第九章 ぼくになった悟の恋愛

 円城寺俊郎が死んで、収入がなくなり、生活できなくなるのではないかと心配したけれど、そんなことは取り越し苦労だった。
 円城寺俊郎は、15年前までは、ある研究所に勤めていて、そこで取った特許がいくつかあった。その特許権と貯金や株式、家屋敷を、ぼくと、脳性麻痺の弟、悟で相続することとなった。相続税を引かれた財産でも、お手伝いを雇った上に、結構贅沢できるくらいあったのだ。

 沙也佳のままでいれば、楽をして暮らせるのだけど、ぼくは男だ。女のままではいたくない。元に戻りたくて、ぼくになった悟が大学に行って家にいないうちに、人格交換機を調べた。
 地下室の中には、人格交換機だけが置かれていて、その他のものは紙切れ一枚もなかった。あの犬と猫も、何処かへ処分されたようだ。
 ひとつ分かったことは、書斎に通じるドアの他に、外に出られるドアがあるのが分かった。そのドアから、庭に出て、離れにある悟の部屋に行けるのだ。書斎に続く階段は、車椅子は降りられない。円城寺俊郎は、どうやって悟を連れてきたのか不思議に思っていたのだけど、これで疑問が解けた。沙也佳もこのドアから、人格交換機のある部屋にやってきたようだ。
 次にぼくは、円城寺俊郎の書斎を調べてみた。研究資料をひっくり返して調べて、人格交換機の操作方法が書かれた研究ノートを見つけだした。操作方法は、煩雑と言えば煩雑だが、それほど難しいものではなかった。
 さて、人格交換機の操作方法は分かった。あとは、いかにして、ぼくになった悟と入れ替わるかだ。入れ替わったあとは? ぼくは逃げ出すだけだ。あとは、姉弟で勝手にやってもらえばいい。円城寺家の財産はどうするかって? 元々ぼくのものではない財産に、未練などない。ぼくは、優柔不断な人間だけど、自分の食い扶持くらいは、自分で確保する。それが、男ってものだ。何? 逆玉狙ってたんじゃないかって? あの時は、あの時さ。ぼくは、元に戻りたい。ただ、それだけだ。
 ぼくになった悟は、地下室に置かれた機械が人格交換機だと知っているから、容易なことでは、あの椅子に座らせることができない。ぼくが円城寺俊郎にされたように、薬を盛ると言う手がある。しかし、その薬が手に入らないのだ。円城寺俊郎の書斎を探してみたけれど、薬の残りは見あたらなかった。何か手はないか? ぼくになった悟に罠をかけて、椅子に座らせる。その罠が思いつかない。あれこれと考えているうちに、春が来た。

 ぼくが沙也佳になって、10ヶ月あまりが経過したことになる。ぼくは沙也佳でいることに慣れ、短いスカートも平気で穿けるようになった。慣れとは恐ろしいものだ。元に戻ることを願いながらも、ぼくは沙也佳でいることを楽しんでいた。髪の毛を三つ編みにしたり、ポニーテールにしたり、いろんな髪型をやってみた。化粧もやってみている。
 ぼくになった悟は、二年の後期試験も優秀な成績で、すべての単位を取り、三年へ進級し、喜々として大学へ通っていた。このまま、卒業するまでやって貰おうかな。そんな思いが、ぼくの中にあった。

 円城寺俊郎の入院やなにやで、ぼくは家庭教師をすべて断っていた。今は、ぼくになった悟と勉強するのが、僅かな拘束時間だ。悟(沙也佳)の世話も大島さんがやってくれるから、自由な時間ばかりだ。
 時間があるとき、沙也佳は何をしていたのだろうか? 沙也佳の勉強部屋を覗いてみれば分かる。沙也佳は、本を読んでいたに違いない。本棚には、売りに行くくらいの本がぎっしりと並べられていた。そのどれもが、読んだ痕跡があった。ぼくが読むようなミステリーもあったけれど、大抵は文学書。川端康成、森鴎外、三島由紀夫、などなど。それに伝記物に、哲学書。信じられない読書量だ。ぼくには、とてもこんな真似はできそうにない。

 ぼくは、今年に入ってから、月に一、二度、町に出かけて行くようになっていた。特に目的はない。気分転換のためだ。円城寺家は大きな屋敷だとは言っても、ずっと屋敷の中にいるのでは、おかしくなってしまう。
 円城寺家は辺鄙なところにあるから、町に出かけるときには、タクシーを呼ばなければならなかった。
 もっと、自由に町に行きたい。ぼくは、バイクの免許を取りに行くことにした。ぼく自身は、バイクに乗れるのだけど、沙也佳はバイクの免許を持っていないから、免許を取りに行かざるを得なかったのだ。
 「沙也佳、バイクなんて危ないから、止めろよ」
 ぼくになった悟に、バイクの免許を取りに行くと言うと、そう言って反対された。
 「悟だって、乗ってるじゃないの」
 「ぼくは、男だから」
 「男だから、危なくないって言うの?」
 「いや、そう言う訳じゃあ・・・・」
 「女だからいけないって言うの?」
 「うーん」
 「ほかに、わたしにバイクの免許を取りに行かせない理由があるの?」
 「・・・・ないよ」
 「じゃあ、決まりね」
 悟は、姉である沙也佳には頭が上がらないようだ。大抵のことでは、ぼくの、沙也佳の意見が通った。
 ぼくは、バイクの免許を取りに行った。女の子も結構バイクの免許を取りに来ていた。ぼくは、元々免許を持っていたから、軽々と合格した。自動車学校にも行っていない、17歳の女の子が、一発で試験に合格したのを見て、検定試験場の係官はびっくりしていた。
 ぼくは、バイクを買って、走り回った。風を切って走るのは気持ちがいい。自分が、妙なことに巻き込まれて、女として暮らしていることなど、忘れてしまいそうになる。

 5月の連休が迫ったある土曜日、国道沿いの喫茶店にバイクを停めると、見たことのあるバイクが停まっていた。ぼくになった悟のバイクだ。一緒にお茶を飲もうと、店の中に入っていった。
 店の奥に、ぼくになった悟の姿が見えた。ぼくは、フルフェースのヘルメットを脱いで、ぼくになった悟のいることろへ歩いていった。
 その時、店の中にいた男たちが一斉に顔を上げてぼくを見た。レザーのぴっちりしたライダースーツを着たスタイルのいい女性ライダー。それだけでも、男たちの視線を浴びるのに、ヘルメットを脱いだ、ぼく、沙也佳は、誰が見ても美人だ。しかも、高校生くらいの若さ。ぼくがその場にいたとしても、きっと目を上げて見つめただろう。
 「悟、一緒に、お茶しよう」
 と、声を掛けかけて、その言葉を飲み込んだ。外では、悟は、森敬一郎だ。それに、ぼくより、年上だ。
 「森先生、こんにちは。こんなところで会えるとは思わなかったわ」
 「ああ、沙也佳・・・・ちゃん。どうしてここに?」
 「ちょっと、飛ばしてきたんだけど、喉が渇いちゃって」
 「森君、この人、誰?」
 ぼくになった悟ばかりを見ていたから、気付かなかった。手前の席に、女性が座っていた。女性の顔を見た。ぼくの、森敬一郎の同級生の、森崎加世子だ。ぼくになった悟は、こんなところで何をしているのだろうか? デートなのか?
 「ああ、紹介するよ。ぼくが家庭教師をしている、円城寺沙也佳さんだ」
 「こんにちは。円城寺です」
 ぼくは、笑顔で森崎加世子に挨拶した。
 「こんにちは」
 挨拶を返した森崎加世子は、ぼくの顔を見ると、ちょっと嫉妬めいた表情を浮かべた。
 「あっ! ごめんなさい。デートだったのね。わたし、向こうに行きます」
 「いいよ。一緒に何か飲もうよ」
 森崎加世子が、ぼくになった悟をぐっと睨んだ。ぼくになった悟は、それに気がつかないようだ。
 「森先生! わたし、デートの邪魔をするほど、野暮じゃないもん」
 ぼくは、そう言って、少し離れたカウンターに陣取った。
 「すみません。アイスティーください」
 「かしこまりました」
 ぼくになった悟は、森崎加世子とつき合っているのだろうか? 森崎加世子は、まあまあの容姿をしているけれど、ぼくの好みではない。ほんとにつき合っているとしたら、元に戻ったとき、困るんだけどなあ。ぼくは、聞いていない振りをして、ふたりの会話に聞き耳を立てた。
 「森君、今の円城寺さんのところに、下宿してるんでしょう?」
 「下宿と言えば、・・・・そうだね」
 「綺麗な子ね」
 「何だ。妬いてんのか?」
 「そんなことないけど・・・・」
 「彼女は、ただの教え子。彼女は、まだ子供でね。男になんて全く興味なし。心配しなくていいよ」
 「ほんとに?」
 「飾っとくにはいいけど、つき合うとなると、やっぱ、加世子の方がいいな」
 森崎加世子は機嫌を直したようだ。うーん。ぼくになった悟は、森崎加世子とつき合っているようだ。どれくらいの関係なんだろうか? 抜き差しならないところまで行ってないだろうか? 気になるなあ。
 アイスティーを飲みながら、ぼくは気になって仕方がなかった。
 それにしても、飾っとくにはいいけど、と言うのは、許せないな。綺麗なだけで、女としての魅力がないって事なのか!? スタイルもいいし、胸も結構あると思うんだけど・・・・。
 「おひとりですか?」
 にやけた男がぼくに声をかけてきた。茶髪の、いかにも頭が悪そうな男だ。あのRX7に乗っていた男と同類だ。こんな男は、女を見たら、上手く口説いて、寝ることしか考えない。
 「もう、家に帰らなくちゃ」
 「ちょっとだけなら、いいだろう?」
 「お断りします!」
 「まあ、そう言わないで。なあ、いいじゃないか」
 そう言って、男はぼくの腕を掴んで、隣の席に座った。
 「離してください!」
 ぼくの、叫びにもにたその言葉に、ぼくになった悟が反応した。立ち上がって、つかつかとぼくと男のいるところへ歩み寄ってきた。
 「おい! 離してって、言ってるだろう?」
 「なにい。おまえは関係ないだろう」
 「この人は、ぼくの大切な人だ。諦めて、さっさと消えろ!」
 ぼくになった悟の目は、まるで、ライオンが、ハイエナを見据えるような目だった。
 「なんだよう。そんなに大切なら、紐でも付けとけ」
 男は、こそこそと喫茶店の隅の席に座った。
 「沙也佳、こんなところにいると、また同じ目に遭うぞ。早く家に帰れ!」
 「ありがとう。森先生」
 ぼくになった悟は、勘定を済ませて、バイクに乗るまで見送ってくた。
 「沙也佳! まっすぐ帰るんだぞ」
 「はあい」
 バイクをスタートさせながら、森崎加世子を前に、ぼくの大切な人だなんて言って、良かったのかなと思った。

 土曜日の夕方だから、ぼくになった悟は、森崎加世子と食事でもして、遅くに帰って来るんだろうなと思っていると、午後6時前に帰ってきた。
 「あら、早かったのね」
 「彼女の機嫌が、また悪くなっちゃって・・・・」
 「やっぱり・・・・。助けてくれたのは有り難かったけど、ぼくの大切な人って言うのはねえ」
 「そうなんだ。つい、そんな言葉が出ちゃって。姉だから、大切な人には間違いないんだけど、あくまでもぼくたちは他人だろう? それを上手く説明できなくて・・・・」
 「金蔓だからとか、言葉の彩だとか言えば良かったのに」
 「そうか。そう言えば良かったんだ。急なことで、思いつかなかった」
 ぼくになった悟は、頭を抱えて、テーブルの上に突っ伏している。
 「で、どうなったの?」
 「うーん。もう会ってくれないかもしれないな」
 「ほとぼりが冷めるまで、待ったら」
 ほとぼりが冷めるまで待ったらか。陽子の姉さんに、そう言われたっけ。要は、森崎加世子の問題だ。今日、何と言い訳したか知らないけれど、ほんとのことは言えないし、勘ぐりだしたら、きりがない。森崎加世子が、ぼくになった悟のことをどれだけ思っているか、どれだけ信じられるかの問題だ。ぼくと陽子の姉さんの場合と違って、何も証拠はないのだから。
 ぼくになった悟の様子を見ていたら、森崎加世子のことが、本気で好きなようだ。ぼくになった悟は、いいかも知れないけれど、ぼくとしては森崎加世子はダメだ。ぼくの感性に合わない。ぼくは、このまま別れてくれることを願った。

 それから数日後、バイクで買い物に出かけ、大学の近くを通りかかった。ここへ来るのは、10ヶ月ぶりだ。それなのに、もう何年もここに来ていないような気がした。
 「お姉さん、お姉さん」
 声がする方を見ると、光アパートの2号室の住人、大矢さんが立っていた。懐かしいなあと思ったが、ぼくは、いまは、円城寺沙也佳だ。ぼくは、知らない人に声をかけられた様子を装った。それにしても、大矢さんの格好は・・・・。
 大矢さんは、レインコートを羽織っていた。そのレインコートから、素足が覗いている。あれ? この格好は、いつもの露出狂の発作だな。そう思うやいなや、大矢さんが、レインコートの前をはだけた。
 こんな時、円城寺沙也佳としては、きゃっと言って、目を瞑るべきなのだろうか? ぼくは、そうしようとしたんだけど、目は大矢さんの股間に釘付けになった。
 大矢さんのは大きいと言われていた。だけど、思ったほど大きくはない。それに、皮被りだ。
 「何だ、あんまり大きくないのね」
 ぼくは、思わず笑ってそう言ってしまった。大矢さんは、ビックリしたように目を見開いて、慌てて前を隠すと、走って逃げていった。ありゃ、大矢さんの自尊心を傷つけてしまった。しかし、相変わらず馬鹿なことやってるな。大矢さんは。
 次の角で、大矢さんは、女子高生の集団にぶつかって、すってんころりとひっくり返ってしまった。女子高生たちに、きゃあきゃあ言われ、走って逃げる大矢さんの姿は、滑稽としか言いようがなかった。

 騒ぎが収まり、バイクを走らせ始めてすぐ、森崎加世子の姿を見かけた。ぼくは、彼女のそばにバイクを停めて、声をかけた。
 「こんにちは、森崎さん」
 「あら、あなた・・・・確か円城寺さんって言ったわね」
 「この前はデートの邪魔をしてごめんなさい」
 「いいのよ。気にしてないから」
 「森先生、気にしてたわ。授業の時間中、振られたかもしれないって、落ち込んじゃって」
 ぼくは、自分の発した言葉に驚いた。ぼくは、何を言ってるんだ。ふたりのよりを戻すようなことを言って。別れさせたいと思っていたんじゃないのか!
 「ほんとに?」
 「ほんとよ。全然授業にならなかったんだから」
 森崎加世子の顔が、ぱっと明るくなった。
 「ありがと。円城寺さん。ちょ、ちょっと急ぎの用事を思い出したから」
 森崎加世子は、大学の方へ駆けだしていった。馬鹿、馬鹿、馬鹿。沙也佳の馬鹿。もう、どうなっても知らないよ。

 金曜日、ぼくになった悟は、ぼくに英語を教えるという名目で、ぼくの部屋にいた。いつもは、一緒に勉強しているのだけど、部屋に来たときからそわそわしていた。
 「どうしたの? 悟」
 「い、いや」
 「何かあるの?」
 「今日、これから会う約束をしてるんだ」
 「会う約束って、この前の彼女?」
 「そう」
 「仲直りしたんだ!」
 「沙也佳のお陰だよ」
 「わたしの?」
 「そうだよ。彼女に振られたかもしれないって、ぼくが落ち込んでいたのを、彼女に伝えてくれたんだろう?」
 「悟のためにね。姉としては、弟の恋が実るように、援助しなければいけないでしょう?」
 「ありがと、姉さん」
 ぼくになった悟は、ぼくに抱きついて、涙を流さんばかりだ。ぼくとしては、不本意なことをしてしまったけれど、仕方がない。しかし、なぜあの時、あんなことを言ってしまったんだろう? 自分でも訳が分からない。

 その夜、ぼくになった悟は、家に帰ってこなかった。ぼくはかなり後悔した。しかし、考えた。一度寝たくらいで、ずっとつき合うってことはないよな。喧嘩して、別れてしまうこともあるんだから。いや、寝たとは限らない。一晩中、話していることだってあるんだから。
 朝帰りした、ぼくになった悟は、世界がバラ色という顔をしていた。
 「うまくいったみたいね」
 「最高だったよ。セックスが、こんなに素晴らしいものだなんて、思ってもみなかった」
 森崎加世子と寝たのか。やっぱり・・・・。何もしないなんてことは、ふつうないよな。ううん。ぼくは複雑な気持ちだった。
 「彼女とは、初めてだったの?」
 「勿論だよ。森敬一郎が初めてだったかどうかは知らないけど、ぼくとしては初めてだった。最高だったなあ」
 「彼女はどうなの? 彼女も初めてだったの?」
 「初めてだと言っていたよ」
 あいちゃ、困ったぞ。やっぱり余計なことをしてしまった。元に戻ったら、森崎加世子とつき合っていかなければならない可能性が大だ。・・・・なってしまったものは、やむを得ないか。しかし、森崎加世子かあ。美人と言えば、美人なんだけど。ううん。ぼくとしてはねえ・・・・。
 「彼女のこと、好きなのね」
 「好きで好きで堪らないよ」
 ぼくは、完全に諦めた調子で言った。
 「せいぜい頑張ってね」

 それからというもの、ぼくになった悟は、週に1,2回朝帰りするようになった。ドンドン深みにはまっていくよーう。ぼくは頭を抱えたが、どうしようもなかった。どうしてあの時、あんなことを言ってしまったのだろう? 後悔はあとでするから後悔という。

 ところが、6月に入ったある日、ぼくになった悟が、泣き出しそうな顔をして、帰ってきた。
 「どうしたの? 悟」
 「ぼくたち、もうダメかもしれない」
 「ぼくたちって、あなたと森崎加世子さんのこと?」
 「そう。もうだめだよ」
 「何があったの?」
 ぼくになった悟は、なかなか言い出さない。ぼくのベッドに腰掛けて、俯いて、必死に涙をこらえていた。
 「何があったか、話してくれないと、分からないわ」
 「実は・・・・」
 そう言いかけて、ぼくになった悟は、また言い淀んだ。
 「実は、何よ」
 「森敬一郎の同級生に、宮本陽子という女の子がいるんだ」
 宮本陽子!!! 陽子がどうしたって? まさか、よりを戻してくれと言ってきたのでは・・・・。森崎加世子よりも、陽子の方がいいのだが。しかし、ぼくになった悟の涙は・・・・。
 「その宮本陽子さんがどうしたの?」
 「彼女は、森敬一郎と、少し前につき合っていたらしいんだ」
 そんなことは、ぼくは知っている。それがどうしたと言うんだ?
 「そう。それで?」
 「ぼくと加世子が喫茶店で話していたら、突然やってきて、加世子に・・・・」
 「宮本さんが、森崎さんに何か言ったの?」
 「こんな人と付き合うのは止めた方がいいわよって言うんだ」
 「ええっ!?」
 陽子は、ぼくとよりを戻そうとしたわけではなさそうだ。
 「わたしとは、下着を洗ってやるほどの仲だったのに、わたしのお姉ちゃんと寝るような男なのよって、それだけ言って、行ってしまったんだ」
 嫉妬だ。陽子は、自分を捨てた森敬一郎が、ほかの女と仲睦まじくしているのが、許せなかったのだ。
 「それでどうしたの?」
 「加世子は、ほんとなの?って、詰め寄ってきたんだけど、ぼく、そんなこと知らないだろう? 言い訳できなくて・・・・」
 「そうなの・・・・」
 「加世子、ほかの人と付き合っていたのは許せるとしても、その人のお姉さんと浮気するなんて絶対許せないって、怒って店を出ていってしまったんだ」
 ぼくには、何も言えなかった。陽子の言うことは、事実と言えば事実だからだ。
 「宮本陽子の言うことはほんとなんだろうか? 口から出任せだったら、やり直せると思うんだけど、事実だったら・・・・」
 ここは、事実をぼくになった悟に伝える方がいいだろう。
 「ちょっと待って、お父様が、森敬一郎のことを、興信所に調べさせた記録が、お父様の書斎にあったと思うから」
 ぼくは、円城寺俊郎の書斎に入り、興信所の記録を持って、ぼくの部屋に戻った。
 「宮本陽子さんの言ったことは、事実のようね。ほら、ここに記録があるわ」
 ぼくになった悟は、興信所の記録に目を通すと、それまでこらえていた涙をボロボロと流した。
 「もう、ダメだ。加世子は許してくれない。沙也佳とのこともまだ疑っているのに、あんなことがあったのなら、もう、何も信じてくれない」
 「仕方ないわ。あなたのせいじゃないけど、諦めるしかないわ」
 「姉さん」
 そう言って、ぼくになった悟は、ぼくの胸に顔を埋めて泣いた。ひとしきり泣いたあと、ぼくになった悟が、ぼくに言った。
 「姉さん、もう一度、加世子と話し合ってくるよ。森敬一郎が犯した罪を、正直に認めて、許しを請うよ。それでもダメなら、すっきり諦める。森敬一郎の肉体を奪った罰だと思って・・・・」
 「それがいいわね」

 翌日、ぼくになった悟は、吹っ切れたように明るかった。ぼくは、少し安心した。半年以上も、姉として暮らしていると、なんだかほんとの弟のような気がしてきているからだ。
 ぼくになった悟が、大学に行ったあと、どうなるか心配で、心配でならなかった。
 夕方、ぼくになった悟は、また元気がなかった。ダメだったのが、手の取るように分かった。ぼくは、何も言わなかった。
 ぼくになった悟は、しばらくの間は、意気消沈していたけれど、次第に元気を取り戻していった。
 ぼくは、ぼくになった悟が、森崎加世子に振られたことで、少し安心していた。あの女は、ちょっと合わないからなと。しかし、陽子が、あんな女だとは思わなかった。実のところ、陽子とは、元に戻ったら、何とかよりを戻せないかなと、淡い期待を抱いていたんだけれど、もうすっきり諦めた。元に戻ったら、別の女を捜そう。ぼくは、まだ、元に戻ることを諦めた訳じゃない。