ボクは気づかれないように首輪のスイッチを押した。コントロールをボクの方に切り替えるためだ。これで、ボクは教授の操り人形でなくなる。
 切り替えたら、教授を操ることができるのだろうか? 以前の森田早百合には自我がなかった。だから、ボク自身はコントロールされることはなかった。もし自我があれば、どうなるのだろうか? 今それを試してみよう。
 教授が立ち止まり、自分で頬を叩いた。驚きの表情が浮かんだ。それから、あかんべえをした。戸惑いの表情が見えた。それから、ハッとしたようにボクの方を見た。
 ボクはニヤリと笑って見せた。教授は目を見開いた。その時、靴音が研究室に近づいてきた。
 「待たせたな」
 片岡宏一が研究室のドアを開いた。片岡宏一が部屋に入ってくるや、教授が手にしたパイプ椅子を片岡宏一に振り下ろした。勿論これはボクが命令したことだ。
 「この野郎! 森田の財産を独り占めする気だな!」
 教授の持っていたパイプ椅子を取り上げて片岡宏一は教授に反撃を始めた。教授は、身体が意のままに動かず、兄に殴られ続けるしかなかった。そして、ついにぐったりと床の上に倒れた。片岡宏一は、教授のそばに跪いて脈を確かめる。
 「殺しちまった・・・・。まあ、仕方ないか。となると、俺がこの娘を操るしかないな」
 片岡宏一は教授の首から首輪を取り外すと首に取り付けた。ボクをコントロールするつもりだろうが、ボクにとっては飛んで火にいる夏の虫だった。首輪をしたとたん、片岡宏一はボクの支配下に入った。ボクは、彼を壁に向かって突進させた。何度も何度も。動かなくなるまで。
 片岡宏一が動かなくなって、ボクはゆっくりと椅子から立ち上がり片岡宏一の脈を確かめた。
 「死んだ・・・・」
 ボクは、片岡宏一の首から首輪を外した。ボクのしている首輪も外して内部の電子装置をすべて壊した。さらにコンピューターに入っている設計図も消しておいた。証拠は確実に消さなければ。
 時計を見た。そろそろ9時10分前だ。迎えが来る。ボクは椅子に腰掛けて小森看護婦が来るのを待った。

 数分後、太った女性が足を広げて歩く独特なあの足音が近づいてきた。そして研究室のドアが開いた。
 「早百合ちゃん。迎えに来たわよ」
 最後の「よ」の字が、小森看護婦の口元で凍り付いた。足元に血だらけの教授が転がっていたからだ。
 「キャアアアぁ・・・・」
 腰を抜かした小森看護婦は、大学病院の敷地中に響こうかというような金切り声をあげた。
 ボクは小森看護婦が来るまでの間、ボクの置かれた状況をずっと考えていた。島岡毅の人格が森田早百合に乗り移ったなどと言っても誰も信じてはもらえないだろう。それにこの森田早百合に自我があることを知られれば、警察にあれこれと詮索されるに決まっている。ボクの意識が森田早百合の中に閉じこめられていることだけども大変なことなのに、これ以上今は面倒なことに巻き込まれたくはなかった。だから、ボクはいつもの森田早百合のように、ただジッと一点を凝視したまま椅子に腰掛けていた。今ボクに、この森田早百合に自我があることを知られてはならない。
 転がるようにして小森看護婦が研究室を走り出て行き、数分後にガードマンや事務の職員を連れて戻ってきた。
 「ほ、ほら。言ったとおりでしょう?」
 ガードマンのひとりが恐る恐る教授の死体に近づいて脈を確かめ頷いた。
 「け、警察に連絡しよう」
 もうひとりのガードマンが死体のそばにはいたくないと言う雰囲気を露わにしてばたばたと立ち去っていった。
 「ねえ。彼女、病室へ連れて行ってもいいでしょう?」
 小森看護婦がガードマンに聞いた。
 「彼女、目撃者だろう? ここにいて貰わないといけないんじゃあ・・・・」
 「早百合ちゃんは駄目なの」
 「えっ? どうして?」
 「彼女、人格がないの」
 「人格がない?」
 驚いたような顔をしてガードマンがボクを見た。ボクはそんな彼の視線を無視して前方を見続けていた。
 「そう。彼女は生きた人形なの。見えても見ていない。聞いても聞こえていない。何を聞いても答えてくれないわ」
 「へえ、そうなの? こんな可愛い子が。気の毒に」
 「いいでしょう? もし、警察の人が来て早百合ちゃんに何か聞きたいことがあるって言ったら、病室に来て貰えばいいから」
 「逃げ出したりしないんだろうね」
 「逃げるなんてとんでもないわ。誰かが動かしてあげないと、何日でもジッとこうしているんだから」
 「わかった。連れて行っていいよ。わたしはここを見張っているから」
 「お願いしますね」
 小森看護婦がボクに近づいてきて腕を取った。
 「早百合ちゃん、怖かったわね。さあ、病室に帰りましょう」
 自分の意志を示さないように、小森看護婦のなすがままにしてボクは研究室を出て病室へと向かった。

 白い壁、白いシーツの敷かれたベッド、天井に光る蛍光灯。見慣れた森田早百合の病室だ。ボクはベッドの上に寝かしつけられた。小森看護婦が病室を出て行くと、ボクはホッと溜息をついた。
 パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。どやどやと人の気配。中井助教授の声が聞こえてくる。どうやら精神科の医者たちにも連絡が行ったようだ。
 唐突に小森看護婦が入ってきた。ボクは身を固くした。
 「早百合ちゃん、お休み前におむつを替えておきましょうね」
 そうか、そうだったと思い出す。
 「さあ、早百合ちゃん、腰を上げて」
 こんなのは想定していなかった。どこまで指示に従えばいいのかわからない。
 「ほらほら、腰を上げて」
 仕方がないので腰を浮かせた。ボクの行動に問題がなかったようで、小森看護婦はボクのはいていたパジャマ型の寝間着を下ろし、さらにパンツ型のおむつを下ろした。ウエットガーゼのようなもので拭いているようだ。ヒヤリとした感触が股間から伝わってきた。それからサラサラの新しいおむつをあてられた。パジャマをあげると、小森看護婦はお休みと言って病室を出て行った。
 まだ眠る時間じゃない。ボクは病室の外から聞こえてくる物音に耳を集中させた。
 「第一発見者はあなたですね」
 刑事らしい男の声が聞こえてきた。小森看護婦がいるナースステーションで事情聴取するつもりのようだ。
 「は、はい」
 「片岡教授が亡くなっているのを発見したのは、何時頃でしたか?」
 「えっとですね。森田早百合さんを迎えに行ったときですから、午後9時ちょっと前だったと思います」
 「森田早百合さんを迎えに? どこにですか?」
 「研究室にいたんです。森田早百合さんが」
 「えっ! と言うと、現場にその森田早百合という女性がいたんですか?」
 「ええ、そうです」
 「すると、その女性は事件の一部始終を見ていたことになりますね」
 「あ、まあ、そうですけど」
 「今どこにいます? その森田早百合さんは?」
 「部屋にいますけど」
 「部屋? どこの部屋ですか?」
 「ふたつ向こうの個室ですけど」
 「個室というと、精神病の患者なんですか?」
 「そうです」
 「・・・・事情聴取はできますか?」
 「無理だと思います。彼女、自我というものがなくって、生きた人形なんです」
 「と言うと?」
 「何を聞いても答えてくれないと思います」
 「そうですか。しかし、後ほど聞いてみましょう。いいでしょうね?」
 「それは問題ないと思いますけど」
 「他に何か気づいたことは?」
 「さあ・・・・」
 しばしの沈黙。
 「誰かが逃げ去ったとか?」
 「そんなことには気がつきませんでした」
 「そうですか。もうひとりの男性は誰かご存じで?」
 「顔をよく見なかったものですから・・・・」
 「免許証からすると、片岡教授のお兄さんらしいんですけどね」
 「教授のお兄さん? 二、三度顔を見たことがありますけど、血だらけでしたからわかりませんでした」
 「そうでしょうね。とりあえず今日はこれくらいにしましょう。何か気づいたことがありましたら連絡下さい。これ、わたしの名刺です」
 刑事が小森看護婦に名刺を渡しているらしい。
 「森田早百合さんに会わせてもらえますね」
 「小森さん、中井先生の許可を得た方がいいんじゃないかな?」
 別の看護婦の声がした。
 「そうね。刑事さん、ちょっと中井先生の許可を得てきます」
 「待ちましょう」
 ダイアルを回す音。ぼそぼそと小森看護婦の声。
 「いいそうです。ただし、中井助教授が立ち会うそうですので、少々お待ち下さいとのことですがよろしいでしょうか?」
 「いいですよ」
 人が歩き回る音がしばらくしていた。
 「お、お待たせしました。な、中井です」
 中井助教授は、初対面の相手と話すときはいつもどもる。
 「東署の太田です。入院患者さんの森田早百合さんが、現場にいたというものですから事情を聞きたいと思いまして」
 「か、彼女は、だ、駄目ですよ」
 「それは聞いています。しかし、一応この目で確かめておかないと上司に報告できませんので」
 「わ、わかりました。そ、それでは、ご、ご案内・・・・しましょう」
 足音が近づいてくる。ボクはベッドの上で仰向けになって目を瞑った。
 「こ、ここです」
 ガチャリとドアが開けられた。小森看護婦がボクのそばに来て耳元で囁いた。
 「早百合ちゃん、早百合ちゃん、起きて」
 ボクはゆっくりと目を開いて起きあがった。刑事らしい男がボクの目を覗き込んだ。ボクは、ジッと前を見たまま動かないようにしていた。
 「森田早百合さんですね。あの部屋で何がありました?」
 ボクは何も答えず、ジッと前方を見つめ続けた。刑事がボクの目の前に手をかざして二、三度振った。
 「なるほど。わかりました。それでは引き上げるとしましょう。ありがとうございました」
 部屋の電気が消され、皆出て行った。片岡宏一がボクと早野女史を殺し、仲間割れをして教授を殺してその弾みで自分も死んでしまった。そんな判定が下されるだろうと思っていた。ボクはそのまま眠りについた。