第六章 ぼくを盗まれた!

 陽子に振られて、一時的には意気消沈してしまったけれど、ぼくは、このままじゃいけない。頑張らなくちゃと思った。ぼくの頑張る姿を見せて、陽子が戻ってくるようにするためだ。

 今日も雨。これまでなら、今日は大学には行かない日だけど、朝早くから起きて、いつものように、インスタントコーヒーと食パンの朝食を摂ってから、講義に出かけた。
 出掛けるとき、1号室のドアが開いていた。川本さんは、昨夜のうちに、夫と自分の家に帰ってしまったようだ。川本さんの部屋には元々荷物らしい荷物はなかったけれど、こうして誰もいなくなってしまうと、ほんとにがらんとしていた。昨日のカレーの香りだけがまだ漂っていた。

 講義室に顔を出すと、雨のせいか学生が少なかった。
 「珍しいな」
 それが、ぼくに対する、同級生の一致した感想だった。
 「心を入れ替えたんだ」
 「いつまで続くかね」
 「ほんと、ほんと」
 退屈な講義は続くが、ぼくはせっせとノートを取った。

 講義が終わって、ぼくは、円城寺家へと向かった。円城寺家へ行くには、バイクかタクシーしかない。バスで行けないこともないが、バスは国道までで、あとは3キロあまりの道のりを歩かなければならないのだ。しかも、かなりの登りになっているから、歩くと1時間は掛かってしまう。タクシーなんてとんでもない。バイト代が飛んでしまう。ぼくは、合羽を着て、バイクを走らせた。
 円城寺家へ続く道は、泥沼と化していた。転ばないように、慎重に進む。いつもよりは時間が掛かったけれど、少し早く出たので、午後5時10分前に門の前へ着いた。

 インターフォンを押してみたけれど、返事がなかった。おかしいなと思っていたら、鉄の扉がゆっくりと開いた。ぼくは、いつもと様子が違うなとは思いながらも、玄関まで進んで行った。
 「あら、あら、雨の中をご苦労様」
 雨の日には、いつもそう言って出迎えてくれるお民さんの顔が見えない。どうしたんだろうか?
 「お邪魔します」
 ぼくは、誰もいない玄関で、そう叫んだ。やっぱり誰も出てこない。いったい、どうなっているんだろう? 門を開けてくれたのは、誰だろう? 合羽を脱いで、妙だなと思いながら、いつものように、二階の円城寺沙也佳の部屋へと向かった。円城寺沙也佳は、今日もいちぶんの隙のない格好で、ぼくを待っていた。
 「こんにちは、沙也佳ちゃん。お民さんは、どうしたの?」
 「さあ、どうしたのかしら。わたし、何も聞いてないわ。夕方、夫婦揃って出かけたみたいだけど・・・・」
 「そうなの。門を開けてくれたのは誰? 沙也佳ちゃんかい?」
 「わたしじゃないけど・・・・。お父様じゃないの?」
 「お父様? ああ、そう。まあ、いいや。じゃあ、始めよう」
 円城寺沙也佳の父親には会ったことがない。何をしているのかも聞いていない。門を開けたのが沙也佳じゃないって事は、沙也佳の父親が門を開閉するスイッチを押したと言うことなのだろうけど・・・・。

 いつものように、いつもの授業をした。こうしていると、いつも変な声が聞こえる。何の声か気にはなっていたのだが、ぼくは、思い切って聞いてみた。
 「沙也佳ちゃん、あの、変な声は何だい?」
 「ああ、あれ? ・・・・裏の犬の鳴き声よ。変な声でしょう?」
 「犬の声なの。確かに変な声だね」
 円城寺沙也佳の返事に、ぼくは疑いもしなかった。

 授業が済んで、ぼくは階下へと降りていった。今日の食事は、どうなってるんだろうな。期待してたのに、今日はございませんなんてことはないよな。ぼくは、階段を降りて、キョロキョロしていた。
 「いつも、娘が世話になります。沙也佳の父の俊郎です」
 そんな声に振り向くと、白髪の紳士が立っていた。娘がお世話になります? 円城寺沙也佳の父親かあ。初めて顔を合わせたよ。年は60くらいだろうか? 円城寺沙也佳の父親にしては、ずいぶん老けた人だなと思った。
 「初めまして。沙也佳さんの家庭教師をしていいる、森です」
 「森敬一郎君だったね。君は、教え方が上手いと、沙也佳に聞いているよ」
 ぼくはちょっと鼻高々になった。
 「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです。今日は、お民さんはいないそうですが・・・・」」
 「お民さんは、ご主人の母親の容体が悪いとのことで、今日の夕方、夫婦揃って急に北海道に戻ったんだ。もう帰ってこれんだろうとのことだ。新しいお手伝いを雇わねばならんが・・・・。ああ、こんなこと、君に言ってもしょうがないね。食事は出掛ける前に用意してもらっているから、食堂で、食べていってくれたまえ。もう冷えてしまっているだろうから、レンジで暖めるといいよ。ライスは、勝手に注いでいいからね」
 「分かりました。じゃあ、遠慮なくご馳走になります」
 食事がある。ぼくは、ほっとした。
 「ゆっくりしていきたまえ。じゃあ」
 円城寺俊郎は、屋敷の奥へと消えていった。ぼくは、かって知ったる他人の家で、食堂に入って行った。
 テーブルの上には、いつものように食事が用意してあった。焼き肉風に焼いた牛肉、豚カツ、麻婆豆腐、野菜サラダ、ポタージュスープ。今日も美味そうだ。料理のそばに置かれていたラップをそれぞれの皿にかけて、レンジでチンした。
 ぼくは、皿にライスを注ぐと、ぱくぱくと食べ始めた。お民さんがいなくなったってことは、この味も今日で最後になるんだなと、妙な感慨を覚えた。
 用意された食事をほとんど食べ終わった頃、円城寺俊郎が食堂に顔を出した。
 「足りなかったのと違うかな?」
 「いえ、もう充分です」
 「コーヒーを入れるが、君も飲むかな?」
 「ハイ、遠慮なく頂きます」
 ぼくが残りの料理を平らげている間に、円城寺俊郎がコーヒーを入れてくれた。
 「砂糖は、どうするかね?」
 「一個入れてください」
 円城寺俊郎は、ぼくにコーヒーの入ったカップを手渡すと、ぼくの向かいに座って、コーヒーを飲み始めた。
 「森君は、ご両親が亡くなったと聞いているが・・・・」
 「はい。去年の秋、事故で・・・・」
 「兄弟はいないのかね?」
 「一人っ子でしたから」
 「じゃあ、天涯孤独というわけかね」
 「いえ、そう言うわけではありません。近くにはいませんけど、遠い親戚はいます」
 「そうか、それは寂しいだろうな」
 「はあ、まあ」
 円城寺俊郎が何を言いたいのか、よく分からなかった。まさか、ぼくを沙也佳の養子にしてくれるなんて事は・・・・ないよな。
 「どこに住んでいるのかな?」
 「大学のそばの、光アパートという、ぼろのアパートのいます」
 「恋人は?」
 「い、いませんよ」
 「君は、女の子に、もてそうな顔をしているから、きっといると思ったのに、いないのかね」
 変なこと聞くんだなと思ったが、もしかして、もしかするかもしれないと思い、ぼくは正直に答えた。
 「恋人って訳じゃなくて、仲のいい子がいたんですけど、一昨日振られちゃって」
 「ほう、君のような好青年でも、振られることがあるんだねえ」
 「まあ、いろいろありまして・・・・」
 「そうか。沙也佳のことはどう思うかね?」
 「えっ!? 沙也佳ちゃんですか? 美人で、いい子だと思いますけど」
 まさか、まさか・・・・。ぼくの胸は、期待で膨らんだ。
 「わたしも、母親に似て、可愛い子だと思っているよ。森君、まあ、今後ともよろしく頼むよ」
 「はい」
 なんだか、脈がありそうだ。父親に気に入られて、逆玉! ようし、もっと気に入られるように頑張るぞ。
 「向こうに、コ−ヒーがあるから、よかったら、もう一杯飲んでいきたまえ。じゃあ、わたしは失礼するよ」
 「ありがとうございます」
 円城寺俊郎は、食堂を出て行った。いつもお民さんが、見送ってくれるけど、今日は、こそこそ帰らないといけないなと思う。しかし、父親と話しできて良かった。ぼくは、浮き浮きしていた。
 それにしても眠い。昨日は早く寝たのに・・・・。あんまり真剣に講義を聴いたせいだろうか?
 慣れないことはしない方がいいのかなと思いながら、立ち上がって、食堂を出ようと歩き出したまでは覚えているけれど、ぼくはそのまま床に倒れて意識を失った。

 どれくらい経っただろうか? 目を開けると、ぼくは機械だらけの部屋にいた。頭の芯が重い。ぼくの手足は、皮のバンドで椅子に固定されて、身動きできなかった。ここはどこだろう? 頭にヘルメットのようなものをかぶせられていた。どうなっているんだ?
 しばらく藻掻いていると、部屋のドアが開いて、円城寺俊郎が、車椅子を押しながら、入ってきた。車椅子には、体を捩って、うおう、うおうと声にならない声を上げる男の子が乗っていた。その声には聞き覚えがあった。円城寺沙也佳が、犬の声だと言った声だった。
 「やあ、森君。気がついたかね」
 「円城寺さん! これはどういうことですか」
 円城寺俊郎は、車椅子の男の子を、ぼくの隣の椅子に座らせながら言った。
 「君に、実験台になって貰おうと思ってね」
 「実験台!? ぼくに何をしようと言うんですか」
 「君が今座っている機械は、人格交換機だ」
 「えっ!? 人格・・・・交換機?」
 ぼくは、円城寺俊郎が何を言っているのか、一瞬分からなかった。
 「この子は、沙也佳の双子の弟でね。生まれるときに障害を起こして、脳性麻痺になってしまったんだ。妻は、。その時死んだ」
 「だから、どうだと言うんですか」
 「この子は、知能は並以上なんだが、この通り、体の自由が利かない。だから、わたしはこの機械を作った」
 人格交換機。実験台。すると・・・・。
 「まさか、ぼくとその子の人格を入れ替えるって事じゃあ?」
 「察しがいいな」
 「そんなことができるはずがない!」
 「できるか、できないかは、やってみれば分かる」
 そんな馬鹿な機械なんて、あるはずがないと思いながら、円城寺俊郎の自信に満ちた顔を見ていると、ぼくは急に不安になってきた。
 「できるはずがない」
 ぼくはもう一度そう繰り返したが、その言葉には、力がなかった。
 「できるんだよ。実験済みだ。あの犬と猫を見てみなさい」
 円城寺俊郎の指さす方に、犬と猫が入った檻があった。円城寺俊郎が、檻に近づいて、犬の檻を開けた。その犬はしっぽを上げてすり寄った。その仕草は、猫そのものだ。円城寺俊郎は、その犬を檻に戻すと、今度は猫の入った檻を開けた。猫は、お座りをしてしっぽを振った。犬と、猫が入れ替わっている!!! ぼくの顔は、恐らく恐怖のあまり、引きつっていたはずだ。
 「信じてくれたかな?」
 「そんな馬鹿な・・・・」
 「身寄りが多いと、すぐにばれてしまうから、君のような子を探していたのだよ。彼女に振られたと言うのも事実のようだし」
 「どうしてそんなことを・・・・」
 そうか。そう言えば、ぼくを監視していたような男がいたっけ。
 「興信所に頼んで調査していたからね」
 やっぱり・・・・。あの男が、興信所の探偵なのだ。
 円城寺俊郎は、体をくねくねとさせている男の子を、沙也佳の双子の弟を、皮のバンドで椅子に固定した。
 「止めろ! 止めてくれ。こんなの人権侵害だ」
 「そんなことは分かっている。分かっているが、この子のためだ。犠牲になってくれ。君は、いてもいなくてもいい人間だ」
 「そんなことないよ」
 「そうか? 君がいなくなって、誰が悲しむ? 君は、誰を喜ばせて上げられる? どうだ?」
 そう言われて、考えてみたけれど、何も反論できない。誰も悲しむものは・・・・いない。誰を喜ばせてやれるか? 誰も・・・・誰もいない。
 「そんなことない、そんなことないよ・・・・」
 「じゃあ、始めるぞ。悟、お前は、今から生まれ変わるんだ! 少しの辛抱だ」
 「止めて! 止めてくれ!!」
 ぼくは力の限り叫んだけれど、ぼくの願いも空しく、円城寺俊郎が、機械のスイッチを入れた。ブーンと言う低い音が部屋の中に響き渡った。機械を見ながら、円城寺敏郎がさらにスイッチを入れた。キーンと耳鳴がして、ぼくは、意識をなくした。

 気がついた。ぼくは、まだ椅子に固定されたままだ。ぼくは、椅子の左の床を見ていた。まっすぐ向こうとしているのに、体が言うことを利かなかった。
 「お父さん、ありがとう。体が自由に動くよ」
 ぼくの声だ。ぼくの声が聞こえる。
 「そうか、よかったな。さあ、上へ行こう」
 ふたりが、部屋を出ていく足音がした。ぼくは、一生懸命、動こうとするのに、体の自由が利かないのだ。ほんとに入れ替わってしまった。信じられないが、事実だった。ぼくは泣いた。泣いたのに、その声は、ごうごうと言う、声にならない声だった。涎だけが、口から流れ落ちた。