第五章 それぞれの事情

 アパートの帰り着くと、北山さんと谷口さんが、アパートの入り口で、キスしていた。ぼくに気がつくと、ふたりはぼくに向かってにっこりと笑った。
 「仲直りしたんですか?」
 「喧嘩してたの知ってたの?」
 「あ、はい」
 「すっかり仲直りしたよ。それでね、森君にお願いがあるんだ」
 「何ですか? お願いって」
 「ぼくたち、一緒に住むことにしたんだ」
 「ええっ!!」
 「森君、知ってんだろう? 彼女のこと」
 「はあ、あの・・・・、谷口さんは・・・・ニューハーフだって事・・・・ですか?」
 「その通りなんだ。君が驚くのは無理はないけど、ぼくたちは愛し合ってるんだ」
 男同士なのに・・・・。どうも、ぼくには分からない。
 「お金を貯めて、彼女に、性転換手術を受けて貰おうって思ってる」
 ぼくは、目を丸くした。
 「それでね、ぼくが卒業するまでは、バイトしか収入がないから、ここから出て行くわけにはいかないんだ。ここは安いからね」
 「それで?」
 「ぼくの住んでる3号室を、リビングにして、彼女に住んでる4号室を寝室にしようと思っているんだ」
 「と言うことは・・・・」
 「ちょっと、君には、理解できない物音がすると思うけど、我慢してくれるかな」
 我慢するも何も、そんなことはもう何度もあったよ。そう言い掛けて、止めた。
 「いいですよ。普通の男女が住んでいると思えばいいんでしょう?」
 「ありがとう。そう言ってくれると思ったよ。君も、今朝みたいに、女を連れ込んでも、ぼくたち、文句言わないからね」
 「あ、あれは・・・・」
 「いいから、いいから」
 ふたりは、仲良く、アパートを出ていった。ぼくにはやっぱり理解できそうもないけど、ふたりがそれでいいのなら、他人のぼくがとやかく言う問題じゃないなと思う。

 靴を脱いで、アパートに上がると、アパート中にカレーのいい匂い充満していた。北山さんと谷口さんは出かけたし、大矢さんがカレーを作るはずがない。作っているのは、川本さんに違いない。
 ぼくは、部屋に戻って、布団の上にばたりとひっくり返った。腹は減っているが、食べに行く気力もない。
 30分ほどして、部屋のドアがノックされた。
 「森君、カレー、食べない?」
 「えっ!? ご馳走していただけるんですか?」
 「たくさん作っちゃったから」
 「遠慮なく頂きます」
 川本さんの誘いに、ぼくは乗った。川本さんが、ぼくをどんなつもりで誘うのか分からないけど、ぼくはいろいろ考えたくなかった。今は只、腹が減っていた。そして目の前に食い物がある。
 川本さんの部屋の中には、炊飯器と鍋、テーブル代わりのコタツの他は何もなかった。壁に服がぶら下げられていたが、それも2着だけ。布団は、押入の中だろうけど、何とまあ、殺風景な部屋だ。
 「ご飯が、もう5分ほどで炊きあがるから、ちょっと待ってね」
 「はい、何分でも待ちます」
 5分もしないうちに、ご飯が炊きあがった。川本さんは、皿にカレーを盛りつけて、ぼくに手渡してくれた。ぼくは、さっそく頬張り始めた。
 「美味いっす。最高」
 陽子の作ったカレーとは雲泥の差があった。さすがに元主婦の作ったカレーだ。
 「ほんと? お代わりしてね」
 川本さんは、ぼくがカレーを食べるのを嬉しそうに見ていた。そんな様子は、お民さんに似ているなと思った。
 「川本さんは、食べないんですか?」
 「ああ、そうね。わたしも食べなきゃ」
 川本さんも、ぼくの向かいに座って食べ始めた。丁度その時、北山さんと谷口さんが部屋の前を通りかかった。部屋のドアは明け放れていた。
 「おっ! 美味そうですね」
 「北山さんも、食べてかない?」
 珍しく、川本さんが、北山さんに声をかけた。どういう風の吹き回しだろう。ぼくが部屋の中にいるから、誘わざるを得なかったのだろうか?
 「残念。ふたりで、今夕食を食べてきたところなんです。また、次回でもご馳走になります」
 「それは残念ね。じゃあ、また今度ね」
 ふたりは部屋へと入っていった。
 「あのふたり、ホモなんでしょう?」
 川本さんが、声を潜めてぼくにそう聞いた。
 「そうみたいですね」
 「まあ、いやらしい」
 川本さんは、さも汚らしいものでも見るようにそう言った。川本さんが、ふだん北山さんに声をかけないのは、これが原因らしい。
 「そうですか? 本人たちがいいのなら、いいんじゃないですか? 他人がとやかく言う問題じゃないと思うんですけど・・・・」」
 川本さんは、そんなぼくの意見に、驚いたような表情を浮かべていた。
 「どうして、いつもぼくを誘ってくれるんですか?」
 ぼくは、思い切って聞いてみた。
 「・・・・実はね。あなたが、わたしの次男によく似ているからなの」
 「川本さんの子供さんにですか?」
 「そう。森君、あなた、今いくつ?」
 「19です。もうすぐ、20歳になりますけど」
 「次男は20歳なんだけどね・・・・。怒ってるだろうな、あの子」
 そう言って、川本さんは、ボロボロと涙を流した。
 「川本さん、駆け落ちしたって聞いたけど・・・・」
 「駆け落ち・・・・。あれは、駆け落ちって言うのかねえ」
 「違うんですか?」
 「主人とは、大恋愛で結ばれて・・・・、笑わないでね。こう見えても、昔は結構美人だったんだから」
 川本さんは、涙も拭かないで、笑顔になってそう言った。
 「笑って何か、いませんよ」
 「子どもにも3人恵まれて、何一つ不自由もなくて、満足してたのよ」
 「それがまた、どうして?」
 「刺激が欲しかったのね。何もない平穏な日々に飽き足らなくて・・・・」
 何もない平穏な日々、それこそが幸せというものではないだろうか? 人は、時として、その幸せに気付かない。そして、冒険して失敗するのだ。川本さんも、そのひとりだ。
 「あの男は、ただ、面白がってわたしを口説いただけだったのに、わたしの方は本気になっちゃって」
 「駆け落ちしたの?」
 「男のあとを追って家出したんだけど、男は相手にしてくれなかったの。お前の様な醜いおばさんを本気で好きに何かなるものか、お前とするくらいなら、マスかいてた方がいいって、言われたわ」
 「何てひどい男だ」
 「有頂天になったわたしがいけないのよ。帰るに帰れず、こうして、ひとりで暮らしているの」
 ほんのちょっとの気の迷いが、川本さんの人生を狂わしてしまったのだ。
 「川本さん、仕事何やってるの? 夜の商売って聞いたけど・・・・」
 ぼくは恐る恐る聞いてみた。売春やってるのなんて聞けなかったから、婉曲的に聞いたつもりだ。
 「わたしが売春してるって噂を聞いてるのね」
 「は、はあ」
 「あれは嘘よ。夜働いているのは、間違いないけどね」
 「じゃあ、何やってるんですか?」
 「盛り場にある、コンビニで働いているのよ。午後7時から、午前2時まで」
 「えっ! コンビニ! 夜に盛り場で働いている。それで誤解されてんだ!」
 「そうでしょうね。そのあと、パン屋さんに行って、朝まで、パン作りのお手伝いよ」
 「そうだったんですか。聞いてみないと分かりませんね」
 噂ほどあてにならないものはない。何でも自分の目で確かめないと。

 その時、ドアの外に人が立っているのに気付いた。中年の、頭の薄い男だ。男は、じっと川本さんを見ていた。ぼくがドアの外を見ているのに気付いた川本さんも、ドアの方を振り返った。川本さんは、カレーの皿とスプーンを持ったまま、呆然と男を見つめた。
 「探したぞ」
 「あなた・・・・」
 あなた!? ということは、男は、川本さんの夫だ。
 「喜代子。何も言わないで、俺の元に戻ってくれ」
 「あなた、わたしはあなたを裏切ったのよ」
 「お前とあの男とは、一度も肉体関係がなかったと、あの男に聞いた。そうなんだろう?」
 川本さんは、俯いたまま、うんと頷いた。
 「だったら、何を気にするんだ。俺は、何も気にしていない。さあ、帰ろう」
 「ほんとに許してくれるの?」
 「許すも許さないもない。お前は、息抜きの、ちょっと長い旅に出ただけだ」
 「あなた・・・・ごめんなさい」
 川本さんは、その場で、畳の上に突っ伏して、わあわあと泣き始めた。ぼくは、ご馳走様と挨拶をして、部屋へ戻った。

 午後10時を回った頃、隣の部屋から、北山さんと谷口さんの声が聞こえてきた。ぼくの了解を得たものだから、これまでより声が大きい。参ったな。寝室として使う部屋を3号室にすればいいのにと、気付いた。2号室の大矢さんは、夜はいつも仕事でいないんだから。あんまり響くようだったら、明日にでもそう言ってやろう。