第13章 教授の意図は?

 午後5時を回ると、教授が6時に研究室に来ると言ったものだから早野女史も井原も早々に引き上げていった。ボクは首輪を点検していたけれど、なんだか眠くなって椅子に腰掛けたまま眠り込んでしまった。

 父は忙しい人で滅多に一緒に食事をしたことがない。だけどボクに優しい人で、いつもお土産を買って帰ってくれた。朝目覚めて枕元にあるお土産を見つけて嬉しくて飛び上がったものだ。月に一度ほど、必ず早く帰ってきてボクを抱き上げてずっと膝の上に抱いていてくれた。母はとっても美人でどこの誰も敵わないと思っていた。いつもボクたちを一緒にいて遊んでくれた。数字も漢字も教えてくれた。父と母が一緒にいると、映画スターみたいだと思った。
 ボクが初めて好きなった女の子の名前は、田中志穂子と言う。小学校1年の時に席が隣同士になった。ちょっとお茶っぽい髪の毛を腰のあたりまで伸ばしていて、ざっくりとしたおさげに結っていた。前髪は目の高さに切りそろえてあって、大きな瞳が可愛らしかった。一緒にままごとをした。ボクが旦那様で、彼女が奥様だ。人形の赤ちゃんもいた。鬼ごっこもした。ボクは彼女と結婚したいと思った。小学校6年になった頃、彼女の方が背が高くなってしまった。気後れしてしまったボクは、何となく彼女から離れるようになって、男友達とばかり遊ぶようになった。違う高校に進んでからは、まったく彼女と顔を合わせることがなかった。彼女とは違う女の子を何度か好きになった。だけど、彼女のことは一度として忘れたことはない。死ぬまで彼女のことを忘れることはないだろう。彼女はボクの初恋の人だから。
 高校時代は勉強ずくめの日々だった。女の子ともつき合わず、学校と塾、家の間を行ったり来たりする毎日だった。だけど、そんな日々もそれほど苦痛だとは思わなかった。100点の解答用紙を戻して貰うのが快感だった。ちょっと時間があると、コンピューターに向かった。ホントはコンピューター関係の学部に進むはずが、成績がいいというただそれだけの理由で医学部へ進んだ。あんまり正解だったは思っていない。
 吉村尚子とのことはボクの心の傷だ。どうして後藤亜由美みたいな女に引っかかってしまったのだろう。口惜しくて涙が出る。
 あのことがなければ、三雲とのこともなかっただろう。ボクは今では完全なホモだ。三雲なしでは生きていけない。
 一面真っ白な壁。真っ白なベッド。ボクはいつもそこに横になっている。
 頭が痛む。気が狂いそうだ。助けを呼ぼうとするけれど、誰も助けてくれない。水の中に沈められて、ボクは藻掻く。
 教授! どうしてボクを殺そうとするんだ!
 意識はこんなにはっきりしているのに、身体が動かない。どうしてだ?

 「島岡君? 島岡君?」
 肩を揺すられた。目の前に教授の顔があった。
 「あ、すみません。うとうとしちゃって」
 「彼女を連れてきたぞ。さあ、実験を始めよう」
 「あ、はい」
 ボクはドアのそばにぼんやりと突っ立っている森田早百合に近づいて首輪を装着した。
 「さあ、やってみてくれ」
 ボクは森田早百合に歩けと命じた。彼女は部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
 「部屋の外へ出るように命じてくれ」
 「はい」
 彼女は、ドアを開いて部屋の外に出て行った。教授も後を追う。とすぐに教授が戻ってきた。
 「歩くように命じてくれ」
 「やってますけど」
 「そうか? 廊下に出たら急に立ち止まってしまったぞ」
 「そうですか?」
 ボクも部屋を出て廊下に出てみた。廊下を出たところに彼女が立っていた。ボクが廊下に出るとすぐに歩き始めた。
 「やはり距離があると伝わらないようだな」
 「そうみたいですね」
 しかし、部屋の中と外の距離を超えても彼女はどんどん歩き続けた。ボクと教授は首を傾げた。
 「距離じゃないみたいですね」
 教授は返事をしないで彼女の様子を窺っている。彼女に廊下を曲がるように命じた。ボクと教授は走って追いかける。角を曲がったところに彼女が立っていた。
 「彼女の姿が見える範囲のようだな」
 教授が腕組みをして言った。
 「たしかに。彼女の行動が見える範囲のようですね」
 「うん。そのようだ。部屋に戻ろう」
 「はい」
 部屋の戻ると教授は彼女を椅子に座らせるようにボクに命じた。彼女は椅子に座った。
 「字を書かせることはできるかね?」
 「やったことはありませんが」
 「やってみてくれ」
 彼女の前にメモ紙と鉛筆を置き、名前を書くように命じた。彼女は名前を書き始めた。ボクと教授はジッとそれを見ていた。
 「自分の名前を書かせちゃ駄目だよ」
 教授はボクを睨んだ。メモ紙には『島岡毅』と書かれていた。森田早百合と書くように命じた。すると今度は『森田早百合』と書いた。
 「よし、よし」
 「言葉をしゃべらせることは?」
 「やってみましょう」
 ボクは心の中で命令を下す。
 「わたしの名前は森田早百合。年令は19才です」
 初めて聞く森田早百合の声は透き通っていて何とも言えないいい声だった。
 「素晴らしい! わたしの名前を呼ばせてくれ」
 「森田教授。いつもありがとうございます」
 彼女はボクの命じたとおりに話した。
 「いいねえ。しかし、この表情は何とかならないのかね? ニッコリ笑いながらしゃべるなんてことはできないのかね?」
 うまくいかない。もう一度念じてみた。駄目だった。ニッコリと笑わせると言葉が出なかった。
 「駄目ですねえ」
 「君のやり方が悪いんじゃないか?」
 「そうかもしれません」
 「しばらく練習してみてくれたまえ」
 「やってみましょう」
 「ところで、この首輪の存在を知っているのは、君とわたし以外に誰がいる?」
 「早野先生が知っていますが」
 「おう、そうだったな。他には?」
 「他には誰も言ってません」
 「そうか。誰にも言うんじゃないぞ。いいな?」
 「は、はあ」
 「世紀の大発明なんだ。他の人間に取られることがあってはならない。いいね」
 「わかりました」
 「じゃあ、言葉と表情が同時に出せるようになったら、連絡してくれたまえ」
 教授の意図がわからなかった。しかし、そんなことは詮索しても仕方がない。
 「はい」
 満足げな表情を残して教授は研究室を去っていった。

 教授は極めて短気だ。明日の朝にはまだかと言ってくるに決まっている。ボクは引き続き、森田早百合に命令を出し続けた。
 「微笑め!」
 ニッコリと微笑んだ。
 「名前を言え!」
 森田早百合ですと言った。
 「微笑みながら名前を言え!」
 微笑み、それから森田早百合ですと言った。駄目だ。それを何度も何度も繰り返した。進歩はなかった。
 ジリジリという電話にビックリした。
 「もしもし?」
 《もしもし、島岡先生?》
 「そうだけど。どうした?」
 《森田早百合さんがそちらに行ってませんか?》
 「ああ、ここにいるよ」
 《何時になったら返してもらえるんですか?》
 時計を見ると午後7時半を過ぎていた。
 「もうすぐ返すよ」
 《おむつを替える時間なんですけど》
 おむつをしていたんだと思いながら森田早百合の顔を見た。彼女がおむつをしているなんて不思議だ。
 「ボクが替えておこうか?」
 《先生! 早百合ちゃんは、うら若き乙女なのよ。そんなことさせられません!》
 耳がキンキンするような声が受話器から飛び出てきた。
 「あ、ああ。そうだったね」
 《すぐに引き取りに行きますから》
 「9時まで貸して欲しいんだ。教授命令なんだ」
 《教授命令? ホントに?》
 「まだいるだろう? 聞いてみてくれよ」
 《教授は先ほどお帰りになりました》
 冷たい口調だ。
 「でも、ほんとだよ」
 《先生が言うことですから間違いないでしょう。わかりました。おむつ交換が終わったら、もう一度そちらへ戻します。それでよろしいですね》
 「了解」
 しばらくして看護婦が森田早百合を迎えに来て、戻ってきたのは午後8時だった。
 「先生。9時までですよ。いいですね。10分前に迎えに来ます」
 そう念を押された。
 「1時間もないなあ・・・・」
 1時間以上も奮闘して駄目なのだ。あと1時間でできそうもなかった。

 結局何の進展もないままマンションへ帰った。車を降りてマンションの玄関をくぐったとき、三雲が丁度姿を現した。いくら他人の動向に関心がないマンションだと言っても、三雲と一緒に部屋に行くわけにはいかない。どうしようかと思っていると、三雲は郵便受けをいくつか調べる振りをしたあとマンションを出て行った。時間をずらしてやってくるだろうと思ったボクは、すぐに部屋に上がって三雲を迎える準備をした。
 30分ほどしてから三雲がやってきた。
 「遅くなりそうって言ってたのに、早かったんだな」
 「例の森田早百合を使って実験してるんだけど、入院患者でしょう? 就寝時間が来て病棟へ連れ戻されちゃったのよ」
 「だけど、他にすることはあるんだろう?」
 「今は彼女に掛かりっきりだから」
 「そうか。で、どうなってる?」
 「森田早百合をリモコン操作できるってことは言ったわね」
 「ああ、きいたよ」
 「教授が妙なことをさせるのよ」
 「妙なこと?」
 「そう。今日ね・・・・」
 実験室でのボクと教授のやりとりを三雲に話して聞かせた。

 「何考えてると思う?」
 「そうだなあ。人格がなくなっていた少女をよくしたって、学会に報告するのかな?」
 「なるほどね。・・・・でも、すぐにおかしいって気がつくわよ。あの首輪がないとすぐに元に戻るんだから」
 「わからん! もう、どうでもいいだろう? もう11時過ぎだぜ。どうするんだ?」
 「どうするって?」
 「帰ろうかな?」
 「あん。そんな意地悪言わないでよ」
 「意地悪? 惚けたのはおまえだぜ」
 「わかったわよ。ベッドに行きましょう」
 「おまえも好きだな」
 「あなたほどじゃないわ」
 「そうか?」
 「・・・・早くう」
 意地悪そうな表情を浮かべる三雲をリビング残して、ボクはベッドルームへ飛び込んでいった。あとはお決まりのコースだ。

 いつものようにボクは三雲に抱きついて余韻を楽しんでいた。
 「あんまり考えないでやった方がいいんじゃないか?」
 「えっ? なにが?」
 「森田早百合にふたつのことをやらせるってことだよ」
 「ああ、そのこと」
 「なんだよ。一生懸命考えてやってるのに、その返事は」
 「セックスの最中にそんなこと考えていたの?」
 「あ、まあな」
 「信じられないわ」
 「いいじゃない。で、どう思う?」
 「なんて言った?」
 「あんまり考えないでコントロールした方がいいんじゃないかって言ったんだよ」
 「あんまり考えないで?」
 「そう。ニッコリ笑え。名前を書け。なんて個別に命令しないで、ニッコリ笑いながら名前を書いているところを想像するんだ。そうすればいいんじゃないか?」
 「ニッコリ笑いながら名前を書くねえ。やってみたんだけど・・・・」
 「だから、別々じゃなくて、一緒にやっているところを考える」
 「・・・・明日やってみるわ」
 「うまくいけばいいな」
 「ええ。でも、教授が何をやりたがっているのかわからないから・・・・」
 「どうでもいいだろう? おまえはそれで学位をいただければいいんだから」
 「ま、そうだけど・・・・」
 教授が何をやろうとしているのか気になって、その日は眠れなかった。