第三章 初体験のチャンス

 今日は、実験がある。当然代返は効かないので、ぼくは朝から、大学へ出かけた。梅雨の中休みで、雨は上がっていた。
 いったん大学に行くと、途中から帰るのがめんどくさくて、今日も一日中講義を聴いた。毎日、実験や代返のきかない講義があれば、毎日大学に行くのになあと思う。これは間違いだろうか?

 最後の講義は、陽子と一緒だった。講義がすむと、陽子が駆け寄ってきた。
 「森君、夕食、食べに来ない?」
 周りにいる学生が、ぼくらを見た。こいつ、いいことやってんなって言う目だ。お前たちが想像するようなことは、何もやってないよと、言いたいが、そんなこと言ったって、信じて貰えないし、却って火に油を注ぐようなものだ。
 「今日は、バイト。夕食、ご馳走になるんだ。だから、またな」
 「じゃあ、明日はどう?」
 「明日ねえ。用事がなかったら、行くよ」
 そばで聞き耳を立ててる学生が、何て返事してるんだというような顔でぼくを見た。
 「来られるのなら、5時までに電話してね。材料の都合があるから」
 「分かった。5時までだね。あっ、急がなくちゃ、遅刻する。じゃあな」
 「飛ばして、捕まるんじゃないわよ」
 「分かってるよ」
 ぼくは、陽子に手を振りながら、バイク置き場へと走っていった。バイクに跨り、メットを被りながら、ちらりと見ると、さっきの学生らしい男が、ぼくをじっと見ていた。何見てるんだろう? まさか、ぼくに気があるんじゃあ。北山さんと谷口さんの件で、ぼくは、どうも男に迫られる妄想を抱く。

 陽子の言葉が耳から離れなかったせいで、安全運転で走ったため、5分ほど遅刻してしまった。ネズミ取りはいなかった。こんな事なら、飛ばすんだったと後悔した。後悔先に立たずだ。
 「いらっしゃい、森さん。遅刻よ。お嬢様がお待ちかねよ」
 「すみません。最後の講義が少し伸びてしまって」
 「それなら、仕方ありませんわね」
 ぼくは、二階の円城寺沙也佳の部屋へと駆け上がっていった。
 「ごめん、ごめん。遅刻しちゃった」
 「すぐに始めましょう」
 円城寺沙也佳は、今日は提灯袖というのか、肩のあたりが広がった袖の、薄いグレーのワンピースを着ていた。髪の毛は、今日はリボンでとめていた。清楚という言葉が、ぴったりだなと思う。円城寺沙也佳は、ほんと、絵に描いたような美人だ。
 マスかくときに、ときどき円城寺沙也佳の顔を思い浮かべようとするのだけど、どうも上手く思い浮かばない。彼女は、そんな対象ではないのかも知れない。まあ、幼いと言えば幼いのだが・・・・。
 「今日は、過去完了形だったね」
 「はい」
 ぼくは、英語の文法を教え始めた。こんな文法しても、あんまり役には立たないんじゃないかなと思う。外国人の講師に頼んで、英会話をした方がいいような気がするのだけれど、これで貰う給料がないと困るので、そんなことは言わない。こんな事はいけないことなのかな?
 少し遅刻したので、7時半まで教えた。
 「ハイ、今日はここまでにしよう」
 「ありがとうございました」
 「今度は火曜日、数学ね。宿題忘れずにね」
 「もう、すんでます」
 「そう。じゃあ、火曜日に」
 『もう、すんでます』か。可愛げがないなあ。『あっ、忘れてた。早くやらなくちゃ』何て言われるといいんだけどなと思う。
 食堂で、夕食を頂く。今日は、刺身に、野菜たっぷりのスープ。それにステーキ。ステーキなんて、ここでしか食べられないな。ぼくは、味わって食べた。柔くて、凄く美味い。かなり高いんだろうなと思う。

 アパートの部屋に帰り着いたのは、午後9時少し前。インスタントコーヒーを入れて飲んだ。円城寺家で飲んだ、食後のコーヒーは美味かったなあと思い出す。あれはインスタントじゃないからなあ。
 テレビのスイッチを入れた。今日にロードショウは・・・・。『沈黙の要塞』だ! これ見てないんだよね。風呂に行ってたら、前半を見損なうな。そう思って、風呂は止めにした。そう言えば、いつ風呂に入ったろう? 月曜日だったかな。自分の体をクンクンと嗅いでみた。臭くないよな。そう思いながら、トイレに入ったら、臭いのが分からないのと同じで、他人から見たら、臭いのかなと思う。円城寺沙也佳は、そんな顔はしてなかったよなと、思い出しながら、彼女だったら、臭くても、臭いなんて言わないだろうなとも思う。
 結局、風呂には行かないで、ロードショウを見て寝た。

 休みだというのに、午前6時に目が覚めた。講義がある日は、なかなか起きられないのに、休みの日は、何故か早く目が覚めてしまう。もう眠れないので、部屋に吊り下げていた洗濯物を畳んだ。ジーンズ以外は、ほぼ乾いていた。
 今日も、また、雨だ。いつものようにインスタントコーヒーにトーストの朝食を摂り、ミステリー小説を読み始めた。3冊目を読み終えて時計を見ると、午後5時10分前だった。昼飯も食わずに読んでいた。腹減ったなあ、今日はどこで飯食おうかと思っていたら、陽子の言葉を思い出した。
 そうだ。今日は、夕飯を作ってくれるって言ってたっけ。5時までに電話しろと。ぼくは、慌てて、コンビニにある公衆電話へ駆けていった。
 最近は、携帯電話を持っている連中が多いので、公衆電話は、滅多に人が使っていない。それなのに、こんな時に限って使用中だ。このあたりには、公衆電話はここしかない。時計は、5時5分前になろうとしている。ぼくはいらいらして、電話が空くのを待っていた。
 5時2分、ようやく電話が空いた。ぼくは急いで、陽子の電話番号をプッシュした。
 「ハイ、宮本です」
 「ああ、俺。今日、行ってもいい?」
 「もう、来ないのかと思っちゃった」
 「で、いいの?」
 「絶対来ると思って、材料買っていたのよ。早く来なさいよ」
 「すぐ行く」

 今、雨は上がっている。空はどんより曇っていた。帰りに降られるかも知れないけど、早く行って、ご機嫌を取らなくちゃ。ぼくは、バイクを走らせた。
 歩くとかなりあった距離も、バイクではあっと言う間だ。ものの5分で、洋子のマンションに着いた。
 「ごめんください」
 「開いてるわよ」
 「ごめん、連絡が遅くなって。本を読んでたら、すっかり時間を忘れちゃって」
 ぼくは、靴を脱ぎながら言い訳した。
 「何読んでたの?」
 「えっとねえ、森博嗣の『すべてがFになる』とねえ、西澤保彦の『瞬間移動死体』とねえ、それから・・・・」
 「何だ、勉強してたのかと思ったら、ミステリーばっかりね」
 「勉強なんて、講義の時間だけで充分だよ」
 「その講義にも、まともに出ていないくせに、よく言うわよ」
 「よく知ってるね」
 「わたしと同じ履修科目のうち、あなたが出てきてるのは、半分もないでしょう? いつも代返ばかりで」
 「ばらすなよ」
 「そんなのばらしても、仕方ないでしょう?」
 「それもそうだな。ところで、今日は何食わしてくれるの?」
 「すき焼きよ」
 「ええっ!? この暑いのに?」
 「冷房効かせてるでしょう? 暑いときに熱いものを食べるのもいいでしょう?」
 「冷房が効いてりゃいいか」
 確かに洋子の部屋の中は、かなり涼しい。ぼくの部屋には、冷房がないので、ここは天国、天国。
 「ビール飲む?」
 「バイクだよ」
 「近いから、大丈夫よ」
 「まずいよ」
 「それなら、置いて帰ればいいわ」
 「あっ、そうか。じゃあ、頂くよ」
 陽子は、ぼくにビールを注ぎながら、顔をしかめた。
 「森君、あんた、ちょっと汗臭いわね。いつ、お風呂に入った?」
 「えっ!? 風呂? 風呂ねえ、いつ入ったかなあ」
 最後に風呂に入ったのは月曜日だ。それは間違いない。しかし、月曜日以来、入ってないなんて、即答できなかった。
 「何日も入ってないんでしょう?」
 「あ、いや・・・・」
 「汚いわねえ。ビールはお預けよ。すき焼きができるまでに、シャワー浴びてきなさいよ」
 「シャワーはいいけど、着替え持ってないから・・・・」
 「わたしの、貸してあげようか?」
 陽子は、にやりと笑って、そう言った。
 「ば、馬鹿言うなよ。女のパンツなんか穿けるかよ!」
 「冗談。冗談よ。こんなことだと思ったから、買ってあるわ」
 「えっ!?」
 陽子は、タンスからトランクスとランニングシャツを取り出して、ぼくの目の前に差し出した。どういうつもりだろうな。男の下着を用意しておくなんて。兄妹って言うんならともかく・・・・。
 「ぼやぼやしてないで、早く、早く。シャワーしないんだったら、食べさせてあげないよ」
 陽子は、半年ばかり年下なのに、まるで、年上女房みたいだなと思いながら、ぼくはシャワーを浴びた。気持ちよかったけど、シャワーよりは、ほんとは風呂の中にざぶんと浸かる方がいいな、何て思っていた。体を拭いて、陽子の買ってくれた下着を着た。サイズぴったり。
 「さあ、できたわよ」
 カセットコンロの上に、ぐつぐつと煮立つすき焼きが置かれた。美味そうだ。
 「はい、ビール」
 「サンキュウ。陽子も飲むんだろう?」
 「もち。注いでくれるんでしょう?」
 「はい、はい。じゃあ、乾杯」
 「乾杯」
 陽子の味付けは、ぼくにはちょっと濃いけど、上手くできている。ぼくは、ビールを飲みながら、パクパク頬張った。

 「あああ、美味かった」
 「わたし、酔っちゃった」
 陽子が、ぼくに寄りかかってきた。おっ、これは・・・・。ぼくは、コップに残ったビールをぐっと飲み干し、恐る恐る陽子の肩を抱いた。陽子は逃げ出す様子がない。陽子は、その気だ。ぼくはごくりと唾を飲んだ。
 陽子の目を覗き込むと、陽子は、ぼくを上目遣いに見たあと、目を瞑った。これは間違いない。ぼくは、陽子にキスしようと、唇を近づけた。
 ルルルルルー。ぼくの唇が、まさに陽子の唇に触れようとした瞬間、電話が鳴った。畜生! いいところで!
 「放っときましょう」
 「う、うん」
 ぼくは、陽子にキスした。しかし、電話は、いつまでも鳴り続け、一向に諦める様子がない。
 「うん、もう。うるさいわね。今頃誰よ」
 業を煮やした陽子が、立ち上がって電話を取った。ぼくは、お預けを食わされた犬のように、テーブルのそばにじっと座っていた。
 「もしもし」
 相手の声を聞いた陽子は、ぼくに向かって、唇の前に人差し指をたてた。声を出すなって合図だ。
 「分かったわ。待ってるから」
 待ってる? 誰か来るのか? きょとんとしているぼくに向かって、陽子が言った。
 「大変。お姉ちゃんが来るわ。仕事でこっちに来てるんだって。接待が終わったから、ここに泊めてくれって」
 「ぼくがここにいちゃ、まずいね」
 「ごめんね。まさか、お姉ちゃんが来るなんて思わなかったから」
 「仕方ないさ。じゃあ、帰るよ」
 陽子は、ぼくに抱きついてキスしてきた。
 「また、連絡するから」
 「待ってるよ」
 ぼくは、陽子のマンションを出ると、バイクを押して帰った。惜しかったなあ。もうちょっとだったのに・・・・。

 アパートに帰り着いてから気がついた。慌てて飛び出てきたから、脱いだ下着をバスルームにそのまま置いてきた。電話しなくちゃ。
 コンビニ前の公衆電話から、ダイヤルした。
 「もしもし。宮本でございます」
 いかん、出たのは、陽子の姉ちゃんだ。けれど、このまま切ったら、かえって変に疑われる。
 「すみません、森と言いますけど、陽子さん、いますか?」
 「陽子? 陽子は、今シャワーを浴びてるけど、どんな用?」
 「明日のレポート提出について、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
 「ちょっと待って、もう出てくるから・・・・。森さんって、もしかして、新町の森さん?」
 「そ、そうですけど」
 「やっぱり。元気にしてた?」
 陽子の姉ちゃんのことは、よく知らない。名前すら知らない。以前、陽子の家に遊びに行ったときに、2,3度、顔を合わせただけだ。勿論話したこともない。それなのに、こんなに親しそうに話しかけられるとは思っても見なかった。
 「は、はい。元気です」
 「ご両親が亡くなられて、大変でしょう?」
 「まあ、何とかやってます」
 「出てきたわ。陽子! 森君からよ」
 森君? 何の用かしらと惚けている陽子の声が、受話器から聞こえてきた。
 「もしもし、陽子だけど、どうしたの?」
 「下着、脱いだ下着を忘れてきたよ」
 「ああ、その件ね。どうしよう」
 「どこか隠しておいて、明日にでも届けてくれないか?」
 「分かったわ。明日届けるから」
 レポートの件と、話が合うかなと思いながら、電話を切ろうとした。その時、受話器から、陽子の姉ちゃんの声が聞こえてきた。
 「陽子! 何なの、この下着は!」
 いかん、ばれた。電話が切れた。陽子は、何と言い訳しているだろう。新品ならともかく、汚れた男物の下着だ。参ったなあ。何にもしてないのに。ぼくのものだと、陽子は白状するのだろうか? 困った、困ったなあ。
 気になって寝付かれなかった。眠りに付いたのは、午前3時ごろだったろうか?