第二章 隣室の情事

 目を覚ますと、雨が降っていた。昨日の青空が嘘のようだ。講義に行くのを止めようかなと思ったけれど、北山さんに代返を頼まれているのを思い出して、やむなくベッドから起き出した。
 テレビのスイッチを入れて、オーブントースターに、昨夜買ってきておいた食パンを放り込んだ。
 ぼくのこの狭い6畳の部屋には、いろいろな物が所狭しと置かれている。今スイッチを入れたテレビ。ビデオ付きのものだ。ミニコンポもある。冷蔵庫、タンスふたつ、食器棚、炊飯器、ポット、パソコン、その他諸々。これらはすべて、ぼくがこの大学に入学したときに、両親が買ってくれたものだ。一人息子が大学に行くというので、欲しいというものは、何でも買ってくれた。全自動洗濯機もあるのだけれど、部屋には置けないので、共同の炊事場に置いていて、みんなに使って貰っている。
 インスタントコーヒーを入れ、焼けた食パンにマーガリンを塗って、間にスライスハムを挟んで噛る。ぼくの朝食は、このところ、いつもこのパターンだ。

 食パンを囓っていると、谷口さんの部屋から物音がした。谷口さんも起き出して、着替えでもしているようだ。ぼくは、谷口さんの部屋との間の壁に貼られたポスターの端をはがした。ここには、小さな穴がある。隣の、谷口さんの部屋の中が見えるのだ。見えると言ったって、谷口さんの後ろ姿くらいしか見えたことがない。下着姿のこともあるが、そんなことは、まだ一回しかない。
 谷口さんが、ニューハーフらしいと聞いてから、覗くのは初めてだ。目を凝らすと、素っ裸の谷口さんが、下着を着るところだった。わおう。こんなの初めてだよ。そうか。昨日ベッドの位置を変えると言っていたから、着替えをする場所が変わったのだ。
 谷口さんは、裸で寝るみたいだなと思った。そう思ったとたん、ぼくのペニスが、急速に頭を持ち上げた。
 かなり大きな乳房が揺れている。ぼくは、ごくりとつばを飲み込んだ。谷口さんは、パンティーを穿こうとしている。かがみ込んで立ち上がったとき、見えた。・・・・信じられない。ほんとだった。
 谷口さんの股間にぶら下がったペニスを見たとたん、ぼくのペニスは萎えてしまった。ぼくは、慌てて、ポスターを元に戻した。ううん、ほんとだったか。ぼくは、しばし放心状態だった。それにしてもでかいペニスだった。ぼくのものより随分でかい。どうして、ニューハーフ何てしてるんだろうなと思う。

 大学に行こうと部屋を出ると、ちょうど谷口さんに出くわした。
 「森さん、おはようございます」
 「あ、ああ。おはようございます」
 ぼくは、つい15分前見た裸の谷口さんを思いだして、どぎまぎした。
 「よく降りますねえ」
 「はあ、そうですね」
 淡いピンクのワンピースを着た谷口さんが、傘を差して、アパートを出ていった。こうしてみると、あの谷口さんの股間に、ペニスがぶら下がっているなんて、とても信じられない。さっき目撃したことが夢としか思えない。
 歩いてもそう掛からない大学までの距離を、いつもはバイクで行くけれど、今日は雨だから、傘を差して歩いていった。

 相変わらず、退屈な講義だ。北山さんに代返を頼まれていなかったら、迷わずサボるところだ。まあ、やる気がないから退屈な話しに聞こえるのかもしれない。
 終日雨で、どこに行く気にもならず、結局久しぶりに一日中講義を聴いた。
 昼は学食でランチを食べたが、夕食は何にするかな。円城寺家で食べる日は考えないですむが、いつもこうやって悩む。これが、昨日なら、川本さんの誘いに乗っていたのだけれど・・・・。
 「森君、元気にしてる? ここ2週間ほど、見かけなかったけど」
 宮本陽子が、ぼくに声をかけてきた。宮本陽子は、高校からの同級生で、この大学の薬学部に通っている。履修科目が重なる部分があるから、時々顔を合わせる。好いた惚れたの関係ではないけれど、話が合うから、デートらしいことはする。ただ、男女の関係はない。そんなことを言うと、いかにもぼくには女性経験があるよう聞こえるけれど、まだ経験がない。つまり・・・・ぼくは童貞だって事だ。
 「やあ、陽子。元気だよ。君こそ、どう?」
 「元気、元気。森君、夕食はもう食べた?」
 「まだ、5時だよ。まだに決まってるだろう?」
 「うちに寄ってかない?」
 「お前のマンションにか?」
 「昨日、カレー、作り過ぎちゃって。今晩食べても、また、明日もカレー食べなきゃいけないみたいなの。食べるの手伝ってくれない?」
 「行く、行く」
 やったあ。一食分浮くぞ。貧乏生活をしていると、ついこんな発想になってしまう。お金がないと、心も貧しくなるみたいだ。いけないなあ。

 陽子の住んでいるところは、大学から、ぼくのアパートとはまったく反対方向にある2DKのマンションだ。学生用じゃないので、結構広い。
 陽子のあとについて部屋の中に入ると、ぼくは、まるで自分の部屋にいるようにリビングに寝転がって、テレビを点けた。
 「まだ、面白いもの、何にもやってないでしょう?」
 陽子は、台所に立って、冷蔵庫を開けている。
 「そうだね」
 「ビデオもあるよ」
 「何がある?」
 「森君が面白いって思うもの、あるかしらね」
 ぼくは、ごそごそとビデオを探した。
 「おっ、エイリアン4がある」
 「あっ! それ、だめよ。昨日借りてきて、まだ見てないんだ。見るんなら、一緒に見よう」
 「どれくらいで、できる?」
 「えっとねえ、あと15分で、ご飯が炊きあがるから、それまで待って」
 「15分ね。待つよ」
 陽子は、台所で包丁を使っている。サラダを作っているようだ。ぼくは、チャンネルをニュースに合わせて見始めた。大したニュースはやってない。
 20分ほどして、陽子が、カレーの入った皿とサラダの入った皿を、テーブルの上に置いた。皿の端に、福神漬けが乗っていた。
 「これ、苦手なんだな」
 「あら、そうだったかな。じゃあ、わたしのに移して」
 ぼくは、福神漬けを、陽子の皿へと移動させた。飯の部分に、福神漬けの赤い色素が残っていた。この毒々しい色は何とかならないのかなといつも思う。別に色付けなくたって良いのに・・・・。もっとも、色が付いてなくなって、嫌いだから食べないけれど・・・・。
 「らっきょはないの?」
 「ないわよ。らっきょなんて」
 「じゃ、我慢するか」
 「只で食べさせて貰って、文句言うんじゃないの!」
 「はい、はい」
 ぼくは、エイリアン4をセットして、カレーを口に頬張った。
 「うわっ! 辛れー」
 ぼくは慌てて、テーブルの上から水の入ったコップを取って、ぐっと飲んだ。
 「そう?」
 陽子は、平気な顔をしてカレーを食べている。
 「無茶、辛れーよ」
 「カレーだもの。少しは辛くないと・・・・」
 「あんまりだよ。こんなの、良く食うなあ」
 「そんなに辛いかしら」
 陽子は、平気な顔をして食べ続けた。ぼくは、水を飲みながら、カレーをちびりちびりと食べた。只だもんなあ。只だから、文句は言えないよなあ。それにしても辛い。汗が体中から噴き出てきた。
 「あああ、辛かった」
 「今度作るときは、少し甘くするね」
 「そうしてくれ。こんな辛いカレーは金輪際お断りだ」
 「はい、はい。森君、ビデオ、ポーズにして! お皿下げてくるから」
 「はいよ」
 ぼくは、ビデオのスイッチを押して、陽子がキッチンから帰ってくるのを待った。口の中が、まだぴりぴりする。
 コーヒーを飲みながら、エイリアン4を見続けた。エイリアンが顔を出すと、陽子は、きゃっと言って、ぼくに縋り付いた。ぼくにはその気はないけど、陽子はどう思ってるんだろうなと思う。
 「ああ、面白かった」
 「面白かったね」
 「さあ、もう帰ろう。ご馳走になった上に、ビデオまで見せてくれてありがとう」
 「お粗末様でした」
 「じゃあね」
 「お休み」
 外は、まだ雨が降っていた。傘を差して家路を急いだ。

 陽子とぼくは、変な関係だなと思う。あのまま、彼女と寝てしまってもおかしくないのに、ぜんぜんその気にならない。陽子が、そんな素振りを見せたらやってみてもいいなと思っているのだけど、いつもまったくそんなことはない。いや、今日の態度は、もしかしたら・・・・。イヤ、やっぱり違うな。
 陽子が、ぼくと同じ大学に来たのは、ぼくに気があってのことじゃないのかと、同級生に聞いたことがある。確かに、陽子の成績だったら、もっと良い大学の薬学部に行けたはずだ。
 陽子の気持ちが、ぼくにはよく分からない。もしかしたら、陽子もそう思っているのかもしれない。しかし、陽子にその気がなくて、手を出して嫌われたら困るから、ぼくはいつも最後の一歩を踏み出せないでいる。

 アパートの帰り着くと、4号室の谷口さんに部屋にだけ明かりが点いていて、他の部屋は真っ暗だ。川本さんと大矢さんは仕事だろう。北山さんは、野暮用から、まだ帰ってきていないのだろうと思う。
 ぼくは、部屋のカギを開けて中へ入った。テレビを点けて、コーヒーを入れて飲みながら、アイドルが出ていると言うだけで、まったく面白くないドラマを、ぼんやりと眺めた。
 午後11時、ぼくはテレビを消して、ミステリー小説を手にとって読み始めた。大学の教材なら、読み始めて5分もしないうちに眠ってしまうけれど、ミステリーは、読み終わるまで眠れない。
 午前2時過ぎ、ようやく読み終えて、そろそろ寝ようかと思っていたら、谷口さんの部屋から、荒い息遣いが聞こえてきた。
 ぼくは、いつも0時過ぎには寝てしまう。ぼくが寝てしまったと思って、始めたようだ。声は、谷口さんの声だ。相手の声が微かに聞こえる。北山さんの声だ。間違いない。
 ぼくは、こっそり起き出して、電気を消すと、壁に貼られたポスターの端を剥がした。ぼくは、他人のセックスなんて見たことがない。しかも谷口さんはニューハーフなのだ。ふたりは、どんなセックスをするのだろう? 勿論、この小さな穴から見える範囲にふたりがいればの話しだが・・・・。
 いた! 薄暗い中に、ふたりのシルエットが浮かび上がって見えた。ふたりは、シックスナインをやっていた。互いのペニスを含み合っていた。北山さんの手が、谷口さんの、大きな乳房を揉んでいた。
 ぼくは、ごくりと唾を飲んだ。
 しばらくして、北山さんが谷口さんの背後へ回った。そこで、ふたりは視界から消えた。北山さんの左足だけが僅かに見える。もう少し、左の寄ってくれると、見えるのだけれど・・・・。行為はまだ続いている。谷口さんの荒い息遣いが聞こえてくる。
 ぼくのペニスは勃起していた。ぼくはベッドに戻り、陽子の顔を思い浮かべながら、マスをかいた。谷口さんの絶頂の声に合わせるように、ぼくは射精した。
 陽子! もっと隙を見せろよ。そう思いながら、眠りについた。

 目が覚めたのは、午前10時過ぎだった。眠りすぎて、却って気分が悪い。外はまだ雨だ。今日の講義は、代返を頼んであるので、いかない。
 いつものように、インスタントコーヒーを入れて、トーストを焼いた。早いとこ卒業して、何でもいいからサラリーマンになって、そこそこの嫁さん貰って、朝飯の心配しなくてすむようになりたいな。陽子だったら、気心知れてていいなと思う。
 陽子にそんなこと言ったら、わたしは女中じゃないわよと怒られそうだ。陽子の怒った顔を想像する。想像は、妄想へと変化する。小さな赤い唇が、ぼくのペニスをくわえている場面を想像する。昨日の晩、キャッと言って、ぼくにしがみついたときに腕に触れた、柔らかい乳房を揉む自分を。ぼくは、朝から、またマスをかいた。

 バタンと隣の部屋のドアが閉められ、すぐにドアが開けられる音がした。北山さんは、今まで、谷口さんと一緒にいて、部屋に戻ったようだ。
 谷口さんの泣き声が聞こえてきた。昨夜は仲良くしていたようなのに、喧嘩でもしたのだろうか? 夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、男とニューハーフの喧嘩も、犬は食わないだろうなと思う。それにしても、何故泣いてるのだろう? そうそう、聞くわけにもいかないな。

 午後、久しぶりに洗濯した。洗濯するのは2週間振りだろうか? 貯まった下着に、ジーンズ、Tシャツ、ワイシャツ、その他もろもろ。2時間以上掛かった。外は雨なので、部屋の中に吊しておいた。部屋が狭いから、洗濯物だらけになった。乾くまで、腰を屈めて生活しなくちゃいけない。
 夕食は、コンビニで弁当を買って食べた。毎日これだと、栄養失調になりそうだが、円城寺家での、豪華な食事が、そうなることを防いでいてくれる。明日の夕食が、楽しみだ。