第十二章ぼくは幸せだ

 最近ぼくは、暇を見つけては、リビングの日の当たる場所に置いてあるロッキングチェアーに揺られながら、沙也佳の持っている膨大な蔵書を片端から読んでいる。進学のためではなく、卒業するためだけでない学習は、すごく楽しい。これがほんとの学習というものだ。
 読書に疲れたぼくは、本をテーブルの上に置くと、大きくなり始めたお腹をさすった。
 ぼくは、現在妊娠5ヶ月。もうすぐ、ぼくのお腹の中にいる子どもの体動が自覚できるはずだ。
 そう、ぼくは、今はまた沙也佳だ。沙也佳として暮らしている。沙也佳は、ぼくとして大学院に通っている。どうしてそうなってしまったか、理由は簡単だ。
 理由を説明するため、ぼくらがみんな元に戻ったときまで、時間を戻そう。

 元に戻った夜、ぼくは、、ぼく自身としては初めて、沙也佳とセックスをした。勿論、沙也佳も、気持ちの上では、処女だ。ぼくは、もの凄く興奮していた。ぼく自身は最高だったけど、沙也佳は満足してくれたのだろうか?
 「森先生、愛しているわ」
 「ぼくも、沙也佳。でも、森先生は、もう止めてくれないか?」
 「ずっと、森先生だったのに、今日から急に夫婦なんですもの・・・・。何て、呼びましょうか? 敬一郎さん? それとも、あなた?」
 「あなた? 恥ずかしいな。敬一郎さんでいいよ」
 「じゃあ、敬一郎さん、愛しているわ」
 「沙也佳。もう一度、いいかい?」
 「いいわよ」
 由佳が泣くのも無視して、その後、2回もしてしまった。

 翌日、ぼくは、沙也佳の作ってくれた愛妻弁当を持って、大学へと向かった。ぼくは大学4回生。意気揚々と、大学へ向かったのだが・・・・。
 ぼくは、異邦人、まるで浦島太郎だ。やってることが、まったく分からないのだ。せっかく、元に戻ったのに、ぼくは、森敬一郎、いや円城寺敬一郎として、やっていけないのだ。
 ぼくは、午前の講義と実験が終わると、逃げるようにして、円城寺の屋敷に帰った。
 「沙也佳、どうしよう。丸2年もブランクがあるから、何も分からないよ。どうしたらいいんだ」
 「困ったわね。ほんとに何も分からないの?」
 「さっぱりだよ」
 「悟が書き残したノートがあるでしょう? 少し休んで、勉強してから行った方がいいわね」
 「そんなこと言ったって、ノートは2年分もあるんだよ。それを全部見て、理解するなんて、とてもそんなことできそうにないよ」
 「わたしが手伝ってあげるわ」

 ぼくは、体調がよくないからと、病欠届けを出して、悟が残したノートを勉強した。なかなか頭に入らなかった。
 2週間経った。一応ノートに目を通したけれど、半分も理解できなかった。
 「だめだ、沙也佳。全部はとても頭に入らない」
 「そうなの。困ったわね」
 「しばらく休学しよう。それしかない」
 「休学ねえ。留年てことよねえ。何かいい手がないかしら・・・・」
 「いい手なんてないよ」
 沙也佳はじっと考えていた。それから、ぼくの顔を見て言った。
 「わたしが、替わりに大学に行こうか?」
 「ええっ!?」
 「敬一郎さんには、悪いけど、わたし、このノートに書かれていることはみんな理解できたの」
 「えっ! ほんとに?」
 「うん。だから、わたしが、替わりに大学に行っておくから、その間に家でノートを勉強して。追いついたら、バトンタッチしましょうよ」
 「沙也佳が行くって、まさか、あの人格交換機を使うつもりじゃあ・・・・」
 「勿論よ。わたしがこの姿のまま行っても、しょうがないでしょう?」
 「そりゃ、そうだけど・・・・」
 人格交換機の欠陥は、すでに修理していた。ぼくは、そんな機械は、壊したらと言ったのだけど、お父様が作ったものだからと、沙也佳に反対され、そのまま地下室に置いていたのだ。

 ぼくと沙也佳で、機械の椅子に座って、人格交換機のスイッチを入れた。キーンと言う音で、しばらく気を失い、気がついたときには、ぼくは沙也佳に、沙也佳はぼくになっていた。
 「うまくいったわね」
 「ああ」
 「じゃあ、明日から、わたしが敬一郎さんの替わりに大学に行くからね。敬一郎さんは、由佳の面倒を見ていてね」
 「分かったよ」
 ぼくは、3ヶ月間、由佳の面倒を見てきたから、大丈夫。沙也佳として上手くやれる。問題は、ぼくになった沙也佳なのだが、はたして、円城寺敬一郎として上手くやっていけるのだろうか?

 その夜、ぼくはそんなつもりはなかったのに、ベッドに入ると沙也佳がぼくに迫ってきた。
 「沙也佳、止めろよ」
 「いいじゃないの、敬一郎さん。わたしたち夫婦なんだから。それに、あなたは、女として、セックスしたことがあるでしょうけど、わたしは、男として、セックスしたことがないのよ。一度やってみたいの。いいでしょう?」
 「いやだよ。やめてくれよ」
 「嫌だと言っても、わたし、やってみたいの。お願い、やらせて!」
 嫌だと言ったら、無理にでもやりそうな雰囲気だ。沙也佳が本気なら、男の肉体を持つ沙也佳に、今は女のぼくが敵うはずがない。それはもう経験済みだ。
 「どうしても?」
 「どうしても」
 仕方がない。ぼくは、同意した。ほぼ3週間振りの女としてのセックスは、よかった。セックスだけを考えれば、ぼくは沙也佳の方がいいなと心の中で思った。
 一方沙也佳の方は、ぼくと違って、男の方がいいと感じたようだ。
 「敬一郎さん、わたし、男の方がいいわ」
 「そうかなあ。ぼくは、女の方がいいと思うけど」
 「ふうん。そうなの」
 その時、変な雲行きになりそうな予感がした。

 翌日、ぼくになった沙也佳は、意気揚々と大学へと向かった。ぼくは、気が気ではなかったが、由佳の世話に追われて、夕方を迎えた。
 タクシーの音がして、ぼくになった沙也佳が帰ってきた。ぼくになった沙也佳は、バイクに乗れないから、タクシーで大学から帰ってきたのだ。
 「お帰りなさい、敬一郎さん。久しぶりの大学、どうだった?」
 大島さんが、近くにいるから、ぼくは、ぼくになった沙也佳を玄関に迎えて、そう尋ねた。
 「バッチリだよ。何も問題ないよ」
 「よかった」
 そうは言ったものの、ぼくは、複雑な思いだった。ぼく自身は、敬一郎としてやっていけないのに、沙也佳は、いとも簡単にやってのける。参った。
 夕食を終えて、ふたりで部屋に戻った。大島さんは、悟の世話をするために離れに行っている。
 「さあ、元に戻ろう」
 ぼくは、人格交換機のある地下室へ行こうとした。ところが、ぼくになった沙也佳は、ベッドに腰掛けて、動こうとしない。
 「元に戻ろうはいいけど、毎日朝晩入れ替わるつもりなの?」
 「いけないかなあ」
 「そんなことしたら、変な副作用が出ないかしら?」
 副作用? どんな副作用が起こると言うんだろうか? しかし、何か副作用が出そうな気がした。
 「ううん。それもそうだね」
 「敬一郎さんの勉強が追いつくまで、このままでいよう?」
 「・・・・そうだね」
 「ところで、敬一郎さん、少しは勉強したの?」
 「由佳の世話で、勉強どころじゃなかったよ」
 「きちんと勉強しないと、今のままでは、円城寺敬一郎としていやっていけないのよ」
 「そりゃ、そうだけど・・・・。明日から、ちゃんと勉強するよ。勉強して、元に戻ってもやっていけるようにするよ」
 「・・・・わたしは、元に戻らなくってもいいんだけど・・・・」
 沙也佳は、ちょっと躊躇いがちにぼくに言った。
 「ええっ!!」
 「わたし、勉強するのが楽しくって・・・・」
 「えっ!? どういう意味?」
 「ずっと、敬一郎さんのままでいてもいいなって思って」
 「そんなの困るよ。敬一郎は、ぼくだよ」
 「・・・・そうね。じゃあ、しっかり勉強してね。それまでの間、わたし、敬一郎さんとして、しっかりやって置くから」
 「頼んだよ」

 ぼくになった沙也佳は、勉強するのが楽しいのか、喜々として大学へ通っていた。ぼくは、由佳の世話に追われる毎日。とにかく、暇を見つけて勉強しないと、ぼくは敬一郎に戻れない。そうは思うのだけれど、元々勉強がそんなに好きじゃないし、やる気があって入った学部じゃないから、勉強は遅々として進まなかった。しかも、勉強した倍くらいのノートを沙也佳が持って帰ってくるのだ。ぼくは、しだいに諦めていった。

 ぼくの替わりに、沙也佳が大学へ通い始めて3ヶ月後、ぼくは、ベッドの中で沙也佳に尋ねた。
 「沙也佳、君は沙也佳に戻らなくてもいいの?」
 「わたしね、うんと勉強したいの。勉強して学者になりたいの。学者になるには、今の世の中、女より男の方がいいでしょう? わたし、別に、女であることに拘っていないの」
 「そう。ぼく、このままじゃあ、敬一郎としてやっていけそうもないよ。・・・・沙也佳、沙也佳は、ぼくのままでもいいんだね」
 「うん」
 「じゃあ、ずっとこのままでいこうか?」
 ぼくになった沙也佳の口元がほころんだ。ぼくの口から、その言葉が出ることが分かっていたようだ。
 「敬一郎さんは、沙也佳のままでいいのね」
 「仕方ないよ。今となっては、ぼくは敬一郎はやれないけど、沙也佳はやれるんだから・・・・」
 「セックスも、沙也佳の方がいいんでしょう?」
 ぼくは、顔が赤くなった。
 「わたしは、男の方がいいから、問題なしよ。じゃあ、ずっとこのままで行きましょうね」
 「分かったよ」
 ぼくは、沙也佳の人格を救おうとしたとき、すでに沙也佳として生きる決心をしていた。沙也佳が、ぼくとして、円城寺敬一郎として生きていくことに不満がなければ、それはそれでいいのだ。ぼくは、今更元に戻っても、やっていけないことは火を見るより明らかだし、女としてのセックスの方がいい。それに、由佳を産んだのは、ぼくだ。ぼくは、由佳を母として育てていきたい。これは間違いのないぼくの本心だ。ぼくの中に生まれた母性本能が、そうすることを望んでいるのだ。
 いっぽう、沙也佳は、学者になりたいという希望が叶うし、セックスするのも男の方がいいという。
 入れ替わったままの方が、丸く収まるのだ。

 「みなみさん、味付けはこれでいいかしら?」
 「うん、ばっちりよ。沙也佳さん、お料理が上手になったわね」
 「愛する夫のためよ」
 「まあ、ご馳走様」
 ぼくは、由佳の母としてだけではなく、円城寺敬一郎の妻として一生懸命家事に頑張っている。
 バイクの停まる音がした。ぼくになった沙也佳が、大学から帰ってきたのだ。
 「お帰りなさい、敬一郎さん」
 ぼくは、玄関にぼくになった沙也佳を出迎えた。
 「ただいま、沙也佳。お腹の子どもは順調かい?」
 「もちろんよ」
 「今度は、どっちだろう?」
 「敬一郎さんに似たハンサムな男の子だといいわね」
 「沙也佳に似た女の子がもうひとりできてもいいよ」
 ぼくは、にっこり笑って、夫の、敬一郎の頬にキスした。
 ぼくは、円城寺沙也佳。幸せ一杯のヤンママだ。